幸せなバラ園
暁の光が、まだ薄紫色の霧を纏う窓ガラスを静かに透過する。
その柔らかな光に縁どられた小さな影、リリスは、もう目を覚ましていた。
彼女の住む世界、「バラ園」は、その名の通り、一年を通じて色とりどりのバラが咲き誇る場所だった。
リリスにとって、この世界が全てであり、幸福そのものであった。
六年の歳月を、彼女はこの閉ざされた楽園の壁の中で過ごしてきた。
外の世界を知る術も、知りたいという欲望も、彼女の中には存在しない。
*今日も、お花さんたち、おはよう!*
リリスは寝台からそっと抜け出すと、小さなブリキのじょうろを手に取った。
彼女の仕事は、この広大な庭のバラたちに水をやること。
それは仕事というより、むしろ喜びであり、日々の祈りにも似た儀式であった。
一輪一輪、丁寧に、雫が宝石の粒となって葉の上を滑り落ちるのを眺めるのが好きだった。
朝日を浴びてきらめく水滴、甘く馥郁と香るバラの匂い、そして遠くから聞こえてくる姉様たちの楽しげな笑い声。
そのすべてが、リリスの世界を完璧なものにしていた。
「リリス、今日も早いのね」
背後からかけられた声に、リリスはぱっと振り返った。
そこに立っていたのは、掃き掃除をしていた姉様の一人だった。
彼女の頬はほんのり赤く、その笑顔は朝露に濡れたバラの花びらのようだった。
「うん!お花さんたちが、のどが渇いちゃうから」
リリスがそう答えると、姉様はくすくすと笑い、彼女の頭を優しく撫でた。
リリスの目には、このバラ園にいる誰もが、憂いなく、幸福に満ち溢れているように映っていた。
悲しい顔をする人など、一人もいない。
みんなが優しく、いつも微笑んでいる。
それが、リリスが知る世界の真実だった。
水やりを終えたリリスは、弾むような足取りで母の部屋へと向かった。
母、アイリスは、このバラ園で一番の人気者だった。
いつも綺麗に化粧をして、美しいドレスを着て、たくさんのお客さんに「花」を売っている。
リリスは、母がたくさんの人を笑顔にしていることを誇りに思っていた。
部屋の扉をそっと開けると、化粧台に向かう母の後ろ姿が見えた。
いつもは甘い香油の匂いが満ちているはずの部屋に、昨夜の酒と煙草の残り香が微かに混じっている。
アイリスは鏡をじっと見つめていた。
その瞳には、リリスの知らない深い影が落ちていた。
目の下には消しきれない隈が刻まれ、唇の端は力なく下がっている。
*ああ、またこの顔か…リリスが来る前に、早く…早く「私」を隠さなければ…*
アイリスは引き出しから紅を取り出すと、震える手でそれを唇に引いた。
まるで仮面を被るかのように、その表情は一瞬にして変わった。
鏡に映る疲弊した女の顔は消え、そこに現れたのは、リリスの知る「いつも楽しいママ」だった。
「あら、リリス。おはよう、私の可愛い小鳥さん」
アイリスは椅子を回転させ、両腕を広げた。
その声は鈴を転がすように明るく、その笑顔は太陽のように眩しかった。
「ママ、おはよう!」
リリスは喜びの声をあげて母の胸に飛び込んだ。
ぎゅっと抱きしめられると、いつもの甘い花の香りがした。
リリスは、この香りと、母の温かい腕の中が大好きだった。
「ママ、今日もたくさんお花を売るの?」
「ええ、そうよ。ママはね、みんなを幸せにするお花を売るのがお仕事だもの」
アイリスはリリスの柔らかな髪を撫でながら答えた。
その指先が、一瞬だけ、微かに震えた。
胸の奥が、鋭い針で突き刺されたように痛む。
この無垢な娘に、いつまで嘘をつき続けなければならないのか。
この子の目に映る「幸福な世界」が、どれほど脆く、汚れた土台の上に咲いているのか。
その罪の意識が、アイリスの心を苛んでいた。
*ごめんね、リリス。でも、あなただけは…この泥の中から、守り抜いてみせるから…*
母との甘い時間は、不意に扉を叩く音によって中断された。
「アイリス、いるんだろう。支度はできたかい」
低く、有無を言わせぬ響きを持つ声。
このバラ園を取り仕切る、「おばあさん」だった。
リリスにとっては、いつも美味しいお菓子をくれる、優しいおばあさんだ。
「はい、おばあさま。今、行きます」
アイリスの声から、先程までの明るさがすっと消え、平坦な響きに変わった。
その変化に、リリスは気づかない。
彼女は母の腕から離れると、にこにこと笑って「おばあさん」を出迎えた。
「おばあさん、おはよう!」
「おや、リリス。精が出るね」
おばあさんは、その皺の深い顔に、営業用の笑みを浮かべた。
しかし、その目は一切笑っていなかった。
鋭い鷹のような視線が、アイリスの顔から衣装の隅々までを値踏みするように検分する。
「アイリス、昨夜の客は太客だ。今日もご指名だよ。しくじるんじゃないよ。あんたの稼ぎが、ここの娘たちの飯になるんだからね」
その言葉は、ねっとりとした粘着質で、アイリスの心に絡みついた。
それは優しい忠告などではなく、逃れられない鎖の重みを再確認させるための宣告だった。
「…わかっております」
アイリスは静かに頭を下げた。
その姿は、まるで罪人のようだった。
リリスは、二人の会話の意味を全く理解していなかった。
ただ、ママがまたお仕事で褒められているのだと思い、嬉しそうに母のドレスの裾を揺らした。
「ママ、すごい!またお花を買いに来てくれるんだね!」
その無邪気な言葉が、アイリスの胸を抉った。
おばあさんは、そんな二人を一瞥すると、ふんと鼻を鳴らして踵を返した。
その背中が、リリスには少しだけ、いつもより冷たく見えた。
アイリスが仕事へ向かうと、リリスは一人、部屋に残された。
広い部屋で一人になるのは少し寂しかったが、彼女にはお気に入りの場所があった。
それは、通りに面した大きな出窓だ。
ここから、バラ園にやってくる「お客さん」たちを眺めるのが好きだった。
リリスは窓辺のクッションにちょこんと座り、ガラスに額をくっつけた。
石畳の道を行き交う人々。
着飾った紳士たちが、期待に満ちた顔でバラ園の門をくぐってくる。
彼らはみんな笑顔で、姉様たちに迎えられて建物の中へと消えていく。
*今日もたくさんのお客さんだ。きっと、みんなママのお花を待っているんだ。*
リリスの目には、その光景が、お祭りのように華やかで楽しいものに映っていた。
男たちのぎらついた欲望の眼差しも、娘たちの作り笑いの裏にある絶望も、彼女の純粋なフィルターを通して、すべてが美しく変換されてしまう。
ある紳士が、出迎えた若い娘の腰に馴れ馴れしく手を回した。
娘の肩が一瞬こわばり、顔が引きつったのを、リリスは見逃した。
彼女の視界には、ただ二人が楽しそうに談笑している姿だけが映っていた。
時折、夜遅くに、ひどく酔っ払って誰かに担がれるように出ていく男や、泣きながら建物の裏口から駆け出してくる姉様の姿を見かけることもあった。
しかし、リリスの世界では、それらは「お酒を飲みすぎてしまった人」や、「悲しいお話の劇の練習をしている人」に過ぎなかった。
この閉ざされた楽園の残酷な真実は、厚いベルベットのカーテンのように、彼女の無垢な瞳から隠され続けていた。
夜の帳が下り、バラ園が最も華やぐ時間が訪れる。
階下からは、官能的な音楽と、嬌声、そして男たちの野卑な笑い声が混じり合った喧騒が、リリスの部屋まで微かに届いてくる。
しかし、その音は、リリスにとっては心地よい子守唄だった。
みんなが楽しんでいる証拠だからだ。
リリスは、母がいつものように仕事から戻らないことを知っていた。
夜は、ママが一番忙しい時間なのだ。
彼女は一人で寝台に潜り込み、階下のざわめきに耳を澄ませた。
*ママも、姉様たちも、お客さんたちも、みんな楽しそう。バラ園は、世界で一番幸せな場所なんだ。*
瞼が重くなり、意識が夢の世界へと沈んでいく。
リリスの見る夢は、いつも幸福なものだった。
色とりどりのバラが咲き乱れる庭で、優しい母と、笑顔の姉様たちに囲まれて、永遠に続くかのような穏やかな午後を過ごす夢。
その同じ時刻、階下の薄暗い部屋では、アイリスが客の腕の中で、魂の抜け殻のように虚空を見つめていた。
唇は微笑みの形を保ったまま、しかしその瞳からは、一筋の涙が、誰にも気づかれずに枕を濡らしていた。
彼女の心は、愛する娘が眠る、この偽りの楽園のすぐ上で、静かに死んでいくのだった。
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