後編
八尋・真は背中に刺さる奇異な視線に辟易しながら、教室の隅で外を眺めていた。机の大きさに対して、彼の体はかなり大きかったから、無理やり小さい机に押し込められていると見られるのも無理はない。小学生の教室に高校生を配置している様なちぐはぐな印象を与えるのは、八尋もしかたのないと思っていたが、背中にやってくる視線や遠巻きにひそひそと交わされる会話の内容は、少し違った物だった。
一か月遅れて不良がクラスにやってきた。
クラスメイトには格好の餌食にある情報だった。一か月の間ある程度グループ分けもされ仲良くなり、噂話がひと段落した矢先に、新たな生徒の登場だ。青少年の自由な想像力を掻き立てるのには十分な燃料だった。
風体が歴戦の不良であり、唱和から平成期に学校に居たものなら、不良グループのリーダーと言われても遜色ないと言えた。短い髪は逆立ち、スポーティーさとは違い厳つさを際立てせている。広い肩幅は背中から見れば間違いなくラガーマンの様で、筋肉の隆起した首から肩にかけての肉厚さは同学年で見る事はない。詰襟の制服の上からでも分かる胸板のは、柔道部の生徒から羨望のまなざしを受けた。太脚は座ると顕著に彼の肉体を誇張した。ぴしりと黒い制服が引っ張られる様は壮観で、教科書にでも載りそうな肉体美を持っていた。その上、鋭い視線は憂いに帯、黄昏て空を見上げる。戦い疲れた戦士の様な遠い目は、彼の送ってきた熾烈な中学生活を物がっている――と誰もが思った。きゅっと真一文字に結ばれた口は彼の意思の強さを表し、ひとたび噂の中で八尋の名前が出ようものなら、「じろり」と視線を向けて窘めた。
彼の行動は不良のガン付けと言われても仕方なかった。だが、八尋にしてみれば、声の一つでも掛ければいいのに、という至極真っ当な感性により、睨んだというよりは、見ただけであった。だからこそ、彼の視線に悪意はなく、底が知れない、「ぞっと」させ、一層誤解を生む事になっているとは露も知らなかった。
当然、彼に声をかける人は誰もいない。
教室の窓側の一番後ろの席で、一人きりであった。教室の中で不気味な居心地の悪さを八尋は感じていた。誰かとつるむという事が多かった中学時代を考えれば、一人きりといのに慣れて居なかった。これも過去の影響かと単純に切って捨てれる程、彼の精神は大人びていなかった。クラスメイトと打ち解けるという事が難しいのも事実だろう、と自分から壁を作っているのも事実だったが、それ以上に「一か月」のずれは彼が考える程大きい溝だったという事を実感させられていた。
入学から一週間たっているというのに、昼になっても声一つかからない事に焦りを感じているのも確かだった。
クラスメイトからは違う様に見られているのを八尋は知らない。落ち着き払って自席で外を見る姿や、彼の特異な風体から出される圧倒的存在感によって、「孤高」の存在へと押し上げている、というのが総意だった。
八尋は、年相応の少年だから、心の中ではしょげていた。少しは高校生活が楽しい物になると期待していただけあって、このスタートの失敗は大きく、彼の心を傷つけていた。誰とも交友関係を築けず、寂しく三年を終える気がして仕方なかった。そう思えば思う程、八尋の口はへの字に折れ曲がり、機嫌の悪さを表すバロメーターとして利用される程だった。
教師でも同様に八尋を敬遠した。外見的特徴に左右されるというものではなく、彼の過去の素行に難があったからに他ならない。教師陣はそれを良く知っていたというのが問題だった。特に口の軽い体育教師は、入学以前から八尋の噂を聞いていたから、教師間で勝手に八尋という生徒の事実と異なる印象形成がされていた。確かに、八尋は不良グループとの付き合いがあり、かなりの広い範囲で暴力的な活動に加担していた。荒れていたし、世界の中心は自分たちだと思っても居た。傲慢であったと指摘されればそれまでだが、八尋がもともとその様な性格だったわけでもない。むしろ大人しくなるように、抑圧され、親の重圧に耐えて生活をしていたのは確かだった。少し反抗期が遅かったというのであればそれまでだろうし、大ごとではあったが、人を傷つけるという事が無かった分、単純な「荒れ」として家庭内では捉えられていた。しかし、教師たちは違う。彼のかつての蛮行を聞き、一度は合否の判定において学校に入れまいとしたのは事実だ。大きな問題の火種になると、地域全体で流れた悪ガキ達の噂話を元に、判断を下していた。
学校の窓を割る。スプレーで落書きをする。夜の校舎に侵入する。ノーヘルでバイクに乗り、爆音を流して公道をだらだらと走る、そういったグループに所属していたからだ。警察に追いかけられて、何度も補導された事があったし、少年課の刑事には顔を覚えられていたという事も事実だった。八尋は近隣市町を含めて有名なグループの一人だったという事実は変えられない。
例え、彼が更正したとしても、過去に行った犯罪行為が消えるわけではない。それは事実だったし、そのうえ、彼自身大きな戒めを持っていた。
八尋は暴力を使わないと決めていた。言葉であれ、腕力に物を言わせるものであっても。努力して自制することを義務付けている。当然、感情の大きい起伏に対して戒めを掛けるものであるから、常に表情はポーカーフェイス。無表情であるというのが彼の他人に向けた仮面だった。
●
八尋は図書室にいた。誰もいない場所というのがここだと思ったからだ。
室内には、春特有の萌えた草木の匂いを運ぶ柔らかな風が通っていた。横開きの扉を開けっぱなしにしているため、廊下側の窓と、室内の窓によってかなり通気の状況が良かった。清々しい風だったため、少し上着が邪魔な気がしたが、いまさら教室に戻り置いてくるというのも気が引けた。歩きながら首元のボタンをはずし、気持ちのいい風を素肌に送り込んだ。
机の並ぶ自習スペースには、誰の人影もない。立地が良くない、と八尋は思っていたがだからと言って建物の構造を変える事などできない。だから、八尋は不毛な考えを払拭するため、息を吐き気持ちを落ち着けた。彼は気持ちを落ち着けた後、人が居ないことを確認する。当然のように机を利用している生徒は居ない。
軽い足取りで窓側の席の一番室内の外側に腰を下ろした。入口が見える。人の出入りは皆無。背中に打ち付ける風を感じながら、二、三度と伸びをした。
図書室の入口にいる女性が一度八尋を見たが、興味なさそうに手元に視線を戻していた。図書室司書のベージュのエプロンの胸元には、山田の文字が彫られた小さいネームプレートがのっかっている。普通教師はネームプレートなど付けはしないが、彼女の場合、生徒と接する機会も少ないため、名前がわら課内と不便するだろうという彼女なりの配慮によって付けることにしていた。
八尋は山田と話した事は無い。本を借りる事がないのだから当然だった。この図書室にしても、先週末に足を踏み入れ、人が居ないことを確認して歓喜したほどだった。口うるさい声も、背中に刺さる痛い視線も何も気にせずに休息する事のできる空間であったからだ。姦しい声に気をもむ事がないだけでも十分だというのに、その上、人と距離をとる事ができる最上の空間。
強い日の光が入ってくるという事もなく、空調も完璧となれば、自然と睡魔に襲われるというものである。
安心できる空間はそれだけで価値がある。八尋はこの図書室がお気に入りになっていた。
目を閉じてうとうとと腕を組んで座っていた。時折吹き抜ける風が草原に居る様に感じるのは、生垣の木々がそよ風によって揺れ動くからだ。波音の様な靜な騒めきは、心地のいい音圧で八尋の鼓膜を撫でて行った。
安心しきっている。擦れる事もなく、緊張感もない。だからこそ、彼は安らかに眠りの中に身を委ねようとしていた。
ガタっ。
随分と押さえられた音であったが、細かな振動がパイプ椅子伝いで地面から伝わる。隣に誰か来たというのは流れる空気、音から分かった。
誰だ。と声を上げる事はせず、目を微かに開けて視線を向けた。
黒い、真珠の様な光沢をもった髪が映る。長い髪は腰程まであるだろう。風に靡く度にほのかに甘い香りが八尋の鼻腔をくすぐる。目鼻立ちがしっかりし、かっこいいという印象をうけるのは、整った顔立ちに似合う切れ長の目元だからだろう。深い紫色の瞳は今まで見た中でも特段に美しく、光が当たり美しく輝くと、ディディウスモルフォを横から眺めた様に透き通った紫色だった。一点の曇りもない水晶体が少ない電光を浴びて白く輝くだけだというのに、瞳だけを取り出して飾りたいとさえ思える程の誘惑を想起させた。セーラー服はぴしりと糊が通り、皺ひとつない。座っている姿すら、すっとしていて美しい。細い腕は長そでの口から白い肌を見せ、真っ白な色と濃紺の袖口と比肩する様に存在感を放っていた。
近い。八尋の最初の印象はそれだけだった。だが、これほどの美人が隣にいるというのも悪い気がしないので、そのまま寝る事にした。どうせ相手も気にしていないのであれば、普通にしているのが順当な所だ、と思いつつ、眠気に負けて瞳を閉じる。それだけでは足りず、全身が休息を欲しているからか、机にうつ伏せになって腕を枕にして眠る事にした。
隣に座っているのが誰だろう、とか、一体なんの用事だろう、といった一般的に考える事もせず、ただ眠りに身を任せた。
こち、こち、と時間を知らせる壁掛け時計の小さな秒針音が図書室を支配する。
時計の進む音。
木々のざわめき。
隣からかすかに聞こえる本をめくる音。
机の上に本が置かれる音。
小さな椅子の軋み。
微かに伝わる机の振動。
椅子を引いたのか、甲高い音。
窓から入る風の音。
不意に顔面に右側に熱を感じる。
人の息がかかる様な温かみ。
腕に何かが触れる。撫でられる様に。さっと。
背筋がぞくり、とした。
「――!」
声にならない悲鳴を上げて、八尋は、がばっと身を起こした。すぐさま椅子を蹴っ飛ばさんばかりの勢いで飛び退いた。椅子が勢いよく甲高い音を立てて引きずられる。
視線を向ければ先ほどの女生徒が中腰に屈み、左手で何かをつまんでいた。奇異な視線を向ける彼女に、自分の行動がおかしいのか、彼女の行動がおかしいのか分からなくなった。普通寝ている人の体を触ったりするのだろうか、と自問自答するが、その答えは否となる。電車の中であれば寄りかかってきた相手を肩で押しかえすくらいはするだろうが、ここでは寄りかかる事もない。
女生徒は特段気にした様子もなく、身を起こすと、窓へと近づく。パッと手に開くと、パタパタと蝶があわてて飛んで行った。
遠くを見つめながら、彼女は八尋に目もくれなかった。だが、言葉だけは投げかけてくる。
「申し訳ありません。手が触れてしまったのでしょう? ちょうど貴方の腕に留まっていたものですから、少し可哀想だと思いまして」
何とも丁寧な言葉を使ってくるな、と相手のタイを確認する。学年は一年上。当然、八尋の後輩はいるわけないのだから、年上である事は理解できたが、それにしては随分と物腰が柔らかい、と印象付けられる。
太陽の光が少し差し込んでくる。逆光の中に佇む彼女は絵になった。カメラを取り出してとってもいいだろうとも思えたが、初対面に失礼な事だと一蹴。
女生徒は優雅な立ち振る舞いでくるりと身を翻すと、その動きに合わせて長い髪がふわりと舞った。
彼女は椅子に座り直すと、未だに面食らっている八尋に小さく微笑み会釈した。椅子を軋ませ彼女は元の位置に戻る。
八尋は、おずおずと席を動かすが、元の場所には戻らず、机の角にあたる様に座った。このまま元の席に戻るというのも、女生徒との距離が近すぎて気恥ずかしかった。
女生徒が何事もなかった様に小説を手に取りしおりを外す。左手で髪を耳にかけると、綺麗な横顔が見えた。横姿だけで、並みの生徒なら委縮してしまうだろうと、八尋は直感した。姿の美しさというだけではない、彼女の息遣い、小さく上下する彼女の胸、ページをめくる指運さえ、線の細さからガラス細工の繊細さに類似した緊張感を放っていた。怖い、というのが正直なところなのだろう、話かける事も、触れる事さえも。だからこそ、相手からの動きがあった時、心の中ではらはらとして緊張感が常に残っているのだと八尋は実感していた。
椅子の位置を微妙に調節して、八尋は再び机に伏せる。女生徒との距離は大体一メートル程度。一人分は開けているのだから、何かちょっかいを出されるという事もないだろうと思うと、すっと気持ちが楽になった。八尋はあまり干渉される事は好きではない。とはいえ、一人が好きなわけでもない。微妙な状況である事は確かだった。学校生活の充実感のなさはいまだ一週間も経っていないのに、頂点を更新し続けていた。さらに未来に至っても彼につけられたレッテルがキョンシーの札である様に八尋の代名詞になって周囲を敬遠させることだろう。
ため息を一つ。たった一人の女生徒の動きにすらビクつくというのに、この先やっていける気がしなかったという思いが胸の中に広がっていた。
「あの、」
女生徒が声を掛けてきた。「ん」とも「おお」ともつかない中途半端な言葉で頭を動かして横目で彼女を見た。
「貴方は私に用事があって来たのではないのですか?」
問いかけがあまりにも自意識高い文言に聞こえて、八尋は眉を潜めた。「なんで?」と素直につぶやき、身を起こして大きく伸びをした。
背中が伸びる感触が心地良く、溜まっていた疲れが一気に流れて落ちていく様に感じた。
紫色の瞳が八尋をじいっと見つめてくる。
「ここは共用スペースだろ。俺が座っている隣に座ったのは、あんたの勝手だと思うが――、どうしてそれが俺が用事があるって事になんだ?」
ぶっきらぼうに言うと、女生徒は目をぱちぱちと瞬かせて意外そうな表情をした。目を丸くし見てくる様は、宇宙人でも見つけた用な印象を与える。
女生徒は確かに綺麗だと思うが、と八尋は心の中でつぶやく。
――俺が関わる様な相手じゃないよなぁ。住んでる場所が違うというか――
再びため息を付く。自嘲ぎみの心情によって、卑屈な笑みが口元には浮かんでいるだろう。しかし、気にしなかった。
「はっきり言うが、俺はあんたに興味はねぇよ。今、昼寝を妨害されたという事以外、初対面のそれだ。気分的にはマイナスだが、それだって気にする物じゃないだろ」
「――そう、ですか」
腑に落ちない様子で彼女は小首をかしげた。流れる様に頬に手を添える。なんとも狙った動きをするものだな、と八尋は苦笑した。これを素でやっているというのなら、よほど世間知らずか、育ちが良すぎるかだ、と決めつける。中学の時に係り合いの在った女子にこんな露骨にあざとい仕草をする者はいなかった。彼の経験から導き出した短絡的すぎる結論に対して、女生徒は新たに仕草を追加した。
ふふ、と笑うと片目を閉じて小さく舌を出した。子供がするしくじった時のポーズに似ているが、絵になる女子が行うと、確かな破壊力があった。
「申し訳ございません。何時も追いかけが多いものですから。少し気なってしまって」
「……あ、あぁ」
彼女の悪びれた様子のない可憐な謝罪に気おされて、頷いた後に視線を外した。
●
あの女生徒は一体何者なのか。八尋の中に、悶々とした感情が渦巻いていた。誰かに聞くのが一番だろうが、そもそも声をかける相手が居ない。
頭に浮かぶのは、長澤と上野の名前だったが、両名とも八尋から声をかけるのは憚れた。
それらを鑑み、他の生徒に声を掛けようものなら、無言で財布から紙幣を一枚取り出して八尋に押し付けてくる事だろう。一度も恐喝まがいな事はしたはずないのだが、彼の風体がそうさせるというのは、自覚していた。
あれから二週間。図書室に行けば彼女が彼の隣に座っていた。
他にも席が空いているにも関わらず、特に気にした様子もなく毎日、毎日、彼女は隣に座っていた。
なぜか、と考えるといくつか理由がある事が分かった。
確かに、隣の机では背中側に柱があり、風が通らない。一番端になれば、本棚が邪魔して扉を開けにくい。涼しい風が通るという点を、彼女は十分理解しているのだろうという事は、数日のうちに気が付いた。というのも、彼女が時折立ち上がり、窓の開閉を行っている事で気が付いた。
本来司書の仕事だろうに、窓の開閉、入口の開閉も勝手に彼女が行っていた。
その上、日差しがきつくならないというのがあるらしい。大きな百日紅の木が三階にまで日陰を落としている。しかし、八尋が座る方にくると明るすぎて、逆に隣の席になれば暗すぎた。本を読んでいることが多い彼女にとっては、そういった自然光の強さというのもいい塩梅なのだろうという事はうかがえた。
そうなれば、彼女が一体何者であるか、より一層謎が深まるというものだった。
教室の自席で帰りのホームルームをそっちのけで一人で腕を組んで唸っていると、一人の生徒が近づいてきた。
身長の高い生徒は、背中に巨大なリュックを背負っている。手には二リットルサイズのペットボトルが一個。中には水が入っているのだろう、透明な液体が半分程度入っていて、ちゃぷちゃぷと音を立てていた。
長澤・俊。クラスの中でも際立って目立っている生徒だった。爽やかな印象の強い彼は、クラスの女子からも人気の様だった。時折熱い視線を向けている生徒がいるのは分かっていたが、長澤は涼しい顔でそれを受け流していた。
常に微笑みを蓄えた表情は常に晴れやかで屈託がない。先週末には夜遅くまでサッカーの練習に付き合った経緯があるため、多少なりとも打ち解けている――と思っている――という認識を持っていた。八尋の感覚であるから、決して馴れ馴れしくしてはいけないと自制はしていた。中学の乗りで肩を組もうものなら、嫌な顔を向けてくるだろう。さすがにそういったTPOを気にした一般的感覚は持ち合わせていた。
長澤は開口一番に、「聞いたよ」と楽しそうだった。
「上級生ではもう噂になり始めてるみたいだけど、小林先輩の隣にいるらしいじゃない」
「……?」
聞きなれない名前に疑問符を浮かべ、さらに頭をひねった。視界が九十度動き、長澤の全身を縦長で見る事ができた。
「ほら、図書室の君だよ。二年生の女子で、多分学校一の美人だって噂の人さ。ほら、休み時間になると人だかりが2-Bにできるだろう?」
「……あぁ、行列ができてるのは見た事がるけど、その人目当てなのか。それで、その先輩が俺の隣に――。確かに座っていたな?」
「うん、サッカー部で結構有名になっていてね。サッカー部に佐藤先輩っていう上手い人がいるんだけどさ。小林先輩を狙ってるらしく、結構アプローチしてたらしんだけど、暖簾に腕押しで。口説けてないみたいなんだよね。取り付く島もない様な感じだっては噂してたけど。その小林先輩が昼休み、図書室で隣に男子を座らせてるっていうのがどうも意外らしくてね。とうとう、あの美人が陥落したか、と噂になってるみたいだよ。で、その男子が――真だっていうんだけど、本当なの?」
頭をひねったまま、八尋は自分以外、昼休みに座っているのは見たことが無いため、
「そうなんじゃねぇの? 俺以外見た事ねぇよ」
長澤は新しいネタでも仕入れてほくほくした表情で、笑みを強くした。
「すごいじゃないか! 先輩たちが一年かかっても埋められない溝を、たった二週間で埋めたっていうのはさ!」
ぱしぱしと長澤は八尋の背中をたたいた。
他人の事なのに、何を喜んでいるのか、と八尋は思う。と同時に、誤解があるようなので訂正を入れた。
「あの人が勝手に座ってるだけ。俺がいつも先にいって定位置で寝てるのに、好き好んで座ってるのは相手の方」
姿勢を戻し、長澤の鬱陶しい手を払いのけながら、八尋はぶっきらぼうに言った。
実際それ以外の何者でもないと八尋は思っていた。一言、二言、話すことはあっても、相手に踏み込む話など何もない。名前すら知らないというに、と八尋は思った。
「というか、今初めて苗字をしったくらいだぜ?」
「ははぁ……そういえば、真は頭をひねっていたね。そうかぁ。面白い話になるかと思ったけど、実際は違うのかぁ」
わざとらしく、長澤は落胆して見せた。
「噂でも撒こうとしたのか?」
少し脅してやると、長澤は「まさか」と笑って見せた。
「いやさ、さっきも言ったけど、うちの部の佐藤先輩がずっと狙っててね。運動部連中には結構なブロックを掛けているみたいなんだよね。で、噂になったのが真だろう?『どこの部活だ』って怒り心頭でさ」
「人の事だろう。強制できるもんじゃないと思うが?」
長澤は頷く。当然、人の心の問題であるから、佐藤がどの様な手管を使ったところで、違反・造反は当たり前と思わなければならない。
八尋の言葉に頷くあたり、長澤も良く理解している様だったが、それでも言うあたり何か含みがあるのだろうと思った。
「もしかしてよ。――俺を呼び出して吊るそうってことか?」
「そういう物騒な発想ないと思うけどなぁ。でも釘を刺したいみたいな所だろうね。思うに、出し抜かれて焦ってるらしくってね。後輩の自分にも知ってたら佐藤が呼んでるって一言伝えろってことだったからなぁ」
八尋は苦笑した。一言「だっせ」とつぶやいて一蹴した。
「まぁ、気が向いたら佐藤先輩に声掛けなよ、きっと真のことを見たら黙ると思うけど」
「……どういう意味だよ」
八尋をまじまじと見つめて、長澤は「見た目のはなしだけどなぁ」とおどけて見せた。
小さく舌打ちして、
「相手から来るって言うなら話を聞いてやらんこともないが、来いっていうんだったら行く義理もねぇ」
「そりゃそうだよねぇ。やんわり佐藤先輩に言っておくよ」
頼もしいのか、抜けているのか、愛想笑いを浮かべた。
八尋は、逆に長澤の肩を掴んだ。クラスの数人がぎょっとした視線で二人を見たが気にする事はない。
「というかよ、小林先輩ってどんな人なんだ? なんかすげぇ不思議な奴なんだけど」
うーん、と長澤は腕を組んだ。「噂程度だけど」と前置きをして、
「直接会って話をした事はないから分からないけど、――確かに美人な人だとは思うよ。ただ近寄りがたいとは遠巻きに見て思ったけどね。二年生と三年生の間では半ばアイドル化してて、秘密裏にプロマイドも売られているらしい。……去年生徒会が写真部を摘発したらしいけど、今年は写真同好会になって同じことやってるって聞いたなぁ。昨年だけで、軽く六十人くらいは振られてるらしいけど、未だに週に一度はラブレターが贈られているらしいね。
帰る時に気づくと思うけど、車での送迎がされている希少な生徒だね。ほら、良く校庭から正門が見れるから毎日見るけど、黒いセダンだねぇ。本当に真っ黒な車だから良くわかるよ。あまりにも重役みたいな感じだから、良家のお嬢様って感じがするけどね。噂だとこばやし和服店って、駅前に大きい五階建てのビルが有るだろう? あれのお嬢様だっていう話だよ。
あとは、――バレー部に所属してたらしいけど去年の九月にやめちゃったんだって。近隣の運動部界隈じゃ結構な痛手だったらしくて、今でもなんで辞めたか物議をかもしてるっていってたなぁ。ほら、小林先輩がいるだけで、すごい注目があるじゃない。その上、それなりにセンスあったらしいから、雑誌の取材とかも受けてたらしいんだけどね。そのあたりが煩わしくて……っていう噂もあるね。
今でも狙ってる生徒は多いらしいけど、真は知らないだろうけど、四月のタイミングで一年には怪文書が送られてね。怪文書っていっても生徒会からだったんだけど。生徒間の交際等について、あまりに目に余る場合には風紀委員が取り締まる場合があるって――これ暗に小林先輩への押しかけを問題視した物だったみたいなんだよね。昨年まではそんな文書出てなかったらしいから。今年の生徒会長……佐野会長だっけ、が、気にかけてるみたいだね」
「なんか、すげぇ腹いっぱいだ」
長澤は難しそうな顔をした。
「実際、小林先輩に問題行動があるわけじゃなくて、本人の人気で周りが勝手に盛り上げちゃってるらしくてね。そのあたりは難しい問題だよ」
「結局見た目ってこった」
八尋の言葉に長澤は笑った。ぽんぽんと八尋の左肩をたたいた。
「それは、よーく真が身に染みてるだろう?」
「違いねぇな」
不貞腐れて八尋は腕を組んだ。
●
八尋がちらりと右に視線を向けると、小林と目があった。
少し気まずい、と思いながらも何故か視線を外す事ができなかった。おそらく、不良同士のガン付けの名残だろうとは思えた。視線を外したほうが負けとなる、という心理的抑圧から八尋はじぃっと小林を見つめた。いつもの様に、なんの思惑もない視線ではなく、噂の真偽を見透かそうとする懐疑的な視線だった。
まじまじと小林を見ると気づく事がいくつかあった。まず、可憐さというよりは女性の強さを良く引き立てる切れ長の目は、綺麗さを際立たせカッコイイと思わせる。目元に一つほくろがある。少し化粧がされているのだろう、完全には消えていない。尤も、泣きぼくろに艶やかな流し目などされれば、耐性のない男子生徒ではイチコロで恋に落ちる事だろう。次に小ぶりな耳。髪を良くひっかけているが、本人が気づいていないのか、朱の塗料が付いている。普通ボールペンを利用してもそんなもの付かないのだから、Gペンに代表されるインクを用いた物をそこそこな頻度で使っているのだろう。髪をひっかけるときに、誤って付いたのが残っていると考えられる。細い首筋から鎖骨にかけて、真っ白な肌が主張するが、少し右側に傾いでいる。長年の癖なのだろうか、はたまた右の方が筋肉が多いからなのか。右利きであるという事にも関係していそうだな、と八尋は思った。胸元は制服で押さえられているものの、その豊満な双丘を隠し切れず、彼女が呼吸をするたびに、微かに上下する。男とすれば、目が行かないという事がないのは確実で、八尋であってもその自己主張の高さに胸が高鳴るというものだ。しかし、それ程肉付きのいい下半身をしているわけでもなく、細い脚が丁寧に平行に揃えられている。だが、さすがは運動部に所属していただけあって、しっかりとした筋肉はついているのだろうな、と微動だにしない脚を見て八尋は感じた。インナーマッスルが鍛えられているのは姿勢の良さからも伺いしれた。白いソックスに色気はないが、清廉さを際立たせる。何度も洗っていれば汚れの一つでも残っていそうなものだが、漂白されたような純白は新品同様だった。濃い色の革靴は、しっかりと磨かれていて外から差し込む陽の光を浴びて茶色の上に光点を映し出していた。鏡の様に磨いているのが、彼女自身であろうがその姿が想像できず、頭をひねる。いっそのこと、下男でもいると言われれば、なるほどと思てしまうが、今時そういった下働きの人を囲う、貴族めいた家などあるわけがなかった。
彼女の細い指先が机に置かれた銀色のしおりをつかみ、本に挿した。
「あの……」
小林は視線を外した後、ちらりと八尋を見る。少し怯えたように感じるのは、どういった事だろうか。
八尋は腕を組んだ。彼女を怖がらせる様な事は何もなかった、と結論づけるが、八尋が彼女を見つめれば見つめるほど、気圧された様に少しづつ小林は身を引いた。
とすれば、八尋自身の姿が怖いのだろうな、と思いいたると凝視する視線を緩めた。しかし、小林から視線は外さず、張りのある口元を注視した。
「何か……御用があるのでしょうか?」
身を引いたまま、声まで震えている。無理やり愛想笑いを浮かべた様に顔が引きつっていた。
八尋はどういうべきか少し悩んだ。「怖がるな」といっても、一般的観点から考えれば恫喝されているともとらえられるし、「気にするな」といっても気になっている相手には逆効果だろう。「君を見ていた」などと言えば不審者のそのものだし、「魅力的だ」と言えば変態認定されることだろう。ぐるぐると回る思考の中で一つの答えを出した。
「かっこいいな。先輩」
相手を褒める事で、相手の警戒心を解き、かつ、相手が言われ慣れていない言葉でプラスの効果を生み出す。聞きなれていない単語であれば、思考が定まらず相手にペースを取られることもない、と八尋は計算した。
実際、八尋の思惑どおりに「そ、ですか」と言葉もしどろもどろになりながらの反応は悪くはない。右手で髪を弄り始めているのは混乱している状況を落ち着かせるためだろう。であればと、拍車をかけた。
「いつも、勝手に座ってる人だと思って。ちゃんと見る事なかったよ。良く見てみたら、想像以上にかっこいいな。背筋の伸びも、姿勢の良さも、維持するために相応の筋肉がいるはずだが、微動だにしない。知り合いの武道家に通ずるものがあるが、手の綺麗さから考えると、何か――そうだな書道や、華道でもやっている様な感じもあるな。左の耳に朱色が残っているのは、おそらくその時の名残――とすると書道か。とすれば、ペンだこの大きさから字は綺麗なんだろうな。しっかりした視線は揺れる事がないのだから、目もいいんだろう。最初はカラーコンタクトかとも思ったが、時折光彩が鈍く輝くんだよな。あれだと光の透過がそこまで自然にならないからな。目の細さを気にして化粧を目元にいれてるだろ。目元にあるほくろが完全に隠れてないから、すぐわかったけど、そのままの方がより印象が強くてかっこいいんじゃないか? それから――」
「も、十分ですから。一体……何を言ってるんですか。もう」
小林は頬を赤らめ、八尋から視線を外す。拗ねた様で、口を少しとがらせている。
それから気にした様に左耳を指で揉んだ。
「――色がついてるのですか?」
あぁ、というと八尋は胸ポケットからティッシュを取り出す。一枚取ると、「動くなよ」とだけ小林に投げかけると、直ぐに小林のそばまで距離を詰めた。顔を近づけると、柔らかい柑橘系の香りがする。八尋の身長が高いから、少し中腰にならないといけないのが煩わしい。
すぐさま右手で、ティッシュを隔てて彼女の耳をなぞる。柔らかい感触が指に広がる。あまり強くやらないよう気を付けながら何度か擦った。
染料は乾いているのか、ぽろぽろと剥離した。ティッシュに絡めとられ、彼女の耳が露わになった。少しだけ赤いのは染料の所為ではないだろう事くらいは八尋でも分かった。粉っぽいものなので、耳に残っても嫌だな、と八尋は思いおもむろに小林の耳に息をふきかけた。
「――!」
「あ、悪い」
耳を押さえて小林が飛び退いた。盛大な音を立ててパイプ椅子が倒れた。
「な、な、……な」
「粉っぽいから耳にのこってもあれだと思って」
「だからって……ふ、ふつう息を吹きかけますか⁈」
「いいだろ別に……やってやったんだからさ……」
ほれ、とティッシュを見せる八尋。
疑った様子の小林は八尋の右手を見る。確かにティッシュには赤い塗料がついていた。
すぐさま、ばっと小林は八尋からティッシュ奪い取った。
「す、すいませんね! 気を使っていただいて!」
おう、とだけ八尋は伝えると、すたすたと席に戻った。
小林は右のポケットにティッシュをねじ突っ込むと、ぎくしゃくとした動きで椅子を直した。椅子の座面を軽く手ではたき埃を落とすのは忘れない。
司書に向かって小さく頭を下げるあたり、周囲にも気遣っているらしい。
八尋は、育ちが違うな、と苦笑する。八尋であれば周りに気遣うという事はないだろう。中学の頃みたいに世界の中心が自分だとは思わないが、周囲が一喜一憂する必要はないのだし、まして、不可抗力であれば文句を言われる筋合いはない。
「あの……ですね」
小林は座りなおすと、八尋に声を掛けた。精神的なタフさは八尋と同等か、さっきまでの百面相はどこへやら、いつもの通り落ち着いた表情になっている。
ただし、耳の先は少し赤いし、頬はかすかに赤みががかっている。
「なんだ?」
「――なんだじゃなくてですね」
臆する事なく小林は八尋を見る。少し睨まれている気がしたが、八尋には身に覚えがない。
「普通、他人の耳に息を吹きかけるなんてことはしないですよね。特段仲がいいというのならば別でしょうが、私と貴方はそういった仲では……」
ごにょごにょと尻すぼみになる言葉に合わせて、小林の顔が下を向いた。
彼女が八尋を怖がらないところは脇に置くとして、どうして些細な事で羞恥心を持つのだろうか、と八尋は不思議でならなかった。八尋の付き合いの中では、自己主張の激しい人同士での付き合い方しか知らないから、気に障ったのであれば直ぐに怒りに変貌し、暴力に訴えてくるだろうし、そうでなければ笑いながら小突く程度だろう。
一発胸にパンチでもくり出してくるのなら分かりがいいものなのに、と八尋は思った。だが、小林の性格上、そういった直接的なコミュニケーションを取るようには思えなかったから、分かり辛いというのがひどくもどかしく感じていた。
「普通だろ。――いいじゃねぇかやってやったんだから」
「……そういう、デリカシーのない生徒だとは、思いもしませんでした」
八尋は、む、と声をもらすと、自分の手足体を確認した。
「どこを見て……? 自分で言うのもあれだが、結構人生詰んでる顔してると思ってるが? 噂だってそうだって伝わってんだろ。」
「いいえ、――一年生の噂には詳しくありませんもの。それに、他人の評価を気にしても仕方がありません」
呆れたように小林はため息をついた。
軽い溜息。
「貴方。自分の事を周りからの評価に当てはめすぎではありませんこと? 少し卑屈すぎる程に」
八尋は腕を組むと、理解できないという様に小林を見た。彼女の言っている事に心当たりはあるものの、それを認めるというのはなんとなく反抗心からできなかった。
「先輩には関係ねぇだろ。――そもそも、俺みたいなのが、どういう思いでここにいるのか、というのもよ。アンタみたいな出来の良いお嬢様とは違う」
そっぽを向く。
胸の中にむかむかとした気分が広がった。小林の容姿や、噂を鑑みれば、自分とは違うと突きつけられる気がして直視できなかった。
「関係は……ないのですけれど。……あの……」
煮え切らない物言いに、八尋はイライラしていた。
なんで説教されているのか、という苛立ちは、如実に態度に出た。組んでいた腕をほどき頬杖をついて顎を載せ、左手は机の上をこんこんと人差し指で規則正しく叩いていた。
「そうですわね。あまり……親しくもないのに踏み込んだ話はするものではありませんわね……」
申し訳ありません、といって彼女は腰を折った。
視界の端で頭が下がる。
少し胸がチクりとしたが、突っ張った手前それを折り曲げる事もできず、八尋はそっぽを向いたまま立ち上がった。
小林に聞こえるか聞こえないか微妙な声で、「悪い」とだけ一言。すぐさま蹴っ飛ばす様な足取りで図書室を出て行った。
●
放課後まで気分は停滞していた。
むかむかした気持ちと情けない様な気持ちが入り混じり、胃がしくしくと痛んだ。スカッとできないのが一番の原因で、こんなに「言葉だけ」というのが面倒なのかというのを実感した。手も足も出さない。軽いボディタッチから、拳を突き合わせることもできない。感情の表現がひどく制約された気がしていた。
なにも殴るだけが全てではないとは思っているが、叩く強弱で言葉にしなくてもいいことを表現できているとは思っていた。
当然、意見の対立があれば拳を使うのも吝かではなかったから、双方にわだかまりを残す事など無かった。ケンカが弱ければ意見が通らず、強ければ意見が採用される。ただ単純明快なルールのもとでの秩序は、それだけで彼の心を開放させていたのは事実だった。
しかし、自らその世界を嫌って飛び出したのも事実だった。「違う」のだ。求めていたものと。
重い足取りでホームルーム後の教室を出た。
ひそひそと声が聞こえた。八尋を馬鹿にでもしているのだろうか、くすくすと笑う言葉と共に「不良」や「のっぽ」などの単語が並ぶ。いつもであれば、視線の一つでも送って、窘めている所だったが、今の気分的にそうにはならなかった。
自分がひどく幼稚に思えて、縁を切った彼らと同じなきがしてならなかった。
結局同じ穴の貉か、と落胆した気持ちになった。
「――違います。今日は特に予定もないのですから……」
「いえ、だからこそ、安全に帰っていただきたく。これはお父上からの言いつけでもあるのですよ?」
校門の前に黒い車が停まり、一人のスーツ姿の男性と、2人の女生徒が言い合いをしているのが見て取れた。
何事か、と軽く人だかりもできている。
まだ明るい時間だというのに、誘拐事件だろうか、と噂されても仕方がない。
人垣の後ろからひょっこり後ろから頭をだして八尋が確認すれば、一人は小林だった。
「朝にもお話をしております。今日は友人と出るので、少し遅くなりますと。門限までに帰るのは事前に了解が取れていることではありませんか?」
「それはお母上の了解でございましょう? 家長はそれを認められておりませんので、早々に帰っていただかなければなりません」
「それは酷い言い草じゃない? あこに直接一本の連絡もしてないんだから……」
「だからこそ、お嬢様の要求は承認されていないというものでしょう」
スーツ姿の男は取り合わない。今にも小林の腕を引いてでも車に乗せるだろう、という勢いはあった。
八尋には何を押し問答しているのか細かくは分からなかったが、小林が嫌がっているという素振りを見せて、隣の女生徒ともそれに追従しているという状況は飲み込めた。
このまま事の成り行きを見守るのが普通だろう、と思いしばらく静観する事に決めた。
「ここで問答をしていても埒があきませんな。――であれば、お父上に了解を取る事をとっていただけますかね? そうすれば私も引き下がりましょう」
「それは……」
小林がたじろいだ。
「あこは、小母さんに了解をとってるんだから、いいよ、気にしなくて。行こ」
小林の隣の女生徒が手を引いた。しかし、小林はどうしていいのか分からない様子で歩く事もできない。
女生徒の手を遮る様に、スーツ姿の男が制した。
「家庭の事情に部外者が口をはさむものではありません」
「なによ! あこの決定に文句があるなら――」
「ですから、一本電話すれば済むとというものでしょう。だというのに――」
「なら相手から電話するもんでしょ!」
本人を差し置いて、女生徒とスーツ姿の男がヒートアップし始めた。
互いに譲らず口論する様は十分な注目を集めている。帰宅時というのも人だかりを多くする要因にはなっていた。
八尋は静観するという決意を破棄した。単純なお節介ではあった。
しかし、まったく知らない相手でもないのであれば、多少くらいこの面倒な状況を解消してやろうという、正義感じみた感情があったのは事実だった。
とはいうものの、自分が出ていく事がどういう誤解を周囲に与えるのか理解していなかった。だから、後先考えない突飛な行動であったのは事実だった。
「おい」
一言低い声。よく通り、一瞬で周囲のざわめきが静まる。
校門の前の人だかりを押しのけて八尋は進む。
背丈が頭一つ分大きいだけあり、威圧感があった。そのうえ、かなり筋肉質な体躯をしているから、存在感はずば抜けている。
荷物も一つの手提げかばんのみ。
軽装である八尋は小林の前までやってくると、男に向かって、
「こんなところでたむろするな。邪魔だ」
「いや、突然なにかね。こちらは――」
ぎろり、と八尋はにらみつけた。
男は絶句した。有無を言わせない強烈な視線は、ただ粋がるだけの少年の瞳ではない。八尋の背後には暗く重い空気が見えた事だろう。死をもたらす様な奈落を除き込んだ様に冷め切った視線は、何一つ文句を言わせない。手を出す事も、濃密な存在感に憚られる。少しでも手を伸ばせば命を取られる、そんな錯覚を与えた事だろう。
周囲は何事か、と絶句しながら八尋に視線を合わせた。
「さっさと動け」
「――いや、ですから……」
かばんを持った右手に力が入る。ぎゅぅっと持ち手が悲鳴を上げた。
左手も同様に力が入った。ぱき、っと指が軽くなる音がした。
首を二度左右にゆっくり動かす。
いつでもいけるぞ、と挑発する様に見下ろす視線がスーツ姿の男に突き刺さった。
背筋を寒くさせてたのか、男はぶるると体を震わせた。
「おい。さっさと動け」
「……」
男はしぶしぶといった様子で車に戻っていった。
八尋は小林を一瞥した後、顎で「行け」と指示をした。
女生徒と小林は顔を見合わせた。
●
学校から駅前に向かう通りには商店街がある。夕方の買い物客で盛況となっている商店街は、大中小合わせて五十店舗程が連なっている。
アーケードで囲われた遊歩道には自転車を押した者の姿も多く、すれ違うには少し手狭な道を、時折身を引いて避けなければならなかった。
駅への最短ルートではあるが、元々アーケードが作られていたため、拡張するにも拡張しきれず、ぎゅっと濃縮された商店街が出来上がっていた。
市内に住む者にとっては重要な買い物の拠点であると同時に、八尋をはじめとする学生全般にとっても、憩いの場にはなっていた。
ファミレス、ファストフード店、ドラッグストアにカラオケ。本屋や文房具屋なども生徒は好んで利用していた。
商店街までくると、女生徒は八尋の前にタッタッタと走り出た。くるりと回って八尋に尋ねてきた。
「でさ、君は一体なんなのかな」
「ただの通りすがりだ。――あんまり出口で騒いでるから、口添えしてやっただけだ」
「……あぁ、そう」
女生徒は余り納得した様子はなかった。
なにか邪推でもしていたのだろうか、八尋の風貌から考えれば、小林に声をかけるというのも、なかなかつり合いが合わないとか、筋違いだとかもやもやと妄想をしていたのかもしれない。
そんな評価はどうでもよかったが、これ以上二人に係ると、余計な事にも首を突っ込みそうで嫌だった。
「わたしは、橋本・紗月。君は――」
「じゃあな」
橋本が声をかけると同時に、八尋は二人を置いて、勝手に横道に入っていく。
電車の利用でもないから、さっさとバス乗り場に向かいたいところだと思っていた。
さっさと縁を切る、というのが保身のためには時には必要だろうと思っていたし、実際、これ以上面倒くさい事に係る気もなかった。
「ちょ、ちょっと」
橋本が八尋の腕をぱしりととる。
意外に力が強いと感じた。運動部にでも入っているのか、突発的にとはいえ、握りすぎな気はした。
「なんだよ」
「いや、なんだ、じゃなくてね」
面倒くさそうに八尋は顔をしかめた。舌打ちでもしたいところだったが、露骨に二人をけん制する事もできずに煩わしさを腹の中に押しとどめた。
「わたし達に用があったんじゃないの?」
「あんた達に用はねぇよ。さっさと遊び行くなら行け。俺は帰る」
「――それとも、あこが目当てだった?」
「なんでそうなんだよ……」
呆れて八尋は肩を落としてため息をついた。
「だって、あこのことちらちら見てたじゃない?」
「昼休みの事でまだ怒ってんのか気になっただけだ」
「……? なに? 昼に君はあこと一緒にいるの? え? 何してるわけ? 怒るってなにしたの?」
「うるせ」
しっし、と興味津々に目を輝かせる橋本をハエにする様に追い払う。
だが、橋本は八尋の周りをまとわりついて離れない。
「紗月。あまり引き留めても迷惑だとおもうのだけれど」
「え~。どうせ暇人なんでしょ、付き合ってもらえばいいじゃない。人払いするにはこういう厳つい男がいる方がいいってものよ?」
「誰が厳ついだ」
君だよ、と橋本は指をさす。
ちょっとドヤっている表情が八尋を苛立たせる。
「帰る」
口をへの字に曲げて八尋は脇道を進もうとした。
「あの。――ありがとうございました」
小林が感謝を述べた。意外だったため、八尋は歩みを止めて、上半身だけ動かして振り返った。
「怒って……ないですから」
「あ、っそ」
素っ気無く八尋は返して、少し後悔をした。
もっと彼女に近づく、という方法はあったのかもしれないと自覚するとますます、小林を意識していた。
昼の時から思っていたが、と心の中でつぶやく。
……惚れたのか?
気づいてしまえばあとは簡単で、気持ちの整理がすんなりと付いた。
彼女にちょっかいをかけたのも、彼女を助けようと思ったのも、全部がそれに帰結した。
だが、表面上それを出す事はできなかった。
当然心の中でそれが正解だと認める事は出来なかった。
未だに八尋は、友といった物に信頼がおけないでいたのだから、他人の事など簡単に信用はしてはいけないという思いに固着していた。
少しだけ、小林が一言だけ八尋に「待って」と言ってくれれば、踵を返すことができただろう。あるいは、八尋に小林が「お礼に――」と声をかけてくれれば、すぐさま一緒にいくことだっただろう。
「また明日。御機嫌よう」
丁重に小林は頭を下げた。
「……おう」
八尋は左手を上げて応じた。
結局そんなものだよ、と心の中で苦笑していたから、表情がどうなっていたか、八尋には分からなかった。
●
校舎の裏側には抜け道がいくつもある。
生垣で作られた現世との境は、いとも簡単に破られ、長年の人の出入りでくっきりと口を開けていた。
その抜け道の一つは西棟の裏手にあって、体育館や部活棟から校門を通らず抜け出せるという事もあって利用者が多かった。
八尋は抜け道の側にある、用具倉庫の裏手に来ていた。
表では生徒たちが道具を出しており、がたがたと頼りない音を響かせるプレハブの倉庫を恨めしそうに地面から屋根まで眺めた。
戦々恐々とする表情は珍しいが、この場所に来ることが、八尋にとっては嫌で仕方なかった。部活に入ることを強要されている訳でもないが、体格的に恵まれた彼がのうのうと何処にも所属していないというのは、教師や運動部の連中に取ってみれば面白くなかったらしい。このため、時折勧誘じみた脅迫ともとれるお願いをされるが、丁重にお断りをさせてもらっていた。
運動が嫌いなわけでもないが、八尋には魅力を感じていないというのも一つだ。仲間意識、協調性の確保などと能書きはいいが、結局は常に競い合う仲間を欲しているというのが透けて見えた。誰も彼もが自分が負けるという事に対して狭量であるから、どういう方法でも相手を出し抜こうとしているという切磋琢磨――あるいは騙し合い――の精神が受け入れられなかった。
自己陶酔をする様な輩とチームワークを育むというは嫌だったし、他人を蹴落として悦に入る者と肩を並べると想像するだけ反吐がでそうだった。
八尋は人を信頼していない。
しかし、すべてではない。
例えば親。彼の事をきつく叱った事もあったが、「子のため」を思っての行動であるのは理解できていた。過去の過ちを許容し、前を向くために後押しをしてくれている。そのことは衝突があったからこそ埋まった溝ではあった。中学時代にどれだけ辛く当たっていたか、今でも思い返すだけでも赤面しそうだった。全力で親を殴ろうとした時もあった。すべてが頭ごなしに否定されている様な気がしてならなかったのは苦い思い出だった。何度も補導され、警察に保護者として呼び出されても、低頭に終始し、決して人の前では怒らなかった。だからこそ、気持ちなんて理解していないという風に感じてしまったが、帰りの車の中で、ぽつぽつと話す言葉や、翌朝にはいつも通りに御節介な様子を見れば、「いつも通りでいる事」が八尋には必要だと考えての行動だと、今は思えていた。
だからと言って全てを信頼できないのは事実だった。大人だからと盲目的追従する事も、教師の態度を見れば嫌気も刺した。
目の前で八尋をにらんでいる佐藤・圭太の事は、経験則、直感共に信頼に足るものとは思えなかった。最初の印象はただの粋がっている子供の印象だった。
身長は八尋よりやや低く、それでも大柄な身長だったが、その身長に見合う体のつくりとは言えず、やせていると八尋は感じた。長めの髪は運動部には似つかわしくなく、厭味ったらしい前髪が目にかかっている。それでも首にヘアバンダナが下げられている事から、運動中は髪を上げている事が想像できた。美形である顔立ちと彼の体形だけを見れば、モデルであると言われた方がしっくりくるかもしれない。ハーフの様に彫の深い顔立ちと一般的に見れば高身長は学校内でも人気の的だった。
佐藤を諫める様に、長澤が側にいた。手で佐藤をなだめる様だったが、今にも食って掛かろうとする佐藤を抑えきれず、なすがままに八尋に毒付いた視線を向けていた。しかし、当の八尋は涼し気に流していた。気にする理由など微塵も感じず、目の前の少年の一人芝居を楽しむ余裕すらあった。
「少しは話を聞くってこともできないのかよ!」
「話聞く道理もないが?」
「――生意気言ってんなよ……」
はて、と八尋は頭を捻る。なんで罵倒されているのか、と釈然としなかった。
事の発端は、結局のところ逃げ切れなくなった八尋が佐藤に呼び出された事に起因する。
佐藤は自身の容姿に相当自身があるらしく、出会って突然、小林には自分がふさわしいと熱弁を垂れた。曰く、この学校の中に自分より優れた者はいない。曰く、小林は一年の時からいわれなき中傷の所為で心を痛めている。曰く、全校に渡る噂を断ち切ったのは自分だ。曰く、自分こそが彼女にふさわしい。
八尋は、何を言っているのか分からないでいた。「自分が彼女をどれだけ愛しているか」を能弁垂れるのであれば、まだ理解は出来た。しかし、相手に無償の――しかも影の功労の褒賞を、その愛によって報いよというのは、全くの理解が及ばない。八尋の中学時代の悪友であっても、誰かを射止めたいというのであれば相手に何をするかであり、周りをけん制する意味など無意味なのである。早く手を出して、付け入る隙を作らないというのが常套手段。「好きだ」や「愛している」という言葉を相手に投げかける時間を割いて、自分の功績を――尤も功績と言えるのかも不明だったが――大言壮語。その相手が牽制する相手とくれば、意味がないのも百も承知だろう、というのが八尋の感覚だ。
おそらく、隣で話を聞いている長澤も「あれ?」と思っているらしく、所々要領を得ない様で、顔を顰めていた。であれば、べらべらと喋る佐藤を遮ってほしいところではあるが、長澤は一応中立の立場を保っているらしく、うんうん、と時折頷いていた。
このため、八尋が「そんなつまらない事なら帰る」と切り出すと、激怒した次第だった。非常に沸点が分かりづらく、自己中心的だな、と八尋は思った。
第三者として静観している分には面白いのかもしれないが、と長澤を見ると、「まーまー」と宥めるのに必死で楽しんでいる余裕はなさそうだった。
半目で佐藤を睨みつけるが、ヒートアップしている彼には効果は薄かった。むしろ火に油を注いだ結果になったらしく、語調が明らかに変化し、朗々たる自己陶酔から、攻撃的な文句へと豹変した。
「おまえみたいな不良が誰の許しをもらって、小林さんに近づいているわけ? 迷惑だから、近づくんじゃねぇよ! 彼女はこの学校の宝だぞ。勝手に近づいて汚らわしい! 無知で愚鈍なたっぱがでかいだけの馬鹿が、近づいていい存在じゃない! 知性も、品性も欠片も感じないただの跳ね返りじゃないか。聞いたぜ? 協調も取れない、友人の一人も作れない脳みそが腐ってる存在だろ? そりゃ、誰も寄り付かないよな? 部活からの誘いもなって……あぁ、ただの引きこもりか。そんな図体で糞ほど役に立たないとか、存在意義あんの? そんなゴミが学校来る意味とかある?」
人格否定かぁ、と遠い目で八尋は天を仰いだ。この手の輩には力で言うことを聞かしたいと思ってしまうが、それをやれば過去と変わらないと良く理解していた。ぐっとこらえながら、八尋はどうするのがいいのか思案した。
口喧嘩は弱い方だ。相手を馬鹿と罵倒する程度にしか語彙力はないのは事実だったし、客観的に物事を誘導させる事ができる程思慮深いわけでもないと自覚している。そもそも、今日会ったばかりで何に釘を刺せばいいのか分からなかった。
いっそのこと、この罵倒されている状況を教師に公開したいが、残念ながら録音アプリは入っていない。動画でとるにしても相手を逆上させる程度で終わってしまうだろう。
むしろ手を上げる事も考えたが、相手はそれを望んでの言動かもしれない。案外したたかに、どの様に八尋が学校からいなくなるかを考えているのだろうか、と疑えば簡単に手を出せない状況であるのは確かだった。
相手から一発でも殴られれば分かりがいいのに、と思いつつも、そう簡単でない事は理解していた。この手の相手は、「本当に考えてない」か「かなり深いところまで考えているか」の二択。何も考えず直情的に顔を真っ赤にして突っかかってくる分には子供の喧嘩と同じだから分かりやすいのだが、手を出すよりも口走る輩は苦手だった。
八尋が黙っていると、佐藤はより語調を強めた。
「どういうつもりで彼女に近づいたのかは知らないけど、ゴミはいい加減立場を弁えて、ゴミ箱にでも入ってろ! 小林さんの何がわかるって? 彼女の味わっている苦悩だって知りもしないで、何、味方ぶってるわけ? 去年にどういった仕打ちを彼女が受けていたか……。それを僕がどれだけ防いでいたか。――あのさ、ほんと存在が邪魔だから屋上から飛び降りてくれよ。そうすれば世の中の助けにもなるだろう。こんなただ立ってるだけしか能のない糞袋に、教育の二文字も似合わないしさ。それとも、中学時代みたいの付き合い同士、ごみ溜めにもどってればいいじゃないか。 ――聞いたぜ? 何度も補導されてるんだろ? 暴力にすぐ訴える短絡思考の不良。それがなんでうちの高校にいるのか理解不能だよ。あぁ、金で入学した類か。なんだよ、親も揃って腐ってるのか」
八尋は呆れた。言うに事欠いて八尋以外にまで飛び火し始めた。そのうち、長澤ですら罵り出すに決まっていた。
黙って相手の言い分を聞こうとも思ったが、其れも限界の様だった。
堪忍袋の緒が切れるというのはこういった状況なんだろうな、とひどく冷静な頭の中で結論付ける。
頭に来ているのは、親を罵倒された事か? たしかにそれも頭に来ているのは事実だった。
むしろ、小林に対して陶酔する程の妄想力をもって彼女を神格化している事にたいする嫌悪感だろう。彼女を理解したいという態度が微塵も感じられなかった。あるのは彼の中の理想の姿を「投影」したいという欲求。そんなものは愛とは呼べない。ただの押し付けられた感情に振り回される小林が、いたたまれない、という気持ちになっていた。そもそも、彼女には自由が無さそうに見えて仕方ない。家でも、学校でもこの調子であれば、いずれ「心」を壊す事は想像できる――いや、もしかしたらすでに。
ふぅ、と息を一つ。空気を入れ替える。
一発殴ったくらいなら、停学にもならないだろうと、いう不穏な考えが頭をよぎった。当然そんな事をしていいのか、という考えは頭の中にはあった。冷静になった八尋の頭では必死に耐える様にという警鐘が鳴っているにも関わらず、小林に対する佐藤の感情が、どうしても八尋が考える様な愛情とか好意という定義と一切合致しない気がして気持ち悪く思えた。そのため、自分自身の冷静さは二の次になり、不気味さを払拭するための最大の方法を取る事を選択しようとしていた。
正常な思考が、それを行えば後悔するぞと早鐘を鳴らす。八尋は暴力を嫌っている。その理由はかつて暴力を振るった彼らと同じになる事を忌避するからだ。力が全てで、傍若無人に振舞う様を八尋は嫌悪していた。当然、ここで暴力を振るえは彼らと何ら変わらない、という事も理解はできていた。しかし、こと『小林』の事になると冷静な心が闇に蝕まれていった。
決意をする。
力を振るうと。
誰に謝る事もせず、自分の中にある闇を解放しようと。
握る手はぎゅっと強くなる。自分自身に向けられる敵意を真正面から受け続ける事一体何分経っているのだろうか。それを正確に考える能力はあるはずなのに、左腕にはめた時計には一切視線を動かさなかった。今すぐにこの目の前に居る気味の悪い存在を排除したいという考えに帰結した。
「先輩よ。好き勝手言うのは良いが――一発殴ってチャラにしてやっから、後一言、好きなだけしゃべれ」
当然の様に高圧的な視線を付随させて、八尋は佐藤を睨む。一般的な冷静さがあれば、佐藤はこの一睨みで怯み、言葉を一瞬でも詰まらせるだろうと思っていた。
実際は、八尋を馬鹿にして、見下した様な視線のまま、
「は? ほら暴力。ゴミは本当にゴミだな。言葉を理解できないほどド低能なのに、高校なんかに来る必要なかったんじゃないか? ほら小学からやりなおせよ。あぁ。そんなたっぱじゃ給食じゃぁ足りないよな。――そもそも給食費すら払わなそうだもんな。人のクズ性を集めて形成した様な聳えたつ糞でしかないな。さっさと全人類に、生きててごめんなさいって謝罪でもしたら? それとも言葉の意味がわからいってか? 小学でも分かる言葉でいってると思うんだけどな。ド低能の暴力野郎。それがお前だ。な? 理解しただろゴミ。存在していていい物じゃないのに、彼女に声かけるとか百年早い。一度生まれ直してからこいよ。そう考えると、彼女もまだまだ見る目がないよなぁ? 一体何を好んでこんなキワモノの相手をしているのやら。声を掛けるだけで汚れてしまう。ゴミはさっさとゴミ箱に入るべきだっていう事は、小学だってわかってるだろ? あぁー、彼女の優しが道を外れたお前をただ救ってくれたというのに、勘違いしているだけか。それで彼女の時間を拘束するというのはなんとも業の深い行いだよ。さっさと地獄に落ちて、火にくべられて悲鳴をあげるのがいいとおもうぞ。まじおすすめ。それこそ、毎日彼女に懺悔するのがお似合いだわな。というか、そういう思考すらないんだろ、自分がどれだけ低能で、存在価値がなくて、どんだけ疎まれてるか、理解する頭もない、本当にプラナリアと同じですか? いや、あいつらの方が再生能力持っているから存在価値はあるよなぁ? お前にはなんにもないんですぅ。ただの生ごみだったほうが有機分解されて土に還る分意味があるだろうが、お前は彼女にたかるハエと同等だよ。いや、ハエより始末悪いよな。そういったのなんて言うのか。――存在価値の有無って、やっぱりお前みたいなクズを見ると理解できるわな。ただただ他人を不快にするだけの暴力野郎とかどんだけバイオレンスな奴なわけ? 彼女をその暴力で従えて自分の意のままにしようという魂胆バレバレ。ほんと、下種で、最低だわな。なに? 毎日彼女にストーカー行為でもするために、この間彼女の送り迎えを刺せない様にしたわけ? 具体的に一体何をするつもりだったのかしらねぇけど、ほんとあぶねぇ奴だよな。彼女の自由を奪って楽しい? 彼女の為にならに事をして楽しい? 彼女の笑顔を奪って楽しい? なに? 独占しているとか思いあがっている訳? 実際にはただキモイだけだだから。すぐ暴力に訴えようとする精神的幼稚さと、他人に対する敬意の無さは、知能のない猿と同等だよ。いや、猿の方が道具の使い方にコミュニティの形成をするためのコミュニケーションをとるから全然ましだよな。絶妙にお前は気持ち悪い、オタクと同等じゃねぇの。あの何て言ったっけ? 小太りの――あぁ、上野か。あいつが『口添え』したから学校に入れたんだろう? 竹本が大きな声で教えてくれたよ。お前に注意するべきだっていう事だろう? ホモ野郎な癖に、なんで彼女に近づいている訳? 存在意義のない、単細胞生物のお前には、今すぐ沼の水にでも入って光合成でもしてもらう方がいいとも思うけどね。そうすればお前の仲間と一緒によろしくやれるだろう? 彼女の様な高潔な存在に近づく事自体に身の程を知るべきだし、彼女の優しさに付けこむ下劣さはホント、クズだと思うわ。さっさと屋上から校舎裏の池にでも飛び込めば? そうしたら多少は供養してやるよ、――メタノールでも流し込んで消毒して、細胞の一片まで死滅する様に計らってやるから、感謝しろよ?」
八尋は肩から力を抜いた。拳を軽く握る。一度ぐっと力を込めて感触を確かめた。手に伝わる感触を再確認すると、いつもの通り調子はいいらしい。筋肉の一片、一片が確かに咆哮を上げて力の奔流を制御する。神経の昂りは、冷静さを保ったままの頭によってふつふつとした高い沸騰ではなく、静かに燃え上がる青色の炎をしていた。じっくりと相手を品定め。静かに吸い込む空気によって、スーッと血の気が落ちていき、マグマの様に煮えたぎる心臓により強い鼓動と、力強さと躍動感を与えた。
とっくに、佐藤に宣言しているのだから、相手は思い切り逃げるだろうという事は予想がついた。一歩でも八尋が踏み込めば相手はビビッて顔を引きつらせながら身を翻して、良ければ奇声を発して下がる事だろう。そうしなければどうなるかくらいは良く理解できているはずだ。隣で見ている、長澤は青い顔をして、今にでも八尋を取り抑えようと事理ッと右足を出している。八尋は、長澤の方が察しが良い事に心の中で冷笑した。今、目の前で能弁を垂れて、必死にこちらを煽ってくる相手佐藤よりは格段に「人付き合いが上手い」と感じる。であれば、一言佐藤に対して窘める言葉でも出してくれればいいのに、と思った。しかし、同じ部活というのも色々面倒なのだろう。この後、八尋が手をあげても上げなくても、同じ学年という事で文句や愚痴や聞きたくもない話を永遠と繰り返す事になるのであれば、少しでも佐藤に対して点数を稼いで心象を良くしておきたい、というのは理解できる。八尋はそういった相手の顔色ばかり窺う生き方というのは、本当に出来ない事であると理解していたから、ある意味尊敬するべき点だとも思った。口にはしないが、そのしたたかさに冷笑して眼中から外す事にした。
きっと長澤も分かっている事だろう、佐藤に対して、一発殴れば佐藤はさらにヒートアップする。生半可な一発ではいけない。それこそ目が醒める一発でなければ意味がない。雷神の如き神速の一発で相手の意識を刈り取る事だってできるだろうが、そんな事は意味がない。いつまでも続く鈍痛を与え、八尋に対する恐怖心を掻き立てなければ意味がない。それで、少しは自分よがりな言動を諫める事ができるのであれば御の字だとも思った。
……なぜ、俺が佐藤の目を醒まさせてやらなければいけないのか。
腑に落ちない思いではあったが、それをできる存在はこの学校には居ないのだろう、という事はよくわかった。先ほどから自慢げに話すとおり、各学年に対して絶大なコネクションを持っている佐藤は、自身の外見と抜け目のない性格――おそらく、八尋に対してネチネチと言い続ける程度には嫌がらせができる事から想像できた――から、人気に近い――あるいは関わりたくないという面倒さ――評価を受けているのだろう。
くだらない評価だ、と八尋は切り捨てる。一体その薄汚い評判を何に使うのか。誰が喜んで拾うというのか。雑草の様に強く、険しく、立ち上がる姿勢すらない。剥げているメッキと変わらない脆い、価値の乏しい物に思えてしかなかった。
今から逃げる事を考えている様だ。目の前にいる八尋を視界にきちんと収めているのにもかかわらず、未だに腹の底にあるのは相手への侮辱のみ。こんな男が小林を篭絡する?
笑止千万。今にでも高い声を上げて笑ってやればいいかとも思ったが、そんな事をしてこの好機を逃す八尋ではない。獰猛に向いた歯は肉食獣のそれだ。弱みを見せたが最期、引導を渡すためにその殺意を使う。今、八尋の足には十分な溜めがある。
たった、一歩。
その一歩が最高速。
ゆっくりと、佐藤が後ずさる。
でも、もう遅い。
八尋の脳裏には相手を逃がすという事など露ほどなかった。相手は傷ついたヘラジカより調理がしやすい。どれだけ相手が早かろうともう遅い。予備動作を省略した最短の速度で八尋は力を開放させた。
一歩右足を前に踏み出した。その一歩でトップに入る。運動部に所属していようが、八尋の早さに反応できなかったことだろう。二人の距離はたったの二メートル。その距離を初めから分かっているのであれば、とっとと距離を取っているほうが利口と言えた。何も準備らしき動作を見せていない、佐藤はただの的。
一歩で十分な距離であり、大地を踏みしめる脚に強烈な衝撃がやってきた。
駆ける。
砂埃が舞い、長澤が顔を顰めた。やっちまった、という苦い顔なのは、どっちに対しての感情なのか測りかねるが、それを気にする必要はない。不必要な情報を遮断し、眼前敵を逃さない事だけに集中。力を溜めていた分、十二分の推力を得た八尋の巨体は、苦もなく、獰猛な牙を剥くに必要な力を生み出した。
右腕が腰から最短距離を通り佐藤の腹に突き進む。
足首が、ふくらはぎが、太ももが、捻った腰が推力を生み出して、最速へ。
殴るというよりは、突き刺す。
正拳が吸い込まれる様に当たった。鈍い音だけ響いた。
「――っう!」
強烈な腹への衝撃は、佐藤の体をくの字に折り曲げる事に成功した。
もやもやした八尋の胸の内をスカっと晴れさせる会心の一撃。
ざまあみろ、と釣り上げた口の端から小さい笑いが漏れた。手に返ってくる衝撃は確かに最大の力ではあったが、インパクトの瞬間少しだけ弱めたのは、情けのためか。
この期に及んで、暴力を振るった事への自責の念は存在していた。
しかし、それ以上に感じる爽快感は、胸の中にたまっていた淀みを全部一瞬にして吹き飛ばしていったのは確かだった。
佐藤は腹を押さえその場に座り込んだ。
「アンタの言った言葉の数だけ考えれば、一発じゃ足らん気がするが、そんなひょろっこい体じゃ一発で限界だろ。つーことで、――長澤。あと頼むわ」
「え? オレ?」
唐突な指名に驚きを隠せない長澤の表情には、嫌だという苦そうな色がにじみ出ていた。
「俺は長澤の顔をたててきたまでだ。何の役にも立たない話に付き合った責任くらいとれ」
八尋はくるりと踵を返すと、未だに呻く佐藤など気にも留めずにすたすたと歩いて行った。
背後で重い溜息が聞こえたのは気のせいではないだろう。
●
八尋に向いている指先の数は、二つだ。
いい年になって、人を指すとはどこが教育者だ、と悪態をつきたかったが、言葉をぐっと飲みこんだ。
生徒指導室は盛況だったといえる。
職員室の隣にある、四人程度が入れる小さいスペースに、教師二人と八尋が入っていた。隣には放送室があるため、防音もしっかりしている作りは密閉された、という風な圧迫感を感じる。
窓もないため、閉鎖的な空間は、八尋の存在感を除いても窮屈に感じる。その原因の一つが、身長は低いが筋肉質な体育教師、竹本・洋の存在だ。短く刈り込んだ髪にお弁当箱みたいな四角い顔。分厚い筋肉を多い隠すわけでもひけらかすでもない、少しラフな黒のジャージ。濃密に凝縮された力というのが、存在するというのを理解させる存在感がたしかにあった。声の大きさもさることながら、態度やボールペンを持つ一つの動作が、自己主張の激しさを物語っていた。
隣にいるのは、八尋と竹本の存在感から比べるとずいぶんと小さいと感じる事だろう。北・陽子は英語教師だったが、八尋の担任を担っている。身長の低さから教師というよりは学生に見間違う事もあるほどだ。スーツを着て居なければ判別がつかないほどの童顔だったが、その若く見られる等長所を帳消しにする様な色気のかけらもない黒ぶちの眼鏡をかけていた。
「八尋くんが全面的に悪いとは思えません! 彼の言い分にはきちんと筋が通っていましたし、証人だっているんですよ? それを頭ごなしに決めつけるなんて――」
「そういう次元の話をしているんじゃないんですよ、北先生。彼がやった事は傷害だ。これは紛れもない事実でしょう」
竹本は八尋を指指しながらも、冷静な口調を心掛けている。竹本の冷静さにあてられてか、感情的になりつつあった北は、一度呼吸をついて落ち着いた。
「確かにそうですけど……。でも、佐藤くんの言い方だって、彼の言葉を借りれば暴力にあたりますよ。共に同等の懲罰があるのなら別でしょうけど、八尋くんだけというのは納得できるものではないと思います」
北の言い分に対して、竹本はいやいや、と首を振った。
正直、八尋はどうでもよかった。この拘束されている時間が一体なんの為なのか、そろそろ疑問になり始めていたので、始終見守っているというのも苦痛で仕方なかった。だというのに、口を挟めば、話しが長引く事は十二分に分かった。見えている地雷を踏みぬくという事を自らする必要もない、と諦めた表情で二人の成り行きを見守った。
「傷害は傷害。傷を残す事になるわけですから、同等に語ってはいけない」
「心の傷はいいっていうんですか!」
声が跳ね上がる。耳障りな音だという様に、顔をしかめて竹本は一つ咳払い。
頭に来ているのだろうが、竹本は年長らしく、うまく北を往なしている。
「そういう訳ではないですが、だからと言って同列には語れないと言っているんです。直接的に相手に死に近づける行為が間違いで――」
「だったら、間接的な物は放置されるというんですか? 違いますよね。傷に大小はないですし、悪い事は悪い。という括りになっているはずです。竹本先生がいつの時代の教育を信望しているの分かりませんけど、心身別物と考えるのは早計です! イジメによって自殺に繋がる事だって十分に考えられるじゃないですか!」
「そう、かっかしないでくださいよ。殴ったのは悪い。それは事実だから彼にペナルティを与えるんです。言った事が記録にない以上、確認できないものを追求できない。ただ、彼の傷害については、相手も、彼も認めているんだからそこだけははっきりしましょう、という事じゃないですか」
「納得できません!」
小さい机をバンと叩いて北は大きな声を出した。どこにここまでのエネルギーが詰まっているのか、小さい体にしては物おじしない精神力もさることながら、理詰め以外でここまで熱くなれる者だとは八尋は知らなかった。若い、それがエネルギーになるというのなら、ここでボーっとしている自分は一体どうしたことか、と皮肉に感じ少し八尋はむっとした。
竹本は肩をすくめた。
「どうして、北先生が彼にそこまで肩入れするのかわかりませんね」
「私もどうして、竹本先生が彼を蔑ろにするのかわかりません! 見た目だけて決めつけていると思います」
「それは北先生の方でしょう」
北は顔を顰める。竹本の言っている事が理解できないのか、あるいは、理解したくないのか。
竹本はあえて八尋をちらりと見ると、わざとらしく北に向かって、
「彼がもともと不良だったから、とフィルターをかけているのは、北先生貴方の方です。不良だから、今頑張っているから、だからこそ同情してしまうのでしょう? そういうのは教育の場に必要でしょうか。彼が過去に起こした事件は確かに許しがたい物です。器物損壊に傷害事件。だからと言って、今はうちの生徒として、きちんとは生活をしているのは分かります。尤も、彼がたった半年やそこらで本質が変わるとも思わないのも確かですが――今のところ、今日の件を除けば大した問題にはなっていない。彼も心を入れ替えたというのもあると、自分も評価しますよ。でもね、普通に生活しているのを、色眼鏡を付けてみるのであれば一端以上の努力が必要だから、と甘やかしてしまう事になるんです。どの生徒も同じです。普通に生活をしているんです。なぜ彼だけ特別視する必要があるのですか? 彼が問題を起こしたらなぜ、彼だけ庇護されなければならないのですか? 北先生、貴方は感情移入しすぎる。少し冷静に見ることを勧めますがね」
「――っ」
ぐっと北が口を噤んだ。色眼鏡を通してみていないと、言い返せなかったのだろう。
「自分が求めているのは、彼に反省文を書かせ、佐藤さんに謝罪してもらう事です。対面での謝罪でこじれる事になるのは分かり切っていますから、書面の形式的なもので、せいぜいその程度で和解してもらいましょう、という事です。学年も部活動も違うとなれば直接的に合う事も少ないのですから。ただし、傷害の懲罰としてはあまりにも軽微すぎるので、人手が足りていないという、生徒会の下働きでもしてもらって、奉仕してもらうというところが落としどころです。随分ぬるい物ですが、自分も佐藤さんの言葉を問題視していない訳ではないというのはこれで分かってもらえると思いますが? 昔の様に懲罰部屋に入れるというのも一つでしょうが、そういった前時代的な体罰は行っていないのではないですが」
北は恨めしそうに竹本を睨んでいた。
八尋にとってみれば味方に付くというのはありがたいものだったが、本当に北は教師としてやっていけているのか、不安になるところだった。
竹本の様な確固たるものもなく、感情に流されていると見られても仕方ない言動は、少し幼く見える。教育者としての長い時間が竹本の「うまさ」を作っているのだという事は分かると同時に、学校として北の様な感情論を優先させる者に教鞭を取らせている事がはたして大丈夫なのか、という心配も存在してしまう。とはいえ、今回においても竹本が間に入っている事で、少しは誘導しているのだ、と考えると教頭の采配は間違いではないんだなぁ、とひどく他人事ながら感心した。
いまだ納得していない様子の北が口を開きかけた。
しかし、八尋がそれを手で制した。さすがに、これ以上時間を使われるのも嫌気がさしていたというのもある。ここで一言こっちの言い分も提示しないと、いつまでたっても血の上った北が変な事を言い出さないとも限らない。
八尋にとっては、それこそ「私が全部面倒見ます‼」などと啖呵を切られる方が面倒だった。小林の事でも面倒だというのに、北が絡んであらぬ噂が独り歩きするのはさらに困る。だから、竹本の肩を持つように、
「あのよ。先生が言い合う必要性もねぇし。殴ったのは事実なんだから、その程度のペナルティっていうなら、ありがたいもんだ。停学だって仕方ねぇと思うよ。悪いところ入れば大けがなのは間違いなし。――職員室に逃げ込んだ佐藤が一番ダサいってだけで、それ以外に思うところはねぇよ」
うん、と竹本は頷いて北を見た。
「と、彼も言っている様ですが、まだ納得いただけないと?」
二度、三度と北の視線があたりを見渡した。当然、戸惑いの感情がにじみ出て、八尋を裏切り者の様に見た。実際、北は口にはしないが、肩入れした生徒からすげなくあしらわわれ、少し意気消沈しているのだろう。上がっていた肩が少し落ちている。
「……今回は引き下がります。少し頭を冷やしてきます……」
踵を返すと、とぼとぼ北は扉へと向かった。
古びた扉はガラガラとスライドして口を開けた。窓から光が差し込む。まだ外は十分に明るいのだろう。
生徒指導室の陰鬱な情景と比べればかなり開放的だった。
北が出ていくのを確認すると、竹本は重い溜息をついた。
「というかなぁ。なんで分かってて殴った? こっちも面倒な事になるんだからよ」
砕けた言い方に変わる。尤も八尋にはこちらの方が馴染みがある。授業中と変わらないフランクな印象は、中年の男性であっても気兼ねなく話ができた。
さっきまでの外面の良い理知的な行動は、北に向けた仮面。外聞を気にするというのもあるだろうが、先生同士であっても大変なんだな、と八尋は思った。
「さっきも言った。あまりにも酷い言葉だから、傷つく事を分からせようと宣言して殴った。宣言してから謝罪でもあれば、殴るのは辞める気だったが、挑発したのは佐藤の方。こっちに非があるとは思えない」
「殴っちゃいかんだろう、殴っちゃ。理不尽な物に対抗するために権力があるんだから、それを使う事も覚えにゃ」
呆れた口調の竹本はぽりぽりと頭を掻いた。
「俺だってそれくらい覚悟の上ってこった。せめて自分の力で解決したいと思った時に、力関係分からせる方法として、一発一徳のが有用だと思ったまでだ」
至極当然といった表情で八尋は竹本に本心をぶつけた。
竹本も八尋の言いたい事は分かっているらしく、うーん、と腕を組んで唸った。
「どういう方法がいいか、なんて昔からないのは確かなんだけどさぁ。無視するのがベターだとは思うがなぁ。ピーチクパーチク言うのは多いだろうけどよ。普段はちゃんとそれできてるじゃないか。なんで今回は、それができなかった?」
竹本は根幹を確かに捉えてきた。
八尋の痛いところだった。多少の噂話や悪口なら気分が悪くなるとはいえ、手を出す事はしていない。当然自制の力が働いているからだ。過去の出来事における自戒の念は確かに存在する。
二度と、「あの様な」出来事には出会いたくない、というのが本音だったが、だからと言って、今回、このまま野放しする事の方が問題な気がした。
佐藤につっかかったは単純な話、一人の事で火がついているにしか過ぎない。
そっぽを向いて、口が勝手に言葉を吐きだした。
「――小林先輩が――絡んでるからじゃねぇの」
おや、と竹本は新しい名前に目を丸くした。
「小林って、2年の小林・あこか? なんの繋がりがあるんだ?」
八尋は口をへの字にした。言わなくてもいい事を言った自分を罵りたい気分になった。
しかし、すぐに諦めて、
「二人で……お話もほとんどできていない佐藤が小林先輩の事に躍起になって、俺に突っかかってきただけだ」
「……はぁ。お前は……。あのな、本当にくだらない事で暴力振るうのは勿体ねぇ。そんなの、見せつけてやればいいじゃないか。色恋沙汰での暴力は確かに不良の花だとは思うよ。ちょっとドラマになれば人気も出るだろうさ。でもよ、現実はそうじゃないってことはよーくわかってるだろう? そんな輩には暴力よりも、見せつける、っていうのが一番の薬だって考えりゃ分かるだろうが。
――先生が高校の時付き合ってた相手、今のカミさんだが、人気が高くてな。身長のない自分には高根の花だったわけだがよ。誠実に2年付き会って、高校卒業と同時に学生結婚だ。その秘訣っていうのは、もう隙を見せない猛烈なアタックよ。当然、昼も、夜もな。電話――当時は固定電話が主流で携帯なんてないから、電話を掛ければ親が出るんだけどよ、それを変わってもらって毎日、毎日話をするわけ。こまごました内容ばっかで覚えちゃいないけどさ。昼間もその延長で休み時間になれば常に顔を会わせて、そうだなぁ、弁当も自分が作って持って行ってたなあぁ」
「え? センセ、弁当作れるの?」
意外な言葉に目が丸くなる八尋。
竹本は胸を張って、嬉しそうに頷いた。
「うちは母子家庭だったからな、仕事で忙しいところに部活で朝早く行くのを手伝わせるわけにもいかず、毎朝自分で作って持って行ってたよ。その甲斐もあって料理の腕はいいんだよなぁ。そういうまめさがよかったんだろうなぁ。今も子供たちの分も含めて自分が作ってるしな」
八尋は半目になって竹本を見た。あまりにも、外見と話しの内容が乖離していると思えたからだ。粗野な印象の風貌とは合わず、かいがいしく世話を焼く姿を想像すると、なんとも現実離れしている気がしてならなかった。
「そう疑うっていうもんじゃないぞ。結局男もまめな方がモテるんだ。だから、――たしかに八尋と小林を比べた時に、外聞の点では違うが、悲観する事なんてないさ。ただ、だからこそ、殴るなんて事はするんじゃない。分かってるだろう?」
「まぁ、ね。――一発いれる必要もないとは思った」
口を尖らせた八尋は、机の上に肘を置いて、頬をついた。
説教というのは総じて面倒なものだというのは重々理解していたから、とてもつまらない気分になった。
「だったら、きちんと我慢するという事も覚えないとな。――長澤の話が全部事実だとするならば、確かに佐藤が言い過ぎたというのはある。理解はする。はらわたが煮えくり返るという感覚だって分からない訳ではない。でも、何があっても暴力はいかん。それは本当に最後の手段になっちまう。子供同士の喧嘩だからと、大目には見るが、惚れた女を取り合うために、大ごとにすんじゃねぇよ」
「――そんなんじゃねぇ」
竹本はくく、と笑った。
分かってねぇな、と八尋はイラっとしたが、下手な事をいっても火に油だと感じて押し黙った。むっとした表情のままで、舌打ちは我慢した。
「そうじゃないって態度じゃないのは見てれば分かるって。いや、素直になれんのも分かるからいいが、だからといってな――」
「というか、」
八尋は竹本の言葉を遮って不満を口に乗せた。
「はっきり言って、佐藤の言葉はうざすぎる。人の気持ちなんてこれっぽっちもなくて、外堀を埋める事ばっかり終始してる。ありゃストーカーだよ。下手すると、俺に向かう怒りが小林先輩に向かうぜ。ストーカーと言ってもピンキリだろうけどよ。中学の頃に似た様な奴を見た事あんだ。独りよがりの思い上がり野郎が、女のケツ追いかけててよ、気にいられないとなると、家にまで押し入ってたぜ。強姦でしょっ引かれて、少年院に入ってる。そんなことになるんだったら、俺が一発殴っておいて、注意を引き付けるくらいしといたほうがいいんじゃねぇの、とは思った、という正当な理由はある。俺の事にイライラしている分には被害が出ないんだからいいじゃねぇの、ってところ。
俺だって、暴力振るうのを嫌ってはいるさ。だけどよ、限度っていうもんがあるわな。」
「……うーん。筋は分から無くもないが、だからって劇薬だなぁ。擁護はできないが、気持ちは理解できる」
はっ、と八尋は笑った。
「センセは、ずいぶんと肩を持つのな」
「どっちが悪いとは自分は明言せんよ。でも、どちらも理解できるように努めるのが教師ってもんだろう。行動は諫めるが、気持ちまで制限使用とはおもわん」
八尋は目をぱちぱちと瞬かせて、竹本を見た。
真面目な表情を崩さす、そんなことを言われると、中学の時とは違う対応に教師の違いというものを実感した。
「なんだよ。先生なんか変な事言ったか?」
「――いや、センセはいい人なんだな。声はでかいけど」
「一言余計だ」
八尋の頭に、とん、と触れる程度のチョップを食らわせる竹本。
「へいへい」
「とりあえず、今回の件だけにしとけ。余り目立つ行動すると、こっちも疑って関わらないといけなくなるぞ」
「……覚えておく」
渋々と、八尋は頷いた。
●
夕陽の差し込む商店街には、人でごった返していた。当然夕刻の会社帰りを含めた買い物というのもあるだろう。自転車を引いた人、両手に買い物袋を提げた人、肩から重そうなカバンを掛けたまま陳列商品を覗き込む人。黒色のカバン、赤色のカバン、白いカバン。色とりどりで形も違う。
俯瞰してみると、雑多な物だ、と八尋は思った。しかし、その中でも一様に同じ色も存在する。紺色の学校指定のカバンだ。大きさもさほど大きくはないが、角ばった四角い形をした肩掛けカバンに、パンパンになるまで物を詰め込んでいる姿が散見された。カバンから水筒の頭が覗いていたり、アクリルキーホルダーをじゃらじゃらとつけていたり、上着を突っ込んでいたりと千差万別。
八尋のカバンはぺったんこになっていて、上着だけ持ち手とカバンの間に通されていた。もうだいぶ暑くなったというのに、いまだに詰襟を強要されていたものだから、下校時にはその息苦しさから、脱ぐことが多い。
ワイシャツ越しの八尋の肉体は、詰襟を排してなお、感嘆させられるものだった。広い肩幅に締った腰。ワイシャツをズボンの下に居れているものだから、余計に協調されていた。太い脚は制服ごしでもぴちぴちであったから、大きさがあっていない様な印象を与える。八尋にしてみれば規格がないのが悪いと悪態をつくところだった。
彼の横についてくる影が一つあった。
清楚な青色のタイを締めたセーラー服の少女は、小林・あこだ。
八尋は昼間の事を思い出すと頬をぽりぽりと掻いた。
先日、八尋が小林を付き人から引き離して帰らせた件により、小林の帰りは電車に変わったのだという。彼女の母親が強力に後押ししたと破顔していたが、一体どの様な話が行われたのかは不明だった。八尋が口添えした様な物だと、橋本は笑っていたが、八尋本人は彼女の言葉に実感を伴わなかった。
だからと言って、彼が小林と同じく帰路につく必要はなかった。当然、八尋はクラブ活動もしていなかったから、さっさと家に引き上げ、アルバイトに邁進するところだったから、周りに構っている暇はない、と思っていた。特に最近は生徒会の手伝いという面倒事まで増えているのだから、時間を有用に金銭に変更したいと思っていた。
しかし、小林が八尋を引き留めた。
小林はいつもの調子で、「帰りに図書館に寄ってください」と澄ました顔で言うものだから、最初は何事かと思った。小林に言葉を掛けられるいわれはないと、――本人は――思っていたから、何か難癖でもつけられるのかと乗り気ではなかったが、美人のいう事を放置もできず、仕方なしに図書室に向かった。多少の下心が八尋になかったわけではない。彼は感情的になるほどには、小林の事を気に入っていたし、また彼女と過ごす時間を無駄だとは感じてはいなかった。剰え、甘い役得などがあってもいいのではないか、とすら思えていた。だが、持ち前の鉄面皮は、八尋の心の底にある感情など一切合切まとめて切り捨てた。残ったのはいつも通りの凪の表情で、シーンとした冷めた瞳は興味なさそうに小林を見ていた事だろう。
夕刻の図書室は、昼時のひと気のなさがウソの様に、生徒たちがこぞってたむろっていた。部活の始まるまでの時間の調整や、過去問を借りに来る生徒、前日に借りていた本を返し、見知った顔に声をかける生徒など、知っている静寂さとは違う姿に八尋は面食らった。雑然と音が並び、外から入り込む掛け声や、応答の声、廊下をバタバタと走る生徒の靴音などがいくつもいくつも反響して、落ち着かないBGMを作り出していた。
だが、いつも通りに小林は窓際に座り、借りた本をカバンに詰めている所だった。いたっていつも通りの姿で澄ましている表情にもかかわらず、どこか楽し気に見えたのは、八尋の目の錯覚とは言えないだろう。鞄の中をごそごそと漁っては、一度詰めた本を詰め直し、わざとらしく「今、片づけをしているんです」というのをアピールする様だった。端的に言ってそわそわとした小林の振舞いと、時折携帯に目をやる姿から、明らかに誰か人を待っているのを表現していた。だというのに、口元に微かに微笑みがあるのは、どういう事か。
八尋が姿を現すと、今終わった、という様にカバンの口を閉めて肩に掛ける。図書室にいる人が戦々恐々とした表情で、八尋の姿と小林の姿を見比べた。まさか、学校一番の噂の君が、この様な強面の男子を待っていた、というのは衝撃だったらしい。
その上、小林の凛とした言葉で、「お付き合いください」と静かに発した言の葉がその喧騒に水を打ったように静寂へと誘い、同時に八尋の背中に冷たい汗が滲ませたのは事実だった。何人もの生徒から小林の言葉に対する懐疑的な視線が八尋には当てられ、幾人かの生徒からは地獄の様な怨嗟を口に乗せ眼光鋭く今すぐにでも襲い掛からんとする殺意を放たれ、ある生徒からは、嫉妬にまみれた視線が八尋のみならず小林にまで向いていた。
意味はわらかなくとも、この場からの戦略的撤退は早急にするべきだという事は理解して、何と答えたかも曖昧になりつつ、彼女の手をとりさっさと図書室を後にした。
小林は、噂など気にしないのだろうか、と隣を歩く彼女をちらりと八尋は見た。いつも通り涼しい顔をしていたから、また耳にでも息を吹きかけてやろうか、といたずら心が芽生えた。しかし、ここにはいくつもの目がある。特に同じ学校の制服もちらほらと見えるのだから、そんなところで下手な真似をすればどんな目に合うか、というのが想像できずに、彼の自制の心は行動をがっちりと抑制していた。
「――あのよ。何か用事があるのか? 小林先輩」
「……まずそれです」
どれだよ、と八尋は顔をしかめた。彼女の口調は大人しいが拗ねたように口をとがらせている。
小林は立ち止まると、くるりと右足を軸にして八尋に向かってターンした。微かに膨れ上がる彼女のスカートが白彼女の足を強調する。
「お名前、まだ知らないです」
「……俺の?」
他にいない、という様に彼女は八尋を睨んだ。無言の圧力は八尋に突き刺さる。すぐさま立ち止まり、小林を見た。
彼女は睨んでいる意図はないのだろう。小林の視線は元々目つきが細く鋭く映る。少しむっとした、というのが正しいのか、と心の中で訂正する。そう思えば、拗ねているというのが正しい感情の発露なのだろう。もともと、いじけている様な声色だったことから容易に想像できるはずであろうが、それ以上に彼女の意志が、八尋を怯ませるほどに強く、強く、外に視線という形で出ていた。
「貴方は、私の名前をどこからか存じ上げている様ですが、私はまだ……名前を聞いたことがありませんわ」
「そりゃ、名乗った事ないし」
しれっという八尋。
まだ初めて出会って二か月も経っていない。八尋が有名なのはあくまでも一年の中だけでの話だ。部活動に所属もしていない小林には知りえる手段がないのだろう。
小学生の様に名札を付けているわけでもないから、当然の事ではあった。その上、いくら昼に会っているとはいえ、ただ寝ているだけの八尋のことを、小林が気にかけているとは思えなかったから、放課後の件があった後も名前を名乗る事などしなかった。彼女の様に外見が優れている者が、わざわざ八尋に声をかけるとは思えない、と高を括っていたのは事実だった。
「まず、教えてくれませんか? それに、先日のお礼も兼ねて、お茶でもいかがでしょう」
「……あのさ。そんなの学校の自販機の缶コーヒーとかでいいじゃねぇの?」
「……缶、コーヒー……?」
小林の頭に疑問符が浮かぶ。
八尋はまさかと思った。しかし、先日の出来事を思えば、知識上知りえていたとしても、彼女には全く馴染みがないのかもしれないと思い至った。
しかし、いやいや、と八尋は否定する。今時缶コーヒーなどを知らない人間がいるとは思えない。路上にはいくつも自動販売機が存在しているし、スーパーマーケットで、コンビニで当たり前の様に陳列されている。それこそ電車の移動販売であってもあるだろうし、温泉に行けば全面ガラス張りの冷蔵庫に収まっている事だろう。そんなものを見た事ない――という事はありはしない。
あるいは、そういったところに行った事がないのか、という別の疑問も出てきたが、そもそも、彼女が「金持ちの家の娘」である事を思えば、その考えはあまりにも的を外れていると思っていた。
眼前で、眉を顰め、怪訝そうな表情で、目をあちらこちらと泳がせている小林の表情は非常に面白い。未知との邂逅をした人はこの様な困惑した表情をするものなのか、という事を目の当たりにして、八尋は小林という少女が少し――いや大分、変わっているという事に気が付いた。
「あの、缶コーヒーって……缶に入ったコーヒー……ですよね。あんなもので労うのですか?」
「……飲んだことあるのか?」
当然の疑問を口に乗せる。
まさか、と思う。しかし、彼女は未だに理解できない物を頭の中で探る仕草をしている。近似している情報を集め、答えにたどり着こうと思考しているようだった。時折、唇を小さく噛み、常識的でない事を「暴露しない様」に努めて居た。
八尋は、鼻で笑う事も可能だったが、彼女のプライドを考えてそんな事はしない。いつも通り表面上は一切の感情を出さず、小林を見守る。例えば、「いや、それはさすがにな」などと言葉にして彼女の肩を持つという事もできるだろう。実際、小林は助け船が欲しくて仕方のないという様に瞳を泳がせている。橋本が傍にいれば「またまた」と笑っている事だろう。八尋は柄にもなく、自分が笑うという事を想像したが、気持ち悪くて却下した。とはいえ、ずっと見ているというのも気が引ける。話題を変えるべきかとも思った。
だが、彼女は口を開いた。
「…………いえ」
消え入りそうな小さい声。しかし、しっかりと八尋は聞き取った。恥ずかしそうに伏目がちでちろりと八尋の事を見たというのは羞恥心が強いから直視できないという事だと理解した。
顔が真っ赤になっているのかもしれなかったが、それ以上八尋は突っ込む事をしなかった。
うん、と小さく頷くと辺りを見渡した。
青色の日よけが迫出した商店、黄色い看板が目に付くドラックストア。買い物客、帰宅する人、全速力で走り回る子供とそれを制するために大声を出す母親。男性はビニール袋に弁当を入れ、茶色い瓶の栄養ドリンクが首を出している。後方で、軽快な音楽に乗せてスーパーマーケットの扉が開閉する音が聞こえてくる。出入りは多く、開く度に大音量の音が商店街に響き渡る。しかし、その音もすぐさま別の生活音に相殺される。車のエンジン音が聞こえたかと思えば、歩行者用の信号機の奏でるカゴメカゴメが流れる。
油で汚れた裏路地は黒く、時折猫が顔をだしてこちらをじろりと睨んでいる。それでも、エアコンの室外機の前は譲らないという確固たる意志が感じられた。八尋の視線をみても猫はひるまず、小さくあくびをする。
ショーウインドウにBOOKと大きくディスプレイされた笹井書店は商店街で長く、カーゴが外に迫出して雑誌などを平積みしている。学生の幾人かが、その前を通りチラリとチェックしていく。八尋の学校の生徒にしてみれば通いなれた場所だ。教科書の購入先として指定されているということもあり、広くもない店内に、年に一度すし詰めされる。入る人と出る人の規制が曖昧であるから、すぐさまに人でごった返して、中々外に出られないというジレンマを体験する事ができた。店員が二人しかおらず、常にレジ打ちとレジの後ろに積まれた教科書を詰めたビニール袋を捌くのに躍起になっているため店内まで目が届かず、見るに見かねた生徒達が、自分たちで交通整理をする羽目になる。
隣の橋田洋服店は商店街の歴史と共にある様に赤レンガの三階建てのビルだった。陳列されている商品は年代物。若い人が着るというよりは母親たちの世代が着る様な少し落ち着いた表情の物がほとんど。形状も当たり障りのない物が多かったが、今の時代でも生き残っているのには理由がある。妊婦などの一時的にどうしようもない体系の変化というのは、それだけに多きな出費を強いられるものになる。そういう時この洋服店で買った物であれば無料で直しをしてくれるという。オーバーサイズを一着もっていればいいの、と母親は笑うのを聞いたことがある。あれは、八尋の叔母が妊娠した時だったと記憶しているが、何年前だったか正確には思い出せない。
二つの特徴的な店の間には小道があった。防犯灯が弱弱しい光を出して照らす事になるのは分かり切っている裏路地。広さも一メートル程度と自転車同士がすれ違うには狭い。
しかし、そこに自動販売機が設置されている。当然、商店街の間にはこの様な間隙は少ない。防災上、ある程度の隙間がある方が火事などの有事には対応しやすいだろうが、みっちりと敷き詰められた商店の波には逆らえない様だった。
すぐさま、八尋は小林の左手をとると、「来いよ」と彼女を引いて歩き出す。「え」という驚きの声が上がったが八尋の中では、小林の常識のなさに対する驚きが勝っていたため、気にするところではない。おそらく冷静な判断ができる状態であれば、小林の手を取った時点で、むずがゆい感触を全身で享受する事が出来ただろう。それは楽しい、とも、恥ずかしい、ともつかない甘酸っぱい感覚。しかし、今、八尋の頭の中にあったのは常識外れの人に常識を教え込むという目標だけだった。
ぐいぐいと八尋は小林を引き連れた。歩く速度を合わせるとか、横に並んで歩くとかそういった優しさはない。ただ、荷物の様に引き釣り回す、という表現が近い。だが、小林も八尋の歩調に合わせる様にトトトッ早足で付いていった。
しかし、本屋の前で足が止まった。くん、と後ろに引かれた。少しつんのめる様に八尋は止まった。
視線を動かせば、彼女がガラス張りの入口を見ている。タワー型の陳列棚を見ている様だった。視線の先にはキーホルダーが幾つも並んでいる。黒猫がいろんな姿をしたキーホルダーは、誰も手に取る事なく寂しそうに陳列されていた。本屋でそんなものを買う事もないのだろうとは想像がつくが、それにしても、数が減っていない事に哀愁さが漂った。
ひなびた温泉宿にたまに存在しているキーホルダーと同じ運命をたどっているのだろう、と八尋は思った。誰も手にも取られず、ただ色だけ透けていく。場合によっては破棄処分される事になるだろう、そのキーホルダーは、汚れ、擦れ、プリントが剥がれ落ちる。奇特な誰かが手に取って、どこの土産か分からないまま使う事になるのだろう。大量生産された統一規格のキーホルダーの行き先は最終的にはそんな物だ。特定のキャラクターであればいざ知らず、購買欲を刺激するには弱いコンテンツであればあるほど、置物に成り代わる。
入口に置いている事で、いずれこれも処分される運命にあるのだろう。処分といっても八尋はどういう事になるのかは知らなかった。メーカーに返されるのか、それとも産業廃棄物として出されるのか。いつまでも場所を取っている事はない、と店主が判断すればすぐにでも消えていく運命が透けて見えた。
小林の視線の先にあるそれは確かに、悲しみに満ちている。それを見つめる彼女の瞳は逆に物欲しそうに輝いている。瞳が光っている、とは言えない。しかし、その視線は釘付けにされている。八尋もそういった視線に記憶があった。バイクを持っていたグループの先輩を見る悪友の視線。欲しい物があっても「口には出さない」時の我慢の視線だ。
彼女なら、と八尋は思う。何でも手に入る事だろうと。八尋自身ならば、それは出来ない事は十分に理解している。手に入るものは自分で稼いだ分だけだ。彼女の噂を聞く限り、幾らでも家がお金を持っている、と感じる。先日、学校の門の前でもめていた車での送迎だけを考えても普通の家とは一線を画していた。
促す事はせず、彼女の哀愁に満ちた視線を確認するだけにする。八尋の訝し気な表情が小林の視界の端にも入った事だろう。いきなり立ち止まるというのはそれだけ相手に疑念を与える。八尋の場合には、小林が彼の手に引かれる事を拒んでいるのかもしれない、と暗示している様に映っている事だろう。実際の彼女の考えなど本人の口から出なければ分からないにも関わらず、態度の端々から観察し、推察する。
八尋は掴んでいる手を緩め放そうとする。しかし、その手は逆に小林から握り返された。細い指。柔らかい彼女の手がぎゅっと握る。力は強くないが、とても強く結びつこうとしている意思を感じる。指の一本一本が、ごつごつとした八尋の手の節々を捉えて撫でる。
指。
爪。
体温。
滑らかに小林は八尋の手を包み込む。右手の手に入る力は、彼の手を押しつぶそうとする物ではない。絶対に振りほどかせないという彼女の感情そのものを表現していた。八尋は一度緩めた手の力を戻して、しっかりと小林の手を握り返した。
外気は十二分に茹る暑さだというのに、小林の手は汗がにじんでいない。八尋の手には、じっとりとした汗があるにも関わらず。熱が籠ると感じる。本来なら「暑い」と言いそうなものだが、小林の手を握っていると逆に両手に蓄えられた熱は心地よい温かみに変わった。彼女の手が冷えている訳では無い。空調の効いた風が二人の手を撫でているという事もない。
八尋の手に入っている力を確かめた後、小林は視線を戻した。
彼女はすぐさま歩みを戻す。視線が沈んでいる様に見えたのは一瞬だったようだ。杞憂、という物だというのか、あるいは、実際に沈んでいたのか。それを小林は一切口にする事は無かった。
ただ、力強く結ばれた手に気づくと、恥ずかしそうに頬を染めた。
八尋は気にせず、一瞬前に出ようとした小林をリードして歩きだした。すぐに小道へと入ると、自動販売機が目に飛び込んでくる。
明るいはずの商店街の光はここまで照らす事は無い。ビルの影でサンドイッチされた自動販売機は、自らの力で煌々と光っている。白っぽいバックライトの光と、ボタンを行き来する赤い色が目にチカチカと映った。誰も居なくても彼らは常に光を発している。自分たちの存在を誇示するために作られた存在であるかの如く。本来、冷蔵できる装置であればいいにも関わらず、様々な工夫を凝らして佇んでいる。巨体の下部に設置された広告スペース。籤を搭載し、スロット画面を表示する電光掲示板。ICカードを誘導する緑色のランプ。
本来の用途に、利便性を追加した結果の存在たちは、それがさも当然の顔をして佇んでいる。止める者が居なかったのか、と思う改造も存在する。八尋は、高速道路のインターチェンジにあった古い自動販売機などを見ると、どうしてもあの大きなボタンは押しやすいなと思ってしまう。暖かい、冷たい。それが青色とオレンジ色で示されている。ボタンおの大きさも五センチ程度の大きさがあったのではないか。カチッとという音と共に、確かにプッシュしたという反動を手に与えてくれる感触が好きだった。
八尋は自動販売機の前で首を動かし、小林を見た。
当然見た事はあるだろう、その巨体を前にして、小林は目を丸くしていた。まさか、見た事がないとは言わせないという様に八尋は、疑念を込めて、
「これ、自動販売機。学食の所にもあるだろう?」
八尋はカバンを肩にかけなおしてから、左手で自販機を指した。
小林を見ると、恥ずかしそうに顔を俯かせている。自動販売機よりも、八尋の右手に視線が集まっている気はしたが、気にする事はない。
すぐさま、八尋の視線に気づき、小林はそっぽを向て拗ねた。
「……見た事はあります」
と一言。頬が赤くなっているのは、知らないと思われた事に対する憤りの所為だろう、と八尋は決めつけた。
しかたない、とため息をついて、八尋は小林の手を放し、カバンの中から小銭入れを取り出した。
あ、という言葉が漏れた気がした。小林が小さく口を開けているが、本当に声が漏れたのか疑問を持っていた。一瞬の出来事。もしかしたら、遠くの子供がはしゃいだ声が聞こえてきたのかもしれない。たかが、手を放しただけで、それは無いだろう、と八尋は思った。
しかし、小林の顔に浮かぶ残念を表現した表情は、印象的だった。子供が食べているアイスを地面に落とした時の様な絶望感が溢れ出ているものだから、一体何があったのか八尋は勘繰ってしまった。
携帯でも落としたのか、学校に教科書でも置いてきたか。いや、誰か人を見つけて驚いているのか。学校の先生か、生徒か。あるいは佐藤か?
あたりをきょろきょろと見渡しても、それらしい人が居ない事を八尋は確認すると、気を取り直して小林に向き直る。
「奢るから、飲んでみろよ、美味いから」
「――え?」
多くは語らず、八尋は手短に小銭を入れると「微糖」と書かれた商品を選択。ガコンと固い音を響かせて、金色の缶が出てきた。
手に取ると冷たさが指伝いに手に広がった。
小林に手渡すと、おずおずと、右手で缶を受け取った。冷たさからか一度手を引いた行動を見ると、あまりにも「常識」が欠落していると思えて仕方なかった。
真夏の様な日差しではないにしろ、蒸し暑さはあるのだから、丁度いい事だろう。
自分用にも一本。同じものを買うと、すぐさま小林の手を取った。
「ちょっと腰降ろせる場所行こう」
引いていく手に握り返してくる小さい力が伝わった。
そのまま八尋は小林の手を引いて、裏通りに入る。入り組んでいるわけでもない小道の先は、商店街の裏側にある公園への最短通路だ。
バイト先の傍という事もありこういった小道は幾つも八尋は知っていた。
公園といっても遊具もない。ベンチが2つあるだけの広場であり、緑地帯としての役割を持っている。広さは二十五メートルプールが入る程度の細長い形状で、植樹された木々の影で鬱蒼としていた。
ベンチに行くと八尋は小林の手を放した。少しだけ後を引いて彼女の手が離れた。
彼女に向き直ると、ぶっきらぼうに八尋は言う。
「八尋・真。好きに呼べよ」
「あ、名前、ですわね。……八尋さん」
ああ、と八尋は頷く。彼女はゆっくりと「八尋さん」と再び呟いた。呟く言葉が木々を揺らす風にのって遠くへと飛んでいった。どういう思いを込めて小林が呟いたのかは知らない。
知ってしまった時、どういう表情をすればいいのか八尋には分からない、というのが正直な気持ちだった。
ここまできたが、多くの生徒に見られている事だろう。明日になれば、根拠のない――あるいは根拠のある――噂と目撃証言が彼方此方で勃発し、八尋の噂をさらに増大させる事は間違いなかった。
「ついでにお節介だと思うが、先輩、常識ねぇだろ」
不躾な八尋の言葉に、む、として小林は八尋を見た。しかし、手に持った缶コーヒーを見て、バツが悪そうに視線を外した。
「うちの高校、頭いい方じゃないんだが、なんでそんなお嬢様が入ってきてる訳? 缶コーヒーくらい普通飲むだろ……」
「知ってますわ、それくらい。でも、」
口をとがらせながら、小林はコーヒーのプルを起こそうとする。カンカンと爪が当たるが、うまくひっかけられない様だった。
「外で何かを買う、というお金を与えられていませんし、アルバイトをする事も許されていませんわ。中学時代も、今になっても、食事も制限がされておりますし……」
八尋は目を丸くした。
随分と箱入りだな、と思った反面、余りにも親に従順な存在な事に驚いた。というのも、先日の送迎の件に関してだって、事の発端を考えてみれば彼女の反抗心であった訳だから、多少なりとも自分の意見を通す芯の強さがあるのかと思っていた。
学校で聞く噂や八尋自身が見た印象、彼女は「自分」を確立している、と思っていたが、むしろその逆で従順すぎるが故に回りになじめないだけなのかもしれないと思った。
ちょっとだけ彼女の事が知りたくて、質問を投げてみる。
「親の言う事はきっちり守ってんのな」
小林は小さい溜息を一つ。
「……仕方ありませんわ。養って頂いているものなのですから、当然の義務と思いますもの」
そういう考えもあるのか、と八尋は思った。自分と照らし合わせると、大分違う生活を送っている事に気づいた。中学時代にはグレて家にはほとんど戻らない生活すら送っていた八尋にとってみれば、頭ごなしに親に従うというのがそう簡単には受け入れられないモノだった。
しかし、彼女は盲目的に親に従っている。それを当然の一言で片づけられるというのは、
「でかいな。先輩」
一瞬の沈黙のあと、小林は赤面した。すぐに彼女は警戒した様子で胸を両腕で隠した。
「な、何がですか!」
張り上げる声には羞恥心が滲む。
「度量だ、度量。親の事なんぞどうでもいいと俺は思ってた時期もあるが、そう許容できるっていうのはすげぇな。そういう風に考えられる様になってきたのは、俺、随分と最近なんだがな……。その間に五回も警察に補導されてんだから笑えるわ」
「……」
彼の言葉に、何とも言えない表情をしながら、小林は肩の力を抜いた。
しかし、小林は笑わない。表情は複雑なままだが、八尋の事をしっかりと見ている。どういう思案をしてるのか気になったが、焦らせる必要もないのでじっと待つ。
「……そんなものじゃありませんわ。ただ、ただ、私自身が考えていない、というだけではありませんか……とても、惨めに思います」
沈んだ声。小さいが、消え入りそうな程でもない。自分自身を拒絶している様な吐露だったが、八尋は気にしない。沈み込む相手を慰める術など知らない。
ただ、真っすぐに、貫く事しか。
「否定すんな。俺がそう思ったらそうなんだよ。――先輩がどう思っても、俺が感じる事は俺が耳で聞いて、目で見て、肌で感じる情報しかねぇよ。それを否定するっていうのは、言葉だけじゃねぇ。行動全部だ」
どういう意味か分からない様で小林は首を傾げた。
八尋も自分で感じている事を言語化する事が得意な方ではない。だからと言ってこのまま有耶無耶にする事も居住まいが悪い。
「――俺も、上手く言えねぇけど。俺が分かるのは俺の得た情報だけで、それを否定するっていうのは、全部否定しなきゃなんねぇ。――嘘をつく時な、相手は全部の要素を見て判断するよな。例示が必要か? んー……。俺が――ここに持っているコインを消すとする。一度手に握って、手を放すと同時に『消えました』って言って――消えるとするわな。その時、あんたは、俺の手を見て、握られてないコインを確認して、俺の表情を見て、俺の言った言葉を聞いて、実際に俺の手を触ってみて、『無い』って判断すんだろ。
俺は全部の状態で『コインが消えた』という嘘を体現しなけりゃならない。例えば、俺の口がにやけていたら? 例えば、俺の手が震えて、後に何かありそうだと感づかれたら? 言葉が揺らいでいて自信なさげだだったら? 目が泳いでいたら?
そんなブレブレの状態で、俺は口で『コインが消えた』と自信なさげに言われても、本当に思えんだろう。
先輩が言ってるのはそういう事だ。俺は、そうだと判断したんだが、あんたの持って来た情報だけじゃ否定はできん。なんせ、俺は先輩の事を知らんからな」
小林はなるほど、という様に小さく頷いた。
「確かに、――私の言葉を裏付けするような物がない以上、自分の情報を信じるというのが、八尋さんの考え方なのですね」
「だって、俺、それ以外できねもんよ」
さも当然という八尋の言に、小林は目をぱちぱちと瞬かせた。
「あのな。俺は第六感があって相手の心が読めますや、相手の思考が読めます、何て事はねぇ。俺と先輩の付き合いって一体どれけよ。二、三か月じゃねぇか。それで些細な表情の変化を読んでくれって言われても、分からねぇよ」
「……そう、ですね」
小林は、視線を手元に落として、缶コーヒーのプルをぱちぱちと人差し指で動かした。
物憂げな表情も様になるが、悩みすぎる傾向があるらしい事は見て取れる。
八尋は他人に御節介を焼く気はない。だが、事、小林に関しては多少感情が揺らいでいくようだった。
「もしよ、そういう――事で悩んでんなら。話してもいいんだぜ? 俺でよければ。どうせ、昼休み寝てるだけだしよ」
小林は顔を上げて、目をまん丸にしていた。すぐに、表情が和らいだ。
嬉しそうな、温和な表情だけでは彼女が何を考えているのかは理解できなかったが、先ほどまでの沈んだ表情ではない事は良かったか、と八尋は思う事にした。
「――紗月にも言われました」
くすり、と小林は笑った。
まぶしい笑みを浮かべる小林の表情が、直視できず、別の事でごまかそうとした。
すぐさま八尋はひょいっと小林の手から缶コーヒーをとると、さっとプルを倒して開けた。
「ほれ」
照れ隠しのつもりだった。
しかし、小林が言及する事はない。
「……ありがとうございます」
受け取り、おずおずと一口付けた。
暑い中で飲む甘味料込みの飲み物は、未知の体験か。目を見開いて彼女は口を隠した。
「うまいよな。冷たくて」
「えぇ」
言葉少なく、小林は同意する。
再び口を付ける。ゆっくりと、一口を味わう様に口の中で回して嚥下。コッコッと喉を鳴らして飲み進める八尋とは対照的に、随分ののんびりとした仕草だが、お淑やかという佇まいにはよく似合っていた。
口を放すと、ほう、っと小さい息を吐く。ちろりと覗く舌が艶めかしく蠢いた。
八尋は凝視するわけにもいかず、小林の脇をとおりベンチに腰かけて、カバンを肩から降ろした。重い荷物からの解放という訳では無かったが、それでもあると無いとでは気持ちの縛りが違った。
「この間の礼っていうのが用事なら、もう済んだってことでいいのか?」
小林が、八尋の言葉にはっとして、八尋の方を見た。右足を軸に半回転。ふわりと舞うスカートの裾からふくらはぎが覗いた。
生徒の多くはスカートを上げて履いているが、小林はきちんとしたロングのまま。夏とか冬とか関係のないのは理解できるが、暑苦しく映る。とはいえ、彼女が短いスカートを履くとは考えられなかった。きっと白い肌にすらりと伸びた脚が映える事だと想像できた。八尋は邪な思いを振り払う様にコーヒーを一気に呷った。
「八尋さん」
彼女は八尋に頭を下げた。八尋は綺麗なお辞儀にびっくりした。
「有難うございます。この様に帰りに自由に使える時間を頂く事ができたのも、八尋さんのおかげです」
「いや、大したことしてないだろ」
いいえ、と彼女は首を振るう。
「お母さまに、お付き合いさせていただいている方がいらっしゃると報告させていただきました。その方と夕刻の時間を楽しみたいと、誠心誠意説得をさせていただき――」
「ちょっとまて!」
八尋は声を張り上げて、小林の言葉を遮った。
どうしたのと言いたげに、彼女が首を傾げた。その表情は一体何か、八尋は推測する。もしかしたら、八尋など関係ないところで付き合っている相手がいる――というのも考えられなくもない。例えばあの佐藤とかどうだろう。確かに口は悪いが見てくれはいい。内面については分からないが、本人同士が好き合っているというのなら、問題はない、などと思考が走った。
しかし、佐藤と小林が付き合っているなどと想像するだけで、非常に悔しい気持ちに支配され、口をへの字に曲げた。
「いや……当事者じゃない、俺が口を挟む事じゃないな」
何を言っているのか、と彼女は目を数度ぱしぱしと瞬かせた。
「先ほど、図書室でお伝えしたと思うのですが。お名前も分からなかった事ですから何分守護が曖昧で……。あぁ、そう、……当事者――でないということは、断られたという事でしょうか……」
語尾が沈んでいる。
八尋の頭はすでに情報の過多に対応しきれなくなってきた。軽い頭痛を抱えた拍子に、空き缶が手から零れ落ちたが気にも留めなかった。
いやいや、と頭をゆっくりと振る。図書室での「付き合って」は重大な告白だったらしい事に思い至る。何気なく言われた言葉であり、お礼程度だと思っていたがその認識を改めなければならない。
一度息を吸い込み、口元に手を当てて視線を外す小林を見れば、本気で言っていたことだろうと推測はできた。
しかし、と頭の中を切り替える。自分が何をしたのだろうか、まったく理解できなかった。普段は昼の図書館で横にいるだけで、たまに二、三言葉を交わす程度で、一度は耳に息を吹きかけ機嫌を損ね、一度は彼女の拘束を解いた。ただそれだけだ、と反芻すると、なぜという疑問ばかりが頭の中を支配した。
「断るとか、断らないとか、の前に確認。――なぜ俺?」
小林は視線を上げて八尋を真正面にとらえる。深い紫色の瞳が揺れた。
「居心地がいいのですもの。他の方はもっと私に執着なさるでしょう? それなのに、今でも直接的に、その――私の事をそういう目で見ないんですもの」
「いや、前に、――図書室で色々言ったと思うが?」
それは、と小林は頬を染めて、
「あの様に熱い視線と、熱烈な口説き文句初めてですわ。普通、私の事を見る視線や言葉は、もれなく厭らしい物が含まれておりますの。ですがかっこいいという言葉と、貴方の視線は真剣そのものでしたわ。――情熱的というのはそういう物なのかと実感したのですが、紗月に話をしたら、下心を隠してるのよって笑っていて。あぁ、確かにと私も思いましたわ。あの時、私の全身をくまなく見ていたのだから、きっと色々と想像をされていたのだと思いますの。でも、一切それを排して――表面にも出さず、いじらしいじゃありませんか。そう思ったら胸がきゅうって切なくなりまして……。この方ならば、と思えたのでございます。それに、先日の二つの件で、確実に私の心は奪われましたわ。私の事など路傍の石の様に扱って、でも耳をイジメてくるなんて、――罪作りなお方です。その上、私を顎で使う様な高圧的な態度……。今までお父様以外にその様な態度はとられた事ありませんわ。屈辱感と解放感と、何とも言えないぞくぞくした感覚が背中を掛けめぐるのですの。ですから、あれから無視をされても図書室で隣に座っておりましたが、それだけで胸が高鳴って今すぐに一言欲しい、きっと耳元で囁かれたりでもしたら――どうなるのか私分からなくなって期待しておりますの。さっきも急に手を握られるものですから、あふれ出る感覚で、昂って貴方に首輪でもつけて持ち帰りたいと――。その上、私の口に初めての物を入れるんですから、とても興奮してしまいます。喉から貴方の色に染められていく感覚を想像しただけ、あぁ、これ以上いけませんわ……頭が茹で上がりそうな程に熱を帯びておりますもの。きっと八尋さんの事を考えて――ふふ」
「……は?」
八尋は、こう思った。
この女はヤバイと。
細胞レベルでドン引きする事は必須。お淑やかなのは表面だけで、その内にはかなり問題を抱えている事が窺えた。抑圧された生活の中で、開放できない妄想は、彼女の脳内に多大な欠陥――あるいは、一般的認知との相違といった方が良いかもしれない、ズレを生じさせている。どろどろとした支配欲に近い情念に、同時に被虐と嗜虐が混じり込む特異な体質は、恍惚の瞳を八尋に向けていた。あまつさえ舌なめずりの様に、ちろりと舌で唇の端をなぞる仕草は、――きっとコーヒーの残りを掬い取っていると思いたいが――彼女の内に秘めた欲望がそれだけはないという事を物語っているきがしてならなかった。
おそらく、一言で言うならば変態。
ただの変態ではない。
自己顕示欲が変な方向に向き、八尋だけに特化している。
中学時代に色々な人を見た八尋でなければ、おそらく顔が引きつっていたことだろう。二十四時間情欲に明け暮れたカップルや、薬をやってラリって奇声を発しながら虫を食べる者、とりあえず見かけたら殴るという暴力特化の者や現代アーティスト気取りの落書き好きな者。色々な人を見るというのはそれだけ許容範囲が広くなるのだな、と実感すると同時に、当たり前に受けられそうな自分が、非常識にも思えた。
しかし同時に、こうも思った。
惚れているのは確かだと。
彼女の唐突なカミングアウトは確かに一般常識からは逸脱していると思えたが、だからと言って彼女の存在を否定できるものではない。確実に分かるのは、彼女が八尋に胸の内を打ち明けたという事実であった。信頼しない相手にそう簡単にさらけ出す事はないだろう。もしかしたら、八尋が寝ている間に悶々とした気持ちを妄想で慰めていたのかもしれない。勝手に八尋というキャラクターは構築され、脳内で様々なシチュエーションで立ち振る舞っている事だろう。だからこそ、会話が少なくとも八尋に対してこれほど信頼を寄せている、と邪推すると、八尋は顔が引きつりそうになった。が、それほど強い想いを持っているというのは、かなりこそばゆい物ではあった。
八尋も性格的な問題はある。
視線を上げると、小林はいつもの様に凛とした空気を放っている。
今、目の前にいる美人を前にして、胸の中にある感情は、彼女が指摘したとおり、支配的行動をとった事への羞恥心と同時に、征服感。それに伴う彼女の反応が、彼の獣欲を刺激している。だが、それを押し殺す。自分を制御するために、どろどろとした感情を一切合切無理やり脳の片隅へと追いやっている。微かに残る桃色の歪は、彼に今すぐにでも小林に襲い掛からんとする妄想を育むが、強靭な精神力で封殺する。
なんのためか、未だに恐怖を引きずっているというのが事実だ。甘い言葉に、仕草にあてられて、楽になりたいと思う気持ちはあったが、一時それを信じ込みのめり込んだ後、仲たがい、あるいは、自然と別れる事になった場合に味わう、深海に叩き込まれたような喪失感と虚無感は、二度とごめんだと思っていた。
ぐるぐると思考が同じところで回り、停滞しそうだったが、無理やり動かす。手を握り、開いて、呼吸を落ち着ける。
彼女の言った、「心を奪われた」ということは、そういう事でいいんだよな、とも思いつつ、だからと言って八尋は実感を持てないでいた。自分自身の評価――というか外見的な特徴が主ではあったが――において、彼女と並ぶことを良しとできる存在なのか、と言われれば疑問符がついているのも確かだった。登下校の送り迎えがある家なんて、金持ち以外にはありはしなし、しかも箱入りときている。缶コーヒーすら理解できない相手であるのは事実だ。格式が違うとも、常識が違うとも、感覚が違うとも思えた。
自分なんかが、隣に居ていいのだろうかという疑問。
と同時に、首輪ってなに、とも冷静なって考えると、背筋がひんやりとする。
彼女の持っている嗜虐心は八尋に何を要求してくるのだろうか、不安になる。そういう事を好む男女がいるというのは、八尋も知っている。サドとかマゾとかというやつだというのも理解はしているが、だからと言って、八尋がその手を好むかと言われれば別問題である。理解はするが、個人的趣味趣向の範囲から逸脱している。
妖しく光る紫色の瞳が八尋の胸を透かす様に向けられている。
ドキリ、という胸の音はどういう音か。
蛇に睨まれたカエルの気分を味わいながら、八尋はごちゃごちゃになっている頭を整理した。
「一つ、言わせてもらう」
八尋は、言葉を選びながら、口を開いた。
「好意的な意見だから、戸惑っている。と同時に未だに確証が持てない。相手は、俺だが……」
「えぇ、八尋さんです。それって嫌ではないってことですよね。良いんですよね。ふふ。でも、実感がない……というのはそうですわね……何か覚悟を示すものが――はっ! そういう時、男女では三々九度を! ――!? もしやこれは缶コーヒーというのはそれを暗示して……」
「それだともう結婚だ……先輩、頭悪いだろう」
疲れたように肩を落とす八尋に、小林は拗ねた様に口を尖らせた。
「そんなことありませんわ。順序を経なければいけないというのは重々承知の上ですけど、――舞い上がっているだけですわ」
「忠告するぞ。そういう妄想を垂れ流すのはやめとけ、俺以外はドン引きする」
「あら、八尋さんは良いんです?」
嬉しそうに微笑む小林の前で、ぐったりと顔を上げた八尋は、小さくため息をついた。
「俺は慣れてるからいいよ。それに、あんたも存外に『壊れてる』っていうのが理解できて、安心したよ」
「……?」
とりあえず、と八尋はゆっくりと立ち上がり、小林を見下ろす。身長が高い八尋からすれば、頭一つ分は小さい小林を真正面にみると、自然と見下ろす形になる。当然、彼女の視線は上目遣い。破壊力が高いが、自らの内面に存在する欲望を押し込めながら、小林の左手を握る。
「友人としてから始めよう、まだ、互いの事もわかってねぇだろ。先輩の欲望に叶う相手なのか見極めるのも重要だと思うが?」
「――これって、私振られたのでしょうか?」
「違う。俺も先輩を女として意識して見る様にするから、対等になったという事だ。それで――互いに良ければ、付き合おう」
小林は頬を桜色に染めた。
「硬派なんですのね。とても、相手のことを大事に考えていらっしゃる気持ち。確かに、受け取りました」
「……なんで、すぐ仰々しく考えんの。――ま、少しづつ変えて行きゃいい」
小林が妖しく笑みを浮かべている意味を深く考えない様にしながら、八尋は空を見上げた。
樫の木が大きく風で揺れている。青々とした緑の隙間から光が差し込んでいた。
●
苛立つ熱は、辺り構わず力を誇示した。部屋にあるのは一般的な家具。机、カラーボックスが二つにベッドが一つ。だが、どれも形状が歪になっている。机は角が何かで傷つけられ、ささくれ立っている。カラーボックスは天板に歪みが起きている。上から巨大な力でも加えられたことを物語っていた。ベッドも金属製のフレームに巨大なタコの吸盤が付けた様な丸い跡が残っていた。床に散乱するのは金属製のハンマー。窓にむかって振り下ろそうかとも思ったが、肩で息うぃする佐藤の手から、ぼとりと落ちた。
後輩に出し抜かれたという事に対しての感情と、自分自身を見ない彼女に対して、佐藤は激しく苛立っていた。激情に駆られた行為は、物の破壊を伴って次第に落ち着きを戻した。
殴られた記憶も新しい中で、更なる屈辱を追加されたとなれば、八尋に対しての怒りは、地獄の業火の様に激しく吹き上げていた。
お淑やかで、清廉で、汚れ一つ感じさせない無垢な彼女。漆黒の髪は艶やかで、きっと指を通せば一切の引っかかりもないだろう。滑るように頭頂から毛先まで滑らす事ができ、羞恥心にうるんだ紫色の瞳が揺れる事だろう。佐藤の甘く蕩かしい言葉を耳元で囁けば、身もだえしながら口をとがらせ、小鳥がさえずる様な細かく小さい吐息を漏らし、口元に手をあてて恥ずかしがる。耳たぶが赤くなり、そっとその耳に髪をかき上げて触れてやると、こそばゆい感覚から肩を震わせながら視線を外すのだ。頬を赤く染め、「馬鹿」と隠し切れない笑みを取り繕う様に悪態をつく。喉元から、つーっと指を動かして彼女の鎖骨に触れうる。身悶え、目を細め、いたずらする佐藤の手を小さい彼女の両手で握り、頬に摺り寄せながら、「今は駄目」と目で訴えてくる。
そんな甘酸っぱい未来を、見る予定だったのに、佐藤は憤る。
全ては、八尋がいけない。佐藤の頭にあるのはそこだけだった。
小林をどういう手か分からないが誑かし、毎日手をつないで帰る様子を見せつける様に、わざわざ校門の前で待ち合わせをしてサッカー部の練習をしている前を通っていくのだ。苦虫を噛み潰した気持ちになるのは当然だった。
佐藤は小林に四度、アプローチをしていた。手紙、対面含めてであったが、その都度「今はそういった気分ではありませんので」と回答を保留させられていた。
小林の趣味が悪食なのだろうか、とも邪推したが、否、と頭を振って八尋の所為に変換した。
不良であったという事だから、きっと多くの快楽を知っているのだろう。送迎でも揉めている一件の後からの急変であるから、無理やり手籠めにでもしたのではないか、という極論まで到達したが、それを証明する事も、否定する事もできず、腹の中にどす黒い怒りだけがペンキの如くぶちまけられるだけだった。
ストレス発散をする様に運動にのめり込み、その度にネット裏から黄色い声援が送られていたが、佐藤の頭には小林・あこしかなかった。
イライラとした気持ちを切り替える事もできず、八尋に、八尋に、と向けていた怒りは次第に小林にも向いていく。
毎日、毎日、手を繋ぎ正門から出ていく二人を眺めて一日、二日であっても嫉妬心で狂いそうだったのに、もう一か月過ぎる。
小林のスカートのポケットから時々垂れ下がるのは黒猫のキーホルダー。携帯に付けられていて、鞄の端からもたまに顔を覗かせていたりする。いままではそんな物を身に着けるという事もなかった。彼女自身が宝飾品と同等の存在価値だったし、あり大抵の物では、存在価値が小林自身に霞んでしまう。
しかし、彼女が身に着けているキーホルダーを佐藤は幼稚に思えて仕方なかった。今時の高校生が付ける様な流行りものとも違う。彼女が猫を飼っているのであれば、猫好きという事で理解もできたが、彼女の家では動物は飼っていない事は知っていた。忙しい両親がそういった手間のかかる動物を好まない、というのが理由らしく、佐藤の持っている独自の情報ルートで確かめた結果だ。
であれば、あれは一体なんであるのか。その答えは八尋らしい。
橋本と小林が時折話している言葉を盗み聞きすると、「彼がプレゼントしてくれた」と喜んでいる言葉が聞こえた。
まさか、と思った。そんなもので満面の笑みを浮かべるとは一体どうしたことか、と屈辱にまみれた叫び声を上げたく手仕方なかった。
そんな物のどこがいいのか、一体何がいいのか、自分がもっといいものをプレゼントしてあげるというのに、という張り合う気持ちはあった。二人が和気あいあいと話しているところに首を突っ込んで、キーホルダーを馬鹿にしたら、白い目で橋本が窘め、小林は悲しそうに沈んだ顔をしていたから、更に理由が分からない。
梅雨時の湿気を含んだ空気が、大暑の日差しに変わり、むわっとする空気の存在感を全身に浴びせる程に季節は進んでいた。
夏休みまであと一週間。
彼女との甘い思い出作りは今年も過ごせないのだ。
原因は何か、八尋か、それとも、小林か。
佐藤の行きついた先は、「自分」だった。
昼に会っている所を何度か目撃した事があった。図書室で小林の耳に顔を近づける八尋を見た事もあったし、彼の寝ている所で静かに本を広げながら八尋のだらんと垂れた腕を握っている小林の姿を見た事もあった。カーテン越しに外気が入ってくる中で、寒くならない様に気を遣い、窓の口の大きさを気にする小林の姿や、小林の邪魔にならない様に本を読んでいる姿をじっと見つめるだけの八尋の姿は、激しい嫉妬心を湧き起こさせた。
彼らは二人でいい雰囲気を出していた。言葉だけではない。会っている回数が段違いなのだと思い至った。
積極性の違い。
佐藤と八尋の差は陸上とマリアナ海溝の底程の差があると自覚した。
佐藤はそれを機に、昼休みの時間も含めて、休憩時間になれば小林の所へ足を運んだ。
何度も。
何度も、何度も。
彼女は振り返らない。言葉をかけても周囲から同情的な視線が向けられるだけだった。小林は「もう、休み時間は終わりですわ」とドライな対応に終始していた。それでも食い下がる様に彼女に話しかければ、教師からも注意をされて、彼女のクラスメイトから失笑をかった。
恥ずかしかった。それ以上に悔しかった。
情熱は負けない。顔だって、成績だって、将来の展望でさえ、あの不良には負けない。どこに負けている要素があるというのか。何度も何度も自問自答した。その答えは決まって、自分自身の勝利であり、唯一負けているのは腕力だろうという結論。
一度食らった腹の痛みがぶり返してくるような錯覚を覚え、顔をゆがませた。苛立つ気分に制限が付けられず、むしろ拍車をかけている。ガンガンガンと床を足で蹴っ飛ばす。足から脳天に突き抜ける振動が、軽い興奮を与えた。
例えどんな甘い言葉をかけても彼女は振り返らない。
例えどんな仕草を褒めても彼女は振り返らない。
例え彼女の存在を崇めたとしても彼女は振り返らない。
何をしても、彼女は振り返らない。
「それは脈がないっていうんだよ」
同級生に言われたが、そんなことはないと否定した。自分に靡かない女子なんていない。そう思えているからだ。実際それは事実だろう。何度となく、自分の成果を考えてみれば、間違いない。
机の上に乗っかっているフォトスタンドには、佐藤と一緒に一人の少女が映っている。まだ中学生の頃の写真で、背丈も今の彼よりも小さい。石塚・沙良。彼女の名前をゆっくりと口に乗せて佐藤は確認する。写真をなぞる指が彼女の顔をゆっくりと、妖しく蠢いた。
石塚の事を一言で言うのであれば、恥ずかしがり屋。年齢の割に発育が良く、生徒達の間ではかなりの競争率を誇っていた。しかし、声を掛ければ逃げ出してしまう様な恥ずかしがり屋の彼女に、言い寄れた男はいなかった。
佐藤以外は。
彼が卑怯な手を使った訳でもない。彼女の為に特別な何かをしたわけでもない。最も簡単な方法で、ただ、石塚に何度も、何度もマメに口説いたというだけの事だった。朝、昼、夕方。時間を見つけて一日に三度、四度、五度。学校帰りの時間は合わなかったが、それでも彼女の帰る時間に手を握って帰りの挨拶をする。
ストーカーじみた行動だったが、学校の中だけで収まっていた。仮に、彼女が佐藤のアタックをもう少し続けさせていたら分からなかったが。結局、調べた家の場所も、彼女の家族構成も、一週間のスケジュールも、ほとんど使い物にはならなかったが。
石塚もそうだった様に、きっと、小林も恥ずかしがっているのだろう、と思うと、なるほど筋が取っている気がしてならなかった。
今、自分が取っている手段は、石塚の時と変わらない、と気づいた。それでは足りないのだろう。
ならもっと積極的にいかなければ、いけない、と佐藤は思う。
どういった手がいいだろう、もしかしたら直接的な行為に及ぶ方が彼女は喜ぶのかもしれない。
例えばどんな?
彼女の家に押し掛けるとか、あるいは、無理やり唇を奪うとか?
それとも痛みが好みなのか?
あるいは屈辱的な行動が?
八尋がそういった暴力性の塊なのは当然なのだから、まさか、とは思ったが、佐藤の妄想は加速する。
叩かれたり、殴られたりそういった事が好きな性的嗜好もあるというから、あながち嘘ではないのかもしれない。
であれば、彼女が喜ぶものは、普通に口説く事ではなく、そういった……バイオレンスな物なのだろうか。
首を絞めたり、縛られたり――。
佐藤が考える積極性は、本当に可能なものなのか一般的な倫理に照らし合わせて是正をする者など誰一人も居ない。
佐藤のストッパーになる様な人など、彼の『友達』だっていやしない。誰も彼も、佐藤の痛い行動を勝手にさせているだけだとは気づかない。
皆が応援していてくれていると思っていた。
一歩先に、二歩先に進んでいる八尋の事が頭に浮かんだ。
八尋は一体なにをやったんだろうかと想像すればするほどおかしくなりそうだった。どういった事を二人で話すのか。学校の事? 知人や友人の事? 噂話? 趣味? そもそも趣味ってなにか分からない。彼女は読書か? だとすれば八尋とは対極な気がするが。デートの回数は何回で、どこにいったのか。まだ数か月と言えども土日の回数は20回近くある。帰りの回数で言えば、50日近く。制服デート? 水族館? 映画館? ショッピングモール? 食事は? もしかしたらもっと先まで進んでいるのかもしれない。例えば、抱きしめたのか、口づけはしたのか、まさかとは思うが寝たのか……。
暗い部屋の中、佐藤はスマートフォンに撮りためた彼女の写真を眺めながら、醒めた思考の中に埋没した。
●
暑い空気がねっとりと体に絡んで来る。重い、湿気を払いのけたいが、手を振るったところで消えてくれるわけではない。八尋の周りに見えない姿のまま、何度もペタペタと引っ付くだけだった。
八尋はバイトを切り上げて、午後十時過ぎに帰宅していた。自転車を飛ばし大暑の夜を疾走する。心地よいとは言いづらいが、それでも風が連続的に流れる中では、あふれる汗にあたって、涼しくは感じた。地面から立ち上る熱は、足元に沼の中にいる様に重い感触を与えていたが、八尋の自転車を扱ぐ速度は衰える事はない。四月の時点では学校に行っていなかったから、毎日通った同じみの道だった。幼いころからの慣れもあったし、学校に近いということもあり日常に溶け込んでいたものだから、直線距離で二キロの道のりであっても、彼の足を淀ませるものは何もなかった。
駅前の商店街から一本裏に入ったところではあったが、ラーメン専門店という事もあり客の回転もいい。蒸し風呂の様な厨房であれば辛いだろうが、幸い彼はフロアの担当だった。客層もサラリーマンが多く、非常に落ち着いた雰囲気だった。店主に初めて会った時には、色々と勘違い――特に高校にも行かないグレた少年といった――をされ、店主も学校にいい思い出が無いらしく、共感を示してくれ便宜を図ってくれていた。その上、誤解が解けた後に、高校に入学する事になった時にも、親の様に喜んでくれた。夜だけでもいいから、とバイトを続ける事ができたのは、店主の計らいがあっての事だった。
その時出された大盛のまかないはひそかに写真に残していた。麺だけで十玉。具材には余ったチャーシューと炒めた野菜をこれでもかと乗せ込んで、バケツかと思う特大の器で出された時には、大食漢の八尋でも顔が引きつった。残してもいいよ、といったが店主の嬉しそうな笑顔を曇らせる訳にもいかないので必死に食った記憶がある。あれから当分はラーメンは要らないと思ったが、二日後には普通に食えるのだから大したものだと自画自賛。
一本通りが変わる。片側三車線の大通りにぶつかる。駅から南北に走る大きな国道だった。時間帯のせいか、交通量は少なく、時折大きな牽引車が低い唸り声を上げて通り過ぎる。この道路を渡るのは時間がかかった。押しボタン式であればまだ問題ないのだろうが、駅から延びる東西のメインストリートとも離れているから、信号か変わるのがやけにゆっくりだった。
普通の信号の倍近い時間、ただぼっと立っているというのも八尋は好むものではなかったから、時折は北に二百メートル程のところにある歩道橋に自転車を担いで渡る、という事もしばしばだった。今日も信号を待つ気にはなれず、遠回りの道を通る。
小林に一言言われたのが心に残っていたのかもしれない。「こちらの道の先に私の家があるんです」とコロコロを笑う彼女笑顔。どういうつもりで教えてきたのかは分からないが、まさか、本気で親に紹介しようと考えているのだろうか。
八尋は自分の事を見つめ直す。自己肯定感が低い方だったから、自分に対しての評価は相応で、ミジンコかイカダモくらいが同じ仲間だと思っていた。他人との会話らしい会話は、小林と最近する様になったが、それまでのほとんど必要ないと思っていた。「分かれよ」と雰囲気で不機嫌なオーラを常に纏っていた。今となれば「喋んなきゃわかんねぇよなぁ」とは理解している。特に、同級生の上野には未だに助けてもらっているとは思っていた。
その上で、小林がどうしてこんなどうでもいい存在に笑いかけてくれるのか、彼には理解できない。彼女が色々な事を言って、頬を染めたのは覚えていたが、そういった存在であれば他にも幾らでも居たのではないかと思えるのだ。
それは、八尋に自信がないという事と、彼が多くの人と話していないという問題を持っているからだった。それに八尋は気づいている。というのも、上野に指摘された事があったからだ。上野は厳しい口調にはならず、鼻にかかった様な声で「そうやって自分を否定してもいいけど、僕を助けた事くらいは誇っていいんじゃないか? そんな事できるの奴なんて、何人もいないよ。良く回りの人と話をして『一般』っていう定義を作った方がいいと思うけどね!」笑いながらデカい声で張り上げるものだから鬱陶しくなって軽く頭を小突いた事があった。
歩道橋から自宅まではまだ一キロ半ほどあるわけだから、多少遠回りしてもいいか、と思い立つ。学校は南側だったから、あまり知らない道をあえて選択した。
彼女の言葉を思い出しながら。
一本松の住宅。
三体の地蔵が並ぶ十字路。
住宅街の中にポツンとある稲荷神社。
彼女の笑いながらの言葉を思い出して進んだ。
夜の住宅街へと伸びる小道へ進む。いつも通る道とは違うだけで、わくわくした気持ちになった。小学生くらいの時は自転車にのって何人もの友達と街のあちこちを駆けずり回った。ただ自転車に乗っている事が楽しかった。自販機を見つけて「ここ安いぞ!」と声を張り上げたり、行き止まりの道を見つけて「ここは逃亡には使えないな……」とか警察から逃げる事を想像してみたり、「げっきょく駐車場がおおいよなぁ」と言って駐車場に止まる車を眺めたり。
懐かしい記憶と共に、未知の道への興味が沸いてくる。
生垣の高さ。塀の形状。防犯灯の頼りない明かりが陰影を濃くする。二階建ての家から聞こえるテレビの音。エアコンの室外機の駆動音。虫の音も微かに聞こえ、夏なのだ、ということを自己主張していた。
白い明かり。オレンジ色の明かり。家から漏れる明かりが路面を淡く照らしている。人通りが少ない道ではあっても、生活の明かりはきっちりと漏れているから、あまり暗い印象にはならなかった。
大きな家がいくつもあった。この辺りは、地付きの人が住んでいるだろう、と推測できた。庭も大きく、納屋の様な物もある。北側にある農地に隣接している住宅地という事を考えれば、農家なのだろう。軒先に置かれたままになっている長靴は、地面を黒く濡らしている。水洗いして泥でも落とした事が窺えた。
興味深いが家の中に入っていくわけにもいかず、速度を落としながら通り過ぎる。
前方に人影が見えた。
家の門に吊り下げられている白いライトに照らされている。
二人組らしく、片方は背が少し高い。男女だろうか。
近づくにつれてシルエットが明確になる。左右に広がる光景は、左手側には農地が、右手には木造の塀が立っていた。
二人の姿をきっちりと確認できる距離となった。五十メートル程度しかない。
男が女を拘束し、それに対して、手を振り払おうと藻掻く女。
女は家の者なのだろう、門を背にして立っている。長い髪が彼女が動く度にゆらゆらと揺らめいた。
なんとなく、そこの前に行くのが嫌になって自転車を止めた。
「――!」
二人の何やら言い合う声が聞こえる。
よく見たら、あれは
「小林先輩?」
一人つぶやく八尋。
自分でも聞き取れる程度の音量は、虫の音にかき消されて消えた。
●
「どうして、どうして話を聞いてくれないんだい? 手紙も、学校でも話しができないじゃないか。家にまで来たのは悪かった。でも居てもたっても居られないじゃないか! 僕の気持ちを理解してくれない! くみ取ってくれない! なんでなんだい? 君に嫌われる様な事は何もしていないじゃないか。君の悪い噂だって全部僕が黙らせたのに!」
「ですから、それは紗月のおかげです」
違う、と佐藤は怒鳴った。頭を振り乱し、辺り構わず自己主張をする。違う、違う、違う、と叫びながら、彼は小林に詰め寄った。
「僕のおかげだ! 部活連中に声をかけて、悪い事をささやかない様に努力した! 君に付きまとう悪い連中も追い払った! 三度目、小林さんに告白した時は、――今年の一月二十二日、午後六時十五分から五分の時間に、僕は、僕は……、君に言い寄る者がいるから無くなる様にしてほしいって要望ももらった!」
一歩、小林は後ろに下がる。
「違うわ。――直接的な言い方が、貴方を傷つけると思って、誤解させてしまったのなら申し訳ないのですけれど。私に言い寄るのは止めて、とお伝えしたはずよ」
佐藤は、大きく首を横に振った。違う、とゆっくりと否定した。一歩踏み出し小林に詰め寄った。
「いいや、君は確かにそういった。今、記憶を改ざんするなんて、ひどいじゃないか。あぁ、――いや、君は、恥ずかしがっているのかい。僕の前だからって、そんなに他人行儀な態度をとらなくてもいいじゃないか。ほら、下の名前で呼んで。僕も耳元で囁いてあげるから」
「いいえ、怯えているの」
にじり寄る佐藤からさらに一歩下がる。こつんと靴のかかとが門にあたる。木造の門構えは年季が入っている。とはいえ、幾度の台風をもしのぐだけの強度を持っているのだから、彼女がちょっと当たったくらいではびくともしない。
「素直になる事に怯えているんだ。いいよ。ほら深呼吸して、僕に全部委ねれば――」
「貴方が怖いのです!」
心外だな、と佐藤はつぶやきやがら一歩踏み出す。彼女はもう下がる事できず、背を門に預けて両手で門の手を探していた。
佐藤が小林の左手を掴んだ。
「やめて!」
「嫌がる素振りを見せて、その落差を見せて喜ばせてくれるのかい? きみは本当に愛に貪欲なんだね――。あの後輩にはどんな姿を見せているんだい? 殴られるのが良いのかい? 踏みにじられたいのかい? その度に、光悦に浸るのだろう?」
「私は――」
小林は佐藤を睨みつけ、押し殺した声で告げた。
「貴方になんて、触れられたくないです。いつも、いつも、私に関わらないでとお伝えしているはずです。休みの時間になれば顔を出し、私の気分に関係なく、常に話を振ってくるじゃありませんか。クラスメイトと打ち解ける時間すら持てないで、ますます疎遠で、孤立していくのを――どうして貴方が率先するのです? 私のことを気遣ってくれているというのであれば、少しは遠慮というものをしていただけません? 紗月に言われても、貴方は周りを排除する事だけ。自分の事など何も顧みていないじゃありませんか」
「僕を嫌う人なんている訳ないじゃないか! 君だって本心でそんなことを言っている訳じゃないだろ? ……橋本さんを庇うため?」
嫌、と小林は佐藤の手を外そうと藻掻いている。嫌だ、嫌だと口で言えば言うほど、佐藤の締め付けは強くなる。何を勘違いしているのか、暴れれば暴れるほどに彼の口が嬉しそうに歪んでいった。だから、更に気味が悪くなって声を張り上げた。
「放してください! ――紗月は、私がなじめていない事を心から心配してくれているのですわ。クラス委員だからという事なのかもしれませんが、ホームルームでも表立って悪口をけん制したり、生徒会に働きかけをして部活動中にイジメが行われない様に通達を出したり。先生方にもずいぶんと働きかけをして、見回りを短期間ですが行っていただいたということもありましたわ。それを……自分の手柄の様に語るのはいかがなものでしょう」
「違う!」
小林の手を門へ押し付ける。木製の壁と同義である門は、未だ固く閉ざされたままだ。
「僕が、君を守っているんだ! なにが、橋本だよ! ああぁ! あいつは中学の時からいつも、いつも!」
「貴方は全く成長をしていないのでしょう?」
ぎりりと音が聞こえそう程小林の腕を門に押し付けている。今彼と小林の距離はほとんどない。
竦むほどなのだろう、小林の足が微かに震えている。
誰に?
この眼前にいる男に、底知れない恐怖が付きまとう。
怖い。
怖い。
「何が分かるっていうんだ? 違う中学の小林に」
「本心が透けていますわ」
小林は、今一度、佐藤の拘束をほどこうと藻掻いた。
しかし力は強く、叶わない。ぎりりと締め付けられた腕は蛇の様。全く小林の力は受け付けない枷をどうやって解けばいいのかと半ば絶望していた。
「中学の時に、お付き合いをされていた方――石塚、さんでよかったかしら」
小林の言葉に対して佐藤は右手で彼女の首を締めあげた。
門にぶつかる。
「君は、君は、また沙良の事を思い起こさせるのかい? 何を知ってるっていうんだよ。彼女は毎日、毎日悩んでいた。僕は――その苦悩を取り除くことは叶わなかった……。君もそうだって言うのだろう? 毎日、毎日、影で言われない言葉をたたかれて、君の美しさに誰もかれも嫉妬している」
「それは、貴方が――周りの言葉を聞かずに私の所ばかりにくるからですわ! 一体どれだけ貴方が女子の間で羨望のまなざしを受けているか、ご理解なさっているのですか? 日に日に女子の嫉妬心が私にむくのですよ!」
「君の美しさへの嫉妬だろう?」
違います、ときっぱりと否定する小林の視線は、揺るぎも持たず佐藤を真正面から睨みつけていた。
苦しくて声が出しづらくて否定が出来なかった。しかし絞り出す様に声をだして抗議の声を上げた。
「……私が、貴方を誑かしていると、……キープする一人だと。……どうして、……そうなっているのでしょう? 私は……貴方の事など、露程にも、慕っておりませんのに……‼」
「ほら、また嘘はいけない」
小林はぎりりと、歯をむき出しにする。怒りで気が狂いそうだった。
のれんに腕越しとはこのことか。良い様に変換されて、まったく話がかみ合わない。
こんなにまで頭の悪い存在だったのか、と声を上げて非難したかったが、相手を逆上させない様に飲み込んだ。
これだけ騒いでいるのに、家からは誰も出てこない。最近の素行不良――というよりは彼女の爆弾発言が問題だったようだが、今も、「彼氏」と話し合っている程度にしか思っていないのだろう。もともと大きな家であるから、母屋に声が届いていない、というのもあるかもしれない。
手を込んで家にまでこさせた佐藤を、家族が追っ払い二度と近づけさせない、と画策した小林にとっては想定外の事だった。
いい加減に触られている手が嫌だった。汗の浮き出た手首をしっかりと握り込まれ、振りほどけない。
まったく筋肉がないというわけではないが、それでも男子との差は歴然だった。
首が抑えられているのが嫌だった。苦しくて、気持ちが悪かった。
彼の息が当たる首筋が気持ち悪くて仕方なかった。
「……いい加減に、して、……ください!」
腕を振るって逃れようとするが、そういう訳にもいかない。どたどたと、門に足を打ち付けて、ガンガンと音を立てたが家には届いているだろうか?
「私は――貴方の事なんて」
佐藤の顔が近づく。ぞわりと背筋が騒めいた。
密着される。服の上から、彼の体重がかかるが分かる。
顔が密着し、顎を無理やりあげられ、目の前に佐藤の顔が迫った。
右手を思い切り振りぬいた。
小林の平手がいい音を立てた。
「やめなさい……!」
「照れる必要はないじゃないか。――ちょっと痛かったけど。大丈夫、やさしくするから」
「何を……ですか!」
顔を青くして、小林は慌てた。何を勘違いしているのかくらい、小林でも容易に想像がついた。
とはいえ、ここまでしたらさすがに、家の者が飛んでくるだろうと未だに淡い期待がある。
誰か、と心の中で助けを求めた。
「――っ」
叫び声を上げようとして、のどが力強く締め上げられた。声を上げる事もできず、彼女は門に押し付けられた。
佐藤の右足が折り曲げられ、腹部に添えられ、ぐっと押し付けられる。
痛み。
息苦しさ。
それ以上に、悔しさがあった。
まだ、足りなかった、という後悔。
何が足りない?と小林は思う。脳裏で、八尋の顔が浮かんだ。
●
「やめろ!」
自転車を放り出して八尋は二人に駆け寄った。
相手の事など考えず、全速力で突き進み、相手の顔面に一発入れた。
モロに体重が乗った一撃は佐藤の歯にあたり、右手の人差し指付近が切れた。
鋭い痛み。
しかし、彼女の方が痛みを持っている。
すぐさまに八尋は佐藤の後ろから、力いっぱい脇の下から腕を通して、締め上げる。
力任せに腕を上に締め上げると、情けない声を出して佐藤が小林から手を放した。
「――ゅひ……かは……」
小林の苦しい息が聞こえる。
息をしている、そのことだけで安堵した。
喉元に手をあてて、小林が喘いでいる。
「やり過ぎ! 何が有ったか知らねーけど、死ぬぞ!」
「くそ! あと少しで彼女が素直になったのに! なんだよ! ああああ!」
思いっきり腕を締め上げ、次いでに膝を蹴って折らして地面に折りたたむ様に押し込んだ。
じたばたと上半身を動かすが、力は八尋には及ばない。
「まったくよ、なんでこうも、手がはえぇんだよ」
「あああ! 八尋! くそ! てめぇほどけ!」
ため息をついて、八尋は、
「暴れなって、無理――いうな❕」
「ざけんな! いいか! 彼女に触れてみろ! 今ここで、息の根止めてやるからな!」
「はいはい……、頼むから――大人しくしてくれ、よ!」
「この野郎――! なんで、なんで! 僕のあこを取るな! どれだけ僕が彼女のことを思っているか、お前には分からないだろ! お前なんかが介入できる余地なんてないだ! これほど愛し合っているのだから! 誰の手に渡ることもないんだ! 僕だけの――」
八尋は、組み伏せている佐藤を憐れんだ表情で見た。
「いやさ、俺がなんだと言う事じゃないが、彼女の気持ちは拒否なんだろ? じゃなきゃ逆上なんてしねぇよな! どんなに想っていてもそれが必ず叶うとは限らないのは当然じゃないか。相手の気持ちも汲んでやれないのに、何を言ってるんだ?」
違う、と佐藤は呻いた。
「違う、違う、違う! あこは本当に僕のことを愛しているんだ! 理解していないのはお前の方だ! 突然しゃしゃり出て来て、良いところだったのに――」
「殺そうとしたのに、か?」
「そうじゃない! 彼女が素直にならないから、沙良と同じ様に、しつけが必要だったんじゃないか! それを――」
八尋は背中に一発、膝蹴りを入れる。
ぐっと呻く佐藤など気にもせず、そのまま体重を入れて地面に押し付けた。
力を一切弱めず、八尋はぎりぎりと腕も締め上げる。
話を聞く必要もない、という実感。ただの犯罪者の妄言と変わらないな、と八尋は思った。
佐藤の汚い叫び声が響き渡ると、さすがにどうしたことか、と家の玄関に明かりが灯った。
カラコロとつっかけの音を響かせて誰かがくる。
門がずるっと音を立てて割れた。
一人の女性だ。
「あこ! え、え、どうしたのかしら」
「――大じょうぶ、だ、から」
小林は声を絞り出す。まだ喉の調子は良くないらしく、絶え絶えに絞り出した。
手を生まれたての小鹿の様に震わせながら、前に突き出す。苦しさからかまだ完全に息が整っていない。
「おとうさん! おとうさんってば!」
女性が母屋に声を張り上げる。
八尋は、佐藤を押さえたまま重い溜息をついた。
●
寝不足の頭で午前中を乗りきり、八尋はいつも通り、図書室で眠る態勢を整えた。
今まさに眠りにつきそうな程睡魔が襲ってきていた。うつら、うつらとし始めた所に、人が近づく音が聞こえる。この時間に誰か来る、というのはいつもの事であったが、八尋はその音に耳を立てただけで、すぐに顔を上げるという事はしなかった。
隣にアッという間で彼女がやってくる。
小林の足取りは幾分軽い。昨日の今日だというのに、随分と元気な足音に、ちらりと伏せた腕の間から視線を上げる。直視する度胸が八尋には無かった。
首元と左腕には包帯がまかれている。傷はなかったと思うが、痣になっているのを隠すためだろう。痛々しい姿であるが、彼女の美しさからすれば、儚さを追加させただけの様にも映る。
佐藤の力は存外強かったのか、と思う反面、彼女にそうまでして執着した理由が未だに理解できないでいた。そもそも知る必要などないと思った。
しかし、八尋は既視感を持って、『上野の事件』と『佐藤の件』を別には考えられなかった。どちらにおいても傷害事件だ。その当事者としてその場にいた事は、八尋にとっては忌々しい出来事だというのに、脳裏には黴の様に根を張ってはがれようとはしない。
八尋は一人になる事に慣れている。
このまま小林との関係が終わったとしても、きっとどうにかなるとは思っている。
数少ない話す相手が居なくなる、程度の事だと思っている。
小林に合わす顔がない、とまではいかないが、気まずい状況であるのは確かだった。直接的に声を掛けないのは、彼女の傷を作った原因が八尋にあるという事だった。
後悔とは似ていたが完全に一致している訳では無い。
何ができたか、と問われれば、今回できた事が精いっぱいだろう、とあきらめがつく。軍然、彼女を救えたという事だけを捉えれば十分の働きだとは思った。小林が死ぬ前に駆け付けられたのだからと安堵の小さい溜息をついた。
何のために?
自問自答した結果、小林の事をかなり気にかけているのだな、と苦笑。
佐藤も同じ様に『執着』していたのだろう。
彼女への執着が一線を越えただけで、佐藤の考えが理解できない、とまでは言えなかった。自分が狙っている相手に、彼なりの方法で外堀を埋めていたのだ。そこを一足飛びに超えていったのは八尋本人であり、そこに嫉妬し、ひいては小林を力づくで手に入れようとした。
という点だけを切り取れば、分からんでもないな、と八尋は思う。当然八尋も執着する物はある。当然、物と者は違うが、誰かが手に入れている事に嫉妬し、金を積んででも手に入れたいと思う独占欲とは近似していると思っていた。
だからといって、このままうやむやにする事もできない。
佐藤がやった事が「わかる」として放置する事もできない。
なぜなら、小林は八尋に「心奪われている」のだから、それを放置にするわけにもいかない。答えは保留にしているが、いずれ出さねばならない。
早く、答えを出した方が良いのだろうか、小林に悪いだろうか。幾つ考えても結局の答えは変わらない。
自分の事が決着がつくまでは出せない。その思いは変わらない。
理由は一つ、自己嫌悪。
そして、力への渇望。
相反する感情が彼の中で渦を巻いていた。
振るった力を、良しとは未だに思えない。
右手に目をやればガーゼとテープで留められた拳が見える。
忌々しい痛み。
同時に、――甘美な記憶。
力を振るった事に対する自己弁護はきっとノート一つ分は必要だろう、と想像する。
謝罪の念がある訳では無い。相手が悪いとも思っているが、力を振るった事が問題だと思った。一度、佐藤を殴った時は何とも思わなかったのか、と問われれば、逆上してたと笑ってもいいと思っていた。佐藤の視線を、『小林』から視線を『八尋』に向けるためには必ず通らなければならない道だとは決意した行為だ。
自嘲。
一体どうしてしまったのか、全ては――上野を助けたあの時から何かが、確実にずれている気がしてならなかった。
力を嫌悪し。
力を渇望する。
一体この矛盾は何なのか。
論理性のかけらもない思考の波にただ流されて、陥るしがらみからは抜け出せない。
結局振出しに戻り、事実だけを確認して「小林を助けられた」という事実で弁護する。
呆れている。
憤る。
胸糞が悪くなる。
痛む。
鎮痛剤を所望する程に、胸をしくりと突き上げる痛み。何本もの針が同時に心臓を辛く様な痛みは、八尋の気持ちをさらに暗く重く染め上げていく。
顔を上げて笑いかける事が出来ない。
芽生えるのは恐怖。自分も佐藤と同等の人間なのだと自覚しそうで。
内にある獣に飲み込まれそうで。
小林の顔を見るのが辛い。
それを打ち明ける勇気も持っていないのだ、と思うと何ともひ弱な精神だという事を心の中で笑った。
未だに彼女は八尋の傍にいる。
立ったままで何をする事もない。いつもであれば隣に座り、読書でもするのだろうに、その素振りは見せなかった。静かに窓から流れる風を浴びて彼女は経っている。一枚の絵画の様だと、八尋は思う。この瞬間をスマートフォンで撮って待ち受けにしたらどんなに良いだろうかと思った。
だが、八尋はその思考を停止させた。傷ついた彼女を被写体にして「何が良い」というのだ。まるで、彼女の傷を喜んでいる様に思えてしまう。そんなサディズムを自分が持っているというのか、と嫌悪する。
……小林先輩の傍に立つことは、――できねぇよなぁ
結局自分も同類なのだ。あちら側の存在と。
あぁ。
ため息一つ。腕にあたった生暖かい息が跳ね返る。
結局自分もそうなのだ、と八尋は落胆した。
獣。
いや、誰が言ったか、『狼』と。
赤ずきんの物語に似ていると八尋は思う。彼は物語の子細を覚えている訳では無かったが、狼と聞けばすぐに思い出した。ペローの物語では狼は赤ずきんを食べて終わりだが、グリムの物語になれば救出される。自分はどちらの物語の狼なのかと。
大きな口を開け、彼女を飲み込む物なのだろうか。
そうではなくて、狩人になって彼女を助けられればどんなに良いか。
自分にそんな強さがあるのだろうか。
たった一度、たった二度。それだけで力に傾倒しそうになっているというのに。
覗いている視線に気づいたのか、小林が側までやってきて、顔を近づけてきた。彼女の視線はしっかりと八尋の覗いている目を見ている。気づいているのは分かっていた。しかし、小林の目に見つめられた時、体が石にでもされたかの様に動かなかった。
八尋は未だに顔を伏せたまま。胸の中にある際限なき自己嫌悪に向き合っている。
吐息が掛かりくすぐったさがあった。すぐ傍なのに、とても遠くに感じる。
それは、見えない壁に遮られたたった五センチの「隙間」と言える距離。
「……ありがとうございます」
耳元で囁かれる優しい言葉はとてもこそばゆい物だった。
ここで、顔を上げて軽口の一言でも叩ければ、あるいは、良かったと安堵の表情をみせる事ができたなら、それとも、もう傷はいいのかと労わる事ができたのなら、きっと、見えない壁は突破できたのかもしれない。
勇気はなかった。
だから、この距離を八尋は埋められないまま、寝たふりを決め込んだ。
遠くで狼がアォーンと八尋を嘲笑った気がした。
長い文章でしたが最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。