18、黒の森へ
「ほ、ホプキンスさん……おはよう。け、今朝もほっぺたいっぱい、にクロケットパン、食べてて、か、かわいいね。ふへへ……」
休日の早朝は、いつもあれだけ混み合っている食堂も人がまばらだ。同級のマックス・グラハムくんの挨拶に、クロケットパンに口をふさがれたまま会釈で返すと、彼はプレートも持たずわたしの正面に腰をおろした。
「グラハムくん、朝ごはんは?」
「ぼ、ぼくは朝は、食べないんだ。ただ今朝はなんとなくき、きみに会えそうな予感がしたから……会えてうれしいよ。きみはどう」
「もちろんわたしも会えてうれしいわ」
グラハムくんは長い前髪の陰で忙しなくまばたきをする。
「そ、それならぼくきみの、と、となりの席にいってもいいかい。話をするのに遠くて」
「あぁ、座るつもりだったのか。悪かったな。だがこういうのは早い者勝ちだから」
空いていた右の椅子が引かれて、そんな声が落とされる。
見上げれば水色のシャツに紺のカーディガン、黒いズボンという組み合わせのクォーツが、ホットサンドをくわえながら椅子に腰をおろそうというところだった。その横顔に悪びれたようすはひとかけらも見当たらない。
「ちょっとクォーツ、あなた席につく前からものをほおばるなんてお行儀が悪いわよ」
あの夜をきっかけに、わたしたちはときどきこうして食堂で肩を並べるようになった。
「怪物クォルツ・フテルク⁉︎」
「怪物じゃないわ」
椅子を倒す勢いで飛びすさって叫んだグラハムくんを、とっさに睨みつけてしまう。彼はびくりと肩を跳ねさせたけれど、おしりと椅子をくっつけさせたまますぐ戻ってきた。
「ご、ごめん。て、天才魔法使い、だよね。えっと、あ、会うのははじめてだけど、きみの魔法がすごいって噂とかはき、聞いてる。あ、ま、まさかだけど、ううん、きみたち課題で一緒なんだって知ってるけど、で、でも二人ってもしかしてつ、つき、つつきつきつき……」
「噂が一人歩きしているみたいだけど、俺は天才でもなんでもないふつうの魔法使いだ」
きっぱり言ったあとで、クォーツはなぜだかこちらに椅子を近づけた。
「……付き合ってるかどうかについては、そこまで答える義理があるとは思えない。あんたがどう捉えようがかまわないけどな」
彼の言葉でグラハムくんがおおいに誤解したことはあきらかだった。今度こそ椅子を倒して立ちあがった彼は、おおあわてでそれを戻したあと逃げるように去っていった。そして椅子の背が床を打ったのが波紋するように、周囲にいた人たちにざわめきが広がる。
……たしかにあのとき言った。
クォーツのようにすてきなひとから好かれてると思われるなんて、誤解だとしてもうれしいと。でもそれはあえて噂を広めたいという意味ではない。これはひどい愉快犯だ。
▼
「——ねえ、あのときなぜああ言ったの。噂は気にしないと言ったけど悪目立ちしたいわけじゃないわ。あなただってそうでしょう」
「うるさい。どうせ来年度がはじまるまでの数ヶ月なんだからいいだろ。それよりあと何時間この馬車に揺られなきゃならないんだ」
麓の街から乗合馬車を乗り継いでいったん王都を経由して、そこから駅馬車に乗りこんで、そろそろ二時間くらい経つだろうか。
王都に向かっている最中の車窓は朝露に濡れて冷気を帯びていて、遠くたちこめるミルク色に、木々のうす青い影がどこまでも広がっているのが見えた。
けれど乗り継ぐごとに人の密度は増して、陽が高くなるにつれて霧は晴れていき、いまは汗ばむほどの熱気が車窓を曇らせている。
お昼のために食堂からもらってきたパンは、王都を出てすぐのころに食べきってしまった。今朝の出来事をたずねてかわされるこのやり取りも、もう数度はくり返している。
「あそこらへんの森がそうよ」
「どこだ?」
「あ、馬車が停まる。おります!」
まずクォーツにおりてもらったあとで、腕をつかんでもらってぴょんと飛びおりる。
透明な空気が頬を刺す。
ほの甘い黒土の匂いが鼻を撫でた。
粗挽きのコーヒー豆を敷き詰めたような道が、針葉樹の海を切り裂いて、白くかすむ彼方の空まで続いている。懐かしくて嬉しくて、めいっぱい深呼吸したわたしは、案の定冷気にのどをやられて盛大に咳きこんだ。クォーツが呆れ顔で背中をさすってくれた。
アカデミーよりもよほど標高は低いけれど、吹きつける風は北にある巨大な山脈のひんやりとした空気をはらんでいて、じっとしていると芯まで凍ってしまいそうだ。
わたしは《秘密のかばん》から制服のマントをひっぱりだして着こむ。となりではクォーツも同じようにマントを出していた。
「わたし、こういうところの育ちだから防寒具はそれなりに持っていたけれど、アカデミーのマントほど暖かいものって知らないのよね……」
「ああ、俺の家も山脈のすぐ向こうなんだ。冬休み実家に帰ると弟たちがこれに群がるよ。なにでできているんだろうな」
「弟……ご兄弟がいるのね。あなたってたしかに『お兄ちゃん』ってかんじがあるわ」
ぶっきらぼうだけど意外に面倒見がいい。わたしはひとりっ子だけれど、もしお兄ちゃんがいたらこんなかんじなのだろうか……いや、やっぱりクォーツは兄というより友達かも。
「なにか失礼なことを思われた気がしたけど、俺は一応あんたより二つ年上なんだからな」
「あまり年上っぽくはないのよね」
「さっきと言ってることちがくないか」
粗挽きコーヒー豆の道から、わきの林道に逸れる。
壁のように一面にそびえる緑を前に、わたしはクォーツに右手を差し出した。
「ここをしばらく行くと、黒の森よ。ほら、あっちに背の高い木々が見えるでしょう。入るときはわたしと手を繋いでいないと、結界にはばまれるから」
ためらいなく握りこんできた手のひらは、乾燥しているのにやけどしそうなくらい熱かった。鼓動が駆け足になったのは外気との温度差にびっくりしてしまったせいだ。
「ふつうの森っぽいな」
黒の聖樹と呼ばれるけれど、幹から葉にいたるまですべてが真っ黒というわけじゃない。クォーツの青の聖樹の杖が白いように、聖樹の名前は木そのものの色とは関係がないのだ。
「とりあえずは、おばあちゃんに会いに行きましょう。なにか手がかりになりそうな話が聞けるかもしれないわ。もちろん、密売者を捕まえるだなんて正直に言ってはだめよ、ぜったいに止められるから。……そうね、課題で森の調査がしたいってことにして」
「……悪かったな、家族にうそつかせることになって」
気遣わしげに見つめられて、思わず言葉を途切れさせてしまう。
このひとのこういうところが、本当に好きだと思った。
「あとで一緒に謝ってくれる?」
返事のかわりに、彼はわたしの手を強く握った。




