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生きている

小鳥のさえずりが、朝霧に包まれた森の静寂を震わせた。


窓の隙間から差し込む淡い光が、埃の舞う小屋の空気を白く染める。


エヴァは重いまぶたを持ち上げた。


視界が揺らぎ、意識が現実へと回帰する。


硬い長椅子の感触と、首筋に残る鈍い痛み。


彼女は自分がどこにいるのか、何が起きたのかを瞬時に理解し、弾かれたように身を起こした。


隣には、リリスが眠っている。


エヴァは吸い寄せられるように少女の額へ手を伸ばした。


熱はない。


昨日まで焼き付くように熱かった肌は、今は穏やかな温もりを帯びている。


呪いの黒い痣が広がっていた背中も、清潔な布の下で静かに上下している。


寝息は規則正しく、深く、安らかであった。


死の淵は去ったのだ。


エヴァの全身から力が抜け、膝が床についた。


助かった。


この子は、生きている。


鼻腔をくすぐる匂いがあった。


香ばしい麦の焼ける匂いと、野菜を煮込んだ温かいスープの香り。


それは、血と泥と死の臭気に満ちていた昨日の地獄とは対極にある、日常の香りであった。


暖炉の前では、薬師の老婆が鍋をかき混ぜている。


曲がった背中と、使い込まれたエプロン。


老婆はエヴァの視線に気づき、静かに振り返った。


その顔には、年輪のように刻まれた皺と、深い慈愛があった。


「目が覚めたかい」


老婆の声は低く、優しかった。


「スープができているよ。お食べ」


木製の盆に、湯気の立つスープと、焼き立ての黒パンが載せられている。


質素だが、今のエヴァにとっては宝石よりも価値のある食事だ。


エヴァは差し出された椀を両手で包み込んだ。


温かい。


その熱が指先から伝わり、凍り付いていた心を内側から溶かしていく。


生きている。


自分たちは、あの地獄を生き延びたのだ。


だが、その事実は同時に、置き去りにしてきたものの大きさを突きつける。


オーギュストの最期の背中。


瓦礫の下に埋もれたギルド。


散り散りになった仲間たち。


救われた命の重さと、喪失の痛みが、同時に胸を締め付ける。


エヴァの視界が滲んだ。


涙が頬を伝い、スープの中へと落ちて波紋を作る。


止めどなく溢れる感情が、嗚咽となって喉から漏れた。


彼女は椀を持ったまま、子供のように肩を震わせて泣いた。


老婆は何も言わず、ただ静かにエヴァの背中に手を置いた。


その手は乾いて温かく、母親の手のようだった。


「泣きなさい」


老婆は、まるで幼子をあやすようにエヴァの背をさすった。


「生きていればこそ、涙も流せる。今はただ、生きてここにいることを喜びなさい」


エヴァは頷き、何度も頷きながら、涙と共にスープを口に運んだ。


塩気のある温かい液体が、空っぽの胃袋に染み渡る。

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