33、子供
「ようやくここまで形になりました」
天井に蜘蛛の巣を張るように葉をしげらせる聖樹を、カナンはおもむろにふり返る。
無防備にさらされる背中は小さいけれど、わたしたちでは傷一つつけられないという確信が表れていた。そこへ闇雲に飛びかかっていくほど、わたしもクォーツも愚かではない。
「ですが博士がご覧になれば、子ども騙しだと眉をひそめるかもしれません。事実、博士の手記にあった人工聖樹とは似ても似つかない。意志を継ぐだなどとたいそうなことを申しましたが、私どもでは到底、彼には成り代われないのです。まして神樹など——」
息を詰めるように、彼は沈黙した。
地肌の透けて見える白髪の後頭部が、こちら側に向かって深くうなずく。そうして崇めるように黒の聖樹を仰いだカナンの目には、たぶん神樹の姿が映されてあるのだろう。
「だからなんだ」
杖を構えたクォーツが鼻で笑う。
「あんたがいかに無能かなんて興味ない」
カナンは杖を出すこともなく、首だけでクォーツをふり返った。「……あぁ」それでようやく彼の存在に気がついたとでもいうように、灰がかる瞳がしわのなかから現れる。
「申し訳ございません。あなたのことを、すっかり帰したつもりでおりました。さあ、黒の森まで送ってさしあげますからこちらへ」
「耄碌してるんじゃないのか。ついさっき俺を殺そうとしたやつが、なに言ってるんだ」
「オードリー嬢をお連れくださったご恩に報いたいのです。衰えは否定できませんが……ええ、黒の森の管理人よりは、健康ですよ」
崩れない笑みのかたちが嘲笑に見えた瞬間、額の裏のあたりで赤い火花が散った。
気づけばわたしは男のもとに駆け出そうとして、クォーツに引き止められていた。
「あなたのせいじゃない! あなたが! おばあちゃんに変な薬を使ったんでしょう!」
「いいえ、そうしたのは私ではなく、あなたの足もとに伏せているその行商人ですよ」
「どうせあなたが脅して強制したのよ! だってこのひとは、そんなことをするようなひとじゃなかった。わたしたちにいつも優しくしてくれる、いいひとだったもの……っ」
「オードリー嬢、残念ですが人間はたやすく変わってしまうものです。あなたのお父上がそうであったように。お子さんの甦りを条件に提示すれば、彼はすぐにうなずきました」
乾いたのどが張りついて、声が出ない。
甦り……?
そう聞こえたのが間違いじゃないのなら、彼が愛しそうに語った娘さんは、すでに……
「人は、最も尊いものを人のなかに見つけ出そうとします。ゆえに惑わされる。みずからにそれを見出した者は、外界との齟齬にあっけなく心を壊す。他者に見出した者は、彼の者のために信念すら捨ててしまう。……真実尊いものとはいかなるときでも私どもを支えるものです。すなわち大地であり、真理です」
教会で信徒たちに説教をするように、彼の声はだんだんと高らかに響くようになる。
「剪定うさぎも黒の猟犬も、聖樹の枝を求めることはありません。彼らは最初から、ご加護を賜っておりますから。しかし私ども人間が賜ることはなかった。ですから聖樹の枝を、知恵を、その手でもぎ取るのです」
カナンは白布の内側から杖を抜いた。
けれど構えるでもなく、高らかに持ち上げると、糸になった目でうっとりと見つめる。
「私どもは大地に足をおろし、肥沃な大地に根を伸ばして、貪欲に知識をたくわえる」
「……人間は、植物じゃない」
「ええ、植物は思考などいたしません。脳があるから真理を得られる。しかし、脳があるからこそ惑わされもするのです。私どもは思考する植物——聖樹にならなくてはなりません。そのために、オードリー嬢、大切に握りしめていらっしゃるそれをお離しなさい」
「それ、なんてぞんざいに言い捨てられるようなもの、わたしの手のなかにはないわ」
それに、とわたしは眉を吊り上げた。
「女神様の知恵は人間の手には余るものよ。だからこそ、管理人が森を守るの」
「それはおばあさまのお言葉ですよね。オリバー博士の血が流れるあなたの本音は、ちがうのではないですか?」
言い返すための言葉が、すぐには出てこなかった。
「そんなに聖樹になりたいなら、いまここで土に還ればいいだろ。すぐにでも夢を叶えてくれそうだぜ」
沈黙が続いてしまう前に、クォーツが蠢く根に目をやりながら煽った。
カナンはむしろ、鷹揚にうなずいた。
「この身で聖樹となることは、とうに諦めております。かくなるは、それが最善の選択と言えましょう。けれど私は、せめて、たとえ抜け殻であっても神樹と一つになりたい」
「抜け殻……?」
「唯一の杖をもぎ取られた、最初の神樹です。博士は行方をくらます前に、神樹を封じこめてしまいまいました。伯爵はとうに枯れただろうとおっしゃった。しかしいまも万能の魔法を使えるあなたの存在が」
輝く目がクォーツに向かう。
「神樹がなおも生きていることを、証明してくださいました」
カナンのかかげる杖の先に、緑が灯る。
「《閉じて視えるもの》」
天井を飾っていた翡翠の光たちが、またたくまに暗闇にのみこまれた。
分厚いカーテンを隙間なく閉じたように、辺りは濃厚な影に支配される。
クォーツがわたしの肩を抱き寄せながら、杖の先を青く光らせる。ふわり、頬を掠める優しい冷気。《氷のベール》が展開されたのと同時、足もとを白い光の筋が駆け抜けた。
杖で土を削るように、まず溝が引かれて、あとから湧き出た光が満たす。
そうしてできたまばゆい光の筋は、やがて地面に広大な図形を完成させる。
「また、魔法陣の形をした暗号?」
クォーツのお腹に刻まれてあったものとそっくりだけれど、まったく同じではない。
「——ちがう、これ、本物の魔法陣だわ」
魔法式の形だけ模していた『ディケンズ』のサインとはちがって、こちらは実際に作用しそうな魔法式がかろうじて読み取れた。
暗号が組み込まれた魔法陣……発動する魔法がどんなものかはわからないけれど、あきらかに人の手によって生み出されたものだ。
「さすが、ひと目見ただけでおわかりになるのですね。これがオリバー博士の施した封印の魔法陣です。しかし解くための鍵が何なのか、私どもにはさっぱりあてがない」
クォーツの暗号にゲルニカ聖書が必要だったように、この魔法陣にも対応するなにかがあるらしい。
ふに落ちる。
博士の娘というだけでどうしてこうまでわたしを引き込もうとするのか疑問だったけれど、このひとは、わたしならパパの心を読み解けるはずと踏んだわけだ。
「……残念だけれど、パパのことならわたしよりあなたたちのほうがずっとよく知っていると思うわ」
わたしとママを愛していたことしか知らない。
でもわたしたちにまつわることは、すべて試されてあるだろう。名前、生年月日、身長体重、魔臓の大きさ——それでもだめだったから、こうしてわたし本人を連れてきた。
「それに言ったでしょう。わたしは次期、黒の森の管理人よ。女神様の知恵を守る者が、あなたたちに協力するわけないでしょう」
クォーツの真似をして、鼻をふんと鳴らして笑ってやる。
魔法陣が照らすなかにカナンの姿は見えない。けれど、ひかえめな笑い声が聞こえた。
「あなた方にも知りたいことがあるはずです。その答えを、私が持っているかもしれない。あるいは神樹が識っておられるかもしれない。そもそもあなた方には、ここから無事に逃げ出すための算段がおありなのですか?」
冷ややかな問いかけが、肌を突き刺す。
考えないようにしていた不安が、身体の内側をじわりと侵す。わたしとクォーツの重なる手のひらから、にわかに温度が引いていく。
「いけない子たちですね、優しい大人たちが見守る檻を勝手に抜け出して。ええ、お気持ちはわかりますとも。転ぶことなく大地を踏ん張れるようになるころが、一番失念しやすいものです。自身がただの子供であることを」




