財布
流れで、川村は春瀬に読み取れとラインのQRコードを出してきた。春瀬も特に断ることもないので交換した。こんな陽キャと話すこともない気もするし、しつこくなければいいかと。
「インスタとかXとかやってるんですか」
『やってない』
「いろいろやってそうな気がします」
『やった方がええかな』
「何で文字で返すんですか」
「せっかく交換したのに打ちたいやん」
「さきに言いますけど、わたしはラインとかしないタイプですから」
「しなくても繋がるのはええことやん?」
「面倒じゃないですか」
「それは面倒な奴と繋がるからやん」
間違ってはいない。確かに間違ってはいないんだけど、言いたいことが伝わっているとは思えない。では川村は面倒な奴ではないと言えるのかと尋ねると、あなた次第だと答えた。
面倒くさっ。
しばらく下級生は一般教養科目を選択しなければならないのだが、専門以上に多岐に渡るので法学部と合同もある。哲学や倫理系で川村の姿を見かけることが多い。二年だからというわけでもなく、趣味で聴いているらしい。
「文学部の講義は世の中で何のためにもならんのが多いからおもしろいな」
「しばかれますよ」
「近代文学史なんて何やねんと思うわ」
「何なんですか」
「トム・ソーヤの冒険知ってるか?」
二人でソフトボール部の練習を見ながら持ち帰りのお好み焼きを食べていた。思っているようなふわっとしたソフトボールではなくて豪速球を投げて打っている。しかしなぜ二人でランチなんだと思った。待ち伏せされて、誘われたから食べているにすぎないと思うようにした。
「あれなんて江戸の終わる頃やで。フランダースの犬は?」
「懐かしのアニメで観たくらいです」
「フランダースの犬が主人公なんや。犬がな。一八七〇年くらいの作品や。翻訳も菊池寛がしとる。猫が主人公の話はいつや。一九〇〇年や。夏目漱石くらいなら原作で読んでるかもしれん。ホームズも一九〇〇年くらいか。フランケンシュタインなんて一八〇〇年前半やで」
「源氏物語はどうなんですか」
「あれは古いな」
「でも読まれてませんね。雨月物語とか好きですけど。江戸時代は元禄化政文化にたくさんあるんやないですか。歌舞伎もシェークスピアに対抗できませんかね。どちらかというとシェークスピアはお能ですかね」
「そうか。日本も捨てたもんやないな」
わざとなのか天然なのか、人の意見を吸収する速度が速すぎる。この人に自分の意見はないのだろうか。だから賢いのか。
「夏目漱石は欧化政策で日本の文化が消えるのを悲しんでたんやないですかね」
「さすが坊っちゃんの故郷出身やな」
「それは愛媛です」
春瀬は透明のパックに輪ゴムをかけた。メリケン粉と水浸しのキャベツを食べているのと同じだ。食べても食べてもメリケン粉。
「大阪に来てお好み焼き食べたことある?香川はお好み焼きあるの?」
「失礼な」
数日後、コインランドリーの前を通ると川村が倒れていた。無視した。ただあの姿はどう考えても川村だと思ったので、よせばいいのにわざわざ戻って覗いた。
「酒臭っ」
つま先で小突いた。
川村はむくっと起き上がると、回っている乾燥機を見上げた。
「どこやねん」
「コインランドリーですよ」
「誰やねん」
「春瀬で〜す。飲みすぎですよ〜」また眠そうにしていたので「川村〜起きろ〜」
「俺は誰?」
面倒臭っ!
「とにかく椅子に」春瀬は丸椅子に引き上げようとしたが諦めた。「ここに自分で座ってください。ほら。服も汚れますよ」
ポカリスエットを買うと、キャップをねじ開けて川村に渡した。どこかで見た。母が酔って帰ってきた父にしていたことだ。放っておけばいいのにと思いながら見ていたが、まさか自分がすることになるとは溜息が出た。
「飲みすぎた」
「見ればわかる」と呟いた。
「お好み焼き屋か飲み屋かわからんところあるよな。たいていわからんのやけど」
「はい。もう一本。どれくらい飲んだんですか?飲んだ分だけ水飲むんです。初めはポカリスエットで次はお茶か水です」
「家には帰ったんやで。で、洗濯せなと思うて出てきたのがあかんだんやな」
「酔いつぶれてる時点でアウトです」
「つぶれてたか」
「The行き倒れでしたね」
「定冠詞がついたか。不定冠詞くらいにしておいてほしいな」
つまらないことを言うのは飲んでも変わらないらしい。乾燥機が止まると、意外にきちんと袋に押し込んで、眠そうな顔ながらも一息ついてスッキリしたようだ。
「帰るわ」
春瀬も帰ろうとしたが、どっと疲れた。人を介抱することなどしたことがない。悪くはない経験をしたと思いつつ、頻繁にしたくはないなと苦笑した。親が親だから自分にも素養があるのかもしれない。いくら嫌でも家では飲んではいけないな。楽しくないお酒は嫌だな。
「財布……」
靴用の洗濯機の下に財布を見つけた。
膨らんだ二つ折りの財布には川村の定期と学生証が入っていた。見てはいけないと思いつつ札入れを覗くと、飲みすぎたのか札は一枚も入っていなかったが新聞の小さな切り抜き写真と細く折りたたんだ紙きれが入っていた。また見てはいけないと思いつつ悪魔が囁いた。鬱陶しい川村のことだからいいかなとも思った。
部屋に戻ると、小さな記事を読んだ。何度かコピーを繰り返していたのか、写真は潰れて文字もにじんでいたが、紀伊山地の水害で軽トラが流された旨が書かれていた。軽トラの持ち主の川村真一夫妻と連絡が取れないこと。
財布に戻そうとしたが、指が震えてうまく戻せないでいた。あの底抜けのコミュ力はどこから来るのか。そうだ。彼の心は何度も何度も死んだ。キズが癒されるまでに、また斬りつけられて、たまに発作のように押しつぶされる。
翌朝、春瀬は淡路駅の券売機の前で川村の背中を小突いた。阪急淡路駅は田舎暮らしの長い春瀬からするとどちらが駅前かわからない。どちらも駅前のようでどちらも裏。京都線から降りるのと北千里線から降りると違った。地下鉄の堺筋線も乗り入れしていて、ホームの大きさの割には停まる駅が多い。
「ん?あ、俺の財布!」
「わたしが盗んだみたいに聞こえるやないですか。コインランドリーで落としてました」
「そうなん。おかしいな。誰が飲み代払ったんやろ。免許証、定期、学生証、キャッシュカード、全部あるな。あ……」
「何ですか。だからわたしが盗んだみたいに思われるやないですか」
「コインランドリーの券がない」
「あ……」完全に忘れていた。
春瀬は川村を改札に押し込んだ。
二人並んで梅田からの列車を待った。
「怒ってる?」と川村。
「怒らせるようなことしました?」
「特には覚えとらん」
「なら気にせんでもええんやないですか」
列車が入ってきて、降りる学生と入れ替わるように乗り込んだ。ちょうど二限目に間に合う朝の列車は座れないほどに混雑していた。
「やっぱ怒ってるよね」
「しつこいですね」春瀬は何となく少し気になることがあった。「ちゃんと帰れました?」
「家で寝てた。風呂やけど」
「よかったです。あれだけへべれけに飲んでたのに。お父さんも飲むからわかるんですよ。ポカリスエット二本、ミネラルウォーター三本ですからね。たぶん焼酎なら一本くらい飲んでるはずですけど。よく起きられましたね」
「払ってくれたんか」
春瀬は嫌々ながら匂いを嗅いだ。そんなに酒の臭いはしないような気もする。まさか自分も酒臭いのかもと青ざめた。恐る恐る周囲を見渡すと、何となく離れている気もする。
「あぁ……」うなだれた。「わたしも同類や思われてる」自分の腕を嗅いでみた。
「お礼せなあかんな」
「お詫びの間違いでは」
列車は低速でカーブを描いて、車輪とレールの軋む音が聞こえていた。
「すさんだ世の中ほんわかするためには『すみません』やなくて『ありがとう』やで」
「今回の場合は『すみません』です。冬なら死んでましたよ」
「冬なら家から出てないな」
「怪しい。飲んべえは冬でも夏でも同じことしますよ。ちなみに春でも秋でも」