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3、袖をつかむ

 袖つかむは一時の恥、逃すは一生の恥。


 これは恋の教訓だっけ。けれど後悔を表すのにこれほどいまのわたしにぴったりな言葉もない。輝かしい来年度を、なんて言いながらまんまと彼を逃がしてしまったのだから。


 何日もかけて刻んだ魔法陣も、一度使ってしまえばあとかたもなく消えてしまう。


 改めて刻みなおしたとして、あのひとが同じ手に引っかかるとも思えない。


 たとえ赤くなった顔を見られたとしても昨晩わたしはクォーツの袖をつかむべきだった。同室のネンネ・ヘルセポネは一晩ぐっすり眠れば大抵のことは忘れてしまえると言うけれど、わたしは一晩ぐっすり眠ったあとで前日の後悔をするタイプだ。


 一限目、歴史学の階段教室を下りる視界はいまだ昨晩の雨雲が影を落としていた。


「オードリー・ホプキンスだぜ。これ見よがしに最前列に座って、今朝も点数稼ぎだ」

「聞いたか? 国導課程の代表、あれになるらしいよ。本来なら入学もできない奴なのに」


 真後ろの席から、それこそこれ見よがしに聞かされる陰口も慣れたはずだった。けれど落ちこんでいるときはやたら鋭利に刺さる。


「あのね! オードリーは生まれつき身体が小さいの! ここはほとんど男子ばっかりなんだから最前列に座るのはあたりまえじゃない。魔法が使えないのだって、彼女は」

「レディ、いいって」


 級長のレディ・エヴァンズが流水のような黒髪を揺らして駆けつけてくれるのも恒例のことだったけれど、今日は気持ちが沈んでいるせいかいつもよりその声が大きく、教室全体に響くように感じられた。


「よくないわ! 私、あなたみたいにハンデのある子を……じゃなくて、そういう個性を尊重できないひとって大っ嫌いなの。とくに、こういう女をなめてるやつらは」


 生物学上、どうしても男性の魔臓のほうが女性より大きい。アカデミーに通うほとんどは魔法使いで、彼らのなかには魔女を見下している人もいる——わたしは、そんなのはごく一部の愚かな人たちに限られると思っているけれど、レディは魔法使いのほとんどすべてがそういう考えだと信じこんでいる。


「うるせえな」


 ネンネの日課である朝の靴とばし占いによると、わたしの今日の運勢ってそう悪くないはずだったのに。


 レディに言われて黙るのがお決まりだったはずが、真後ろの彼は右手に栗色の短い杖を出した。その先端がこちらに向けられる。


「杖なし魔女め。そのあほそうな赤髪、もっとチリチリにしてやるよ——《小鼠の火》」


 そういえばクォーツは、詠唱をしなかった。杖を振ることもなかった。


 それらは杖に捧げる魔力を軽減してもらう儀式だ。サボリ魔のくせに魔力は人並みよりあるなんて羨ましいと、すぐ鼻先にぶくぶく膨らんでいく火球をながめながら思った。


 小鼠ほどの大きさまでは育たなかった。


 えさをほしがるような甲高い鳴き声が、放たれる合図。


 けれどそれはわたしの髪に噛みつく前に、薄い氷の膜に閉じられた。


「うるさいのはあんた」


 氷の中の火球は、思わず受け止めたわたしの両手のひらの上で消えた。


 見上げれば、湖のような青。


「は? おまえ誰——」

「クォーツ!」


 天井から吊るされた魔鉱石の光のもと、はっきり照らされるクォーツは昨晩の大人びた印象よりいくらか歳が近く見えた。


 制服を着ているからだろうか。襟からのぞくネクタイはわたしのリボンと同じ青色だ。彼も四年生ということで間違いないらしい。


「クォーツ? ……あなた、クォルツ・フテルクね。助けてくれたのは感謝するけど、オードリーになにか用なの? サボり魔くんは知らないかもしれないけどね、この子は」


 警戒したようすでまなじりを吊り上げるレディを、クォーツは杖先であしらった。


「あんたがわめいてたのぜんぶ聞こえてた。うるさいのは、こいつらだけじゃないから」

「はあ? あなたね」

「待って、待って! ごめんレディ、わたし彼と話したいことがあるの」


 クォーツの袖をつかむと、授業まで間もないことを壁時計で確認して、あわてて廊下まで引っぱる。意外にも抵抗なく彼はついてきた。


「クォーツ、まずはありがとう。あなたがいなければわたしの髪はいまごろ鳥の巣だった」

「まさか。余裕があっただろ。ほんとうは助けなんていらなかったよな」


 確信を持ったまなざしに射抜かれる。


「やっぱり昨晩の水球、俺が外したわけじゃなかった。一晩眠ったらそうとしか考えられなくて、わざわざ聞きにきたんだ」

「べつに隠していることじゃないけれど、わたしのほうも聞きたいことたくさんあるの」

「先に俺の質問に」

「答えない。用が済んだらあなた帰るでしょう? もう授業がはじまるし、お互い聞きたいことは授業中に聞くことにしましょう。わたしのとなりに座ってもらうわよ」


 水球をよけられただけでやってくるなんて、よほどプライドが高いのかなんなのか。ともかくユニコーンなみに姿を現さない彼がみずから教室に来たのだから、これくらい言ったところで帰りはしないと確信があった。


 定刻になって現れた歴史学のショーン・ハドウェル先生は、最前列に肩を並べるわたしとクォーツを見たとたん腕に抱えた教科書を落とした。


 ついでにかつら(・・・)も落ちて、まとめて教卓に拾い上げたことに気づかない。


『優等生、注意しろよ』

『優等生は最前列で手紙のやりとりをしないわよ』


 この教室は教卓が高すぎて、わたしたちの手もとはちょうど先生の死角になっている。


『《小鼠の火》を氷で閉じこめた式は?』

『知らない。杖が勝手にやったんだよ』


 あんぐりと口を開けてしまう。さらりと言うが、まったく式を知らない術を使うなんて規格外の魔力を持っていかれるはずなのに。


『で、あんたが俺の水球をよけたのは』


 わたしはペンをくるりと回した。


 ノートの切れはしにぜんぶ書けば文字が潰れちゃう……具体的なところは記号に置き換えて、あくまで簡易的に式を組み立てる。


 そうしてできあがった魔法陣に矢印を引っぱって、


『暗算』

「はあ⁉︎」


 クォーツの大声に、教壇からハドウェル先生が睨みおろした。


「フテルク、久しぶりに来たと思えば、この私の授業の邪魔をしないでくれたまえ。廊下」


 待ってくださいと声をかける間もなく、ハドウェル先生はクォーツを引きずっていく。


 ああ、もう、せっかく袖をつかんだのに!

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