16、暗号の正体
同室のネンネは、ロマンス一辺倒ではあるもののかなりの読書家だ。彼女にはおよばないにしても、わたしだってそれなりに本は読むほうだと思う。気が向けばいつでもページをめくれる環境にいながら、クォーツに言われるまで気づけなかったことがくやしい。
「使われている数字、それからいまの時点で求められる数字のどちらも、下限が六で上限は三六八なの。なにかしら意味があるんじゃないかとずっと考えていたのだけれど……」
机にひろげている本たちを、すべて最初のページに開く。最初といっても中扉や目次などをはぶいた、本題部分の冒頭ページだ。
するとだいたい同じ数字が紙のはしに見つかるのは、ふしぎなようで、考えてみれば当然のことだった。文章ではどれほど主義主張が異なっていたって、本の作り自体に大きな差があるはずもない。わたしはクォーツの注意をうながすように、開かれた本から本へ人差し指を伸ばして『六』を示していった。
「あなたの暗号は、対応する本と照らし合わせてはじめて読み解けるものなのかも」
クォーツの湖の瞳が丸くなる。けれどすぐ雲がかかったように陰鬱な影を帯びた。
「だとしたら、三六八は内容の終わりのページということになるよな。……めまいがしてきた。つまり、俺たちはこれから世界中に腐るほどある本の中から三六八ページが結末になるものをかき集めて、そこからまた一冊一冊を実際に調べていかなきゃならないのか」
「悲嘆に暮れるのは早いわ」
彼らはなにを思って幼いクォーツに魔臓を植えつけたのか。
ただ杖を密売していただけならお金儲けが目的だったと考えられるけれど、彼への仕打ちは常軌を逸している。
それに、無理やり契約させられたという赤の聖樹の杖に、わざわざ印が刻まれてあるのはいったいどうしてなのか。
密売されていた黒の杖にだけ刻まれてあったなら、商標のようなものと考えられた。けれど赤の杖は認可されていて、商品にはなりえない。きっと、クォーツと契約させるためだけに用意されたものなのだろう。そんなものにまできっちりと印を刻む、執拗さ。
そこはかとなく感じられるものがある。
思考、あるいは信仰——
わたしは《秘密のかばん》から、本を一冊取り出した。開きぐせのついてやわらかくなった紙をはらはらめくって、まずは冒頭、六ページ。それから本をひっくり返して終わりを開くと——記されていた数字は三六八。
思わず、本を閉じていた。
表紙に記された『ゲルニカ聖書』の文字を見て、知らずつめていた息が漏れる。
「……黒の森にはね、毎年たくさんの人が杖を盗みに来るの」
結界に入れず立ち往生する人もいれば、強行突破しようとがむしゃらに魔法を撃ちこむ人もいる。
放っておいても、しっかり刻んだ魔法陣が壊される心配はないのだけれど、おばあちゃんはみずから森を抜けてどろぼうを迎えにいくと、家に招いてお茶を出していた。
色んな人がいた。
お母さんが病気で、杖を売って薬を買ってあげたいのだと涙ながらに語った人。
学校でいじめられていて、杖を盗んでこいと言われて断れなかったと謝る人。
「杖の密売人だという人に、わたし、そんなのは女神さまに対する冒涜だと怒鳴りつけたことがあったの。そうしたら彼、女神さまの知恵を人間の都合で封じるのはかえって冒涜だろうと言い返してきたのよ。そのときふしぎな感じがしたの。考え方もなにもかもちがう人なのに、信じているものは同じなのよ」
「そりゃあ、この大地に生まれたらもう身体にしみついているからな。俺はあんたほど敬虔な信者じゃないが、家を建てようとして地面を掘り起こしているところなんか見るとぞっとする」
「ああ、わかるわ」
笑い声は、思ったより響かなかった。
「そのときはね、なんだかちょっとうれしかったのよ。信じているものが同じなら、いつかわかりあえるかもという気がして。でもいまは逆。同じようにゲルニカさまを愛しているのに、まったくわかりあえる気がしない」
「俺は、人間がちがければ信じている神さまも一人一人ちがってると思ってる。あんたのゲルニカさまと俺に魔臓を植えた奴らのゲルニカさまは、名前が同じだけの別ものだ」
そんなふうに考えたことはなくて、まじまじとクォーツの顔を見つめてしまう。
「……あなたって、わたしが逆立ちしたって出てこないような考えを当たり前のように言うのね」
「そりゃあ俺とあんたはちがう人間だからな。さあ、まだ聖書が当たりだと確定したわけじゃないだろ。まずは調べてみないと」
調べるのはわたしなのだけれど、なんて憎まれ口を叩く気にはなれなかった。
どうして彼はわたしにもどうにもならない憂鬱をこうもたやすく解きほぐしてしまえるのだろう。それが、わたしとはちがう人間だからだと言うならば、わたしにだって彼の抱えるものを解きほぐしてしまえるはずだ。
聖書を腕のなかに開く。わたしは深く息を吸って、それから余計な思考ごと吐き出す。
閉じたまぶたの裏には、魔法陣のかたちをした忌まわしい暗号がつぶさに確認できた。
記憶力には自信がある。そうでなくても、時間をかけて対決してきたのだ。すべてわたしの身体のなかに刻みつけられている。
右足が半円を描くように、後ろへ下がる。
それから左足のつまさきで数字を蹴る。
掛けて、引いて、かかとで捉えて。
冷えた木の床に靴が解を鳴らす。
踊るようにステップを踏みながら、式を大地に組み立てていく——これが森の管理人の計算方法だ。
魔法式を解くときは、ステップの軌跡が魔法陣となる。いまは暗号の解読だから足もとに陣は刻まれないけれど、わたしのなかいっぱいに情報が駆け巡るのは変わらない。
杖は、魔力を対価に魔法式を演算する。
杖を持たないわたしは、こうして自分の身体を使って魔法式を演算する。
足もとに組み立てた式を、お腹のあたりで導いていく。つま先で蹴飛ばした解の一部を、額のまんなかで捕まえる。
もちろん実際にそんなところでものを考えられるはずはないのだけれど……大地と遊ぶように踊るうち、いつもわたしは自分自身が一本の木になったような気持ちになる。
どれほど時が経ったのか。
立ち止まった足もとに、汗が落ちる。
「——ディ、ケ……ズ」
寝起きのように声はかすれていたけれど、クォーツは正しく聞きとってくれたらしい。
「ディケンズ?」
「人の名前、かしら。あなたの傷痕、黒の杖、赤の杖……どれもまったく同じ暗号が刻まれてあったから、たぶんこれは」
クォーツは忌々しげに舌打ちをした。
「そうかよ。俺は〝作品〟か」
魔法陣でもなければ、厳密には暗号の意図もなかったはずだ。
もとからこういう形をした、ディケンズという何者かのサインだった。