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最上階の十三人―一階層、上がるたび、誰かが落ちる  作者: 妙原奇天


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第4話 笑いの代償

 塔の中で風が鳴っていた。

 潮の匂いに鉄の味が混ざり、目の端に薄い塩の粉が張り付く。相沢レンは指の節で手すりをたたき、隊列の呼吸をそろえた。足もとはまだ固い。けれど、固さはすぐに裏切る。ここでは、安心は三歩ももたない。

「よし、もう少しで中段の踊り場だ。そこ、窓がある。風の様子を見てから渡る」

 レンが短く言うと、前列の北条カイが肩をうなずかせた。腕は太いが身のこなしは軽い。中央に支点を置く形で、列はじりじりと上へ伸びる。最後尾の砂原ユイは、濡れた髪を耳にかけて全体を見ていた。視線は鋭いが、声は平坦だ。

「停止。足を寄せる。手は手すりの内側。語尾は短く」

「了解」

 米倉シンが図面を胸に押しつけて答える。彼の指はかすかに震えている。配電盤室に戻るべきかの迷いは捨てた。いまは上だ。躊躇は塔に拾われる。

「なあ、みんな」

 列の中ほどで、牧野が小さく手を上げた。いつもの軽い笑いを唇に浮かべて、冗談の出番を伺っている。

「海の上に建った住宅ってさ、家賃いくらだと思う? 見晴らし最高、通学地獄」

 誰かがふっと笑いを飲んだ。緊張続きの喉には、笑いも喉飴みたいに滑らかだ。空気が一瞬だけ柔らかくなる。ユイの声が、その柔らかさを切った。

「笑いで意志の鈍りが出る。いまは要らない」

 短い刃物のような言い方だった。牧野が肩をすくめ、目だけで謝った。レンは横目で彼を見て、何か言いかけて飲み込む。励ましも、ここでは重さだ。いい重さと悪い重さの区別を、まだうまく持てない。

 黒板は踊り場の壁にあった。白い粉が湿って泣いている。濡れた字は読みづらいが、それでも意味は刺さる。

 よい緊張だけ、残しなさい

「無茶を言う」

 米倉がぽつりとこぼす。緊張を選別するなんて、できるのか。レンは黒板から目を離し、隊列の背をなめるように見た。肩の高さは揃っている。揃ってはいるが、目の焦点が散っている。ここ数時間で、それぞれの中に“別の階段”が立ち上がった。自分にしか見えない段差。そこに足を取られる者から落ちていく。

「近い。踊り場の窓が割れてる」

 北条の声に、全員が顔をしかめた。遠くから薄白い光が流れ込み、雨脚が斜めの線になって床に走っている。窓枠には海からの風が直接ぶつかる。強い。時々、塔そのものの骨を鳴らすほど。

「風、合図だよ」

 ツムギが言った。小柄な彼女は耳に手を添え、目を細めている。「突風の前に、一瞬だけ空気が止まる。音が、消える。そこで壁側に寄って。いまじゃない。もう少し先」

「間に合うか」

「間に合うように合図する」

 ユイが即座に取り上げる。「全員、足を半歩引いて、壁の側。風のラインに背を見せない」

「ラインって何」

「窓と直線になる線。そこに体を出すと、持っていかれる」

 レンは頷き、目を閉じて一度だけ深く息を吸う。開いた。視界の端が狭い。緊張の連続で視界が細い筒になっている。黒板の言う「よい緊張」だけ残せるなら、こんなに楽なことはない。だが、人は器用じゃない。だから代わりに、手順を信じる。

「前へ」

 列は踊り場へにじり出た。割れた窓から斜めに、雨粒がガラスのない枠を打つ。潮で重くなった風が、衣服の表面をつかみ取る。床に散ったガラスの欠片が靴底で鳴った。ツムギが小さく息を飲む。

「来る。止まる」

 空気が止まった。ほんの二拍。まばたきより短い停止。次の瞬間、風が塔を噛んだ。列の全員が壁に体を押しつける。手すりの内側に指を絡め、肩でぶつかり、膝で支える。風圧で顔の皮膚が後ろに持っていかれ、喉が押し戻される。

「あと少し」

 レンの声は細い。だが届いた。ユイが最後尾でツムギの肩を押し、北条は中央で二人分の体を支える。風の筋が何本かに分かれて踊り場を走り、その一本が割れた窓の左下をえぐった。

 そこにいた一人の女が、窓枠ごと持っていかれた。

 音は、あるのに、耳に届かない。枠の木が裂ける乾いた破裂音、皮膚が布を裂く音、喉の奥からひっくり返るような叫び。風に塗りつぶされ、視界の端で白い手が空を掻く。ロープはその場所には通っていなかった。枠が外れてから、身体は驚くほど軽く、真っ直ぐに縦穴の方向へ引かれていく。海の黒へ落ちるほどの距離はない。塔の外側の鉄骨に一度ぶつかり、見えなくなった。

 笑いが止んだ。

 牧野が口を開けたまま、声を出さない。「ごめん」が喉で詰まる。ユイは彼を見ない。黒板は誰も見ないのに、背中を押す。

 よい緊張だけ、残しなさい

「立て」

 レンが牧野の肩を叩いた。軽く、しかし確かに。雨の冷たさが骨に入る前に、身体を動かす。「君の声で、一歩が揃って助かった」

「おれが、笑ったから……」

「君の声で、合図が届いた。今の一瞬、みんな壁に寄れた。だから助かった。それは事実だ」

 牧野は唇を噛んだ。こくりと頷き、視線を床から剥がす。ユイが先に歩き出す。「上がる。止まる。見る。掴む」いつもの四語が、風に乱されながらも列を繋ぎ直す。ツムギが耳を押さえたまま、窓の反対側へ足を移す。

「次の突風、少し弱い。もう一回、止まる」

 間合いを測り、風の前に全員が壁に張り付く。数人が膝を打ち、低い唸りが漏れる。だが持ちこたえた。風が斜めに過ぎたあと、踊り場の中央に薄い静けさが落ちた。稲光が遠くで海の面を撫でる。あの白は、誰かの顔の白と重なる。レンは名簿を取り出し、黒い点を一つ増やした。紙はもう、汗の匂いがする。十。

 次の黒板は、踊り場の角に、さっきよりも薄い粉で書かれていた。湿気で流れかけているが、読めなくはない。

 感謝は、重い

 牧野の喉が動く。「どういう、意味だよ」

「礼を言う瞬間、手元が緩むってこと」

 ユイが短く切る。「いい言葉だけど、ここでは毒になる。ルールは呪いじゃない。運用の問題。だから決める。笑いは封印。合図は認める。ただし、小さい声だけ。内容は固定。余白は作らない」

「余白」

「解釈の余地。冗談、慰め、回想。そういうのが入る隙間。そこに塔が指を入れてくる」

 レンは頷いた。ユイの提案は、心の持ち方を矯正する道具であり、同時に動作手順の圧縮だった。“笑いの適正値”という言葉が頭の中に浮かぶ。ゼロではない。ゼロでもいいが、ゼロにするより運用で制御するほうが人間は動く。

「合図、具体」

 北条が問う。ユイは短く数えた。

「進むは『上がる』。止まるは『止まる』。見るは『見る』。掴むは『掴む』。降りるは使わない。戻るは使わない。危険は『端』。中央は『中央』。番号は使わない。名前も使わない。ありがとうは言わない。代わりに『了解』だけ」

 牧野が小さく笑いかけ、笑わずに頷いた。「了解」

 ツムギが指を一本上げる。「あと、音。風の音が二段になったら、突風の前兆。『止まる』の一拍前に、それを言う。私が言う」

「頼む」

 レンは彼女を真っ直ぐ見て言った。ツムギの瞳は濡れているが、焦点はぶれていない。頼ることは重さだ。だが、頼りを禁止すれば隊列は崩壊する。重さをどう分配するかが運用。レンは自分に言い聞かせる。

 以後、冗談は封印された。

 代わりに、合図が静かに流れる。前の者の手首がわずかに固くなるのが合図。靴のつま先が段差を一度軽く触れるのが合図。息が一拍遅れるのが合図。言葉は最小限で、短く、すばやい。列は生きものの背骨のようにしなやかになり、風の腹をやり過ごすたびに、形を崩さず長さを保った。

 生存率は、上がる。

 上がるたびに、誰かは消える。

 塔の規則は相変わらずだ。一層上がるごとに、一人。黒板は、相変わらず誰の手でもない文字で、背中を押したり突き落としたりする。よい緊張だけ、残しなさい。感謝は、重い。軽いほど、遠くへ。言葉はどれも、正しい。だからこそ、運用がいる。

 階段は狭くなり、角度がまた増した。右の端が危険だとツムギが言い、北条が体を少し左へ移した。その拍子に、北条の腰のロープが金具に擦れ、短い火花の匂いが生まれる。米倉がすぐに位置を直した。合図は流れる。「上がる」「止まる」「見る」「掴む」。四語は歌より短く、祈りより固い。

 レンは、自分の胸の内側で、別の四語が増えかけていることに気づいた。ありがとう。ごめん。だいじょうぶ。もう少し。どれも口に出せない。出せば、緩む。緩んだところへ、風が入る。風だけではない。塔が入る。塔は、言葉の隙間が好きだ。

「次の踊り場、黒板が二枚ある」

 米倉が前方を見て言った。確かに、左右の壁にそれぞれ黒い板がある。片方は古く、片方は新しい。古いほうには、ところどころ爪で引っ掻いたような跡。新しいほうは粉がまだ白く濃い。

 古い板には、薄くこうあった。

 落ちる前に決めろ

 落ちた後で言うな

 新しい板には、濃くこうあった。

 笑いは、残せる

 ただし、声にしないこと

 牧野がその文字を見て、小さく息を吐いた。肩の力が一瞬抜ける。レンはその背中に手を当て、押す。「上がる」。合図が列の背骨をまた走る。ユイは最後尾で、泣きはらした目の少女の肩を軽く叩いた。合図。ありがとうの代替。重さの少ない感謝。

 突風が一度。壁に寄る。「止まる」。二度目。床を低く這う風だ。「中央」。北条がわずかに重心を下げる。三度目。縦穴から冷たい息が上がってくる。「端」。ツムギの声は小さいが鋭い。右の端で、金属の皮がはがれる音がした。そこに足を出していた影が、体を引かれ、腰から外側へ落ちかける。レンは反射で腕を伸ばす。ユイの手が、レンの手首を押さえ、微小に振る。わずかに遅らせる。その遅れで、ロープの支点が確実に効くタイミングになった。北条が踏ん張り、米倉がカラビナを締め、影は戻る。

 列は持ちこたえた。

 塔は、規則を忘れない。

 踊り場を抜け、次の階段の最初の五段を上がったところで、足音がひとつ減った。誰も押さず、引かず、叫ばなかった。声は合図にしか使われない。だから、落ちる音も合図みたいに短い。靴の底が鉄を離れる乾いた音、空気が入れ替わる薄い音。終わり。

 レンは名簿に点を打った。指先の皮が破れて、黒い点に赤い点が混ざる。紙はもはや、ただの布のように柔らかい。十は九になった。数字は軽い。軽い数字が、背中に重くのしかかる。

「上がる」

 ユイが言い、レンも言う。北条が息を整え、ツムギが耳を澄ます。牧野が唇を結び、米倉が図面に指を当てる。最後尾の少女は、もう泣かない。目の色は濃く、足は確かだ。彼女の手は何も抱えていない。借り物は落ちた。約束の重さは、塔の底で眠っている。

 笑いは、残せる。ただし、声にしないこと。

 牧野は前を見たまま、目だけで笑った。ユイがほんの少しだけ、顎でうなずいた。レンはそれを見て、何も言わない。言葉にならない軽い笑いが、列の背をなでていく。手元は緩まない。足の幅は変わらない。緊張の濃度は高いままだ。よい緊張だけ、残しなさい。運用で、それに近づける。

「止まる」「見る」「掴む」

 四語が、音楽の小節みたいに段差をつなぐ。時折、風が四語を削り取ろうとする。塔は四語の隙間を嗅ぎ、規則を差し込もうとする。差し込まれる前に、次の四語。差し込まれる前に、次の段差。選ぶ。決める。上がる。

 次の踊り場に差しかかったとき、ツムギがふっと首をかしげた。

「風の合図、変わった」

「どう変わった」

「止まる前の無音が、長い。長いときは、角を打つ風が来る。正面じゃない。横から回り込む」

「壁への寄せ方、変える」

 ユイがすぐに切り替える。「背中でなく、肩を壁に。顔は内側。手すりは握るけど、腕はまっすぐでなく、少し曲げる。衝撃を逃がす」

 レンは反射で復唱し、全員に視線で確認する。黒板は見ない。見ればまた、別の言葉が刺さる。刺さった言葉は、合図より強くなる。いまは、合図を勝たせる。

 無音が来た。いつもより、長い。時計のない空間で、体内の時計だけが刻む三拍、四拍、五拍。来る。肩で受ける。顔を内側。腕は曲げる。突風が踊り場を斜めに突っ切り、窓のない枠を再び揺らした。枠は軋んだが、飛ばなかった。誰も外へは剥がれない。床の上で風がもつれ、渦になりかけ、すぐにほどける。持ちこたえた。

 上がる。

 手すりに左手、次の段に右足、腰を送る。北条が中央で体を預け、ツムギが耳で風の薄さを測る。米倉は右手の指で図面の端を折り、左手で結び目を確かめる。牧野は、声を出さずに笑っている。最後尾の少女は、もう「待って」とは言わない。代わりに、短い「了解」を重ねる。

 生存率は、上がる。

 そうして、また一つ、足音が消える。

 誰が消えたのかを確かめるのは、次の踊り場に着いてからにした。決めた。落ちる前に決めろ。落ちた後で言うな。黒板の古い言葉に、初めて同意できた気がした。塔は呪いじゃない。ルールは呪いじゃない。運用の問題だ。運用は人の側にある。人の側に残しておく。奪われないように、短く、固く、続ける。

「上がる」

 レンは言い、全員で言った。

 塔の中の風は、相変わらず鳴っていた。けれど、鳴り方は少し変わった。こちらの声に、わずかに隙を譲った。譲られた分だけ、進む。譲られない分は、切り捨てる。

 笑いの代償は、知った。

 それでも、笑いはすこし残せる。声にしないで、合図の裏に。重くしないで、身の内に。ここではそれが、救いに最も近い形だ。

 そして救いを、塔は好まない。

 だからこそ、救いは小さく、速く、次の段へ渡す。

 四語が、また静かに流れた。

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