19、わたしたちの関係
林道と黒の森とのあいだに、目に見える境界はない。結界を越えたことを伝えても、クォーツは実感のなさそうな生返事だった。
どちらからともなく手が離れる。
クォーツの手が熱いほどだったせいで、冷えた外気が余計突き刺さるように感じられて、マントのなかで両手を擦り合わせる。
空はとうに、枝葉の傘に覆われてしまっている。幹や枝をながめる彼は、やっぱりふつうの森だとひょうし抜けしたように言った。
「まっすぐで、葉っぱが鋭くて、ぱっと見たところだと杉の木や松の木に似ているでしょう。でもね、杖になる枝の部分はニスを塗ったみたいにほんのり茶色っぽい光沢があるの。触るとつべつべしていて、採れたての果物みたいなみずみずしいハリがあるのよ」
「管理人じゃなくてコレクターの目だな」
「わかる? でもちゃんと、黒の杖は回収をがまんしているのよ。クォーツはなにかそういう趣味みたいなものはないの?」
「ない」
即答のあと、彼はふとまつ毛を揺らした。
「いや、あんたかな」
「無理に答えなくていいのよ、ばか」
しばらく木立のあいだを行ったところで、懐かしいものを見つけて足を止めた。
ちょうど向かう先の地面に数センチほどの尖った石が飛びだしていて、青く苔むした肌が木漏れ日を受けてきらきらと輝いている。
魔法陣を刻むための起点の印だ。
アカデミーに通う前は、陣を正しく刻む練習として何度もここに立ったことを思い出す。
「ここに立つと、足が勝手に結界の陣を刻もうとしちゃうのよね。もう刷り込みよ」
「魔法陣ってのは、紙にペンで刻むものだけじゃないんだな」
しゃがみこんで起点の石を見やりながら、クォーツが興味深そうにつぶやいた。
彼がわたしの専門分野に興味を示してくれたことが嬉しくて、思わず満面の笑みを浮かべてしまう。うっかりすると、のどから笑い声までこぼれてしまいそうだ。
けれどここではしゃいだ声を出してしまうのは、少々子供っぽいかもしれない。
二、三度もったいぶって咳払いをしたあとで、わたしは姿勢を正しながら口を開いた。
「陣を刻むのは、魔法式を導く手段でしかないから、計算さえできればなんだっていいのよ。初級魔法なら暗算でこと足りるわ。中級だとさすがに、紙にペンで書き出さないと難しいわね。さらに難関な式を解こうとした場合は、机の上だけじゃとても足りないから、大地をお借りするの。一般的には、長くした杖で魔法陣を刻むわ。わたしたち森の管理人は、ステップを踏んで計算するけれど」
「俺の暗号を解いてくれたときのあれも、そうなんだよな。言わなかったけど、正直ぎょっとしたよ。いきなり躍りはじめるから」
「ふふ、まあそうよね。でもただ躍っているように見えて、複雑なのよ。この方法を覚えるまでに何年も修行させられたんだから」
鼻の頭を人差し指でこする。
するとクォーツはひざに頬杖をついて、わずかにまつげを伏せながらほほえんだ。
湖に恋したような、切なげな笑みだった。
「オードリーのすごいところはぜんぶ、努力の成果なんだな」
「そんなことはないわよ。まじめなのも、感情移入しやすくて、親切で素直なところも、生まれつきのすごいところだと思ってるわ」
はきはきと言ってやれば、彼は口を半開きにしてわたしを見上げた。
「ねえ、ずっと思っていたの。もしあなたが何事もなくアカデミーに来ていたら、わたしたちきっといいライバルになれていたはずだって。あなたは好奇心旺盛で、行動力があって、優しい。すばらしい魔法使いよ。ぜったい国導課程に選ばれていたにちがいないのに」
憂いに翳っていた瞳にそのとき陽が差して、はっとするほど美しく透きとおる。
元気付けてくれるお返しがしたいとずっと思っていた——それが叶った瞬間だというのに、彼があんまりきれいな目をするものだから、わたしはばかみたいに惚けてしまった。
「オードリー」
瞳にははっきりとわたしが映っていた。
名前を呼ばれただけなのに、きつく抱きしめられたみたいに身体が動かなかった。
鼓動が勝手に、なにかを期待する。
「残念だがその場合、俺は留年せずにいまごろ六年生だ。国導課程には一緒には参加できない。そもそも接点すらなかっただろうな」
ふ、とクォーツは片眉を上げて笑った。
わたしの緊張はあっけなく霧散する。
「……そういえばそうだったわね」
「だからこれが最善なんだよ。束の間でもあんたの瞳に映してもらえてる、いまの俺が」
そんなはずはない。少なくとも、お腹に傷痕のない人生のほうがいいに決まっている。
そう言いたかったのに、クォーツがまるで今生のお別れみたいなことを付け足すから、わたしの口からはべつの言葉が漏れていた。
「理由がなくても手を繋ぎたいときは、どうすればいいのかしら」
「……そう思う男が俺だけなら、手をよこせばいいんじゃないか」
おそるおそる右手を差し出すと、クォーツは迷わずつかんで、そのまま立ち上がった。
「あんたが俺のことを好きすぎてたまに心配になる」
「わたしのほうこそ、あなたがあまりにわたしのことを大好きなものだから大丈夫かしらと思うわ」
怪訝な顔を見つめあって、同時にふきだした。
手を繋いだまましばらく歩いて、わたしたちの体温がだいたい混ざり合ったころ——りん、とかすかな鈴の音が頭上であった。
見上げれば、木々の天井を抜けて一匹の黒い空飛び猫が舞い降りてくる。
「まあ、シャット! 迎えに来てくれたのね。紹介するわクォーツ、この子は空飛び猫のシャット。わたしの妹みたいなものよ」
「どうも、シャット。俺はクォルツ・フテルク。それで、オードリーは俺のことをこいつになんて紹介するんだ? まさかただの課題仲間だなんてさみしいことは言わないよな」
「当たり前でしょう」わたしだって、彼にそんなふうに紹介されてはかなしくなる。「友達よ。大事な友達。ね、そうでしょう?」
ちょっと照れながらうかがえば、クォーツは急に真顔になって、手をほどこうとした。
わたしは慌てて両手ですがりつきながら、それに対抗する。
「なんでよ! クォーツもそう思ってくれてるものだって信じてたのに!」
「言っただろ。手を繋ぎたいと思う男が俺だけなら繋ぐって」
「男の子の友達は、あなた一人よ」
「いまのところはそうかもな。じゃあいまだけは繋いでいてやるよ。どうせあんたが国導課程に行くまでの付き合いなわけだし」
「どうしてそうかなしいことを言うの」
「あんたこそ、」
『ケッ……』
シャットのひと鳴きが、口論を遮る。
いつの間にか地面に降り立っていた彼女は、付き合ってられないとばかりにそっぽを向いた。落ち葉を鳴らしながら遠ざかろうとする後ろ姿を、わたしたちはなんとなく気まずくなって黙りこんだまま追いかけた。




