第11話 逆勾配
最初に違和感に気づいたのは、ツムギだった。
「……傾いてる」
彼女は耳ではなく、足裏を押さえるようにして立ち止まった。
相沢レンも一歩前で足を止める。階段はいつも通り、縦穴の内側をぐるりと巻くように伸びている。見た目には何も変わらない。鉄の板、濡れた手すり、塩に白く焼けたボルトの列。
ただ、一歩戻ろうとしてみると――腰がぐん、と引っ張られた。
「……おい」
北条カイが低くうなった。最後尾から一歩だけ下がろうとして、すぐやめる。「何だこれ」
足の裏が、さっきまでとは違う向きで体重を受けている。
上に足を出したはずなのに、膝が勝手に下へ折れそうになる。
前進しようとすればするほど、身体は後ろに引かれる。まるで階段の角度そのものが、逆向きになってしまったみたいに。
「逆勾配……?」
米倉シンが、濡れた縁を手でなぞりながら呟いた。「ちょっと待て。これ、設計図にはないぞ」
「見た目は普通だよね」
ツムギが、一段上の板をつま先で押した。「でも、足を上げようとすると、後ろに引っ張られる。全部が、ほんの少しだけ“逆向き”」
「上るための階段が、下りやすい形になってるってこと」
レンは喉の奥で息を呑んだ。
上へ行こうとすると、全身の重さが下へ引かれる。
戻ろうとすれば――より強く。
その時、踊り場の壁の黒板が目に入った。薄暗い灯りの中で、白い粉が太く光っている。
戻ることは、落ちること
牧野の名前の横に打ったばかりの点が、名簿の紙でじっとりとにじんでいる気がした。
さっきの階層でひとりを失ったばかりだ。今度は、後退そのものが罠になっている。
「前へ進まなければ、いずれ水が追いつく」
ユイが短く言った。「けど、前に進もうとした瞬間、後ろに引っ張られる。つまり、『普通に前向きでは登らせない』ってこと」
「どうすんだよ、これ」
北条が舌打ちする。「俺の足でもきついぞ。重心がずっと後ろに持っていかれる」
「試すしかない」
レンは一歩、足を出してみせた。
上の段へ靴を乗せる。普段なら膝を伸ばせば、自然と体がついてくるはずだ。だがここでは、太腿が震え、腰が引き戻される。
階段の面が、ごくわずかに手前へ傾いている。目で見てわからない程度の逆勾配。そのわずかな角度が、濡れた鉄と靴底の摩擦を裏切る。
「……これ、無理に踏ん張ってたら、後ろにひっくり返る」
「戻ればそのまま落ちる」
ユイが黒板の文字を指さした。「“戻ることは、落ちること”。つまり、この階層では“下へ向かう動き”全てが落下扱いなんだと思う。足を下げる、体重を後ろに移す。それだけで塔が『あ、落ちたな』って判断する」
「じゃあ、前に体重をかけ続けるしかないってこと?」
「前に、かける?」
ツムギが首をかしげる。「でも、前ってどっち?」
たしかに。
見た目の前――上の段に向かう方向――に体重をかけても、この角度ではすぐに後ろへ滑る。
背中側に倒れれば、そのまま下まで滑り落ちかねない。
ユイは数秒だけ黙り、階段と黒板と天井を順に見た。
それから、短く息を吸う。
「背中を、上に向けよう」
「は?」
北条が間抜けな声を出した。
「背面で登る」
ユイは階段の一段下に、そっと足を戻し――戻しきる前に、手すりに両手をかけて体を支えた。戻ることは落ちること。その文字を横目で見ながら、あえて“戻らない”範囲を探る。
「階段に対して背中を向ける。つまり、“下りてる姿勢”で、“上”へ体を引き上げるの」
レンは、頭の中に図を描いた。
普通は、顔を上に向けて踊り場へ上がっていく。
それを逆にする。顔は常に下――つまり、さっきまでいた階層の方を見たまま、手すりと段の縁を使って腕で体を引き上げる。
「背面登り……逆上がりの連続みたいなもんか」
米倉が苦く笑う。「腕の筋力が持てば、重心を常に“階段側”にかけられる。逆勾配の角度が斜めになってるなら、体を“折り曲げた状態”で進めばそこを抑え込める」
「つまり、こう」
ユイは実際に動いてみせた。
背中を上の段側に向け、腰を落とし、両手で手すりと段の縁を掴む。
膝を曲げ、腹筋で体を折り曲げるようにして、一段分引き上げる。
まるで鉄棒で前回りをする直前で止めたような姿勢。
足は段の縁にひっかけるだけ。体重のほとんどは腕と腹筋で支える。
「これなら……」
ツムギの目が少しだけ見開かれた。「体重が、前に残る。後ろに引っ張られても、こっち側が“前”になるから」
「問題は、これを連続でやれるかどうかだ」
北条は肩を回し、自分の手のひらを眺める。「腕が先に終わる可能性、高いぞ」
「だからこそ、支点が必要」
ユイは即座に言葉を重ねた。「北条、先頭に立って。二人ずつロープで繋いで、引き上げる。背面で登るなら、支点からの引き上げがいちばん効く」
「北条さんが“前”で引いて、後ろの二人がそれに合わせて背中向けたまま上がる、ってこと?」
ツムギの声には不安が混じる。それでも、目は希望を探そうとしていた。
「そう。北条が“上”を見てる。後ろの二人は“下”を見てる。視界の役割を分ける。その代わり、声と合図は完璧に揃える」
「……やるしかないんだろ」
北条は息を吐いた。
肩に巻いたロープを結び直し、前方の手すりに手をかける。
「前は任されてるんだ。最後尾から引き上げるのも、支点の仕事だろ」
「頼む」
レンは短く頭を下げた。
ここでごねる時間はない。下から吹き上がる湿った風に、潮と土砂の匂いが混じっている。水位は見えないが、確実に近づいている。
「じゃあ、配置」
ユイがすばやく指示を出す。「先頭、北条。そのすぐ後ろにレンとツムギ。次に私。その後ろが米倉。ロープは二本、前から順につなぐ。誰かが滑っても、すぐに支えられるように」
「了解」
全員の声が重なった。
◇
背面で登る、という動きは、想像よりもずっときつかった。
「っ……!」
最初の一段を越えた瞬間、レンの腕は一気に重くなった。
背中を上に向けているため、視界にはさっきまでいた階層と縦穴の黒さしか映らない。
上がる感覚より、「落ちないようにとどまる」意識の方が強い。
「右足、縁。膝、曲げて」
北条の声が前から飛ぶ。「今、反対の足」
「うん」
ツムギがレンのすぐ上で、息を切らしながら返事をする。「相沢くん、左足もう少し引いて。重心前、前」
彼女は耳だけでなく、足音とロープの張り具合から、全員のバランスを感じ取っているようだった。
階段の揺れ方も、さっきまでと違う。逆勾配は塔にとっても負荷が大きいのか、金属の悲鳴が普段より高い。
「上がる。三、二、一」
レンは四語の代わりにカウントを口にした。
背面登りでは、「上がる」「止まる」の合図よりも具体的なタイミングが必要だった。
全員の腕の動きを揃えるため。
三、二、一で引き上げる。
腰を折り曲げ、腕で体を引っ張り、足を段に乗せる。
その繰り返し。
五段。
十段。
十五段。
汗が目に入る。
手のひらの皮が破れかけ、ロープの繊維が食い込む。
視界の端に、黒板が揺れるのが見えた。
戻ることは、落ちること
その文字は、背中側からでも読めた。
前に進もうとするほど、後ろを見せつけてくる。
「……っはぁ」
一度、踊り場に出たところで、全員が膝と腕をついた。
逆勾配の階段に背面で挑む動きは、体力を少しずつ削っていく。
「まだ、半分も来てない」
米倉が、濡れた息を吐きながら言った。「図面通りなら、この逆勾配ゾーンは一層分以上、続く」
「黒板は?」
レンが顔を上げると、踊り場の壁に新しい文字が足されていた。
戻れないなら、進め
「よりによって、そんな励まし方」
ツムギが苦笑する。「これ、励ましてるつもりなんだよね、きっと」
「励ましじゃない。“選択肢を減らす”っていう、塔のいつものやり方」
ユイは黒板を冷静に見つめた。「戻ることは落ちること。戻れないなら進め。つまり、『止まる場所はない』ってこと」
「止まるときは、ここだけだ」
北条が、大きな体を壁にもたせかけながら言った。「踊り場。平らなところ。ここでしか休めない。だったら、ここでやることがあるなら、全部一気にやるしかない」
そのときだった。
「……あのさ」
空気の密度が変わった。
レンは誰かが声を出した方向を見る。
米倉シンが、濡れた眼鏡を指先で持ち上げていた。視線は床に落ちている。
「ここで、言っといた方がいい気がする」
「今じゃなきゃ駄目なの?」
ユイの声は淡々としていたが、その中に薄い警戒が混じっている。
「今じゃないと、もう言えない気がする」
米倉は笑おうとして、うまくいかなかった。
肩だけが、ひくりと動く。
「……俺だよ。“揺らしてた”の」
塔が、低く鳴った。
誰も足を動かしていないのに、鉄の骨が少しだけ震える。
レンは自分の心臓の音と塔の音が混ざるのを感じた。
「は?」
北条が顔を上げる。「何だって?」
「さっきまで、何回か揺れ方がおかしい時があっただろ」
米倉は続けた。「配線の傷、刃物の跡。塔の“学習”の話をしたとき。あれ、半分は本当で、半分は……俺がやった」
「配線をいじったの?」
ツムギの声が震える。
「そう」
米倉は頷いた。「わざと“揺れやすい状態”を作った。全員が一塊で動けるようになったから、“どのくらいまで揺らせば壊れるか”知る必要があると思った。誰かが落ちれば、誰かが助かる。最適解を見つけるには、サンプルがいる」
「サンプルって言うなよ」
レンの声が低くなった。「人だぞ」
「わかってる」
米倉は目を閉じた。「わかってて、やった。塔と同じことをした。数字で考えた。落ちるのが一人で済むなら、その一人の犠牲で“最適な選び方”を学習できる。そう思っていた」
背後で北条がロープを握りしめる音がした。
床の鉄がわずかにきしんだ。
ユイは何も言わない。
「さっき、“犯人探しをしない”って決めた」
米倉は続けた。「運用で縛るって。でも、そのまま上まで行くのは、もう無理だと思った。ここで言わないと、俺はこのまま“最適化のふりをした殺人”を背負ったまま上がることになる」
「……背負うつもりはあったんだ?」
レンは、自分の声が思ったよりも静かなことに驚いた。
「背負ったつもりでいただけかもしれない」
米倉は薄く笑った。「だから、罰を決めてくれ。運用でも、儀式でも、何でもいい。俺が一番きつい役をやる。背中に荷をしょっても構わない。ロープで縛ってくれてもいい」
「落とせとは言わないんだな」
北条がぼそりと言った。
「落ちるかどうかは、塔が決める」
米倉は首を振った。「俺が決めることじゃない。俺にできるのは、これから上で“誰も揺らさないで済む形”を探すことだけだ」
「甘い」
ユイがぽつりと言った。
「え?」
「自己罰って、だいたい甘い」
ユイは黒板を見た。「それも含めて、塔はぜんぶ“おやつ”にしてる。罪悪感も、贖罪も、誓約も。そういう綺麗な形の感情は、塔にとっていちばん甘い餌になる」
その瞬間、黒板の隅に新しい文字が浮かび上がった。
甘い
粉は湿っているのに、線ははっきりしていた。
塔が笑っているように見えた。
「それでも」
レンは歯を食いしばった。「やらなきゃいけない“罰”はある。もしここで何も決めなかったら、俺たちは本当に塔と同じになる」
「具体」
ユイが問う。
「米倉を、真ん中に縛る」
レンは言った。「荷を増やす。荷物を全部背負わせる。ロープを一本、彼専用に。重心を固定して、揺らせないようにする。背面で登る時は、彼がいちばんきつい位置になるようにする」
「後ろにも前にも逃げられないように、ってこと?」
ツムギが目を瞬かせる。
「そう。落ちそうになったら、全員で引き上げる。でも彼自身はもう、自分の重さを“調整”できない。好きに揺らせない」
「いい」
米倉は即答した。「ありがとな」
「ありがとうって言うな」
レンは吐き捨てる。「礼を言われる覚えはない」
北条が立ち上がり、無言で荷物をまとめ始めた。
水筒、濡れたタオル、工具、予備のロープ。残っているのはもう多くないが、それでもまとめると相当な重さになる。
「全部、背負え」
北条はそれを米倉の背中に押しつけた。「文句は言わせない」
「言わない」
米倉は肩紐を通し、胸の前でバックルを締めた。その上からさらにロープを回し、胴と腕を縛る。
前にも後ろにも過剰な余白がない。
彼の役割は、これからは「支点でも荷車でもなく、“固定された重り”」になる。
「運用更新」
ユイが短く言った。「米倉は隊列中央。背面登りの列の“芯”。塔が彼の罪悪感を噛んで満足しているあいだ、周りの揺れを抑える。そんな都合のいいこと、起きないかもしれないけど」
「起きなかったら、そのときはそのときだ」
レンは息を吐いた。「とにかく、ここで止まるのがいちばん悪い。戻ることは落ちること。進まないことは、全員で落ちることだ」
黒板の「甘い」が、じっとこちらを見ている気がした。
「……行こう」
ツムギが、震える指を立てた。「行かないと、ほんとに甘いままで終わっちゃうから」
◇
二度目の背面登りが始まった。
一度経験している分、体の動きは少しだけスムーズだった。
だが、中央に固定された米倉の重さが加わると、隊列全体の負荷は明らかに増した。
「っぐ……!」
レンの腕が悲鳴をあげる。
背中に預けられるロープの重みが、前よりずっと強い。
それは単に物理的な重さではなく、言葉にできない何かがまとわりついているような感覚だった。
「相沢くん、肘伸ばしきらないで」
ツムギが、息を切らしながら助言を飛ばす。「少し曲げた状態で止めた方が、次の一段に移りやすい」
「わかってる、けど……」
三、二、一。
四語の代わりに、カウントと呼吸だけで進む。
上。
上。
上。
逆勾配は容赦なく、足を後ろへ引こうとする。
それを腕力とロープでこじ伏せる。
背中には常に空間がある。下を見れば、さっきまでいた階層の暗闇が口を開けている。
「あと十段……のはず」
ツムギが耳を押さえながら言った。「音の高さが、ちょっと変わった。もうすぐ平らになる」
「もうすぐ、ね」
ユイが短く笑う。「こういう時の“もうすぐ”って、いつも信用ならない」
「今回は信用してほしいなあ……」
ツムギが自分で自分に苦笑する。
その時だった。
「くそ……っ」
北条の低い声が前から聞こえた。
支点役の彼でさえ、呼吸が乱れ始めている。
腕で自分の体を引き上げ、その上で後ろ二人分の重さをロープで受けている。
さらに中央には、荷物ごと縛られた米倉の重さ。
「北条、無理なら――」
「黙って登れ!」
怒鳴り声が返ってくる。
怒鳴りながらも、その声には不思議な安定があった。
「前は任されたんだろ。だったらおまえは“前を見る”。俺は“引く”。役割、変えんな!」
「……了解」
レンは、かすかに笑った。
そうだ。役割を頻繁に変えたら、塔の餌だ。
いまは配置を固定する。揺らさない。
揺らすのは塔の仕事だ。
「三、二、一……!」
また一段。
腕が千切れそうになる。
足が震える。
ツムギの指の拍が、少しずつ乱れ始める。
「っ……あと、五段」
彼女の声が細い。
そのとき、塔が、低く笑った。
床の下から、いやな振動。
鉄骨が一瞬だけ息を止め、それから一気に戻ってくるときの反動。
逆勾配の角度が、わずかに増したような気がした。
「右、弱い!」
ツムギが叫ぶ。「右の二段先、音が薄――」
最後まで言い終える前に、それは起きた。
「うわっ!」
悲鳴。
ロープが引き、隊列がぐん、と傾く。
レンは反射で腕を伸ばした。
背中越しに感じる重心の移動。
誰か一人分の重さが、想定よりも鋭く後ろへ落ちる。
「掴め!」
北条が吠え、前方でロープを両手で引き絞る。
ユイが「支点増やせ!」と叫び、自分の足を無理矢理段の縁に押し付ける。
ツムギの指が、空を掴む。
中央の重し――米倉――が、一瞬ふらついた。
縛られた身体が、揺れに逆らえず傾く。
背負った荷物が、逆勾配の角度で一気に下へ滑ろうとする。
「っぐ……!」
彼の喉から押し潰されたような声が出た。
「ロープ、締めろ!」
レンは腕の力を振り絞り、自分の腰に食い込んだロープをさらに両手で握った。
その先にはツムギ。
ツムギの先には北条。
ロープの中ほどには、荷を背負った米倉。
その時、黒板の文字が視界の端でにじんだ。
甘い
塔は、罰の形を、甘く噛みしめていた。
「や、べ……」
米倉の靴が、逆勾配の濡れた板から滑った。
背中側が“上”になっている今の姿勢では、足を踏み替える余地がほとんどない。
ロープで縛られた腕は、自分の体を支える自由を持たない。
「相沢……っ!」
名を呼ばれた。
レンは返事をする暇もない。
全身の筋肉が悲鳴をあげる。
「離すな!」
北条が叫ぶ。
ユイが「引け!」と言う。
ツムギが「右、支えて!」と叫ぶ。
それでも――何かが足りなかった。
次の瞬間、ロープの締め付けが唐突に軽くなった。
中央で固定されていたはずの重さが、ふっと抜ける。
その反動で、隊列全体が一瞬だけ前へ飛び出しそうになる。
「っ!」
レンは膝を段に打ちつけ、なんとか踏みとどまった。
後ろを振り返る余裕はない。
ただ、耳だけが、聞いていた。
ロープが鉄に擦れる音。
荷物が階段に当たって跳ねる音。
何かが縦穴の奥底へ転がり落ちていく、長い、長い音。
米倉の声は――聞こえなかった。
逆勾配の階段は、余計な悲鳴すら許さなかった。
黒板の「甘い」の下に、小さな点が一つ増えているように見えた。
粉の塊が、ぽつりと。
「……くそっ!」
北条が、歯を食いしばった声を漏らした。「あいつ、縛られたまま……!」
「今、下見たら終わる」
ユイの声が鋭い。「戻ることは、落ちること。戻って確かめた瞬間、全員まとめて落ちる」
「でも――」
「上で数える」
レンは、自分でも驚くほどはっきりした声を出した。「上で、名前を呼ぶ。上で、点を打つ。ここで振り返ったら、あいつの“罰”も “贖罪”も、全部まとめて塔のご飯になるだけだ」
喉が焼けるように痛い。
胸が裂けそうだ。
それでも、前を見る。背中を上に向けたまま。
「……ツムギ」
「うん」
彼女の声も震えている。それでも、指先は前に向いた。
「拍、取れる?」
「取る。取るから、上がって」
「北条」
「……聞こえてる」
北条は低く答えた。「もう一本、ロープの芯が減っただけだ。支点はまだ折れてねえ。引くぞ」
「ユイ」
「運用続行。配置そのまま。背面登り維持」
「じゃあ」
レンは、吸い込んだ息を空気に固定するようにして言った。
「上がる。三、二、一」
腕がちぎれそうだった。
足は震えっぱなし。
喉の奥には、言葉にならないものが詰まっている。
それでも、隊列は動いた。
三。
二。
一。
体を引き上げる。
逆勾配がまだ、体を後ろへ引こうとする。
米倉の重さは、もうない。それが逆に、バランスを狂わせた。
足元の感覚が軽くなりすぎて、空を踏みそうになる。
「重心、前!」
ユイが叫ぶ。
レンは頭の中で何度も繰り返した。
戻ることは、落ちること。
戻ることは、落ちること。
戻ることは、落ちること。
前へ。
前へ。
前へ――。
◇
どれだけ登ったのか、もうわからなくなったころ。
「……変わった」
ツムギが、息も絶え絶えにそう言った。「音が、変わった。逆勾配、終わってる」
足の裏に伝わる感触も、いつのまにか変化していた。
体重を上にかけたとき、さっきまでのように後ろへ引き戻されない。
段の面が、ようやく“普通”の角度に戻っている。
「平ら……」
レンは、踊り場の縁に手をかけて体を起こした。
全身の筋肉が悲鳴をあげる。
背中から汗が滴り落ちる。
「……着いた」
最後の一段を越えたところで、全員がその場に崩れ落ちた。
逆勾配の階層を抜けた先の踊り場は、わずかに広かった。
壁の黒板には、三つの短い行が並んでいる。
戻ることは、落ちること
甘い
それでも、進むしかない
「最後の一行、誰が書いたんだろ」
ツムギが仰向けのまま呟いた。
塔か、人か。
どちらでも、もうどちらでもよかった。
レンは懐から名簿を取り出した。
紙はもう、ほとんど破れかけている。
それでも、点を打つ余白は残っていた。
米倉シン。
その名前の横に、小さな黒い点を一つ。
「……ごめん」
声に出してはいけないと思いながら、それでも唇が勝手に動いた。
「上で、話そうって言ったのに」
塔は何も答えない。
黒板の文字も、もう増えない。
「相沢」
背後から、北条の声がした。「前は、まだ任せていいか」
「……任せてくれるなら」
レンは名簿を胸ポケットに戻し、ゆっくりと立ち上がった。足が笑っている。それでも膝を伸ばす。
「俺、上で全員分の名前を呼ぶって決めたから」
「だったら、行くしかねえな」
北条も、よろよろと立ち上がる。
ツムギも壁を伝って起き上がり、耳に手を添えた。
ユイは何も言わず、ただロープの結び目を確認している。
「あと、何層あるんだろ」
ツムギがぽつりと言う。
「わからない」
ユイが答えた。「でも、戻ることは落ちること。進むことだけが、選択肢」
「だったら」
レンは階段の上を見た。
逆勾配は終わった。
だが、塔の試験は、まだ終わっていない。
「行こう」
短く言い、いつもの四語を喉に浮かべる。
上がる。
止まる。
見る。
掴む。
そのリズムを、もう一度、骨の中に通すために。




