23、異変
本当なら、とっくにママが継いでいるはずだった。
いくら見た目が若く見えようとも、おばあちゃんはもう六十だ。毎日森のなかを歩きまわって結界の陣を計算するなんてことが、いつまでも当たり前に続けられるわけがない。
結界の破れが本当にひざの怪我によるものだったのか、それとも計算ミスがあったのか、いまとなっては明らかにすることはできない。けれどおばあちゃんが後者の可能性を蝶に書かなかったのはあえてだろう。
そうと知られれば、わたしが国導過程を諦めて森に帰るとわかっていたから。
『王様のとんがり帽子』がなくなって、花茶が空になっても、彼女は自身が弱りはじめていることを認めなかった。森の異変などの情報もやはり得られず、わたしとクォーツはみずからの目でたしかめるために家を出た。
「ごめんなさい、クォーツ。これといって密売人の手がかりも得られなかったし、なんだか恥ずかしい言い合いまで見られちゃって」
「俺を部外者みたいに遠ざけるなよ。あれはオードリーが国導課程に行くかどうかに関わる問題だろ。あんたが世界を見られるよう協力してる俺が、まったく無関係だと思うか」
憮然とした口調で言われて、そんなつもりはなかったのに、左目から涙がこぼれた。
クォーツは慌てて立ち止まる。
「待った、言い方が悪かった。俺は……」
「わかってるわ。嬉しくて泣いてるのよ。うそ、嬉しいだけじゃないけれど……少なくともあなたの言葉に傷ついたわけじゃないわ」
頬をつたいおわらないうちに、こぶしで拭う。わたしはまっすぐ彼の目を見つめた。
「わたし、課題はやり切る。でもすべて終わったら、やっぱり森に帰ろうかと思うの。おばあちゃんが心配というだけじゃない。森の管理人として、いまのまま放ってはおけないから。あなたの抱える問題に最後まで付き合ってあげたいけれど、もしかしたらそれはできないかもしれない……本当にごめんなさい」
「謝ることじゃない。……話してくれてありがとう」
「ううん、聞いてくれてありがとう。……ねえ、腕を開いてちょうだい」
彼は戸惑ったように眉を寄せたけれど、とくに聞き返すことはなく両腕を開いてくれた。
わたしはその胸もとに、マントの内側に隠れるようにして額をつけた。学年一の優等生でも森の次期管理人でもないわたしが、たった一人にしか聞こえない声でつぶやく。
「……ほんとは、ほんとうは、ぜんぶ投げ出して世界に行きたい。大地の果てまでも歩いてみたい。知らない景色を見たい。色んな食べ物を食べたい。たくさんの人と出会いたい。おばあちゃんが心配だなんて言いながら、わたし、わがままでどうしようもない子なのよ。おねがい、誰にも内緒にしてね」
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黒の猟犬襲撃のとき、森から杖が盗まれていたようすはなかったとおばあちゃんは言っていた。しかしその言葉を鵜呑みにはできないし、彼女自身も確信はないようだった。
街で杖を売りさばいていた密売人がこの森に踏み入った可能性は十分ある。そして、その密売人がクォーツに魔臓を植えつけた何者かと繋がっていることはほとんど確実だ。
慎重に辺りをうかがう。
ひらべったい靴の底ごしに、おばあちゃんが刻んだ魔法陣の軌跡を見つけた。
「わたし、一応おばあちゃんの陣をなぞって結界を重ねがけするわ。それでひと通り森を巡れると思うから、あなたもついてきて」
「仰せのとおりに」
おどけた口調ではあったけれど、クォーツはこれまで見たことのない鋭い目をして、そびえる幹や落ち葉をくまなくたしかめていた。
わたしも歩みを刻みながら、周囲のようすに気を払う。去年の冬休みぶりとは言え、この森の異変に気づけるのはわたしだけだ。
そうして黙々と行くわたしたちの耳に、
落ち葉の踏まれる音が刺さった。
クォーツがすばやく杖を出すと、わたしたちの姿は瞬く間に日陰のなかにとける。
息を殺して音のあったほうへ目を向ければ、木立の向こうに、黒衣をまとった何者かが通り過ぎようとするところが見えた。
最初はその一人だけかと思ったけれど、あとからもう一人同じような黒ずくめが続く。
「行商は」
「それが今度もだめだったと。どうやら孫が邪魔しているそうで」
「孫か……まさか気づかれてはいませんね。頭が切れると娘とは聞きましたが……」
わたしたちは石のようになって、彼らが見えなくなってもしばらく動かないでいた。
会話が遠ざかって、はるか遠く空のあたりに葉がこすれる音だけをしんぼう強く聞いたあとで、ようやくつめていた息を吐く。
「……この森にはあんな生き物も生息しているのか?」
「そんなわけないでしょう。いまの、行商とかって、なんの話? おばあちゃんと、わたしのことも話していたみたいだけれど……」
「さあ……ともかく怪しいやつらってことは確かだ。あっちのほうから来たよな。なにかわかるかもしれない、ようすを見に行こう」
引きとめる間もなく、クォーツは男たちがやってきたほうへと進みはじめた。
向けられた背中からは、はやる気持ちが滲み出している。追い求めていたものがいよいよ間近にあるかもしれない——そんな期待が彼の冷静を取り払ってしまったようだった。
男たちに踏みつぶされた落ち葉の道は、ついいましがたの重みだけが原因とは思えないほどにしっかりあとになっていた。
まるで何日も、何人もの人がここを通ったような……こんなはっきりと痕跡があったら、おばあちゃんはともかく、森を調べてくれた司祭様が気づかないはずないのに。
そもそも、今日の結界は完全だったのに、彼らはどうやってここまで入ってきたのか。
「……オードリー、あそこは」
木々がまばらになるひらけた場所に、トタンが三角屋根を作る木造の小屋が見えた。
「物置小屋よ。森を手入れするためのほうきとかスコップとか、あとは壊れた家具とか」
ここを一番使っていたのはわたしだった。
森の手入れに積極的だったということではなく、たんに秘密基地として。
クォーツはためらいなくドアノブに手をかけようとした。その腕をつかんで、わたしは小屋の裏側にひっぱっていく。高い位置に一つだけ明かり取り用の小窓があるのだ。
「人はいそう?」
のぞきこんだクォーツは首を横にふったあとで、困惑した顔をこちらに向けた。
「魔法陣が刻まれてある」
「魔法陣? そんなものなかったはずだけれど……なんの魔法陣なの?」
「悪い。わからない……」
罠という可能性は十分にある。
ドアを開けてたしかめるのは迂闊だ。
わたしはクォーツに両手を伸ばした。それだけで意図を察してくれたらしい。彼はちょっと戸惑ったような顔をしてつぶやいた。
「……潰れるなよ」
「どんな力で抱きしめるつもりよ。ほら、ひょいとお願い。ふふ、軽くてよかった!」
焦れてこちらから抱きつけば、腰に腕をまわされてぐっと抱き上げられる。わたしは彼の頭を抱きかかえながら窓に顔を寄せた。
「あれは……転移の魔法陣?」
不意に小屋の中が真っ白な光に包まれる。
そこから影のように現れた男と、窓ガラスごしにしっかり目を合わせてしまった。