直径33.4kmの爪痕
大韓帝国「」
草林・太郎「」
時間になりましたので本日の講義を始めます。
前回の講義では、包括的雷撃禁止条約の内容と、それによって幕が上がった建艦競争を始めとする大軍拡、そして最後に、直近の脅威が去って一息吐いた日本が、大韓帝国の首都京城消滅によって冷や水を浴びせかけられたことをお話ししました。
今回は先ず、西暦一九〇八年六月三〇日に京城に何が起き、そしてその結果、何が起きたのかについて、解説していきたいと思います。
では、配布したレジュメの一ページ目を見てください。現在の朝鮮半島の地図です。図中に星印で示したのが、かつて京城が存在していた位置です。
標高五〇〇メートル前後の山々や丘陵に囲まれた盆地の中を東西に流れる、漢江という大河川の河畔に成立した都市で、一九〇八年当時、日本の外交官が作成した資料に基づくと、人口は三十二万人ほどだったと言われています。現在は図の通り、東西方向に差し渡し約三十三・四キロメートル、南北方向に差し渡し約十キロの、楕円状の湖――京城クレーター湖と呼ばれる、巨大な堰き止め湖の、平均水深五〇メートル程度の水底に沈んでいます。まあ、沈んでいるとは言っても、その遺構はTNT火薬換算で三〇メガトン相当の爆発で粗方、燃やされ、圧し潰され、吹き飛ばされた上で沈んでいるので、果たして水底を浚ったとて当時の遺構が発見されるかどうかはかなり疑問ではありますが。
西暦一九〇八年六月三〇日、東京時間で午前九時二分頃、宇宙空間から突入した直径約六〇メートル程度の隕石が、京城上空の推定約七〇〇〇メートル上空で、大気圏突入時の衝撃などに耐え切れず、爆発四散しました。前述しましたように、その爆発四散によって解放された、TNT火薬換算で三〇メガトン相当のエネルギーが京城一帯を襲い、京城は一瞬にしてこの世から消滅。更に当地一帯を震源とする、気象庁マグニチュード換算で六・八と推定される大地震により、漢江の堆積物で形成されていた京城盆地一帯で大規模な地滑りが発生し、漢江は現在の湖西市付近で堰き止められました。
カタストロフィはまだ続きます。この地震は約五〇〇キロ北北東に離れた所にある、白頭山と呼ばれる大火山のマグマ溜まりに影響し、その日の正午には白頭山で大噴火が始まりました。この大噴火で白頭山周辺約三〇キロは大火砕流に呑まれ潰滅。そして京城と白頭山で巻き上げられた爆煙や噴煙が、一両日中には日本海一円に広がりました。
レジュメの二ページ目をご覧ください。当時の大凡の天気図と、降灰分布図が載っています。
日本にとっては比較的幸いな事に、当時梅雨前線は北上して日本海上にその殆どがあり、火山灰の殆どは日本海上に落下しました。しかし、より白頭山に近い朝鮮半島は悲惨な事になりました。
この災害大国に住む皆さんは、雨を吸って重たくなって地上に降り積もった火山灰がどうなるか、防災教育で既にご存知の方も多いかと思います。白頭山から噴出した火山灰は、梅雨によって降雨と共に降灰し、朝鮮半島各地で土石流となって人々を襲いました。十日間に及ぶ破滅的な噴火と、朝鮮半島中部まで伸びて停滞した梅雨前線の凶悪な組み合わせ、そして何より国家の中枢そのものが消滅した事により、今日の推定では最初の十日間で、大韓帝国の総人口約千百六十五万人の内、三百五十万人もの命が失われたと考えられています。
朝鮮半島以外にも、西は北京、北は斉々哈爾、東はウラジオストク、南は熊本にまで灰が降りました。例に挙げた朝鮮半島以外の地域では特にウラジオストクの被害が大きく、厚さ実に三メートルもの降灰で覆われ、ロシアはこれを再建出来ないまま第一次世界大戦を迎えています。
『ここまで』が、一九〇八年六月三〇日に起きた、『朝鮮半島大爆発』と呼ばれる、天体衝突とそれに伴うカタストロフィの『序章』です。
レジュメの三ページ目を見て下さい。上半分は、当時の日本の米の自給率と、輸入量を示したグラフです。見ての通り二〇世紀に入った頃、日本は急激な人口増加と生活レベルの向上に伴って、主食である米の需要が大幅に高まっていましたが、日本の狭く険しい国土では当時、その需要を十分に賄うことが出来ない状態でした。従って米を輸入し需要を賄うという、現代では非常に想像し難い状態が恒常的に続いていたのです。
ちなみに、その主な輸入先はお隣の農業国であった大韓帝国で、その大韓帝国の実質的な支配者であった男性官僚貴族の両班は、日本円という外貨を獲得する為に、事実上、飢餓輸出を行っていました。飢餓輸出って分かります? 必要物資まで外貨獲得の為に輸出してしまう行為です。有史以来、『悪政』と呼ばれる政治的行為として例を探すのに事欠かない、例のアレ、です。
さて、皆さんに問題です。六月末から七月上旬にこのような大災害が朝鮮半島や日本海周辺地域を襲った訳ですが、これが何を意味するか、何が起きてしまったか、想像が及びますか?
そう。不作です。
西暦一九〇八年の東アジアは、記録的な不作でした。
特にこの年以降、西暦一九三〇年代になるまで朝鮮半島は無政府状態となる訳ですが、その間、朝鮮半島は極めて酷い不作と言うか、ほぼ無作の状態が続いていた、と考えられています。『考えられている』というのは、無政府状態となったためまともな統計を取る組織も人物も無く、また非常に多くの人命が初期の段階で喪失われ、特に京城に集中していた中央官僚とまともな記録の消滅により、各地の生き残った人々が匪賊化し、残った数少ない実りを奪い合って殺し合ったことが、口伝という曖昧な形の証言でのみ伝わっているからです。
実際に当時、朝鮮半島で何が起きていたかは、経川吉家先生の『朝鮮半島近代史詳論』の講義で、どの様に調査し、どの様にそれが事実なのかを確かめたのかを知れますので、もし今学期受講していない方は、来年度受講することをお勧めします。経川先生のフィールドワーク手法は、知識として学んでおいて損はありません。ついでに遭難時のサバイバル術も学べて大変お得です。
話を元に戻しましょうか。
この『朝鮮半島大爆発』により、日本は朝鮮半島ほどではないにせよ、北海道、東北地方や北九州、山陰、北陸地方などで軒並み不作となりました。西暦一九〇八年当初、日本の政治を担っていたのは西園寺・望々内閣でしたが、六月二十二日に発覚した『赤旗事件』による政治的混乱の間隙を突いたかのような『朝鮮半島大爆発』の発生により、西園寺内閣の処理能力は飽和。混乱最中の七月四日、西園寺・望々は首相官邸で過労による吐血を起こし殉職。与党・立憲政友会は天皇と国民の信頼を失っており、一方で野党第一党・憲政本党は内ゲバで混乱しており、その他は泡沫政党でこれまた信用や実力が無く、藩閥の目ぼしい人材もこれまた国民からの反発が強く、政治的に進退窮まったかに思われました。
そんな中、かつて『護法の神様』と呼ばれた児島・惟謙の書生、実質的には秘書として実質的には隠遁生活を送っていた退役海軍少尉の平民、草林・太郎へ、彼の機転により直前の三月に命を救われた有栖川宮・栽仁王を息子に持つ海軍大将、有栖川宮・威仁親王と、日露戦争終盤最大のハイライトの一つである『日本海海戦』当時の連合艦隊司令長官で、当時海軍軍令部長であった東郷・平八郎海軍大将、更には『元老』山縣・有朋陸軍元帥大将、桂・太郎陸軍大将、与党・立憲政友会の有力者で後に総理大臣にもなった原・敬らという異色の面子が、『これは戦争に在らずとも戦争に準ずる国家危急の時にて、これなる児島・惟謙の秘蔵っ子の平民、草林・太郎を次なる内閣総理大臣が適当であると奉答いたしまして候』などと、実質的には殆ど明治天皇に強訴し軍事クーデターを起こしたも同然の様な形で、明治天皇からの大命降下を引きずり出します。
草林自身はこれには大変不本意だったようで、所信表明演説ですら『誠に極めて大変不本意乍ら、私の後ろで大臣に就かれておられます諸卿の奏薦により、天皇陛下より謹んで組閣の大命を已に止まれずお受けすることになりました』という口上で始めている程ですが、直前の三月に皇族である有栖川宮・栽仁王の命を救ったことで、一躍国民的英雄となっていた草林の名を知らぬ国民が居るはずもなければ、このタイミングでの総理大臣就任を歓迎しないはずもなく、若干二十四歳にして草林は位人臣を極める事になります。
では、時間になりましたので、本日の講義はここで終了とします。
例によって、ここまでの講義での疑問点、深掘りしたい点、参考資料等の問い合わせにつきましては、次回講義までに私の研究室まで簡易レポートの形で提出するようにしてください。
では、また次の講義でお会いしましょう。
朝鮮半島に怨恨はありませんが、想定値を最大値に振ったら予想の百倍悲惨なことになったので反省していますん。




