駐在員、異世界行きを願う
中国・広州の夜は、いつも濁っていた。
湿気を含んだ風、ホコリの舞う通り、そして排気ガスと一緒にどこか焦げた香りが混じる空気。
そんな街の片隅――珠江新城のオフィスビル19階、広州KANE商事では、今日も一つだけ灯りが消えない。
午後11時半。
デスクに座るのは、加野タカシ(35歳)。日本の専門商社で管理部門を預かる“駐在員”である。
「……VPNまた切れた」
うんざりした表情でモニターを睨みながら、タカシは何度目かの再接続を試みる。
東京本社の承認システムにアクセスするだけで5分以上。ログインして、稟議書を開く頃には接続が切れている。
もはや毎日の儀式。呪術的タイムロス。
「決裁期限今日中って、日本時間か? 中国時間か? 香港時間か? どっちにしても無理なんだけど……」
キーボードをたたく指が止まる。画面はフリーズしたまま微動だにしない。
誰にも見えない深いため息が、デスクの上に溜まっていく。
外はすでに深夜。
窓の外には広州タワーが、まるで観光地の目印のように煌々と輝いている。
その形は、まるでコーヒーカップのようにくびれた細長い塔。上部は丸く膨らみ、まるで上に乗ったグラスの部分がくるくると回るような印象だ。
その中心にあたる部分には光が集まり、夜の闇に浮かび上がっている。
広州を代表する象徴的な建造物として、広州タワーは誰もが見上げる存在だ。
「広州タワー……見てると、なんだか未来に取り残された気分になるんだよな。
俺、これからどうなるんだろう?」
タカシはまた、モニターを見つめた。
社内メールが届くたびに、反応するのは不安からだ。
パソコンの前で指が動くのは、嫌でも“やらなきゃいけない”から。
その“やらなきゃ”という気持ちが、自分をどこかへと追いやる。
タカシは広州・深圳・中山・仏山・東莞・そして香港まで、華南エリアを単騎でカバーしていた。
“広州KANE商事”という名ばかりの現場で、実質的に香港法人との業務まで兼任している。
「広州から香港まで担当してるって言ったら、普通引くよな……片道二時間半だぞ。
しかも、物流、税務、会計、人事、リスク対応、ぜんぶ俺……」
グローバルという名のもとに、ただの何でも屋と化した日々。
“日本語で話せる人がタカシさんしかいない”
“現地スタッフは辞めちゃったから、まず引き継ぎからお願いします”
“香港側との調整も、広州からできる範囲でお願いします”
ぜんぶ、タカシ宛。
デスクの上には、夕方に届いたデリバリーのワイマイ(外卖)が冷えきって置かれていた。
紙袋の中にあるのは、海南鶏飯と冷たいウーロン茶。アプリの注文履歴は3日連続で“いつもの店”。
「正直、味もう覚えてねえな……」
ワイマイが届くたびに、スプーンがない、スープが漏れてる、パクチー多すぎ問題。
最初は文句も言っていたが、もうそれすらしない。
選ぶ余裕も、怒る気力もない。
ただ、“食う”という行為すらも業務の延長線にあった。
日付が変わるころ、WeChatの通知が鳴る。
「香港税務の件、明日のWeb会議でコメントお願いします」
「中山の現地法人、固定資産の仕訳エラー出てます」
「深圳の工場で監査対応依頼、現地語できる人いないんでお願いできますか?」
どのメッセージにも、宛名はない。
もう誰も、「タカシさん、お願いできますか?」なんて聞いてこない。
誰がやるか、みんな知っている。
加野タカシ――それ以外に、この業務をこなせる人間はいないという絶望的な現実。
「……異世界行きてぇ……」
それは冗談でもなければ、ただの現実逃避でもなかった。
祈りのように、ただぽつりと、口からこぼれた。
誰も悪くない。
現地スタッフも、本社も、仕入先も、全部、それぞれの論理で動いている。
でもその“隙間”を埋める人間が、永遠に自分だけだという現実が、もう限界だった。
月曜は深圳、火曜は中山、水曜は香港の税制セミナー、木曜は東京とのテレビ会議、金曜は仏山の現地監査。
スーツケースはいつも開けっ放しで、家の冷蔵庫にはポン酢と水だけ。
たまに早く帰れた夜でも、WeChatと本社のメール通知が鳴り止まない。
気がつけば、人間じゃなく、“駐在装置”になっていた。
逃げたい。
でも、ただ逃げたいんじゃない。
「どこか、ちゃんと“働ける”世界に行きたい。
やりがいとか成長とかじゃなくて、
ちゃんと、“ひとりで全部やれ”じゃない場所で、俺は……働きたかっただけなんだよな……」
諦めにも似たその言葉が、彼の口をついて出る。
「……もう、異世界でいいから、転職させてくれ……」
その瞬間――
バチン!
オフィスの蛍光灯が弾け飛んだ。
PCの画面がブラックアウトし、スマホの通知もすべて消える。
エアコンも、時計も、プリンタも、すべての電子音が止まった。
世界そのものが、すーっと沈黙していくような感覚。
タカシの体が力を失い、崩れ落ちる。
意識が沈むその刹那、
彼の耳には、確かに――
「異世界で、もう一度やり直したい」
そんな声が、自分自身から聞こえた。