17、寒い夜なので
西館で別れるまでクォーツは無言だった。
湖の瞳は憂鬱そうに翳ったまま、とがった鼻先のあたりを思案げに睨みつけていた。
自分の身体に誰かの名前が、まるで権利を示すように刻みつけてあるというのがどんな気持ちか、わたしには想像もつかない。そのうえ偽名か本名かもわからない『ディケンズ』が、彼の望みにどれほど役立つか。
いやになる。食堂で手をふり合ったあと、男子寮の扉に隠されてしまう寸前まで背中を見つめたけれど、結局彼を元気づける言葉どころか気をまぎらわせる冗談一つ思いつかなかった。クォーツはわたしを心配して、図書館までようすを見にきてくれたというのに。
足をひきずるように部屋に戻ると、ネンネはまだ帰ってきていないようだった。習慣のしみついた身体は勝手に勉強机に座って宿題をひろげていく。一方でとてもそんな気になれないわたしはぼんやりと窓をながめる。
影を濃くするガラスに、ふと眩むような黄金色がひらめいた。重たげな夕焼けのなか透きとおる羽を気ままにあおいでやってきた蝶は、するりと窓ガラスを抜けてしまうとそのままわたしの小指の背に脚をおろす。
『オードリー
課題について相談しようと思っていたのに話しそびれた。明日の昼休み迎えにいく。
それから今日のこと、感謝してる。いろいろ整理が追いつかなくて、すぐ言えず悪かった。
だからもう恨みがましく睨みつけるのはやめてくれ。背中に穴が空くかと思った。
Q.F.』
ため息まじりの憎まれ口があんまり彼らしいから、思わず笑みがこぼれてしまう。
『クォーツ
夜が明ける前に話したい気分よ。それともやっぱり、シェフの料理がいいのかしら?
オードリー』
▼
挨拶はなかった。
テーブルに影が差したと思ったら、頬杖をつく腕のとなりに音もなく片手が置かれて、まず顔をのぞきこまれる。それから彼はわたしの前にプレートが置かれていないことをたしかめると、席を立つよう目でうながした。
食堂のにぎわいは、大皿が並べられて最初の一波がちょうど落ちついた頃合いだった。プレートを手にやってこようとする生徒たちを逆らって、わたしたちはどうにかそれぞれの夕食を確保する。それがいつかと同じクロケットパンとホットサンドの組み合わせだと気づいたのは、西館を出たあとだった。
「あんたもっと周りを気にしたほうがいい」
唐突に言われる。
どういう意味かと見上げるけれど、月明かりを光らせる銀のまつげは行く先のベンチにひたと向けられたままだ。
「昼休みと放課後、ただでさえ独占してるわけだし。夜までこうしていたら噂が立つ」
「噂って?」
「優等生オードリー・ホプキンスはあのクォルツ・フテルクと付き合っている、とか」
思ってもみないことを言われて、まじまじ彼を見つめるけれどやっぱり目は合わない。
考えてみれば、授業中はともかく彼はわたしといるところを他人に見せたがらない。たんに人嫌いで避けているものと思っていたのに、まさかそんなことを気にしていたとは。
「……そうよね、軽率だったわ。ごめんなさい。あなたに迷惑をかけるところだった」
「べつに俺のほうに思うことはないけど」
「あらそう。それならなんら問題はないわね。わたしのほうは、むしろあなたみたいなすてきなひとに好いてもらっていると思われるなんて誤解にしてもうれしいことだもの」
頑なにこちらを向こうとしなかったのが、思わずといったように目を見ひらいてふり返ったので、わたしはにっこり笑ってみせる。
ひっかけられたと気づいて、すぐに彼は鼻の頭にしわを寄せた。
「あんたなあ……!」
「なによ、あんな自分をさげすむような言い方、腹が立ったのよ。それにわたしうそは言っていないわ。……もしかして照れてる?」
それ以上の言葉を許さないとばかりに鼻をつままれて、ぱっと離される。
「それで、課題についてはどうするつもりなんだよ。俺が言うことでもないけど、あんたこのままだと行けないだろ、国際なんとか」
「そのあたりについてはまあ、考えてはいるのよ。ようは伝え方しだいじゃないかしら」
庭園のベンチには一匹の剪定うさぎがまるまっていたけれど、わたしたちの近づく気配にぴょんと跳ねて逃げていく。
並んで座ると、腕どうしがくっついた。
「つまりあなたは初めから杖の密売人に気づいていて、彼らから生徒たちを守っていたのよ。ときに手荒ではあったかもしれないけれど。街では先生たちの行いと思われてるくらいだもの、評価されるべき立派な志よね」
「はあ。ものは言いようだな」
「ついでに黒の森で彼らを捕まえられたら、もうだれもあなたのことを問題児なんて言えなくなるんじゃないかし、ら……っ」
くしゃみのあと、鼻に冷たい空気がしみた。
陽が出ているあいだはまだ暖かいと思っていたけれど、夜になるとかすかに冬の気配が混ざる。マントを持ってくればよかった。
クォーツが立ち上がって、はおっていたマントを投げよこした。大きすぎるそれがひざからこぼれ落ちようとするのをあわててかき集めるうちに、彼はまたどかりと腰をおろす。
「今夜はやるから明日返せ」
「あ、ありがとう。でもあなたが風邪をひいてしまうわ」
「俺は寒くない」
「そうなの? それでも」
「なんだよ」
「わ、わたしにはあきらかに大きすぎるじゃない。持って帰ったらほんとうに付き合ってると思われてしまうわ」
「あんたはそれでうれしいんだろ。俺だってオードリーとなら悪い気はしない」
わたしに言われたくはないだろうけれど、彼だってそうとうな負けず嫌いだ。
反応をうかがわれるので、黙ってクロケットパンにかぶりつく。
つむじまでは赤くなってないはず。
「森のことだけど、つぎの休日にどう」
「俺はいつでも」
「……魔臓をどうにかする算段はあるの?」
「脅せばいけるんじゃないか。幸い、いや幸いではないけど、俺には常識外れの魔力があるわけだし。植えつけといて取り除き方はわかりませんなんてことはないだろ、たぶん」
ずっと思っていた。クォーツって一見すると理性的な印象なのに、ときどき垣間見れる中身は意外と直情的というか単純というか。
半目で見やると、眉を傾けられる。
「なにか言いたいことでも」
「意外にあったかいと思っていただけよ。もうちょっと、そっちに寄ってもいいかしら」




