30、繋ぎとめるもの
思わずわたしは、本を閉じていた。
記名はどこにもない。けれど疑いようもなく、この本の書き手——書斎の主はオリバー・ホプキンス。わたしのパパだった。
マーガレット……ママは、わたしを産んだときに還ってしまったのだとおばあちゃんから聞かされていた。本当は生きていて、パパと旅をしていた? そうして旅の終わりにパパと二人、大地へ還ってしまったの?
そんなはずはない。少なくともわたしが二、三歳になるまではパパは生きていた。ときおり家に帰ってきてわたしと遊んでくれた彼が、おぼろげな記憶のなかに残っている。
「伯爵……ウィリアム=ディケンズ」
クォーツの呟く声で、はっと顔を上げる。
「クォーツ、クォーツ……ごめんなさい、わたしのパパはやっぱり『ディケンズ』と」
「ああ、関係があった。それでどうしてあんたが謝るんだよ。まさか父親のほうについて、俺を裏切るつもりか?」
「そんなわけないでしょう!」
「だよな。そんなことわかりきってる。俺たちの手は繋がったままだ」
ほらな、と見せつけるように手が持ち上げられる。
「ただまあ……因果めいたものは感じるな。この『哀れな赤ん坊』は俺のことだよ。俺はあんたの父親に会っていたってことになる」
「でも、あなたはさらわれたはずじゃ」
「……ちがう。本当は、生まれつき魔臓の小さかった俺を、両親がこの伯爵とかいう男に預けたんだ。うそをついて悪かった」
「それはいいけど……どうして」
まつ毛が下を向いて、湖の瞳に影を落とす。
「うちの親たちが、報酬目当てに息子を売ったんじゃないかって、ほんの少しでもあんたに疑われたくなかった。……いや、あんたのせいにするのはちがうな。あのときは動転していて、『ディケンズ』の一味を見た直後で心も不安定で、俺自身そんなふうに彼らを責めるような言い方になってしまうことを止められそうになかった。だからとっさに誤魔化したんだ」
どう言葉に表していいのだろう。心に湯をそそがれたような心地になって、外の空気が冷えているぶん、鼻がつんと痛くなった。
食堂で耳にする男の子たちの会話では、どちらかといえば両親について悪く言う人のほうが多いように感じられた。もちろんほとんどは本心からではないだろう。それなのにクォーツはまっすぐに、どれだけ自身が両親を愛しているのか口にできるのだ。
ひねくれて見えるけれど、彼はそういうひとだった。
「すてきなご家族なのね」
「ああ。そのときの報酬はすべて、俺の学費に使ってくれている」
「だったら留年してちゃだめじゃない」
「ちゃんと報酬金の残高を考えたうえでの留年だ。そもそも俺はアカデミーに、傷痕について調べるために来たわけだし、留年のおかげであんたに出会えたんだからこれで正しかっただろ。それに、そろそろ真面目にやるよ。アカデミーに閉じ込められていたんじゃ、これ以上は『ディケンズ』を追えない」
ちゃんと卒業する気はあるようで、ちょっと意外と思ってしまう。出会った当初は、退学になったってかまわないというような口ぶりだったりのに。
そんな感情が顔に出てしまっていたのだろう。クォーツはわたしを見て、ふっと微笑んだ。
「オードリーの一番近くにいたいから」
「……この課題が終わったら、わたし森に帰ってしまうのよ?」
「近くっていうのは距離のことじゃない。あんたそんな感性だからあんな絵を描くんだ」
踏みつけようとした足は空振りする。
「オードリーが俺だったら、嬉々として勉強し倒して、どうせ主席で卒業するだろ?」
「じゃあクォーツ、嬉々として勉強し倒して、主席で卒業してみせるってこと?」
「嬉々とはしないだろうけど」
「でしょうね。わたしの代わりにってことなら、そんなふうにがんばってくれなくていいわ。あなたはあなたのしたいことをして」
「いい加減にぶいな、オードリー。湖の水面に恋した妖精の話を知らないのか?」
もちろん知っている。
でもあのお話のようにクォーツがわたしに恋をしているのだとしたら、わたしは鼻で笑って、彼ののぞくその澄んだ水面を蹴っとばしてやるだろう。だってそこに映っているのはわたしじゃない。わたしは彼のとなりで、こうしてしっかり手を繋いでいるのだから。
「……ぜんぶ、ここから無事に出られたら考えることよ」
「それならいっそ、この建物を壊してしまえばいいんじゃないか。俺はたぶん、神樹の加護を受けてるってことだろ。そのくらいの魔法はあっさり使えるんじゃないか、雷とか」
「やけに雷を落としたがるわね」
早まった彼が独断でしでかさないうちに、わたしはしっかり首を横にふって制止した。
「思うに、ここは地下よ。クォーツ」
「地下?」
「ええ。少し耳に詰まったような違和感があるし……それに見て、天井のところ」
指さした天井の隅に、ブロック石が一つなくなって穴になっている箇所があった。
「おそらくあれが通風口よ。よく聞いてみると、ごうごうと風の吹きこむ音がするわ」
「はあ、地下だって言うなら、ここがなんとなくじめっとした雰囲気なのもうなずけるな。それで、どうして地下室だと壊しちゃいけないんだよ」
「あのね、わたしたちここがどこだかすらわかっていないのよ。誰もいない更地だったらいいわ、でももし人の住んでいるところの地下だったらどうするの。大惨事よ」
雷が民家に風穴をあけるかもしれない。
街が火の海に変わるかもしれない。
ようやく理解したらしいクォーツが、半目になって青の聖樹の杖を取り出す。とくに魔法を使おうというわけではなく、それが癖になっているように手のなかでもてあそぶ。
「……じゃあ、なんとなくいい具合で、怪我人を出さないように雷を落とすとか……」
「そんなふわっとした魔法が使えるの?」
「——いや、だめだった」
いまのやり取りのあいだに試してみたらしい。……なんて危ないことをするのだろう。
「《転移の門》が使えたら楽なのにな」
「だから女神様は知恵を与えてくださらなかったのよ。便利すぎると、考えることをやめてすべて頼りきりになってしまうでしょう。さあ、そろそろ行きましょう。この部屋にはもう、わたしたちに必要な本はないわ」
オリバー・ホプキンスはやっぱりわたしのパパだ。信仰心よりも知識欲に呑まれてしまった彼の気持ちが、わかってしまう。
それでも彼は、ママとわたしによって地上に繋ぎ止められた。
わたしはクォーツに繋ぎ止められた。