15、図書館ではお静かに
時告げ鳥よりも早く目を覚ました。
カーテンに三角に切り取られた朝日が、天井にうっすらと白い影を作っていた。
二段ベッドの上側からぼんやり見つめていたわたしは、やがて目をこすると毛布を抜け出て、下のネンネを起こしてしまわないようそろそろと木のはしごをおりたあとで窓に近づいた。
ずしりと重たい藍色のカーテンをめくって、奥で光をはらませるレースの内側に身をすべりこませると、窓ガラスの冷気がつんと鼻を刺した。
吐息で白むのをパジャマの袖でぬぐいながら真下をのぞけば、オバケカボチャもほたる玉の飾りも取り払われたすっかりいつも通りの街が紅葉の底に見おろせた。
昨日のことだけじゃない、課題を与えられてからのぜんぶが夢だったんじゃないかという気さえした。
けれど一限目の歴史学で、レディはいつものように声をかけてはこなかった。
「あんたって、人間的には馬鹿だよな」
放課後になって、結局この日の授業のすべてでレディと目すら合わなかったことを思い出して亡霊のように図書館をさまよっていると、挨拶もなしに不躾な言葉をかけられる。
「そうよ……友人のほんとうのところの感情も知らずに傷つけていた愚か者はわたしよ」
「ちがう。そういうところを言ってるんだ」
クォーツは定位置のようにとなりに落ち着くと、ついでにわたしの腕の中で塔になっていた本たちを奪い取った。
まだ本を積み上げるのか席につくのか目線でうかがわれて、中央で四列に並べられる長机に爪先を向ける。
当然のように並んで腰をおろすけれど、彼と待ち合わせはしていなかったはず。
置かれた本をお礼を言いながら引き寄せて、ちらりと彼の膝に投げ出されている手に目をやった。べつに本を読むわけでも宿題をするわけでもないらしい。
骨の影が差す手の甲は雪のように白い。軽くまるめられた小指を見て、思いのほか熱い体温を思い出したわたしはなんとなくむずがゆい心地になって、つっけんどんに言う。
「わざわざいやみを言いにきたのかしら」
「いやみというほどじゃない。昨晩は思いのほかけろりとしていたのに、今日になってあからさまに沈んでいるから」
「悪かったわね。そういう性分なのよ……」
昨晩だって、クォーツが感情的になってくれたから取り乱さずに済んだだけだ。
「どう考えたって悪いのはあいつだし、あんたはやっかみで攻撃を受けそうになった被害者だろ。そもそも見逃してやったこと自体、意味がわからない。ふつう誰かに報せる」
「それをあなたが言うの」
「もちろんまんまと俺なんかにほだされたことについても、馬鹿だと思ってる」
それについてはうなだれるわけにはいかない。わたしは図書館に響いてしまわない程度の強い語気で、彼に詰め寄った。
「しかたないじゃない。あなたって、自分で思っている以上にだいぶすてきなひとよ。口は悪いし壁がぶあつくてわかりにくいけれど、そこを見抜けるくらいにはわたし賢いの」
心配してようすを見に来てくれたことだってわかっている。素直にありがとうと言えない尖った心がもどかしい。
怒ったみたいになってしまってごめんなさいと謝ろうとして、わずかに彼がうつむいていることに気づく。
気を悪くさせてしまったかもしれない。のぞきこもうとすると、すぐさま片手が彼の顔を覆ってしまった。けれど髪からはみでる耳の赤みは隠せていなかった。
はたと思い至って、わたしは期待を胸におそるおそる呟く。
「酒飲み妖精……」
「うるさい」
手が鼻のほうにずらされて、青い目にじとりと睨まれる。……ああ、ここが図書館でなかったら思いきり笑ってしまえたのに!
「びっくりしたわ。当たりの強い態度をとってしまったから、怒らせてしまったのかもと思った。なんだ、褒められて照れていただけなのね。かわいいところがあるじゃない」
「調子に乗るなよ。そもそもあんたに人格を褒められたって皮肉にしか思わない。俺だったら自分に杖を向けた奴も騙してていよく使おうとした奴もとうてい許せる気はしない」
「そんなひとは『馬鹿』なのでしょう」
「知らないのか優等生。東の国に『馬鹿な子ほどかわいい』という言葉があるらしいぜ」
「それならわたしはかわいくないわね。なんたって国導課程に選ばれる優等生だもの」
「そういうところが」
「——あのう」
ふいに真後ろから声が落とされる。
見上げれば司書のローズマリー先生が、胸に本を抱きしめながら目を合わさず言った。
「いちゃいちゃするなら外でお願いします」
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図書館で注意を受けたこともなければ、追い出されたのなんてはじめてだった。
しかもあんなふうに言われたということは、ふざけあうカップルだと思われたわけだ。恥ずかしくて、つぎにどういう顔をして図書館に行ったらいいのかわからない。
「気にしすぎだろ。ローズマリー先生だってそんなのいちいち覚えてない」
「クォーツって先生の名前を呼べるのね」
「あのひとは教授じゃなくて司書だからな」
結局、いつも通り空き教室に鍵をかける。
「付き合ってくれなくてもいいのよ。写しがあるからわたしだけで調べられるし」
先日、ようやくクォーツの傷痕の形を紙に写しおえたのだ。あまりに複雑で思ったより時間がかかってしまったが、これでいちいち彼に脱いでもらわなくてよくなった。
「ひまなんだよ。前は杖売りを捕まえようとやっきになってたけど、あんたが調べてくれるんならそっちのほうが確実だろ。それに俺たち一蓮托生なんだよな、なにか協力させろ」
ほだされたのは、わたしだけじゃない気がする。
「じゃあ、あなたの杖を見せて」
白いほうじゃない。
クォーツはためらいなく、机に炭色の杖を置いた。わたしのほうが触れるのにためらってしまいそうになるけれど、お腹の傷痕に触れさせてくれるときと同じように、彼のまなざしには静かな信頼の熱がはらんでいる。
そっと持ち上げて観察すれば、やっぱり魔法陣のような印が見つかる。
彼はどんな思いでこれを持ち続けてきたのだろう。
開かれた複数の本から似た形の魔法陣を調べていると、クォーツがふいに呟いた。
「一ページからはじまるわけじゃないんだな」
どういうことかと思ったが、どうやら中扉や目次が挟まったあとで本題がはじまることを言っているらしい。
へんなことに気づくわねと笑おうとして、はっと息を飲む。
「クォーツ、あなたって天才かも」
自分が大変なことを言ったとも気づかず、彼は大あくびの途中だった。