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草林・太郎の濃ゆ過ぎる前半生

無念の字数オーバー(3500字目標に対し5600字)

 では、時間になりましたので本日の講義を始めたいと思います。

 前回の講義では、『朝鮮半島大爆発』という未曾有の大災害の概要と、それが齎らした、日本の政治的・経済的・食糧的な危機に対し、当時若干二十四歳の若さであった退役海軍軍人、草林・太郎が内閣総理大臣に擁立された所までをお話ししていたかと思います。

『包括的雷撃禁止条約史概論』という講義タイトルからは、かなり回り道をしているのではないか、という質問がありました。当然の疑問だと私も思いますが、前回・今回、そして次回の三回の講義を連続して聴いていただくと、何故この講義が『朝鮮半島大爆発』と『草林・太郎の台頭』に多くの時間を割くのかが理解できるようになりますので、もう暫く、辛抱いただければ幸いです。

 さて――内閣総理大臣に奏薦され、大命が降下した『草林・太郎』とは、一体如何なる人物であるのか。レジュメの一ページ目に、彼の首相就任までの略歴を載せてありますので、そちらをご覧いただきながら、私の話を聴いてください。

 草林・太郎は明治十六年、つまり西暦で言いますと千八百八十三年に、現在の愛媛県宇和島市の商家に生まれました。彼は商家という比較的恵まれた環境に育ったためか、齢三つにして新聞をそらんじ、時には時勢を論じる周囲の大人達に混じって舌鋒鋭く指摘を行なっていた、などの逸話が多数伝わっています。その逸話の中には、後に彼の上京時の後見人となる、明治二十四年に発生した訪日中のロシア皇太子ニコライが襲撃された大津事件を裁いた当時の大審院長、児島・惟謙を極めて辛辣に評価していたことも含まれています。

 具体的には、


『他の機関に判断を歪められなかったという点で、大逆罪の適用を主張した松方内閣から司法権の独立は守ったが、法理に基づいて同僚や上長の意向に左右されずに各々判断を下すべき判事らを、大審院長として説得して司法判断を導き出しており、裁判官としては一〇〇点満点で五〇点』


 と扱き下ろすという、当時としては極めて先進的で、現代的視点で見てもほぼ満点回答に近い内容でした。

 その逸話はやがて、


『あの護法の神様を扱き下ろした小童が、護法の神様の生まれ故郷に居る』

 という噂話となって、明治二十五年に花札賭博に興じたとして懲戒裁判にかけられ失脚した、児島・惟謙本人の下まで届くことになりました。遠路はるばる東京から宇和島までやって来た児島の遣いによって、その噂が事実であることを確かめられるや、草林はその才を見込まれ児島に召し出され、明治二十七年、勅選議員として貴族院に出仕することになった児島の書生として、児島の側に侍り始めることになります。

 草林は児島の強い後援と、他社の追随を許さないような圧倒的実力で、学習院初等科への編入試験を突破し入学。日中は学習院で勉学に励み、放課後帰宅すると、児島の書斎に備えられた法書の類いを読み漁るのが日課でした。なお、草林の学習院初等科での武勇伝は、有栖川宮・栽仁親王が著した『草林・太郎伝』が伝聞調の話も含めて一番詳しく書いていると言われていますので、興味のある方は是非読んでください。当時の日本を支配していた上流階級の子供が通っていた学習院で、生粋の平民である草林が『今謙信いまけんしん』と恐れられる程の立ち位置を確立する過程が書かれています。

 話を草林の略歴に戻しますと、彼は一旦は徴兵検査で不適とされた後、東京帝國大学法学部へと進んでいましたが、明治三十四年に日露間の対立が深まる中で、有栖川宮・栽仁王と、栽仁王の学習院での良き先輩であったことが知られていた草林は、明治天皇から名指しで呼び出され海軍士官を志すよう命じられますが、


『畏れながら、謹んでお断りいたします』


 と即答して、明治天皇の近臣を卒倒させたと伝わっています。熱り立つ近臣を抑えて理由を尋ねた明治天皇に対し、草林は、


『これからは戦乱の時代です。

 であるが故に、戦場に、軍人に、法理を徹底させる者が必要です。

 それは軍人でありながら軍人であってはならない、と私は考えます。

 詰まり、今は陸軍軍人が担っている憲兵を、陸海軍から独立させる。

 例えば今の制度では、陸軍、あるいは海軍が大臣を差し出さなかった場合、内閣を崩壊させることが可能ですが、そのような制度の悪用という事態が生じた時、その動きを未然に、或いは起きた後、それを取り締まって速やかに秩序を回復させる。

 そのような仕組みを持たせた治安維持組織として、憲兵をより明確に、陸海軍とは異なる軍種組織として独立させるべきである、と思っております。

 より踏み入ったことを申し上げれば、憲法に於いて内閣総理大臣の地位を明確に定義し、内閣総理大臣は陛下を常時輔弼し、我が国の統治権を総覧しておられる陛下を代理する。そして陸海軍を始めとする一切の政府組織は、内閣総理大臣や内閣総理大臣の監督を受ける各国務大臣の指揮に従うものである、とより強く戒めるべきであると、私は強く提言いたします』


 と理路整然と述べ、一同を唖然とさせた、と言われています。当時若干十八歳の若造が叩く口としては、理路整然とし過ぎ、且つ物怖じしなさ過ぎであるとは私も思います。ですが、この明治天皇との会見の翌日から、時の第四次伊藤・博文内閣が、それまでの対立を打って投げ出し元老達と手を組んで大日本帝國憲法の穴を塞ぎにかかり、もう一方で憲兵の独立――後の国家憲兵隊の設立という難題に挑みながら、鉄道敷設問題は当時の逓信大臣の原・敬に丸投げする、といった政治的回天が発生したことや、当時の明治天皇周辺の国家中枢を占めた人々の日記などの傍証から、今日ではこのストーリーは、大筋に於いて事実であると考えられています。

 果たして翌明治三十五年、草林は突貫工事で発足したばかりの大日本帝國国家憲兵隊に、最初から法務士官待遇で入営しました。これは当時としても異例中の異例でしたが、草林は日本陸軍士官学校への入校試験を受け主席合格する傍らで、司法試験に一発合格するという離れ業をやってのけており、法理に明るい軍人というのは、発足間もない国家憲兵隊にとっては、喉から手が出るほど欲しい人材だったからです。何しろ、日露開戦は不可避であると国家全体が認識する中で、陸海軍を掣肘し風紀の紊乱を防止し、将来生じるであろうロシア兵捕虜や占領地の住人の取り扱いを行う司法官としての国家憲兵は、日本が国際法を遵守する上で、なくてはならない存在だったので。

 そうして入営した草林は、対露開戦を前提として連日の様に厳しい訓練に励んでいた陸海軍内部の、いじめ行為や弾薬庫で飲酒喫煙するなどと言った悪質な規律違反を、国家憲兵という立場を存分に悪用して東奔西走しては、軍内部を取り締まって回りました。草林の取締りは些か厳し過ぎる節もあり、総じて取り締られた側からの恨みを存分に買っていましたが、草林は仮令階級が上の者が相手であっても一切怯むことなく毅然とした態度を取り続け、国家憲兵隊全体もそれに倣いました。

 ちなみに当時の様子を、『もし草林や国家憲兵隊がその様な姿勢でなければ、主力艦が停泊中に弾薬庫から出火して爆沈したり、変に恨みを買った指揮官が前線で背後からの流れ弾に当たって戦死したりしていただろう』、と妙に具体的な内容で日記に記していた人物が居ます。

 その名を、高野・五十六。草林の盟友の一人で、後の大日本帝國海軍聯合艦隊司令長官となる、山本・五十六でした。

 高野と草林の接点は、高野が配属された『日進』に、同艦配属の憲兵としてやってきたのが、二人の初対面だったことが、高野の日記に記されています。国家憲兵隊が本格運用される様になっていたこの頃になると、規律維持のため法務士官として主力艦一隻につき、憲兵が最低三名は乗艦する様になっていました。二人の間には歴然とした年齢や先任・後任、職分の違いなどの差があった訳ですが、二人はそうした垣根をすぐに超越して意気投合し、非番の時には天下国家の在り方を論じ合った、と高野は日記に記しています。その意気投合具合は、草林が『貴官は博打が得意そうだ』『露助の砲弾で指を飛ばされそうだ』『前線視察で遭難しそうだ』とか言う草林の無礼な軽口を、高野がほろ苦く笑い飛ばしていた、という同艦乗組の水兵の証言が残っているほどです。

 妙に具体性のある草林の言は兎も角、二人が年齢や軍種や先輩後輩や先任・後任の差を乗り越えた親友だったことは確かな様で、日本海海戦の際、草林は『日進』の前部砲塔内で高野の補助に就いており、同艦が敵弾を被弾した際には高野を庇って重傷を負い、高野から、


『貴様が先に死んでどうするのか。しっかりせい!』


 と叱咤激励され、何とか意識を保った姿を、前出の水兵が目撃した旨、証言しています。草林は日本海海戦での負傷により下艦・後送され、当面の間、入院加療を余儀なくされ、その間に戦争は陸上では日本辛勝、海上では日本完勝の形で概ね決着しており、戦争の焦点は米国ポーツマスでの講和交渉のテーブル上に移っていました。

 日本は戦争の全期間を通じて、国家憲兵隊による徹底した検閲を国内報道機関に対して敷いており、軍事機密に関する事項は勿論の事、極端な戦意発揚や、過激かつ無謀で無定見で近視眼的で実現性皆無な講和条件を大衆に広めようとする様な動きに対して、極めて厳しく取り締まり、戦況に影響を及ぼさない範囲で国民に対する正確な情報の広報に努めていました。草林は万一講和内容に不満を持つ不平分子が蜂起しては事だとして、主治医を説き伏せて無理矢理退院し、事あるに備えて憲兵隊の一部を率いて日比谷公園の警邏に当たっていましたが、日比谷公園に現れた講和反対を訴える一団に民衆が呼応することは無く、その一団は草林率いる憲兵隊に呆気なく鎮圧され、日露講和は大きな混乱もなく、無事発効しました。

 戦後、草林は暫くの間、日本陸軍士官学校と日本海軍士官学校の間を、軍法教育の講師として行き来する生活を送っていましたが、その軍歴の最終行となる江田島の日本海軍士官学校での最終講義の際、同校の卒業と少尉任官を目前にした、学習院以来の後輩である有栖川宮・栽仁王が腹痛に倒れた場に居合わせました。

 草林は越権とは知りつつも、草林は栽仁王の診察を担当した軍医の盲腸炎(※現在で言う所の虫垂炎)と言う診断を信用せず、独自に当時の日本一の名医であった難波・一やエルヴィン・フォン・ベルツ医師を今日で言うセカンド・オピニオンとして呼び寄せ、結果、ベルツ医師らが執刀して手術をすることになり栽仁王は命の危機を脱しましたが、当然乍ら現地の上官である軍医を飛び越えてベルツ医師らを呼び寄せた草林の行為は咎められる事になり、草林は江田島での講義の任を解かれて兵部省に召喚されました。江田島を離れる直前、栽仁王を見舞いに訪れた草林に、栽仁王は、自らのキャリアを投げ打つリスクを背負ってまで命を助けてくれたことに感謝を述べると共に、もしも国家憲兵隊を追われる様なことがあれば有栖川宮家を頼れ、とまで述べましたが、草林は、


『大事な後輩を助けただけなのに、礼など要らぬ。

 それよりも早く身体を治して御家族を安心させてやれ。

 何、俺のことなら心配は無用。策はある』


 と莞爾として固辞した、と栽仁王は日記に記しています。江田島での栽仁王救命に係る草林の越権行為は、当然乍ら軍規の上では違反行為に該当しており、軍内部の綱紀粛正を図る憲兵が自らその綱紀を乱した以上、その罪を問わねば鼎の軽重が問われる訳で、しかし皇族の命を救った以上、功罪どちらが重いかと言えば功が勝るだろう、と言うのが兵部省内部の大勢ではありました。しかし、軍規違反は軍規違反であり、高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応するなどと言った、行き当たりばったりの生半可な対応は許されない事は、誰の目にも明らかでもありました。

 果たして兵部省本省の軍法会議の場に現れた草林は、草林自身の予備役編入願を出しました。曰く、


『本職が軍規に反して越権行為を犯したことは明白な事実であります。

 憲兵たる者、軍規を犯した以上は、自ら襟を正してその責を明らかにしなければなりません。

 故に本日只今を以ての本職の予備役編入を、本職は願い出るものであります。

 本職には、憲兵であり続ける資格はありません。

 どうか賢明な判断をお願いいたします』


 との事であり、これまで積み重ねてきた憲兵としてのキャリアの一切を即座に投げ捨てるという余りの潔さに、草林の国家憲兵隊での当時の同僚で、草林の処分を決める軍法会議にも立ち会った東條・英機――後の内閣総理大臣ですね――は、声を荒げて問い糺しましたが、草林は頑として言を翻さず、八時間にも及ぶ『辞める』『辞めさせない』の押し問答の末、軍の方が折れてその場での草林の予備役編入が決まりました。

 軍を後にした草林は、恩師で体調が思わしくなかった児島・惟謙の下に戻り、児島の介護の傍らで高等遊民という隠遁生活を決め込んでいた訳ですが、そうした『有能な怠け者』である草林を、国家危急の事態に際し有力者達が放っておく筈もなく、その結果、元勲や皇族、軍内部の実力者などの力で、草林は若干二十四歳で内閣総理大臣の座を襲うよう、大命が降ったのでした。

 さて、少々時間をオーバーしてしまいましたが、本日の講義はこれまでといたします。

 例によって、ここまでの講義での疑問点、深掘りしたい点、参考資料等の問い合わせにつきましては、次回講義までに私の研究室まで簡易レポートの形で提出するようにしてください。

 では、また次の講義でお会いしましょう。

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