第3話 損切り
踊り場の床は冷たく、濡れた靴底が薄く音を立てた。相沢レンは壁に背を預け、ポケットの中で名簿を確かめる。紙はふやけて角が丸くなっている。点は二つ。十一。誰の顔を思い出そうとしても、名前が一枚の膜の向こうに逃げていく。
「配る」
砂原ユイが言った。声は低く短い。彼女は濡れたクーラーバッグを開け、中身を床に置いた。パンが二つ。飴玉が八つ。携帯食の切れ端が少し。水は、ペットボトルで三分の一。
「少なすぎ」
誰かが吐き捨てる。ユイは頷き、紙片を取り出した。鉛筆でざっと線を引き、配給表を作る。
「前提を言う。全員同量は不可能。だから“損切り”をする。生き残る確率が上がる配分に寄せる。体力、役割、位置、今後の作業。重い荷を運ぶ人に多く。二層分動けるだけ残す。その他は捨てる」
「冗談だろ」
米倉シンが眉をひそめる。図面を抱えた胸に息が当たり、白く曇る。
「冗談じゃない。条件だよ」
ユイは返し、パンを半分に裂く。裂け目から湿った匂いが立ちのぼる。彼女は北条カイに大きい方を渡し、次にレンへ、米倉へ、ツムギへ。裂いた半分のさらに半分を、最後尾の少女に渡そうとしたとき、別の手が伸びた。
「おれ、さっき引き上げてもらった。力、使った北条さんに」
救い上げられた少年が言う。北条は首を振った。
「いらん。動けるうちは持つ。おまえが食え」
「北条」
レンが低く呼びかける。ユイが配給表に記す。数字は乱暴だが、一応の理がある。誰かの口が不平を噛んで沈む。もらえなかった者の顔に、薄く憎しみが宿る。視線の針が移動し、針の束が重なる。重さは見えないが、階段は感じるのかもしれない。
黒板の白い文字は、また増えていた。濡れた粉の下に、新しい行。
軽いほど、遠くへ
「荷を減らせってことか」
北条が無造作にロープの余りを切り詰め、腰袋の工具を二つ落とした。金属が床に当たり、乾いた音が鳴る。ユイが頷く。
「軽いほど、遠くへ。逆に言えば、重いほど近くで落ちる。荷物も、約束も」
約束。レンはその言葉が喉に引っかかるのを感じた。肩越しに最後尾を見る。そこにいる少女は、髪を濡らし、腕で何かを抱えている。布で包まれた小さな箱だ。誰かに借りたようなきれいな包み。
「それ、捨てろ」
ユイの声がまっすぐ飛ぶ。少女は目を見開く。
「だめ。返さなきゃ。下で、待ってるから」
「待ってない」
言い切るユイの口調に、少女の頬が強張る。ツムギが空気を吸い込み、耳に手をあてた。
「音が、変わった。階段、きしむ場所が移ってる。次は……中央が抜ける」
中央。北条の位置。米倉が図面を広げ、配電盤室へのルートを指でなぞる。
「ブレーカー室にもう一回寄れば、揺れを抑えられるかもしれない。だけど、そこへ行くには一層分の時間を消費する。塔の“規則”が動く分の時間だ」
「寄らない」
ユイが切る。米倉が口を結ぶ。レンは二人の間を見て、一瞬だけ天井に目を向けた。灯りが細く明滅している。二度、三度。海の音の間に、金属の呼吸が交じる。塔は、こちらを値踏みしている。重さを数えている。
「上がる」
レンが言う。ユイが頷く。「上がる。止まる。見る。掴む」
「待って」
最後尾の少女が声を上げた。細い声だが、列の動きを止めるには十分だった。彼女は包みを抱え直し、下を見た。
「返しに行く。これ、借りた約束。ここで落としたら、もっとひどくなる。だからちゃんと返す」
「誰に」
レンの問いに、少女は唇を噛んで黙る。答えられない。そして答えられない答えほど、塔は嫌う。ユイが少女の腕を掴む。
「約束は落ちる」
黒板の文字をなぞるように、彼女は短く言う。そのまま包みを奪い取り、縦穴のほうへ歩いた。
「やめて」
少女の叫びが、狭い空間で刺さる。ユイは振り返らない。手すりの外に身を乗り出し、包みを小さく振って、中身を確かめる。小さな金の飾り。薄い布の匂いは香水。借り物にしては新品同様だ。ユイはひと呼吸置いてから、包みを縦穴へ放った。
白い欠片のように落ちていき、すぐ闇に飲まれた。
「約束は落ちた」
ユイが言う。塔は満足したのか、と思うほど、揺れがわずかに小さくなる。床の鳴りが一瞬やむ。だがすぐに、冷たい水の気配が足もとまでせり上がった。下層から吹き上がる風に塩の粉が混じり、目の粘膜が痛む。
「水位、上がった」
米倉が短く告げる。迷いは切断された。選べない時間は塔に取られる。レンは列に合図し、上がる。ユイが最後尾で少女の肩を押す。少女は泣きながらも足を動かした。落ちた約束は戻らない。戻らないからこそ足は動く。人はそういうふうにできている。
階段は狭く、斜度が増す。中央にわずかなへこみがあり、そこに水が薄く溜まっている。鉄が肌に触れる感覚は冷たさだけではなく、疲労の鈍い熱を吸い上げる。ツムギが低く言う。
「中央、深くなってる。抜ける音」
北条が先に体重をかけた。金属が低くうなり、耐えた。列の何人かが安堵の息を吐いた次の瞬間、別の足がその中央を踏む。列の真ん中から一歩外にずれた位置。そこが、落ちた。
音は短い。板が抜け、足が消え、上半身が遅れて数十センチ傾く。叫びが立ち上がるより早く、体は縦穴に向かって滑った。ロープが鳴り、柱に擦れて火花のような匂いが立つ。
「掴め!」
レンは叫び、身を戻した。片膝で段差に乗り、手すりに片手をかけ、空いた手を伸ばす。指先に触れたのは濡れた袖。滑る。つまむように掴む。己の体重が駆動する。肩が外れそうになる。ユイの声が背中で響く。
「戻らない。あなたが残りを運ぶ人」
「離せって言うのか」
「言ってる」
ユイは短く言い、ロープの結び目を引き直した。北条が反対側から支え、米倉が支点を補強する。落ちかけた彼の顔は、暗い。目はレンを見ていない。名を呼ぼうとして、レンは気づく。名前が出ない。名前を言った瞬間、塔が聞く気がした。名は重さだ。重さは数だ。塔は数える。
「相沢」
ユイの声は低い。階段の揺れは小さい。小さいからこそ、いま決めれば、列は前に進める。
「ここであなたが落ちたら、残りは動かない」
正しい。残酷で、正しい。レンは歯を噛む。指が焼けるように痛む。指をほどけば、体は落ちる。視界の端で、水が段を這い上がってくる。濡れた金属。黒い縦穴。揺れない塔。規則は、働いている。
「ごめん」
レンは言った。自分の声が、自分の胸に突き刺さる。指先をゆっくりほどく。袖が滑る。腕が消える。音はない。光もない。ただ、重さだけが確かに消えた。塔は静かに満足し、階段は固くなった。
名簿を出す手の震えが、止まらない。黒い点を一つ。十一は十に。紙が指の汗で柔らかくなる。レンは視線を上げられない。ユイが短く告げる。
「上がる」
命令ではない。提案でもない。生き残る手順の宣言。北条が前に出る。巨体のバランスは揺れていない。ツムギが耳を塞いだまま、目で階段を追う。米倉が図面を胸の奥に押し込み、ロープの位置を直す。最後尾の少女はもう泣いていなかった。目は赤いが、足は前へ出た。借り物は落ちた。落ちたものは戻らない。それでも、戻らないことが空いた手を生む。
レンは膝を伸ばし、前を向く。足の感覚が少し遅れて返ってくる。腰のロープの重みが確かだ。呼吸は短く、均等に。痛みはある。痛みは現実の証拠だ。現実から離れると、黒板の文字に引っ張られる。
軽いほど、遠くへ。
荷を捨てる者が出る。背負っていたリュックから濡れた衣服を落とす音。飴玉を一つ、誰かが舐めずにポケットへ戻す音。秘密を隠す者もいる。胸ポケットの奥に、小さな紙片。誰かの名前。誰かとの取り引き。そういうものが重くて、足を鈍らせる。
段差がまた高くなる。手すりの高さが肩に近づき、視界の半分が黒い海になる。柱の基部に錆びのかたまり。そこだけ異様に赤い。塔の血のように見えるのは、疲れているせいだ。レンは目を閉じかけて、すぐ開ける。閉じると、縦穴の闇がまぶたに貼りつく。
「相沢」
ユイがささやく。「さっきの、言葉。覚えておいて。ここで言った“ごめん”は、ここでだけ使う。上では使わない。上では、決めるだけ」
「わかってる」
声がかすれた。ユイは頷き、最後尾の少女の背に手を置く。「大丈夫。落ちた約束は、もう重くない」
少女は息を吸い、吐く。歩幅が揃う。列の高さが揃う。揃うことは力になる。塔が乗せてくる重さに対して、人が揃えて出す力がある。どちらが先に切れるかの競争だ。
階段の中央部を過ぎると、ツムギの肩の力が少し抜けた。
「固さ、戻った。いまは大丈夫」
「次の抜けはどこだ」
北条が問う。ツムギは耳を押さえ、足裏で段を確かめる。
「今度は、端。右の端。高い人が踏むと危ない」
「おれじゃん」
北条が苦笑して、身体の真ん中に重心を寄せる。重い者が生き残るためには、重さの使い方を選び続けなければいけない。それはユイの言う“損切り”の別の形だ。切るのは荷だけではない。癖。甘え。希望の言い回し。語尾。
「上がる。止まる。見る。掴む」
レンが繰り返す。声が列の背骨に沿って走り、段差の揺れを均す。米倉が前を見て、短く言う。
「次の踊り場、黒板ある」
薄い灯りの下、壁の黒が切り取られて見える。近づくにつれて白い文字が浮かび上がる。濡れた粉はまだ新しい。誰かが先に来て書いたのか、塔が勝手に書くのか。どちらでもいいが、読めば考えが動く。考えが動くと足が緩む。レンは足を止めず、視線だけで読み取る。
軽いほど、遠くへ
重い言い訳は、すぐ足元に落ちる
思わず笑いそうになった。笑えない。笑ったら、誰かが怒る。怒りは針を生む。針は重さだ。重さは塔のえさだ。
「配給の続き」
ユイが言う。踊り場で全員が壁に背をつける。パンの最後のひとかけらを、ユイは自分の手のひらで二つにした。その片方をレンに押しつける。もう片方はツムギへ。ユイは自分の口には入れない。米倉が眉をひそめる。
「食えよ」
「私は軽いほうが遠くへ行ける」
ユイはさらりと言った。重さの話を自分に引き付けるのが、うまい。ずるいとも言える。ずるさは、生き残る手段のひとつだ。
「水は」
「回さない。口を湿らせるだけ」
ペットボトルの蓋が開き、指先に滴が落ちる。レンはそれを舌で受け、喉の奥に送った。甘いとも苦いともつかない味が広がる。体がわずかに動きたがる。筋肉がまだ使えることを知らせる信号だ。
「米倉」
レンが呼ぶ。「ブレーカー室、もう寄らない。時間を使う価値があるときは戻る。今は違う」
「了解」
米倉は図面をたたみ、腰に挟んだ。「中央が抜けないうちに、三層目へ」
「北条、支点」
「任せろ」
ユイが確認する。「語尾」
「上がる。止まる。見る。掴む」
列が、再び動き出す。最後尾の少女は今度、振り返らない。彼女の頬に筋になった涙の跡は乾きかけ、塩の白い粉になっていた。ツムギが小さく並ぶ。
「中央に寄る。端を避ける。次は大丈夫」
塔はうなる。海は吠える。風は時々、外壁を叩く。その全部を背にしたまま、彼らは前へ出る。善と生存の摩擦は、もう薄皮を破って血を滲ませている。指のひび割れから広がる赤い線。袖口の黒い染み。それらは小さいが、確かだ。確かさだけが、いまの頼りだ。
レンはポケットの中で名簿を握り、思い出しかけた名前をわざと追わない。上へ。上へ。塔に先んじて、自分たちの損を切っていく。落とすものは落とす。残すものは、残す。その選び方だけが、あとで自分たちを説明する。
黒板の白い粉が背中でほどけ、踊り場の暗がりに溶けた。階段は固い。揺れは小さい。規則は働いた。けれど、まだこちらが先に動ける。
上がる。止まる。見る。掴む。
語尾を揃えた声が、金属の骨をくぐって、上へ伸びた。




