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コインランドリー

「故郷があるのはええことやで」


 春瀬はワンルームマンションの一室でホームシックにかかっていた。香川県から大阪に出てきたときのキラキラした気持ちは、GWを終えてから一気に萎んでいた。課題、講義、見知らぬ人との会話、アルバイトなど押し寄せてくる波が膨らんでいた心を抑え込んできた。

 高校生の頃、勉強は嫌いではなかった。好きかと言われるとそうでもないが、成績が上がることが楽しかった。とは本当だが、表向きの理由でもある。勉強していると、誰とも話さなくていいし、存在を認めてもらえた。でも大学生となった今は違う。学年で数人しか行けない大学だったのに、いざ大阪へ来れば故郷の街以上に学生がいて、もはや特別ではなくなった気がした。というか気ではなく特別ではない。

 汗のかいた重い体を引きずるようにベッドから這い出して、ユニットバスで熱いお湯を浴びて、しばらく前に買ったバスローブに着た。

「知ってる?バスローブてのは体を拭くためにあるんや。ちなみにユニットバスの使い方は知ってるの?ナイロンのカーテンあるやん。あれバスタブの内に垂らして使うんやで」

 いつのことか、つい最近のことだ。ふと話しかけられた。春瀬はそんなことはまったく知らなかったが、知らなかった様子を見せるのもムカつくので知ってるふりをしてやり過ごした。


「バスローブ便利やで。髪乾かすときバスローブ着てたら体も乾く。そのまま寝ても大丈夫」


 いやいや。

 カビる。


 こんなことを教えてくれた川村との出会いは夕暮れも近い、雑多で狭い商店街の中のコインランドリーでのことだった。待っている間、春瀬は何となしにスマホを見ていたが、川村は丸椅子で文庫本を読んでいた。何となくチラチラと春瀬が見ていると、それに気づいた川村が屈託なく話しかけてきた。


「何読んでるのか気になる?」

「すみません」

「謝らんでええやん。こころや」

「はい?」

「夏目漱石の。知らん?」

「知ってますけど」

「読んだ?」

「はい。高校生のときに夏休みの宿題で」

「大学生やんな?どこ?」

「K大です」

「センパイと呼んでくれ。学部は?」

「文学部。センパイはどこですか?」

「あのつく法学部や」

「あ法学部……」


 どこ出身だと聞かれて、香川県だと答えるとお馴染みのうどんの話になるかと思いきや弘法大師の話になった。まさかの弘法大師と溜池の話になるとは。水族館の話もした。エクスカリバーみたいなビルの話もした。


「香川県て意外にゴージャスやんな。何となく四国の名古屋みたいなところない?金比羅さんの資生堂パーラー行ったことある?」

「ないです。近くですけど」

「温泉街なん?だから肌がきれいなんやな」

 春瀬は袖で腕を隠した。

「俺もピチピチやろ」

「はあ」

「龍神やねん」

「りゅーじん?」


 春瀬は着替えて部屋を出た。鍵をかけ忘れたかもしれないと戻ると、オートロックだったことに気づいた。これはこれで鍵を忘れればどうなるんだという不安が増えた。



 二度目の出会いは、こんなように昼も過ぎた学食でのことだ。昼食時に行くと、とんでもなく混んでいて目眩がして食欲も失せたので、二時前に行くことにした。高校時代までは孤独なんて無縁だと思っていたのに。スマホやパソコンがあれば、家族や友だちとどこまでも繋がっていられると思っていたのに。

 講義に使われている基本書を何となく読むともなしに読みながら食べていると、「前よろしいですか」と来たのだ。春瀬は本を閉じて応じた。閉じなければ拒否できたのにと悔やんでも悔やみきれない。あらがってもどんどん相手のペースに巻き込まれる気がした。


「あ……」

「川村ですよ」

「コインランドリーでバスローブのこと力説してた人ですよね」

「買うた?」

「う……い、いいえ」


 嘘をついてしまった。どうしてこんなところでこんなつまらない嘘をついたのかと思うくらい恥ずかしかった。買ったよと言えば話も進むはずなのに、ごくごく簡単な話でも素直になれない自分にキズ付いた。マークシートはコミュ力まで鍛えてくれないということだ。


「買うてないのか。ところでレディースマンションやろ?住んでるところ」


 昼食を終えると、二人で何となく法学部と文学部のある丘の上まで歩いた。


「あの後考えたんやけど、マンションにコインランドリーとかないの?せっかくのレディースマンションの意味なくね?」

「ありますよ。でも何となくが引けるんですよね。同世代の人と話すのが」

「部屋に洗濯機ないん?」

「迷惑になるような気がして。てか、センパイはないんですか」

「あるよ」


 あるんかいっ。


「洗濯機て干して畳んでくれんやん。ほんまに洗濯してくれるだけやん。この前家電コーナーでスマホで動かせる洗濯機見つけてな」

「いらないですね」

「そやろ?ふと思うてん。でも商品化して出るということは需要があるということやろ。誰がそんなに急いでるんやろうな」

「もしコインランドリーとかがあれば便利じゃないですか。スマホに知らせてくれれば」

「なるほどな。そや。もうあるんかな」

「こころ、おもしろいですか」

「ん?」


 川村はジャケットから丸まって雨で濡れた後のような文庫本を見た。すり切れて表紙もなく角もボロボロだ。まるで自分が受験勉強時代に使い込んだ参考書のようだ。同じものを何度も読み返しておもしろいのだろうか。


「わからんな。高校生のときに初めて読まされてわからんだ。で、受験終えて読んでもわからんだ。で、今も読んでるけどわからん」

「いつかわかるときが来ればいいですね」

「わかる?」

「わからないです」

「俺だけがアホかと思うてた」


 どういう意味やねん。



 三度目も学食だった。春瀬が川村が小鉢を取っているところを見つけた。テーブルが並んだ食堂の巨大な柱の陰に見え隠れしていた。


「具ないから十円にしとくで」

「ほな」


 川村が春瀬に気づいた。


「暗い顔してどうしたんや」

「別に何もないですよ。ごはん取るのに笑いますか?」

「笑いながらやってみ」

「嫌ですよ。わたしは高校のときから陰キャです。どうして一人でキャピキャピせなあかんのですか?」

「そうやなあ。春瀬さんにはキャピキャピは似合わんな。今のままでええわ」


 席についた川村は具のない味噌汁をすすった。ぬるそうだなと思って見た。学食は余るときは十円になるらしい。そんなことは聞いたことがないが、現に川村は十円を渡し、おばさんに汁だけの味噌汁をもらってすすっていた。


「あの……」


 春瀬は尋ねた。


「何でセンパイは具なしの味噌汁をもらえるんですか」

「顔馴染みやから」

「学食、数百人来るやん?覚えてくれてるわけなんですか?」

「毎日来てたら覚えてくれるわな。ちゃんと十円払ってるねん。ディールやな。世の中グレーゾーンがあるねん」

「法学部なんですよね」

「法律にこそ必要やねん。法律てのは血が流れてるねんで。白か黒やないねん。別冊ジュリスト読んでみ。意外にほろっとするで」

「別冊ジュリスト?」

「裁判例集やな。別冊しか知らんけど。人が人であるために法律はできたんやな。聞くも涙語るも涙や。ちなみにこの学校はボアソナード系なんや。ボアソナード知らん?」

「どこかで聞いたことあるかなあ」

「フランスの民法学者でな。フランスでも当時は革新的でな。日本で理想の民法を根づかせたいと夢見てんやな。頭おかしいやろ?」

「おかしいですか」

「おかしいやろ。ちょんまげして刀持ち歩いてるところへ来るなんて。フランス、プロイセンが革命起こして、スペイン、オランダ、イギリスが大航海時代の時代、こんな訳わからん文化のところへ来るなんて変人やろ」

「香川から大阪へ来るくらいアホですか」

「ん?和歌山のことバカにしてる?」

「和歌山のこと言うてませんよ」

「和歌山はな、陸の孤島や。大阪との間で検問してるんや。パスポートあるんやで」


 ジャケットの内ポケットから青いビニール革の手帳を出してきた。表紙に五三の桐文様とパスポートと英語で記されていた。


「マジ?」


 春瀬は開いてみると、ページに大阪国、和歌山国の印判が押されていた。


「返して」


 春瀬は返さないで、川村を睨んだ。どう考えてもおかしい。しまなみ海道や瀬戸大橋、明石海峡大橋を渡るところに検問があるのか。


「どこで押すんですか」

「南海電車の検札でチェックされるんや」


 指で表紙の金文字をこすると、Pの字が消えた。爪でこすると、すべて消えた。


「何するねん。せっかく作ったのに」

「作ったてどういうこと?」

「おまえなあ。センパイにタメ口はあかんと思うで。気が強いと嫌われるで」

「センパイらしくしてくださいよ。こういう関西のノリ好かんのです。何でも冗談にしてしまおうとするところ合わないです」

「関西ひとまとめにするな。四国ひとまとめにならんやろ。高知の海岸沿いなんて香川の瀬戸内と違うやん。それと同じや。高知には南海トラフのための避難用の鉄塔あるやろ。あれ見たときはせつなくなったな」

「せつない?怖いとかでなくて?」

「怖いことないわ。みんな地震来たらおしまいなの理解してるねん。でも生まれたところで住むこと選ぶしかないやん。せつないやろ」

「和歌山も同じですやん」


 川村は箸で指差した。


「あ、紀南やと思うてるな?」

「何ですか。南海トラフですよね」

「悲しいわ。俺の生まれたところは和歌山は和歌山でも海のない和歌山なんや。どこ出身ですか。和歌山です。海きれいですねなんてまだええわ。パンダかわいいですねや。和歌山に野生のパンダおる思うてるんやないか」

「思ってませんよ」


 川村はスマホを出してきた。


「見てみ。ここだけの話や」


 暗い雑木林の斜面、ガードレールの向こうに光る目が写っていた。


「野生のパンダや」

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