6、お昼ごはん
船に助けられた彼女こそ、ペーチェル魔導院のエクレール=バートリ先生だった。
船のなかで迷っていたはずが、いつの間にやら外に出ていて、ようやく船を見つけたところでさきほどの男に絡まれたらしい。
「ごっ、お、迷惑、おかけいたしました……私、エクレール=バートリと申します。ぴ、ペーチェル魔導院の教員代表として、……これから一年間、よろしくお願いいたします」
巣穴から出たばかりのうさぎのような、踏み込めば瞬く間に逃げ去ってしまいそうな警戒を、全身にみなぎらせているひとだった。
実際、担当科目をたずねようと目を合わせたとたん、脱兎の勢いで自室へ去ってしまった。……たぶん、逃げられた気がする。
ようやく窓の外が流れはじめる。
ダイニングルームが開放されると、わたしたちは遅ればせた昼食に集められた。
そこであらためてわたしとクォーツは、バラージュさんと自己紹介を交わした。
「クレア=バラージュと申します。本当の初対面では、お見苦しいところを失礼いたしました。あらためてよろしくお願いいたします」
制服のスカートをつまんで、花びらのようにひろげながら、バラージュさんは優雅に一礼をした。
昨晩のパーティーで、ダンスに誘われるたびわたしがしていた礼なんて、真似にもなっていない。貴族の名乗りがなくても、高貴な身の上であることがはっきりとわかる別格のふるまいだった。こんな方にさん付けなんて、やっぱりおこがましいのではないか。
「はじめまして、オードリー・ホプキンスです。黒の森出身で、ゆくゆくは管理人になります。あの……どうお呼びしたらいいかしら。貴族の方と話すのなんて、はじめてで……」
「どうぞクレアと。わたくしにも、オードリーと呼ばせて。ここは外国で、あなたは身分や階級には括られないお方……同い年の友人に接するように親しくしていただきたいの」
そもそも、と。
なにか言いかけた彼女が、椅子をみずからの手で引こうとしたとき、俊敏に進み出たアドラーシさんが代わりに椅子を引いた。
「——わたくし、学院に入るとき、古めかしいドレスはすっかり脱ぎ捨ててきたつもりでしたの。一枚、ひっかかったままついてきてしまったものもありますけれど……」
すみやかに壁際に去ろうとするアドラーシさんに、クレア(……と、呼び捨てるのはまだかなり抵抗がある)がこっそり視線を流す。
それだけで彼は、瞬時に彼女の背後まで戻ってきた。「いかがいたしましたか? ザリガニの殻をお剥きしますか?」クレアは微動だとせず、「いいえ」とだけ返事した。
「そちらの彼がオードリーの杖の、く、こ」
「クォルツ・フテルク」
「こ、コールツ……テルクさん? ごめんなさい、こちらでは珍しい発音なもので……」
「いや、うちの国でもあんまり聞かない。呼びにくければクォーツでいい。……クレア?」
「ありがとうございます、クォーツ」
きゅっと、口を引き結ぶ。
うまく隠したつもりだったのに、さりげなく近づいてきたゾーラくんに目配せされた。
「さ、お嬢様もおかけになって」
アドラーシさんの真似にしては仰々しく、舞台上のような動作で椅子を引いてくれる。
「ありがとうゾーラくん」
「ああ! いけませんお嬢様! わたくしめはあなたの従者です。どうぞゾーラ、と」
お茶目な従者がウインクをする。
喉の奥に押し込めたものが、ぱっと笑いに変わった。従者というより手品師みたいだ。
「ありがとう、ゾーラ」
せいいっぱいお嬢様らしくお礼を言えば、彼は満足そうに頬にえくぼを作った。
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「チェンジリングってご存知?」
わたしの知る誰よりも美しい所作でザリガニの殻を剥きながら、ふとクレアがたずねた。
「知らない」
即答したのはクォーツだ。
目を上げたのは一瞬で、言いおわるやいなや手もとのザリガニにうつむいてしまう。
「聞いたことあるわ。たしか、人間の子供をさらった妖精が、その身代わりとして自分の子供を置いていくっていう……」
昔読んだおとぎ話の記憶を頼りに答えれば、クレアは頬に薔薇を咲かせて微笑んだ。
「ええ、レナンドは妖精大国ですから、そういったことも珍しくありませんの。バートリ先生も、子供のころチェンジリングにあわれて……さいわいすぐに助けだされたそうですが、それ以来、なにかと妖精にいたずらをされることが多くなってしまったそうで」
なるほど。それなら、迷ううちに船から外に出ていたというのもうなずける。
妖精にからかわれたあげく、妙な男にまで絡まれていただなんて……。
長テーブルを囲うわたしたち生徒とは離れたところで、バートリ先生とベルイマン先生は二人用の小さなテーブルを挟んでいた。
どんな会話をしているのかわからないけれど、もっぱら話しているのはベルイマン先生で、バートリ先生は首を揺らすばかりだ。
「あのひとがああなのは、生まれつきというより、大方チェンジリングのせいなんだと思うよ。妖精に頻繁にちょっかいをかけられるような人間は、うちじゃ『人間崩れ』なんて呼ばれててね。ほら、一応は男爵家のご令嬢なのに、従者すらつけてもらえない」
ゾーラはテーブルに片ひじをついて、サラダの葉が引っかかったままのフォークを先生たちに向けた。
並ぶクレアとは対照的なテーブルマナーだけれど、彼女はとくに気にしたようすはない。
「いやな呼び方ですわ。聞くたびに、耳がざわざわします。どの国よりも妖精を近くに感じながら、どうしてそう忌避するのかしら」
「クレアは妖精が好きなのね」
「もちろん——!」
それまでの淑女らしい微笑みから、幼い少女のような溌剌とした笑顔に切り替わる。
「バートリ先生は妖精学専門で、まだお若いのに、その道ではたぐいまれな功績を残されていらっしゃるの。わたくし、あの方に師事したくて学院を選んだのです。国導課程に同行くださると聞いたときはベッドの上に三度跳ねました! ……いまはまだ恐れおおくて気が引けてしまうのですが、旅のいずれのときか、ぜひ妖精の国に行かれたときのお話を聞かせていただくのがわたくしの目標ですっ」
最後だけはごく小声で、まるで好きな子に告白をすると宣言するみたいな調子で打ち明けた。
わたしにとっての『杖』が彼女にとっての『妖精』で、なおかつバートリ先生は憧れの象徴であるらしい。
湯気の立つ彼女を、優秀な従者が扇であおぐ。
風で全開に前髪が浮き上がったクレアは、わたしと同い年のふつうの女の子だった。




