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36、落ちる

 白い光の蝶々が舞い上がったとき、無数の羽ばたきの一つに頬を打たれたみたいに、はっと我にかえった。


「オードリー!」


 クォーツを呼び寄せようとしたけれど、声を出すどころか、彼をふりかえることもできずわたしはその場に尻もちをついてしまった。

 おかげでクォーツは血相を変えて駆け寄ってきてくれた。すぐそばに屈みこんで、肩を支えようとしてくれたとき、魔法陣のあった場所をくり抜いたように足もとの地面がぽっかり失われた。

 巨大な落とし穴だ。わたしたちは手を取り合ったまま、まっすぐに落下していく。


 幼いころに似たような物語を読んだことがある。たしか、剪定うさぎ(ロップガードナー)を追いかけて穴に落っこちた女の子の話だった。


「クォーツ、明かりを穴の底におろして」


 すぐに翡翠の明かり玉が一粒、ふわふわと落下していく。


 小さくなっていく光の行く末をじっと見守る。闇のなかに見失ってしまうほど穴が深かったらどうしようかと思ったけれど、やがて小指の先ほどになったところで停滞した。


「あそこが一番下みたい」

「このままだと俺たち地面に直撃するな。空を飛ぶような魔法は——ないんだったか、たしか。なにかの授業でそう習った気がする」

「そう。でも束の間の浮遊なら、《風鳥》でどうにかなるわ。わたしたち二人分の重さだと、せいぜい一秒くらいだと思うけれど」


 いい加減、クォーツの魔法の使い方がわかってきた。彼は理論ではなくイメージで奇跡を実現させるのだ。

 鮮明なイメージであるほど、うまくいきやすい。曖昧なイメージだと、不発に終わる可能性が高い。《風鳥》の魔法式について解くよりも、どういう現象が起こるのか視覚的な説明をしたほうがいい。


「風はひとところに留まらない。風鳥は、通りすぎざま、気まぐれにわたしたちを助けてくれるだけよ。だからどんなに大きくて力持ちな鳥でも、わたしたちをずっとは持ち上げてくれない。クォーツ、地面に足がつく寸前のわたしたちを、ほんの一瞬浮かせて助けてくれる、そんな鳥を想像して」

「了解」


 底に光る翡翠が、徐々に大きくなる。

 《風鳥》のチャンスは一度きりだ。万が一不発だった場合、わたしもクォーツも押し花のように潰れてしまうだろう。

 不安は当然なかった。

 だってクォーツの魔法だもの。


「《風鳥》」


 ちょっと照れを含んだぎこちない詠唱とともに、ごう、と足もとから唸り声がした。

 束ねられた強風が瞬く間に吹き上がって、わたしとクォーツを飲みこむ。思わず目を閉じてしまいそうになる、その寸前、翼を生やした猫が何匹も姿を現すのを目にする。


 シャット、と思わず呼びかけそうになるけれど、風が強すぎるせいで口が開けられない。

 着ていたブラウスの肩や袖、マントの端々がぐっと真上に引かれて、落下の速度がやわらぐ。

 風が過ぎ去るのとほとんど同時に、つま先が固い地面に触れた。


「……鳥じゃなくて、空飛び猫(フライキャット)だなんて」

「どんな鳥がいいか、思いつかなかったんだよ。そいつなら見たばっかりだし、翼も生えてるし、まあほとんど鳥だろうなと」


 シャットが聞いていたら引っ掻かれてしまいそう。彼女はプライドの高い空飛び猫(フライキャット)だ。


 でも、おかげで押し花は避けられた。


 結局どのくらい落ちたのだろう。もともと地下だったのに、さらに深く潜ってしまった。

 見まわした周囲はやっぱり暗闇で、靴ごしの感触で地面が石のようなもので整えられてあることがかろうじてわかる。クォーツが翡翠の光を無数に浮かべはじめたことで、付近からだんだんと景色があらわになる。


 わたしの家よりもずっと背の高い本棚が、壁になって広大な空間を囲っていた。

 足もとを覆う灰色の石は、広間のなかばからまばらにはげはじめて、奥のほうではまったく土が剥き出しになってしまっていた。そこからまっすぐにそびえる、一本の樹木。


 霜が覆うように、もしくは氷の彫刻品みたいに、全身が透きとおるような純白できらきらと光り輝いていた。上で目の当たりにした黒の人工聖樹よりも、さらに幹は太い。


 けれど枝も葉もなく、幹はてっぺんに向かうにつれ細くなって、まるで地面から巨大な枝——杖が一本生えているように見えた。


 そして、幹の中央に空いた小さな窪み。


「ゲルニカ様……」


 背後から恍惚とした呟きがあった。

 ふり返れば、いつからそこにいたのか、カナンが小さな子どものように立ち尽くしていた。垂れた頬は涙で濡れて艶めいていた。


 しわのあいだで見開かれていた灰色の瞳が、ぎょろ、と唐突にこちらに向けられる。


 真っ黒な瞳孔に、背中が粟立った。


「オードリー嬢。ああ、なんとお礼を申し上げたらよいか」

「お礼と言うなら、あなたたちがクォーツに植えつけた魔臓、あれをどうやったら無事に取り除けるのか答えてちょうだい」


 カナンは目をしわにして微笑んだ。これまでの彼を知らなければ、すべての警戒を解いてしまいそうになる人好きする笑顔だ。


「わかりました」


 胸もとに垂れる白布の内側から杖が抜き取られる。「《木妖精の槍》——」詠唱に間はなく、相槌のように自然に紡がれた。


 杖の先端が鋭利にしなって、わたしの心臓めがけてまっすぐに伸びてくる。


 とっさに強く目をつむったのは、槍となった杖が透きとおる青緑の障壁にぶつかって、まばゆい火花が散ったせいだった。


 残像で白くなるまぶたの向こうで、息つく間もなく激しい連撃の音が続いた。あわててとなりを見上げれば、白目の部分を真っ赤に充血させたクォーツが、呼吸さえ忘れたように微動だとせずカナンを睨みつけていた。


 彼の正面では氷の槍が無数に現れて、癇癪を起こした子どもが物を投げるようにカナンに向かっていく。過剰な攻撃のようにも見えるけれど、冷静を失った彼の標準はおおざっぱで、《木妖精の槍》で長くなった槍を使っていなすカナンの表情に焦りは見られない。


「森の管理人の結界……なるほど。封印を解く際に、魔法陣のなかに組み込みましたか」


 いまもっとも重要なのは、わたしたちが死なないことだ。

 そのための陣を気づかれずに刻むには、封印を解く過程に組み込むほかなかった。


「オードリーを殺そうとしたな」

「オードリー嬢は知恵をお求めになられた。ですから私は、全知の根に彼女を導くことでその助力をこころみたのですが」


 なにか問題があったかと問いたげな表情が、演技によるものかいなかわからない。


 カナンは人工魔臓の取り除き方を知らないのだろうか。伯爵アール——ウィリアム=ディケンズならば、知っているのか。彼はいま、どこにいるのか。

 聞きたいことはそれだけじゃない。薬を盛られたおばあちゃんを、どうやったらもとに戻せるのか。まだカナンにはたずねなくてはいけないことがたくさんある。「クォーツ、落ち着いて」完全に頭に血がのぼってしまったらしいクォーツの手を、強く握りしめる。


「落ち着いてられるかよ。さっきのは防げたけど、もしつぎ結界が破られてあんたが……」

「絶対に大丈夫だから」

「絶対なんてそんな——」


 絶対・・なんて、そんな都合のいいものを、女神様はわたしたちにお与えくださらなかった。


「森の管理人の結界は、絶対に破れないの」

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