8話
よろしくお願いします。
その後も私の体調は治る事なく、結局大学を辞める事になった。大学側も私と山田先生や女子大生とのトラブルを認知していたので、スムーズに事は進んだ。
「終わった。」
私は大学からの書類をポストに入れるとやりきった感でいっぱいになる。そして、そのまま病院に行くと特別室に通されて安藤先生の問診を受けた。
「先週はごめんね。主治医なのに外に出てて。」
「先生は病院の院長先生だし、お忙しいですよね。」
安藤先生はこの病院の院長をしていおり、今は患者さんを診る事は滅多にない。無論、私なんかは異例中の異例で病院の看護師さんやお医者さんや職員さんからは来るたびに視線が送られる。
「そんな事りっちゃんが気にする事じゃないよ。りっちゃんの事は僕が診るって決めてるんだ。ところでりっちゃん今の調子はどう?」
「仕事辞める事になって、少し気が楽になった気がします。」
「りっちゃんは頑張り屋さんだから少し位お休みした方がいいよ。仕事で体壊しても何にもいい事ないんだからね。」
安藤先生は私の頬に触れて言った。
「これはあくまでも提案なんだけど、しばらく環境を変えて療養するのもいいと思うんだ。」
「環境ですか。」
「うん、それでね。僕、軽井沢に別荘があるんだ。一週間位、そこで療養しない?」
安藤先生はスマホを取り出して森の中のおしゃれな建物の写真を見せる。
「掃除もしてあるし、すぐに行けば使える状態なんだ。明日から一緒に行こ。」
「いやいや、それは。」
流石の私も男の人と別荘に行くなんて冗談じゃない。私は恐る恐る安藤先生の顔を見るとしばらく真顔ではあるが、次第に表情が代わり吹き出した。
「あはは、冗談だよ。流石にそれはしないよ。」
「そうですよね。」
「でも、環境を変えてみるのはいい事だよ。例えば旅行に行くとかしてみるのもいいと思う。」
安藤先生はそう言うとスマホを仕舞うと私の頭を撫でた。
「この後空いてる?一緒にご飯食べに行こうよ。前に言っていたフレンチのディナー行こう。」
「ありがとうございます。でも。」
「何か予定があるの?」
安藤先生は私の顔を覗き込む。
「りっちゃんは可愛いし、約束ぐらいたくさんあるよね。ごめんね、気が利かなくて。」
「そんなんじゃないです。」
私は安藤先生の悲しそうな顔を見てこれ以上の言葉が紡げなくなる。
「なら、行こうよ、ね。」
安藤先生は底の見えない深淵のような瞳で私を見ると魔法のように私の首を縦に振らせた。
実際、食事に行ってみるととても楽しい時間を過ごせた。やはり私は山田先生の言った通り、食事に弱いなと思い知らされた。
「ネックレスの事を聞かれなくて良かった。」
安藤先生にとてもではないが、買ってもらったネックレスを無くしたなんて言える訳がない。私は申し訳なさを思い出して胃が痛くなる。
私は家までの人気のない夜道を歩いていると突然、背後から気配を感じ始める。私が足取りを早めてると相手もその速度に合わせて歩いてくる。
「何何?」
近頃、この辺りでひったくりがあったと母から聞いた事があった。私はそのひったくりが後ろにいるのだと思い走る。やはり相手も走り出して私に着実に距離を縮めた。そして、私の真後ろに立つと「りえちゃん」と耳元で呟く。
「うあぁあ。」
私は目を瞑り、カバンを思いっきりぶん回して思いっきりぶつけた。予想だにしなかった反撃に相手は倒れたので私はその隙に駆け出して家に帰った。
「ちょっと、理恵子どうしたの。」
「ひったくりにあった。」
私は息も絶え絶えに母に言った。母は私のただならぬ様子に急いで家の鍵をかけて警察に通報していると家のインターホーンが鳴る。こんな午後10時を過ぎた時間に宅配なんて来るとは思えない。さっきのひったくりが私に攻撃された事に腹を立ててやって来たのかと思ったが、外からの声でその心配が無くなった。
「江口です。」
その声を聞いた瞬間、私と母は顔を見合わせて玄関の扉を開けた。
「ご無沙汰しています。」
黒いジャケットを着た江口節が紙袋を持って立っていた。
「節ちゃんとじゃないの。こんな夜更けにどうしたの?」
母は驚いたように節さんに言った。
「イギリスから今日帰って来たので、お土産を渡しに来ました。」
「ありがとう。もしかして、さっき私の後ろに立っていたのって節さん?」
「うん。」
「すいません。最近ひったくりが出るみたいだから、そうかもと。」
よくよく考えてみれば自分の名前を知っている人間がひったくりである事はない。私は必死に節さんに謝る。節さんは気にしていない感じだったが、よく見ると手に擦りむいたような傷が出来ていた。私は青ざめて節さんを家に上げると急いで救急箱を取り出した。