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25、水面の向こう側

 そんなはずはないのに、オードリーといると俺までなにか価値のある人間だったんじゃないかという気がしてくるから、おかしい。彼女の瞳がやたらきれいに俺を映すせいだ。


 青みがかるヘーゼルの瞳が大きく見ひらかれたかと思うと、すぐさま鋭角に尖って俺を睨みつけた。下まつげに膨れたしずくが頬に落ちるのを見て、杖を向けているのは俺のほうなのに呼吸も指先も凍りついてしまった。


 無詠唱で魔法を使えて本当に良かった。きっと俺は杖をふることすらできなかっただろうから。


 放った火球がオードリーを炙ることはなかった。

 透きとおるエメラルドのひらめきが瞬く間に俺たちを隔てて、炎を飲みこんだ。あとには波紋だけが残されて、俺たちのあいだに水面が張ったようになる。


 いざとなれば彼女には《矢避けの風》があるとわかっていても、俺は安堵の息をついていた。広場をすっかりと覆った結界は、あと一日、内側からも外側からも破れない。


 強がりで、実際誰よりも強い彼女を、俺は三度も泣かせてしまった。四度目はない。俺たちはもう二度と、交わることはないだろう。


「クォーツ! 覚えてなさいよ!」


 背中を向ければ地団駄を踏むような声が聞こえてきて、こんな状況だというのに笑いそうになってしまった。ああ、オードリー・ホプキンス。賢くて、強くて、かっこよくて、それなのに男を見る目がてんでない。


 かけがえのないひと、なんて。

 そんな簡単にほだされるから、こうして二度も裏切られることになるんだ。


 危険だとわかっていても、《転移の門》がどこに通じているのかたしかめないわけにはいかなかった。俺たちに見つかったことで、やつらが陣を消してしまうかもしれない。転移先には、もしかしたら俺に魔臓を植えつけた張本人がいるかもしれないのに。


 俺が魔法陣を使おうとすれば、その危険性も俺の感情も飲みこんだうえで彼女はついてきただろう。どれだけ拒んでも強引に。なんたってあいつは感情移入が激しくて、どういうわけだか俺のことが大好きなのだから。


「クソッ、結界の中に逃げられたか」

「待て、一人まだ残ってる」


 男たちの声が追いかけてくる。


 捕まる前にあの小屋へ行かなくては。


「なあオードリー」


 あいつらより早く走るためにはどうしたらいい?


 無意識に、斜め下に向かってたずねそうになっていた。性格を表すように奔放な赤毛は、当然ながらそこにない。クソ、余計なことを考える労力があったら足を動かせ。


 小屋まで道に迷うほどの距離はなかった。

 すぐに木立のひらけるところを見つけて、俺は転がるようにトタン屋根の中に入る。


 幸い、中には誰もいなかった。


 魔法陣を発動させたことはない。

 手のひらを陣に触れさせて、とりあえず魔力を捧げる。どれほど捧げればいいのか、詠唱が必要なのか、発動までにどのくらいの時間がかかるものなのかさえわからない。


 扉の向こうに男たちの声が近づいた。


 息をつめる。


 そっと杖を構えたとき、陣からあふれだした閃光が真っ白に視界を染め上げた。


 そのとき頭の中まで雪に降られたように一面塗りつぶされてしまって、意識がかすむ。


 耳鳴りの奥から、ふと声が聞こえた。


「大丈夫ですか?」


 くり返し、くり返し。


 しわがれ声が、穏やかにたずねてくる。


 大丈夫ですか、大丈夫ですか……


 機械みたいに変わらない抑揚で、言葉もしゃべれない赤子の俺の安否をたしかめる。


 俺は悲鳴をあげていたか、泣き叫んでいたかわからない。腹を裂かれ、内臓を探られ、異物を縫いつけられる痛みに、短い手足を必死で暴れさせていたはずだ。


 俺の上で交わされる意味のわからない会話。

 そして目の前の男の——


 ちがう、しっかりしろ。

 俺は赤ん坊じゃない。


「大丈夫ですね」


 おぼつかない視界で、なにかが揺れる。


 杖だ。


「《蔓草の鞭》」


 とっさに構えようとした赤の杖は、しなる蔓の攻撃に弾き飛ばされた。


 もう一つベルトに残されている。

 だが——


「《鋼蔦》」


 男の詠唱とともに俺の両手首は植物の蔦のようなものに巻きつかれ、何重にもなったところで蔦は鋼へと変わってしまった。


「はて。若い魔法使いですね。もしや学生さんですか? どうしてこんなところへ」


 凍りつくように冷たい石造りの床には、俺が座りこむ魔法陣の周囲にだけいくつか短い蝋燭が灯されてあった。けれどそんなわずかな灯りだけでは、壁も天井も照らせない。


「迷いこんだと言ったら、この枷を外して大人しく帰してもらえるのか」


 大層な白布を何枚も重ねるこの男は、見るからに教会の関係者だ。オードリーの言っていた司祭なのかもしれない。銀の眉を柳のように垂らした好々爺といった風貌だが、瞳孔は真っ暗な穴のように開ききっている。


「残念ですが女神様は、記憶を消すためのお知恵は与えてくださらなかった。我々もその禁忌には、まだ触れられていないのですよ」


 つまりは死ねということだ。

 くちびるが乾く。呼吸が浅くなる。


「よほど知られたくない場所みたいだな。ここは工房か? 黒の森から盗み出した材料で、俺みたいな『作品』を作っているのか」


 男は訝しむように俺を見つめたあとで、ふとその瞳を丸くした。


 ああ、と呟かれる。


「きみはあのときの。その後の経過はいかがです? 幸運でしたね、伯爵アール手ずから治療をほどこすなんてめったにないことですよ」


 手枷が音を立てた。


 やっぱりこいつ、この男、あの場にいた。


 『伯爵アール』という呼び声にわずかに覚えがあった。


 記憶などほとんどないはずの赤ん坊のころ目にした光景。白い人たちが俺を囲んで、見おろしていた。


 彼らの一人、俺が生きているかどうか何度も確認してきた灰色の瞳が、目の前のそれと重なる。


「残念です。せっかくの伯爵アールの作品をこの手で消してしまわなくてはならないなんて……」


 杖、杖がない。

 

 男が杖の先を俺に向ける。


 ひびわれたくちびるが開かれた。


「《木妖精の槍》」


 杖の先端が勢いよく伸びて俺を貫こうとした。避けることがかなわない。まばたきさえできずにいる俺の目の前で、だがその切っ先はあきらかに不自然な軌道を描いて逸れた。


 ぼうぜんとする俺の手に重みがかかる。


 見おろせば枷を小さな手のひらがつかんでいた。いつもより乱れて花のように広がる赤髪がぶつぶつとなにか必死に呟いている。


「に、に……さん、行って三つ戻って……桁を一つ、右足でずらして……それからつぎ、」


 ぱっと手が離される。鋼の蔦は、もとの植物に戻ってするすると俺の手首からほどけていった。


 そのとたんオードリーはひざから力を抜いて俺にしがみついた。長いあいだ水中にいたように息は荒く、全身が汗に濡れてブラウスやスカートがはりついていた。思わず抱きとめたとき、彼女の肌の冷たさに我にかえる。


「なんでここにいるんだよ!」

「そんなこと気にしてる場合じゃないでしょう! 早く杖を持って! 構えて!」


 言われるまま、今度こそベルトから杖を抜く。オードリーをかばいながら先端を男に向けるが、彼は余裕の表情を崩さないまま、むしろどこか嬉しそうに頬をほころばせた。


「オードリー・ホプキンス……あなたがこちらにいらしてくださったのは、都合がいい。どうぞごゆるり、見学なさってください」


 思わせぶりな言葉と慇懃な一礼を残して、男は闇のなかへと溶けていった。

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