第12話 最上階−1
階段が、静かだった。
金属の軋みも、手すりを撫でる風の唸りも、もうほとんど聞こえない。
相沢レンは、一段上がるたびに耳を澄ませていたが、足裏に伝わるのは自分たち三人の体重だけだった。
レン。
砂原ユイ。
ツムギ。
十三人で上がり始めた塔の中にいるのは、もうその三つの名前だけだ。
「……本当に、揺れないね」
前を行くツムギが、小さく息を吐いた。
背中は汗で濡れているのに、肩の上下はさっきまでよりずっと穏やかに見える。
「揺れないと、それはそれで気持ち悪いな」
レンは口の中で笑い、すぐ真顔に戻る。「何かを溜め込んでる感じがする」
「溜め込んでる。統計も、パターンも、ぜんぶ」
すぐ後ろで、ユイが淡々と言った。「ここまでの“落下”の回数、タイミング、揺れ方。塔の側から見れば、もう十分なデータが揃ってる。だから、無駄な揺れは要らない」
「そんな冷静に言うこと?」
「冷静じゃないと死ぬ場所でしょ、ここ」
ユイの声には、皮肉も自嘲も混ざっていなかった。あるのは、ただの事実と、それを運用に落とし込むための体温だけだった。
階段の角度は、逆勾配の地獄のあとに戻ったままだ。
足を上げれば、ちゃんと上へ進む。
戻ろうとすれば、胸の奥が固くなる。「戻ることは、落ちること」という黒板の文字が、まだ背中に貼りついているからだ。
三人の足音だけが、下から上へと薄く伸びていく。
「海、遠くなったね」
ツムギがぽつりと呟く。
縦穴の外側、壁の隙間から覗く黒い水面は、もう視界に入らない。代わりに、灰色の空の切れ端と、濡れた鉄骨の影が見えるだけだ。
「風も、薄くなってきた」
レンは、頬に当たる空気の感触を確かめる。「上に行くほど、外と切り離されていく感じがする」
「隔離って、そういうものだよ」
ユイが前方を見たまま言う。「最上階って、“終点”じゃなくて“検体の保管場所”かもしれないし」
「やめて、その言い方」
ツムギが苦笑する。「ちょっとは夢を見させてほしいな。外に出たら、ちゃんと空気があって、ちゃんと地面があって、コンビニがあって、っていう」
「コンビニかよ」
「コンビニでしょ。まず、あったかいおでん買って、それを持ちながら帰り道で――」
「ツムギ」
レンは、その先を聞きたくて、同時に聞きたくなくて、名前だけ呼んだ。
「ん?」
「……続きは、上で」
ツムギは一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「うん。上で。じゃあ今のは、予約ってことで」
その笑顔は、違う踊り場で見たものに似ていた。
「静かな方がいい」と言ったときの、あの笑い方に。
階段の先に、淡い光が滲んでくる。
踊り場だ。
最上階の一つ手前――そう思わせる何かが、その光の色にあった。
◇
踊り場は、意外なほど広かった。
いままでの狭い足場とは違い、三人が横一列に並んでも余裕のある矩形のスペース。
壁はほとんど剥き出しの鉄で、錆の色がまだらに広がっている。
風は、ここではほとんど感じられなかった。代わりに、どこか遠くの機械のかすかな唸りだけが続いている。
そして、正面。
そこには、扉があった。
「……これが」
レンは思わず立ち尽くした。
分厚い金属の扉。
錆びているのに、どこかだけ艶が残っている。
縁には細かい溝が刻まれていて、それが縦穴の骨組みの線とわずかに繋がっているように見えた。
扉の中央には、見覚えのある形の金具。
鍵穴。
早乙女レイから受け取って、北条カイが預かり、そして返されたあの鍵が、ここでようやく居場所を見つけたようだった。
「……他に、何もない」
ユイが周囲をぐるりと見回す。
縦穴を覆ってきた手すりは、この階層ではぴたりとここの踊り場で途切れている。
上へ続く階段はない。
下へ戻る階段だけが、背後にぽっかりと口を開けている。
「黒板」
ツムギが小さく指さした。
壁の一角に、いつもの黒板があった。
でも、そこに書かれている文字は、これまでよりもずっと少ない。
あと一人
「……わかりやすくなったね」
ツムギが乾いた笑いをこぼす。「ほんと、最後までセンスないな、この塔」
「“あと一人”」
レンは文字を見つめた。「誰でもいい一人なのか、それとも“決まってる一人”なのか」
「どっちでも、塔にとっては同じだよ」
ユイが肩をすくめる。「ただし、運用側にとっては、全然違う」
「運用側って……」
「私たちのこと。十三人からここまでの、全部」
ユイは、名簿が入ったレンの胸ポケットに目をやった。
「一層ごとに、一人。
そのルールを“守って”ここまで上がってきたのは、他ならぬあなたでしょ、相沢レン」
「……守ってなんか、ない」
レンは反射的に否定した。喉の奥が焼ける。
「ルールを破りたかった。落としたくなかった。でも、結局、点は増え続けた。俺はただ、名簿に印をつけただけで」
「それが“運用”ってこと」
ユイは黒板に歩み寄り、指先で文字の縁をなぞるふりをする。
「“一層ごとに、一人”。最初に見たときからずっと、この文は“塔の側が決めた条件”で、“私たちはそれに従わされている”って思ってた」
「違うの?」
「違うかもしれないって、最近思うようになった」
ユイは振り返り、レンをまっすぐ見た。
その目は、ここまでのどの階層よりも澄んでいた。
「この文、最初に見たときからずっと“あなたに向けて”だったのかも」
「俺に?」
「そう。“あなたが、このルールをどう運用するか”を見るための文」
ユイは淡々と続ける。
「あなたは、最初からずっとカウントしてきた。足りないもの、余っているもの、誰が、いつ、どこで、どう落ちたのか。それを全部、名簿に記録してきた。
一層ごとに、一人――それを、守るためでも破るためでもなく、“理解するため”に」
「理解したくなかった」
「でも、理解してしまった」
ユイはそう言って、微かに笑った。
「だから、塔は揺れなくなった。もう、あなたに学習させることは残ってない。あとは、最後の“条件”を満たすだけ」
レンは視線を扉に移した。
鍵穴は、黙ってそこにある。
何も言わない代わりに、その形だけで「まだ終わっていない」と主張していた。
「鍵」
ユイが小さく促す。
レンは腰のポーチから、布に包んだ金属を取り出した。
北条が最後尾から差し出してくれたときと、重さは変わっていない。
けれど、その重さの意味は、あの時とはまるで違っていた。
布をほどく。
古びた鍵が姿を現す。
塩に焼けて、ところどころ白くなっている。
刻印はもう読み取れないけれど、歯の形はまだ鋭い。
「……行くか」
レンは息を吸い、ゆっくりと鍵穴に差し込んだ。
金属同士が擦れ合う音が、静かな踊り場にやけに大きく響く。
「回すよ」
「待って」
ツムギが短く言った。「相沢くん、手、震えてる」
「震えるに決まってるだろ」
レンは苦笑した。「ここで回したら、何かが終わるかもしれないんだぞ」
「何かが“始まる”かもしれないんだよ?」
ツムギは、鍵を握るレンの手にそっと自分の手を重ねた。
「はじめまして、とか。行ってきます、とか。お邪魔します、とか。そういうの、全部鍵ひとつで変わるんだよ」
「……そうだな」
レンは自分の手とツムギの手の温度を確かめるようにして、力を込めた。
鍵を回す。
カチリ、と乾いた音。
続いて、金属の内部で何かが連動する深い響き。
扉の縁をなぞるように、淡い光が走った。
白でも青でもない、くぐもった灰色の光。
塔の中で何度も見てきた非常灯の色に似ていたが、それよりもほんの少し温度があった。
「……光った」
ツムギが小さな声を漏らす。「開くの?」
「条件が揃えば、ね」
ユイが黒板の方を顎で示した。
そこには、新しい文字が浮かび上がっていた。
一層ごとに、一人
最初の階層で見た、あの文だ。
濡れたチョークで乱暴に書かれていたはずのそれは、今は驚くほどくっきりとした線で踊り場に現れていた。
「……戻った」
レンは思わず呟いた。「最初に戻された、ってことか」
「ルールは変わってない、って宣言だよ」
ユイは黒板の文字を見上げる。「ここは“最上階−1”。つまり、この階層もまだ“一層”のひとつ。例外にはならない」
「ってことは」
ツムギが唇を噛む。「ここでも、誰かが……」
「“あと一人”」
ユイが淡々と復唱する。「黒板がさっき教えてくれた通り。ここで誰かが点になる。そうしないと、扉は完全には開かない」
「そんなの、ただの……」
レンは顔をしかめる。「ただの処理だ。意味なんかない」
「意味はあるよ」
ユイは、そこでようやく笑った。今までのどの階層よりも、柔らかい笑顔で。
「“あなたの選び方”を見るって意味が」
「俺の、選び方」
「そう」
ユイはロープに手を伸ばした。
三人を繋いでいた命綱。
何度も締め直され、汗と血と塩で固くなっている。
「ここまでの“最適化”の結果を、一つにまとめるとこうなる」
彼女はロープの結び目を、器用な指つきでほどき始めた。
「ここから先は、あなたたち二人で」
「……は?」
レンの喉から、声にならない声が漏れた。
「何してるんだよ、ユイ」
「最後の最適化」
ユイは平然とした表情で言う。「人数条件。役割条件。心理的負荷の最小化。全部合わせて考えた結果、“上に行くべきなのは、この二人”っていう結論になった」
「ちょっと待って」
ツムギが慌てて一歩近づく。「どういう意味? なんで私と相沢くんだけが――」
「ツムギ」
ユイは優しく彼女の名を呼んだ。「あなた、さっき言ったでしょ。『コンビニであったかいおでん買って、それを持ちながら帰り道で』って」
「それは、比喩というか、妄想というか」
「でも、それは“未来”のイメージだよ」
ユイは笑う。「ここまで来て、まだ“帰り道”って言葉を使えるの、あなただけだと思う」
「それは……」
「レン」
今度はレンの方を見る。
「あなたの役目は、最初から一つ。名簿を持って、数を数えて、名前を覚えて、点を打って、最後に全部読み上げること」
「勝手に決めるな」
「決めたのは、あなた自身だよ」
ユイは胸ポケットを指さした。
「『上で、全員の名前を呼ぶ』って、言ったでしょう。何度も」
レンは言葉を失った。
あのとき、米倉が落ちたとき。
牧野を失ったとき。
早乙女レイの名に円を書いたとき。
そのたびに、「上で」と言った。
上で謝る。
上で続きを話す。
上で名前を呼ぶ。
「だから、最適化する」
ユイはロープを完全にほどき、それを自分の腰から外した。
「塔が求めてるのは“あと一人”。でも、塔はきっと細かい条件までは指定してない。“どうやって”その一人を選ぶかは、ずっとあなたたちに委ねてきた」
「委ねてきた?」
「そう。塔は常に“選択肢”を突きつけてきたけど、その中から“どれを選ぶか”までは決めてない」
ユイは、背後の階段へ目をやる。
「誓約。アンカー。鍵。背面登り。名を呼ぶ儀式。全部そう。条件の提示と、選択の強制。その両方があって、初めて“学習”が成立する」
「その学習に、俺たちを使ったってことかよ」
「そう。で、その集大成がここ」
ユイは扉の方に顎をしゃくる。
「鍵を回した。扉は反応した。条件は、あと一つ。“人数”。十三から始まって、一層ごとに一人ずつ削って、最後に残るのは――」
「十三分の一」
ツムギが、かすかに呟いた。
「十三分の一の人間だけが、“最上階”を見られる」
ユイは静かに、しかしはっきりと言った。
「その枠、二人分はない。塔は優しくないから」
「でも、黒板には“あと一人”って」
「“ここで一人”って意味でしょ」
ユイは黒板の文字を軽く指差す。
「塔のルールを厳密に解釈すれば、“この階層で一人落ちれば、最上階には二人で行ける”可能性だってある。でも、私はそうは思わない」
「どうして」
「塔はそこまで融通が利かない」
ユイは肩をすくめる。「感情を餌にして、最適化してきた構造だよ。だったら最後も、“いちばんおいしい形”を選ぶに決まってる」
「いちばん、おいしい形」
レンはその言葉を繰り返す。
「誰かが自分から一歩下がって、“二人を送り出す”形。罪悪感と感謝と喪失感と、ありとあらゆる重たい感情が、塔の中に残る」
「最悪だな」
ツムギが顔をしかめる。「そんなの、ぜんぶ塔のためじゃん」
「そう。最悪」
ユイは、でも笑った。
「だからこそ、“運用側”としてはそこを利用する。塔がいちばん喜ぶ形を選んで、こっちは“目的の達成”に使う」
「目的……?」
「レンに、全員分の名前を呼ばせる」
ユイは真剣な目で言った。
「それだけは、絶対にやらせる。塔にとっての餌でも、私にとっては“意味”になる」
黒板の「あと一人」の文字が、じっとこちらを見ている。
レンは唇を噛みしめた。「じゃあ、その“あと一人”が――」
「私、だと思う?」
ユイが逆に問い返してきた。
「運用担当で、ずっと最適化してきた私が、“最後の一人”に回るの、そんなに意外?」
「意外じゃないから、嫌なんだよ」
レンの声が荒くなる。「いつもみたいに、“そうした方が効率的”とか“そう決まってるから”とか、そういう理由で自分を削るなよ。お前、自分の名前を自分で点にする気かよ」
「点にするのは、あなたでしょ?」
ユイの言葉は鋭かった。
「私は、ここに残る。ただそれだけ。“点を打つ”のは、この場では塔。名簿に印をつけるのは、あなた」
「そんな区別、意味ないだろ」
「あるよ」
ユイは首を振った。
「さっきから言ってるけど、塔は“選択肢”を与えるだけ。誰を落とすか、誰を残すか、それを決めるのはいつもこっち側。
この階層で、誰が一歩下がるかも、本来は“こっちで決められる”こと」
「だったら、全員で踏ん張ればいい」
レンは叫びそうになるのをこらえながら言った。「人数条件なんか、無視して――」
「無視したら、扉が開かない」
ユイが遮る。「この塔が、何か一つでも“条件を無視する自由”をくれたことあった?」
レンは言葉に詰まった。
思い返す。
アンカーのときも。
誓約のときも。
逆勾配のときも。
黒板はいつも、一見選択肢のようで実は一本道の条件を突きつけてきた。
「ここで無理に三人で突っ込んだら、塔は喜んで三人分まとめて落とすよ」
ユイは静かに言った。
「だったら、まだ“選べるうち”に選ぶ。塔が完全に主導権を握る前に、“こっちから”最終配置を決める」
「……それでも」
レンの喉が痛い。「それでも、俺は――」
「相沢くん」
ツムギが、小さく袖を引いた。
「ねえ。約束、覚えてる?」
その声に、レンは動きを止めた。
あのとき。
誓約の階層で。
黒板に“契約を結べ”と書かれていたとき。
ツムギは言った。
「落ちるなら、静かな方がいい」と。
「手を離して」と。
「……覚えてる」
レンは唇を噛む。「忘れるわけない」
「私、“静かな方がいい”って言ったよね」
ツムギは、それでも笑おうとしていた。
目の端に溜まった涙が、笑顔と一緒に震える。
「塔って、うるさいじゃん。ずっと。揺れて、軋んで、悲鳴みたいな音立てて。だから、落ちるならせめて静かな場所がいいなあって」
「だから何だよ」
「今、ここ、静かだよね」
ツムギの言葉は、驚くほど穏やかだった。
「揺れないし。風も薄いし。海の音も遠い。ここ、“静かな場所”だよ」
「ツムギ、お前――」
「私は約束を守りたいだけだよ」
ツムギは、レンの手を握った。
「相沢くんが落ちそうになったら、私が手を離す。
私が落ちそうになったら、相沢くんが手を離す。
二人とも、“上を優先する”」
誓約の内容を、そのまま口にする。
「でもね。上って、どっちなのかなって、ずっと考えてた」
ツムギは扉の方を見ず、下の階段の闇を見ず、ただレンの目だけを見ていた。
「“最上階”の上かもしれないし、“ここで終わること”の上かもしれない。
それ、決めるのはきっと塔じゃなくて、私たちだよ」
「だからって、自分から――」
「自分からじゃないよ」
ツムギは首を振った。「自分で選ぶんじゃなくて、“一緒に選んだ結果として、そこに行く”だけ」
「……わかりにくい」
「わかりにくくていいの」
ツムギは、ユイの方を見た。
「ユイさん。ロープ、ほどいたままでいいから、教えてほしいんだけど」
「何を?」
「“最後の最適化”って言ったよね」
ツムギは真剣な顔になる。
「その中に、私が勝手に飛び降りるプランって入ってる?」
「入ってない」
ユイは即答した。「そんな不確定な要素、運用に組み込まない」
「だよね」
ツムギは安心したように笑った。
「じゃあ、そのプランの中で、私がやるべき役割って何?」
「レンを連れて行くこと」
ユイは迷わず言った。「一人じゃ扉の向こうに行けないから」
「了解」
ツムギは、小さく頷いた。
「じゃあ私は、“連れていく係”。落ちる係じゃない。
落ちる係は、“あと一人”で――」
そこで、ツムギはユイを真っ直ぐ見つめた。
「ユイさん、なの?」
ユイは一瞬だけ目を細め、それから笑った。
さっきまでの論理的な笑いじゃなく、どこか子どもっぽい笑顔だった。
「そういうことになるね」
「やだ」
レンの喉から、ようやく本音が漏れた。
「嫌だ。
そんなの、嫌に決まってる」
「知ってる」
ユイが言う。「でも、嫌でもやるのが“最適化”ってやつだから」
「最適化なんて、もういい」
「いいや。最後だけはやらせて」
ユイはレンの前に立った。
距離は一歩分。
手を伸ばせば、すぐに届く。
「最初の階層で、“一層ごとに、一人”って文を見たとき、私、心のどこかで思ってたんだよね。
ああこれ、多分最後は“自分が数に入る”んだろうな、って」
「それが“運用担当”の性格かよ」
「うん。悪い性格」
ユイはさらりと言う。
「でも、その“悪い性格”のおかげで、ここまで来れた。
早乙女をアンカーにして。
誓約を結ばせて。
鍵を回して。
逆勾配を背面登りで突破して。
名を呼ぶ儀式を最適化して」
「……結果、七人落ちた」
「六人」
ユイが訂正する。「途中から数えるの、やめたでしょ?」
レンは何も言えなかった。
「だから、最後の最後くらい、“わかりやすい悪者”がいてもいいと思う」
ユイは一歩、扉から離れた。
「“自分から一歩下がった人間”っていう、記号になってもいい」
「そんな記号、いらない」
「いらなくても、お守り代わりくらいにはなる」
ユイは背中を階段の縁に向ける。
「あなたが上で名前を呼ぶとき、“ここで一歩下がった人”がいたっていう記録があれば、きっと少しはマシになる」
「ならない」
「ならなくてもいい」
ユイは、レンとツムギの方を順に見た。
「あなたたち二人で、扉を開けて。
鍵はもう回ってる。
あとは、人数条件を揃えるだけ」
レンの手が、勝手に伸びていた。
ユイの腕を掴む。
強く掴めば止められる。止められるはずだ。
「やめろ」
声は震えていた。
「嫌だって言ってるだろ。
俺は、誰も落としたくてここまで来たんじゃない。
お前が言う“最適化”なんか、もう聞きたくない」
「知ってる」
ユイは優しく、レンの手を外した。
「でも、“最適化”って、本当はそんなに難しいことじゃないよ。
“いちばん後悔が少ない選択肢”を選ぶだけ」
「俺は、全部後悔する」
「それでいい」
ユイは小さく頷いた。
「全部後悔して、それでも名前を呼ぶ。
それが、“あなたの役目”」
「そんな役目、頼んだ覚えない」
「私が勝手に決めた」
ユイは、最後に少しだけ意地悪そうな顔をした。
「だから責任取ってよ、リーダー」
ツムギの手が、レンの指を掴んだ。
扉の前で、二人の手が繋がれる。
「相沢くん」
ツムギの声が、震えながらもまっすぐだった。
「“静かな方がいい”って約束、覚えててくれてありがとう。
でも、今はさ、“静かな方”より“続きのある方”がいい」
「続きのある方」
「うん。私はさ、まだ聞きたい。
ユイさんが、どんなふうに塔を嫌ってたのかとか。
北条さんが、本当は何を怖がってたのかとか。
早乙女さんが、本当は何を諦めてたのかとか」
ツムギは目を閉じた。
「そういうの、きっと“上”で話すんだよ。
だから、連れてってよ。
相沢くん」
レンは、ようやく頷いた。
「……わかった」
喉の奥が焼ける。
視界がぼやける。
それでも、扉の形ははっきりと見えていた。
「でも、その前に」
レンはユイの方を向いた。
「これだけは、運用じゃなくて、俺からのお願いとして聞いてくれ」
「何?」
「上に行こうとした俺たちを、塔に“送り出した”のは、お前だってこと。
それだけは、忘れさせない」
ユイの目が、少しだけ見開かれた。
すぐに、細く笑う。
「……そんなの、忘れようがないでしょ」
彼女は踊り場の端まで歩いていった。
背中を階段に向け、一歩分だけ空間を残して立つ。
「じゃあ」
ユイは黒板を一度だけ振り返り、その文字を見上げた。
一層ごとに、一人
「この文、“あなたに向けて”だったって話、ちゃんと覚えておいてね」
そう言って、彼女は静かに一歩、下がった。
足裏が段を離れる感触。
重心が空中に放り出される一瞬。
塔が、満足げに軋む音。
レンは、その音を聞きながら、目を閉じた。
手の中のツムギの温度だけを、必死で握りしめる。
黒板の「あと一人」の文字が、霧のように薄れていく。
扉の縁を走っていた光が、ひときわ強く瞬いた。
人数条件が――満たされた。
塔は、深く、低く息をついた。
その息の上で、最上階への扉が、ゆっくりと開き始めた。




