1、旅立ちの前夜
ここからは五年生!
オードリーは十六歳、クォーツは十八歳になります。
国導課程編、あらためてよろしくお願いします!
そろそろマントを必要としない日も増えてきたけれど、早朝はやっぱり冷えるだろう。《秘密のかばん》にしまわないで、明日すぐ着られるように壁にかけておく。教科書は必要ないと書いてあったから、なしで。これまでにとったノートは一応、持っていこう。
「オードリー、そのクマちゃんは?」
「あっ、忘れるところだったわ! ありがとうネンネ。ブルーは連れていかないと」
ベッドでふとんをふくらませていたテディベアの『ブルー』を、《秘密のかばん》に無理やり押しこむ。大きなおしりがようやくしまわれたところで、下の段からはしごをのぼってきたネンネ・ヘルセポネが「わたしは?」とうす緑色の瞳を上目遣いにのぞかせた。
「一緒に行く? ブルーが入ったんだしネンネも入るんじゃないかしら」
「途中でつっかかったら、思いきりおしりを押してちょうだいね」
もちろん、お互いに冗談とわかっている軽口だ。《秘密のかばん》は命あるものを受けつけない。わたしもネンネも、なんでもいいから言葉を交わしていたくて、部屋に戻ってからずっと他愛のない話を続けている。
それぞれのベッドには、脱ぎ捨てられたドレスがそのままになっていた。ついさきほどまで、わたしたちはめいっぱいのおしゃれをして足がくたびれるまでダンスをしていた。
五年生初日はめまぐるしく、始業式のあとは講義概要書を片手に教室をめぐって、いくつもの仮授業を受けながら一年間の時間割を決めなくてはならなかった。すでに受講先が確定していてその必要がないわたしも、気になっていた授業に片っ端から出席していった。
そうして夜になれば、大慌てで制服からドレスに着替える。今年度の国際魔導士課程に選ばれた者——つまりわたしを送り出すための激励パーティーが講堂で開かれた。
明日の朝には、わたしはわたしの大切な杖をともなって、このクレメール魔法アカデミーを立つ。春夏秋冬を他国の魔法学校を渡りながら過ごすので、ネンネとも決して短くはないあいだ離れ離れになってしまう。つぎにここに帰ってこられるのは冬、国導課程の最終期だ。
わたしもネンネもひとしきり泣いて、ようやく頬が乾いても目は赤いままだった。
「わたしの蝶を何匹かあげるわ。クォルツくんと進展があったら、絶対に飛ばしてね」
「もう、ネンネは変わらないんだから」
「オードリーはちょっと変わったかしら。パーティーでクォルツくんとなにかあった?」
ぎくり、正直な心臓が音を立てる。
本棚から溢れ出るほどの小説に養われたネンネのロマンス観察眼だけれど、見たいものしか見ないために、基本的にはあてにならない。そう思って、まったく油断していた。
それほどわかりやすく、態度に出てしまっていただろうか。まさかあの瞬間を見られてはいないと信じたいけれど、『パーティーで』と核心をつかれたからには、まぐれ当たりではないのだろう。
「やっぱりなにかあったんでしょう。パーティーのあとから、ふっと悩ましいようなかわいい表情になるの。ほら、いまもそう」
思わず頬に両手を触れる。どんな表情になっているのか、自分じゃわからない。
「……なにかあったわ。あちらはどうか知らないけれど、少なくともわたしにとっては。でも、ごめんなさい、まだ口にしたくないの。言葉にしたら、今夜は眠れなくなっちゃいそうで」
待ちに待った国導課程の旅立ちを、寝不足のもやもや顔で迎えるわけにはいかない。
それにいまでなくたって、彼も同行するのだから、これからいやでも考えさせられる。
「もちろん、オードリーが話したくなったらでいいわ。寝不足は乙女の最大の敵だし、なによりこんな日だもの、寝る前に考えるのは彼じゃなくてわたしにしてほしいわ。せっかく頬におそろいのあとができたのだし」
ネンネがみずからの頬を指さして笑う。乾いた涙の筋は、わたしの頬にもついている。
それからわたしたちは、下段のベッドで身を寄り添わせて眠った。
一年生のころを思い出すわね、とネンネがふとんのなかで囁いた。
そういえば入学してすぐのころは、杖を持たないわたしと体型のふくよかだったネンネと、よく男の子にいじめられた。そんな晩は二人、同じふとんのなかで、眠くなるまでお互いの好きなものの話をしていたのだった。
懐かしい記憶がしだいに夢へと変わる。
いまよりも目がくりくりとして、頬が赤くて、変わらずポプリの香りがしたネンネ。
ふと、妙な違和感に気づく。
うす緑色の瞳が、まばたきごとに青に変わっていく。おっとりと垂れ下がっていた目尻は、きゅっと鋭く持ち上がって、眉にかかる前髪は麦色から月明かりのような銀色に。
「あれ、ネンネ?」
「なに寝ぼけてるんだよ」
低い声。ぶっきらぼうだけれど、頬がちょっと優しげだから、冷ややかには感じない。
「クォーツ? どうしてここに」
たずねながら、ここってどこだろう、と改めて周囲を見まわす。
空には春の月。ほんのりと桃色をした明かりのもとに、剪定うさぎたちの眠る庭園がひろがっていた。ちょうど背にしていたほうでは講堂が大きな扉を開けていて、踊るシャンデリアが落とす光と影のあいだを、タキシードと色とりどりのドレスが回っている。
まだパーティーの最中だったらしい。そういえば目の前の彼はグレーのタキシードを着ているし、わたしも青いガウン姿だった。
「俺があんたのそばにいるのは変か?」
「いいえ、そんなことないわ。ちょっとぼんやりしていたみたい」
「踊り疲れたんだろ。少し休んだらいい。ほら、俺に寄りかかっていいから」
うながすように差し出された腕が、力を抜いてひらかれた手のひらがなんとなく、馴染みのない親密さをはらんでいるように見えて、たじろぐ。
国導課程参加のための課題、それを発端にして起こった冒険のなかで、わたしたちは数えきれないほど手を繋いできたし、ときには抱き合うこともあった。
身体が触れることにいまさら抵抗はない。
けれど、なんだろう、いまの彼はわたしの知らない温度を持っていそうで。
「だいじょうぶ。立っていられるわ」
「ああそう」
そう言ってうなずいていたのに、彼の腕は引っこめられるどころかわたしの背にまわって、強引に胸もとまで引き寄せられる。
「ちょ、ちょっと、自分で立てるったら!」
「聞いた。疲れてないならよかった。で、だからと言ってくっつかない理由もないんじゃないか」
淡々とした口調なのに、瞳のなかの蜂蜜がとろりとこちらに垂れるようだった。
「だって俺たち、恋人同士なわけだし」
思わぬ言葉——ではなかった。
でもわたしは、慎重にたずねる。
「それは、その、キスをしたから?」
「そうだな」
「で、でもあれは〝契約〟という話じゃなかった? あなたがわたしの杖になるから、そういう意味でキスをした……んじゃ、ないの?」
キス、なんて言い慣れない言葉を口にする照れで、しりつぼみになってしまう。
けれど彼はしっかり聞き取ってくれていたようで、焦げるようなまなざしでわたしを見つめながら、しっかりと首を縦にふった。
「ああそうだ、あれは契約のキスだ」
「え?」
「杖と契約主として、改めて一蓮托生でやっていこうっていう誓いみたいなものだな。あんたのこと、もちろん大事に思ってるけど、あのキスにそれ以上の意味はない」
ぱっと、身体を離される。
心地良かった温もりが遠のいて、とたんに寒くなる。わたしはあんぐり口を開けたまま、聞き返すことすらできず、突然頬をビンタされたような衝撃にただほうけていた。




