【08】『孫子』
左京と淀殿の囲碁勝負は、終盤戦に差しかかっていた。
だが盤面は『長生コウ』と呼ばれる、取っては取られてが永遠に続く、千日手となっていた。
こうなると、どちらかが譲らなければ勝負は動かない。
「左京、いいかげんにせい」
淀殿が苛立った声を上げるが、
「淀の方様こそ、諦めたらいかがですか?」
と、左京も譲らない。
そもそもこうなった原因は、左京が先手の淀殿の打ち筋を、片っ端から潰しにかかる様な打ち方をしたせいだ。
淀殿も最初は、それを素人の浅知恵と甘くみたが、次第に左京が意図的にそうしていると分かってからは、やりにくくて仕方がなかった。
それから淀殿も、なんとか突破口を探したものの、左京の迎撃は徹底しており、これといった進展がないまま、結局勝負は膠着状態になってしまったのであった。
そして双方とも、一向に譲る気配がない。
「ハハッ。こいつは勝負なしですな」
立会人となった矢足が、頃合いを見て終局を告げる。
「うー! 左京、もう一番勝負じゃ!」
よほど悔しかったのか、淀殿は再戦を宣言するが、
「えー、もう嫌ですよ」
左京はあっさりと、それを拒否する。
「なにをー! 左京、お前勝ち逃げ――、いや引き分け逃げするつもりか⁉︎」
あげくに淀殿は、訳の分からない事を言う始末だった。
「淀の方様――。おそらくもう一度やっても、同じ結果になりますぞ」
見かねた矢足が、そう言って淀殿を諭す。
「矢足。左京はいつも、こんな打ち方をするのか?」
「ええ。これが若の打ち方で、大抵の場合、千日手で勝負なしになります」
「…………」
淀殿が、何か卑怯な者を見る様な目を、左京に向ける。
「なんですか? これも立派な戦略ですよ――。『勝つ可からざる者は守なり』ですよ」
「――――⁉︎」
左京の言葉に、淀殿は目を見張る。
「左京。お前、『孫子』の心得があるのか?」
「淀の方様こそ、『孫子』をご存知なのですか?」
左京も淀殿が、『孫子』を持ち出してきた事に驚いた。
先ほど左京が口にしたのは、確かに『孫子』軍形編の一節であり、おおよその意味は『敵に勝てない様にするには守備である』というものである。
「若は先代が、どれだけ兵法を教えようとしても耳を傾けませんでしたが、『孫子』だけはお気に入りでしてな」
矢足がそう言ってニヤリと笑う。
「なぜ『孫子』……、いや分かったぞ。『戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり』か――。左京らしいのう」
淀殿もまた『孫子』謀攻編の一節をそらんじ、呆れ顔になる。
意味は『戦わずに勝つのが最善』というものであり、つまりは左京のものぐさな気質と合っている、という点に呆れたのである。
それを指摘できるという事は、本当に淀殿が『孫子』を理解しているという事であり、左京も矢足もその才女ぶりに、あらためて感心してしまう。
だが淀殿は、そんな事はどこ吹く風で、
「それにしても、かの竹中半兵衛の息子なのに、ちゃんと軍略を学ばなかったとは……、もったいない」
と、左京が半兵衛の才を引き継がなかった事を、心から残念がる。
「人には『向き不向き』があるんですよ。私には軍師の才能はありません」
「だから『解策師』なのか?」
探る様な淀殿の視線に、
「そんな才能もないと思うんですけどね……」
左京はまるで他人事の様に、首をかしげてみせる。
そんなやり取りに、矢足はふと昔の事を思い出す。
それは左京の幼少期。まだ半兵衛が菩提山城で、左京と暮らしていた時期の事だった。
ある晩、半兵衛が左京に兵法の講義をしていると、左京がふと席を立ち、ついと姿をくらました事があった。
半兵衛も隣席していた矢足も、黙ってその様子を見守っていると、少しの後、左京が席に戻ってきた。
「どこに行っていた、左京?」
優しく問い質す半兵衛に、
「小便が漏れそうでしたので、厠に行っていました」
と、左京が平然と答える。
「そうか。だがそれなら、そうと言ってから行けばよかったのではないか?」
至極真っ当な半兵衛の意見に、
「君命に受けざる所有り――」
左京が口にしたのは、『孫子』急変編の一節だった。
「――――⁉︎」
内心驚く半兵衛と矢足に、
「もし父上に咎められたら、私は小便を漏らすところでした。それなら父上に黙って行くのが上策と判断しました」
左京は半ば屁理屈じみた『孫子』の解釈で、堂々とそう言ってのけた。
それに半兵衛はニコリと笑うと、
「そうか――。では今日はここまでとしよう。寒くない様にして休みなさい」
と、父親の顔になって、その日の講義の終了を告げた。
「はい。父上、おやすみなさい」
左京が銀髪の頭をペコリと下げて去っていくと、半兵衛は同じく銀色の総髪をわさわさと掻いた。
「矢足……」
「はい」
はにかむ半兵衛に、矢足もニヤリと笑顔で応じる。
「左京は――、あの子はきっと、何か私とは違う才能を秘めている気がする」
そう口にした半兵衛の嬉しそうな顔を、今も矢足ははっきりと覚えている。
それから時は経ち、今や左京は半兵衛の予言通り、軍師とは真逆の解策の才を見事に花開かせた。
本人はまったく自覚していないが、それは軍神竹中半兵衛にも劣らない、まさに異才であった。
「左京、もう一番勝負じゃ!」
「だから嫌ですって」
そんな左京は、淀殿にまた囲碁勝負をせがまれ辟易している。
矢足はその光景に、そっと目を細めると、
(殿、ご覧になられていますか――。若は殿が見込んだ通りの、立派な男に成長しましたぞ)
と、心の中で亡き主君に向かって、嬉しそうに報告するのであった。




