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狼の嘲笑  作者: 瀧田新根
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前編

 夏の湿気をふんだんに含んだじっとりと湿る空気が、背後の窓からぬるりと撫でる様に通り過ぎた。

 八尋・真はぬるい温度の風を汗ばんだ肌で感じながら、図書室にあるテーブルに伏せていた。夏の匂いがかすかに漂う中ではあったが、まだ梅雨前という事もあり夏本番よりは暑くない。だというのに、不快感は存分に高く、クーラーのからりとした空気が恋しくなった。

 いつもの昼食後の一休み。

 誰にも阻害される事もない、至福の時間を楽しむ。午後に向けた英気の養いは、満腹感と相まって充実した者になるというのは間違いなかった。

 図書室はそれ程広くはなく、教室二つ分をぶち抜いた様な構造をしている。半面は背の高い、六段の本棚が壁際に沿って立っていた。島の様に作られた三段の本棚が全部で二対設置されていて、人気のある本を並べている。

 蔵書の数はそれ程多くはないが、図書委員のおすすめとして、最近流行りのミステリーの六四板が置かれるなど、本は流動的らしい事が伺えた。

 八尋がいるのはもう半面の大きなテーブルが六つ置かれた自習スペースだ。本来黒板がある場所には代わりに背の高い本棚が四つ並んでいて、それぞれに赤い背表紙のペーパーバックの過去問が並んでいる。いくつか空いている所があるため、何人かが借りているのだという事は見て取れた。

 八尋はその机の一番窓側の部屋の隅に陣取っていた。他の席には人の影はない。

 元々この図書室には昼の時間、人が来ない。八尋も年に一人か、二人とすれ違った程度で、積極的な利用が見られていない事は悲しい。尤も本の貸し出しは多い様であるから、帰り際に寄っていくというのが多いのだろう、と推測していた。本来であれば、昼の時間でも人が寄ってもよさそうだったが、それがないのには、立地の問題があるとは思っていた。

 校舎の中で、一番道路から遠い東棟の三階に図書室はあった。ただでさえ、ながっぽそい――コの字型はしているものの――廊下のしかも一番上の階まで行かなければいけない、というのは、結構な労力がいるところだった。食堂が中央棟にはあったから、少し足を延ばせばという距離ではあるのだが、東棟は建物がちょっと西棟と中央棟とは違う形だった。元々L字に作られた建物として西棟と中央棟が存在していた。その当時は女子高であったという事で、生徒数もそれほど多くはなかったらしい。

 しかし、男女共学に二十年前に変えた時、すぐに人数が増加、満杯となった教室を拡充するため、新たな棟を建設する事になり、新たに建てられたという経緯があった。であるから、東棟と中央棟は直接つながっているのではなく、一度建物の外にでてからでないといけない構造になっていた。渡り廊下もないのだから、雨の日なんかは良く濡れる。そういったものだから、自然と足が向かないというのも納得できた。

 八尋にしてみると、この静寂は望んだ以上の物だった。身長も高く、がっしりとした体躯は一見すると、粗野な印象を与える。逆立った黒い髪は短いといっても威圧感はあったし、釣り目気味の目つきもその印象に拍車をかけていた。実際はそうではない――とは思っていたが、人の印象など他人によって決まる物だ、という事は痛い程分かっていた。

 彼には中学校の時に少なからず友人がいた。当然やんちゃがすぎる年頃であるから、彼の交友関係においてもそういう人脈が多かったのも確かだった。勉学よりも体を動かす事が先に出ていたし、教師や親から言われる事には頭ごなしに反発をする。そんな中では、良い事と悪い事の分別は、自身の価値観によってのみ左右されていた。仲間だから守らなければならい。仲間でなければ敵だ。だからという訳ではないが、群れでよく動いていたというのは事実だった。

 その中の一人が八尋に半ぐれの先輩を紹介したとき、どこか違う、という気分になった。「自分が自分にできないレッテルを貼っていないか?」そう思えてしまった。決定的に彼らと離別する理由が出来て、八尋は直ぐに関係を断ち切った。心を入れなおして学問にも打ち込んだ。

 しかし、教師からは彼らの過去との付き合いを必ず色眼鏡を通してみていた。何か気に食わない事があれば、それを八尋の過去の悪い付き合いと結び付け、なじり、抉った。

 真面目というのは、最初っから他者の認識によるものだ、というのは経験から痛感し、八尋は周囲への期待は無くなった。

 高校に入ってから、見かけだけは変わらずとも、真面目を貫いていたものだから、八尋の評価は「一匹狼」ととられていた。教師からは良く、友人を作れと言われていたが、大きなお世話だと思っていた。

 今も、一人図書室の机に突っ伏して、ただ夢の中に引き籠った。

 いや、その隣には一人の少女が座っていた。八尋の事など気にした様子もない。平然とした姿は彼女を知る者なら、「さすが」と両手を打って唸る事だろう。

 セーラータイの色から一学年上。

 黒い髪は手入れが良くされ、光沢がある。蛍光灯の暗い明かりだというのに、よく光を反射する艶やかさ。ボブカットの髪が彼女の小さい顔をふんわりと包んでいた。深い紫色の瞳は、手に持つ小説の頁を見つめていた。細い手足。色白の手首には真新しい黒い細いベルトの腕時計。ポケットから覗くスマートフォンの頭にはストラップと黒猫の大きいキーホルダー。

 線の細さと美しい姿は、水墨画を思わせる様に儚く見える。隣で寝ている大柄な八尋との対比で彼女の発する存在感がりんと澄んだ物に思えて仕方がない。

 彼女は高校の中でも特に有名な生徒だ。おそらく高校で知らない人が居ないといっても過言ではないかもしれない。同学年からは尊敬のまなざしを、後輩からは羨望の視線を多く向けられても少女は、すました顔でそれらを受け流していた。

 小林・あこ。

 今年度高校3年に上がり、人呼んで《魔女》と称される。

 視線を伏せている八尋には彼女は見えていない。しかし、横で本の頁をめくる微かな紙のすれる音や、パイプ椅子の小さい軋み音などを聞けば、自分の隣に座っているというのは分かる。その上、いつもの光景であることを鑑みれば、八尋の側に、嫌な顔一つせず座っているのは小林くらいなものだろう、という事は想像ついた。

 眠い。自身の欲望に忠実に彼は瞳を瞑ったまま、寝ている仕草を取る。

 眠りに落ちなくとも、この快いまどろみを味わっていたい、と思うだけだった。



 八尋は図書室の扉が開いて人が入ってくる音を聞いた。図書室の扉が閉められているのは、たまたま今日が風が強いからだろう。窓を開けるだけで充分な風量は確保できているという事から、図書館を取り仕切る司書がその日の気分で決めていた。

 早鐘の様な足音は、八尋の席の側までやってきた。足音から推察するに、小林の前あたりらしい。八尋の頭上で足音がぴたりと止まった。

「あこ、また隅っこに座ってる。こっちの広いところに来ない?」

「いえ、ここがいいですし」

 小林の応える声は少し細い。鈴の音の様にコロコロと棘のない言葉だ。声の主の問いをやんわりと断る。しかし、声の主は八尋を見た事だろう。視線に敏感でなくとも、声から幾分注意が向けられている事は分かる。ぞくりとする感覚が首筋を撫でたが、八尋は身じろぐ事もしない。

 言葉の主がだれか、八尋にはすぐに見当がついた。

 生徒会長の橋本・紗月だ。

 時折、小林の側にやってきて、二人で話しをしているのを耳にする事はあった。

 たしか、と記憶を探る。黒い髪に肩より上で揃えられたおかっぱ頭。まっすぐにそろえられた前髪に、強そうな視線。赤いフレームの眼鏡をかけた生徒の姿が脳裏をよぎる。運動部に所属しているらしく、闊達な喋り方と少しがっしりした体格をしていた。

 先月の入学式において、立派な送辞を述べていたのを覚えていた。八尋が二年に上がり、周囲からも一匹狼と揶揄されて久しい中でのイベントは、本来八尋が係わる事がない祝事だ。

 だというのに、彼はわざわざ休みに生徒会の仕事の手伝いをさせられ、あまつさえ教師からも生徒会に入っているのだと勘違いされたことを思い出した。

 なんでも人手が足りないと、生徒会長直々に教室にやってきて、八尋に頭を下げたのだ。そうなれば否応がなく手伝わなければならないという物だ。

 その元凶になる上野の顔が思いだされる。にやりとしたり顔で生徒会長の脇でこちらを見ていたぽっちゃり体系の少年は、事あるごとに八尋を孤立させない様に手管を伸ばしてくる。

 迷惑極まりないが、八尋自身が「面倒見のいいタイプ」であるという生徒会の共通認識から、いつの間にか雑用係なるものが出来ているらしく、八尋が雑用係長というありがたくもない称号を貰っていたことを思い出す。

 嫌な事を思考から締め出して、二人の会話に耳を立てた。

 こつんと高い音を立てて、テーブルに何かが当たった。その後、引きずる音が響く。パイプ椅子がテーブルにあたった音だろうという事は想像できた。

 テーブルは年季が入っているため、ガタガタと頼りなく揺れる事があるが、ここのパイプ椅子はどういう事か、定期的に入れ替えがされていて、椅子の沈みや綿が飛び出るというところを見た事がない。

 寝るには申し分ないので、八尋にとってみれば十分だった。

「その子がさ、寝てるいるのはいつも通りだけど、なんでわざわざ隣に座るの?」

 ん、という言葉で小林は言いよどんだ。

 少し姿勢を買えたのか椅子の音が聞こえた。

 何かを考えているらしく、数拍の空白の間があった。本にしおりを挟んだのか、右隣りから本を閉じる小さい音が聞こえた。

「だってここが落ち着くから……かしら」

「その子の事、本気で気にってるってこと?」

「まぁ……特段脚色しなければ、そう……ですわ」

 パタリと、本が置かれる音が聞こえた。小林が呼んでいた小説を脇に置いたのだろう。

 小林の言葉に、八尋は特別な感情は湧かなかった。

 一般生徒であれば小躍りでもしそうな言葉ではあるにもかかわらず、八尋の中にあるのは、達観した感覚だけで、「そうなのか」と他人行儀に思っていた。

 小林の事を嫌っているとか好いているとかそういう感情だけが彼の中に有る訳では無い。もっと違う、コールタールの様にドロドロとした感情が胸の中には常に渦巻いていたから、今更一言貰ったところで、喜ぶという行動には移さない。

 好きか嫌いかで言えば好いている。当然、その事は自覚していたし、小林も良く知っている様だった。

 特別に口にした事は無いが、彼女にだけは、「特別」に接していたから、態度から見え見えなのは八尋自身も――時折恥ずかしくなるが――重々分かっていた。

「去年の夏――くらいからだっけ、ずっとあこは、彼にべったりじゃない? というか、彼も相応に人目をはばからないというか……」

 難しい、とでも言いたげに言葉を詰まらせる橋本。

「そういえば、もう一年近く経っていたのですか……。あまり気にした事ないのですけど」

 あのさー、とあきれた様な橋本の声。声は小さいが、ため息交じりの声は、彼女の呆れ表情を簡単に想像する事ができた。

 ついでに腰に手をあてて、首をかしげている事だろう。

「同学年でさ、あこってすごい注目されてるのに。それなのに、そこの一匹狼と一緒にいるんだから、なんて言われているか分かってる? 別に陰口ってわけでもないけどさ《魔女》なんて呼ばれちゃって」

 こほん、と小林の小さい咳き込む音が響く。

「図書室に引きこもっているという点では、あながち間違っていないのでしょう?」

 いやいや、と橋本。腕を左右に振っているのだろう、反動が机伝いに伝わった。

 少し寝苦しいと思い、かすかに八尋は身を捩った。

 橋本は声のトーンを落とした。

「彼も悪い子じゃないのはわかるよ。生徒会の手伝いも、率先してやってくれたしね」

「そういえば、入学式の手伝いもしていたようですわね。クラス委員でもないのだから義務もないはずですけど」

 なんで小林が知っているのか、八尋は分からなかった。

 確か、彼女は部活にも入っていないから、その日は休みであったはずだが、と頭を捻る。

「そうなの。――ていうか、なんであこが知ってるの? あぁ、またこっそり彼をつけてたの?」

「――そんな事ありませんわ」

 不機嫌そうに小林は否定をすると、すぐさま言い訳をする。

「真くんの予定を聞いただけですわ。せっかくの日曜日だというのに、遊びに行きたいと思うのは至極当然なのではありません? だというのに、真くんは入学式があるって……断られてしまいましたもの」

 あ、そう、と橋本が訝し気に相槌を打った。

 八尋も起き上がっていれば、小林の事を見ていた事だろう。彼自身、小林に聞かれた事などない。――というか、勝手にまたスマートフォンの予定表でも見たのだろう、と納得した。

 小林は勝手に八尋のスマートフォンを見る事があった。姪の写真を彼の彼女と混同して問い詰められた事もあった。一般的に言えば危ない女子である。

 しかし、八尋はそれを許していた。表立って許している訳では無いが、彼女が八尋に気付かれない様にやっている分には、何も言う気が無かった。それは八尋が「知らない」事だからである。スマートフォンのアルバムに入れられたネットを回遊して集めたグラビア写真であって勝手に見られていたとしても気にはしない。いや、――少しは気にして、枚数を減らしていた。

「実際、彼が来てくれたのには理由があるのよ。生徒会に上野くんって副会計がいるんだけど、八尋くんの友達みたいでね。そこから話がいったみたいなんだ。どうしても力仕事が多いのに、今年の生徒会は女子が多いじゃない? 別に男女の格差を言うつもりはないけれど、少し背の高い、力持ちが必要だったわけ。そうすると、上野くん一人でって訳にもいかなくてさ、誰か手伝いでも探そうかなぁと、部活方面にも声をかけたんだけど、面倒な事はやりたがらないわー」

 そうね、と小林が相槌した。

 遊びたい盛りの高校生。そう簡単に行事に携わりたいと思う者がいるというのが間違いである。性善説を否定するわけではないが、八尋であっても強制力がなければ、手伝いたいとは思えない。

「当然、私も率先してやりたいとは思いませんわ。――でも、そういった事も真くんは本当に嫌な顔をしないでしょうね……優しいですから」

 そうなのよ、と手を打つ音が響いた。

 八尋はびくりと肩を震わしそうになった。ぐっと力を込めて、最小の動きにとどめた。

 二人からはかすかな身動ぎしか見えなかっただろう。

 何がそうなんだと、突っ込みを入れたいところではあったが、ここで起きている事がばれたら、どんな顔をされるか想像するに難くない。

「彼の事はあこから、去年の夏の件含めて聞いていたじゃない? だから、できる奴なんだろうなっていうのは分かっていたのよ。ちょっと見た目怖いけど」

「怖い? そう思う所は……ないのだけれど」

「だって目つきはきついし、ラガーマンみたいな体つきじゃない。一目見ただけでは見かけが先行しちゃうってものでしょう」

「そう、かしら?」

 ふぅ、とため息が聞こえた。きっと橋本が呆れた表情をしているのだろう。

 八尋も橋本に同意だった。彼が鏡を見て思うのは、何だこの怖い男は、である。見慣れている自分が怖いと思うのだから、一般的感性から考えれば、十分すぎる恐怖感はあるだろう。

「あこの事、時々天然なのか、それとも――本当は抜けてるのか、たまに宇宙人と話ししているみたいな時あるわ」

「紗月ったらひどいわ」

 頬を膨らませたのだろう、少し拗ねた声。

 おまけにそっぽでも向けば絵になる事だろう。彼女が良くやる様に、頬を小さく膨らませて狙った様な仕草に、左手を顎に沿わせ自己主張する事を忘れない。そういった「乙女」を演じている所作は八尋であってどきりとする。

 だからといって、今はそれを確かめて自分の記憶の中の彼女と照合する事はしない。

「まぁまぁ、あこのそういう所も可愛いものじゃないの」

 でもさ、と橋本。ぎしりと、椅子がきしむ音がした。身を乗り出したようだった。

「彼って夏の――佐藤の時どうだったわけ? かっこよかったの? どうやってあこを守ったのさ」

「何か特別な事があるわけではないわ」

 未だに拗ねた口調。きっと突っ込まれないために、予防線を引いているのだろうは想像ついた。あれは二人の秘密も含まれているのだから、と八尋は反芻する。

――血で濡れた彼女の顔。防犯灯の明かりを受けて艶やかな光沢を持った彼女の唇。眼前では一人の男が打ち倒され、地面に昏倒していた。八尋の手は赤く染まり――

 はっとして思考を戻す八尋。

「ごめんごめん。機嫌悪くしないでって」

 実際、と橋本の声が遠ざかる。座りなおした音だろう。

「最近は特にあこに寄りつくって男子はいないものね。それだけでも八尋くんの実績ってもんよ」

「どういう実績なのかはわかりませんが……」

 だって、と橋本は考え込む様な口調。

 腕でも組んだのだろうか、少し声のトーンが落ちつたものに変わった。

「あこがその気になったら、そんじょそこらの男子なんて一瞬でなびいてしまうもの。……そうね、少し優しくしてあげるだけで、勘違いした生徒でごった返す事よ。これはひいき目じゃなくて、それだけの人気が出ると分かるもの。

 一年生の時、あこが先輩方にたかられて大変だったのに、もう忘れちゃったの?

 あの時は八尋くんみたいな人がいなかったから、休み時間の度に色目を使った男子が教室の前を通り過ぎて、帰りの度にラブレター入れられていたでしょう?」

 ん、と声を詰まらせる小林。

 そんな話を八尋も聞いたことがあった。男子生徒が大挙して押し寄せてくるから、おのずと彼女に声かける順番を暗黙のルールで決めていたという事も。たしか部活動の力関係で決まっていたとも言われるが、実際彼が目にする事は無かった。

 八尋にとってみれば、小林がそういう存在であると、出会った時から一度たりとも気にしたことは無い。

「しかし、完全に……とは言い切れないですけどね」

「なに? またちょっかいかけて来てるのがいるの? 去年の話じゃない。全校で噂になったんだから、――あぁ新入生がってこと?」

 違うわよ、と小林は神妙な口調で答えた。

「――先生よ」

 重い言葉が八尋の耳に届いた。

「……、は? え? だめでしょうそれ」

 そう思うわ、と小林は声のトーンをさらに落とした。

「まさか、家の関係者がここに勤めてるなんて思いもしなかったのだけれど」

「顔が渋いけれど、嫌な事されている――っていう感じなの?」

 そう、と尻すぼみに呟いた。小林の椅子がかすかに鳴る。

「最近は特に酷い状況ではあるのだけれど。家は離れているのですから、本来だったら別方向に帰るものでしょう? でも、学校の外だったらすぐ見つけて寄ってくる感じなんです。車で近づいてきて家まで送るというのは良い方ではありますわ。……土日であっても食事に誘われたり、レッスンの帰りに出会ったり。常に監視されている様な気がするほどですから、少し――気味の悪いという気分にもなってしまいますわ。

 一番問題なのは、これが父の意向で、許嫁とでもいうのでしょうか。そういった古い慣習を重んじるというのは理解できなくもないですが、いざ、自分が、というところですと正直……。

 相手との年齢も離れているという事ではありますし、嫌な気分というのは拭い去れませんわ。正確に言うのであれば、気持ちが悪いというものです。

 母とは良く話しができておりますから、この様な状況等のは好ましくないというのは分かって頂けている様ですけれども」

 静かな口調ではあるが、内に秘めている怒りがあるのだろう、早口に告げた。

「許婚ねぇ……そんな風習まだあるのも驚きだわ。お見合いももうほとんど見ない風習だっていうのにね」

「それだけ、私の家が古い、という事だと思います」

 そうねー、と橋本は軽く相槌を打った。ぎしりと椅子が軋む音が響いた。

 今時の性差平等の原則に照らし合わせれば、歪な事はこの上ない。男だから、女だから、という古い言葉が無くなりかなりの時間が立っている。

 だというのに、子の権利を著しく侵害すると捉えられてもおかしく無い、親が決める婚姻など、後指を刺されても仕方ないだろう。

 橋本も良く理解しているからこそ、小林の「古い」という言葉に同意していると考えられた。

「あこの家は江戸の時代から残ってるんだっけ。もとは呉服屋とか聞いたけど……」

「そうです。未だにその名残があるのですから、家業も服屋ですし……。和服を着なさいと言われても、私には似合いませんのに」

「体形が和服よりじゃないよね。うらやましいけど、スタイルいいもん」

「……視線は気になるのですけどね」

 きー、と橋本が呻いた。

 他の生徒がいるのであれば、橋本と同じ様に発狂しているかもしれないな、と八尋は心中で笑った。

「妬ましいわー。そんなこと言ってみたいわー。……とはいえ、あこの場合仕方ないか」

「なんでですか?」

「家のしがらみがあるんでしょ。綺麗になりなさいとか、あれしなさい、これしなさいって」

「確かに……多いですわね……」

 ため息が一つ。小林の物だろう。

 彼女の感じている気苦労によるものだろう事は推察できる。時々八尋と居る時であっても、家の事を良く思っていない言動は端々にでる。

 今回の様に直接的に口にする物もあれば、二人で家の規則を破る時――例えば門限などを――の様に行動で示す事もある。

「でさ、その許婚って……」

 橋本は言葉を切った。

 だれ?、と目で訴えたのだろう。少し間があった。

「さすがに言えないわ。――言ってはいけないと思いますもの。私が一言、教育委員会に訴えれば、相手は懲戒処分になるようなものなのですから……」

 当然だろう。

 いくら親が決めた婚姻であろうと、現行の法律から見ても十七歳という年齢に照らし合わせれば犯罪に当たる。

「《魔女》も人の子よね」

「それはあたりまえです。相手の事を考えなければ――」

 そうじゃなくてさ、と橋本の笑みを含んだ明るい口調で小林の言葉を遮った。

 手を出して、小林の口でも塞いだのだろう、もごもごという小林の抗議の声が聞こえる。

「やっぱり、なんだかんだいって恋愛の方が良いって考えているんだろうってこと。あこの事だから、家の命令にはきっちり従う――なんてあってもおかしくはないかなぁって思ったけどね。少し機械っぽいところがあるし、噂から見れば、あこは《魔女》何だろうなって」

 ふん、と小林が鼻を鳴らす。

 おそらく橋本の手を払いのけてそっぽを向いて鼻を鳴らしたのだろう。

 次いで、右手で髪でも弄っている事だろう。

 感情を露わにする小林の態度が面白くて、八尋は寝たふりをしていた腕の中からくく、と喉を鳴らした。

「――起きてたの?」

 顔を上げれば目をぱちくりとさせた橋本が八尋を見ていた。悪い気はしたが、特段謝る事はせず、むくりと身を起こしながら伸びをした。

 視線の中に入ってくる壁掛け時計が昼休みの残り時間10分だという事を告げていた。

 視線を右手側にむけると、小林が平然とした顔で座っている。さっきまで感情を露わにしているのが嘘だったようにすら思える。

 右手で少し毛先を弄っているのは、いじけているからだろうと八尋は思った。想像した通りであった事になぜか安堵した。彼女の事を一番分かっているのは自分だという、独占欲に近い感情も添えられていたが、胸の中で未だに蠢く黒い感情の坩堝に叩き込んで思考を締め出した。

 伸びをした手を下ろす際に、ぽんぽんと小林の頭を撫でた。

 サラサラの髪を三度撫でると、小林はそっぽを向くのをやめた。少し顔が赤いのは、陽の光が入ってきているからだろうか。

「真くん」

 小林は八尋を見ない。橋本に視線を向けたままで、だが彼女も見ていない。きっと遠くの事を思い描いているのだろう事は想像できた。

 口調はいつももの冷静さを取り戻していた。

「後10分なのですが、自販機に付き合ってくれないかしら?」

「そりゃいいけど、生徒会長は放置?」

 八尋は憮然とした橋本に視線を送る。

「紗月も行くわ」

 ねぇ、と窘める。橋本は両手を上げて降参のポーズをとった。

「やっぱり、あんた達、仲いいわ」

 何で今更そんなことを言うのか分からず、八尋は首をひねった。

 ただ、心なしか小林がうれしそうに口の端を緩めているのが目に付いて、それでいいかと思った。



 東西に延びる中央棟に二年生のクラスはある。職員室の上に二階、三階とそれぞれのクラスが並ぶ。全部で九クラスもあるものだから、入学から一年以上たっても顔を覚えていない生徒もいる。雑多な生徒の中に八尋は紛れる事ができないでいた。学年の中でも一番、あるいは二番目に有名な生徒だろう事は嫌々ながら自覚していた。見かけ的なインパクトも去る事ながら、昨年の一人の先輩を退学まで追い込んだ、という噂は小林という美の象徴的存在と相まって彼女を《魔女》に押上ると同時に、彼女の手先となった《一匹狼》の八尋の事も強く生徒たちに印象付けるに至った。

 陰でどの様な噂をされているのか、友人の上野からは良く聞かされていたから、諦めはとうについていた。八尋は、ため息ばかりをついていても変わらないから、と、一匹狼の称号に甘んじる事にしていた。

 長澤・俊が教室の隅で黄昏ている八尋の肩を軽く小突いて笑顔を見せた。

 昨年も同じクラスだったからよく気にかけてくれているのは知っていた。長澤は直ぐに部室に向かうらしく、大きなリュックサックを下げていた。食事は部室でとるのだろう、という事は分かった。少ない昼の時間であっても、軽く着替えて走るくらいの努力はしている。

 サッカー部でレギュラーを取るために日夜頑張る、という姿勢からもにじみ出る真面目な好印象。

 勉強もほどほどに頑張っている様で、サッカー一辺倒でないから教師からの信頼も厚い。身長は八尋より小さいものの、鍛えられた肉体は綺麗な肉体美を持っていた。短髪の髪と嫌味のない顔つきが爽やかさに拍車をかけていた。

「今日も随分沈んでるじゃないか、上野の付き添いでもあるのかい?」

「――考えたくなかったんだけどな」

 あはは、と突き抜けた笑い声。長澤は面白そうに目を細めた。

 こういった愛想笑いが本当にうまいと八尋は感じていた。八尋が同じ様に笑ったらきっと周囲が顔面を引きつらせて数歩下がるだろう。何かよからぬ事でも企んでいるのか、あるいは、気が触れたか、と邪推が入る事は間違いない。

 見かけの爽やかさと普段から笑みを浮かべている、という事が彼の印象をプラスに付けているのだということは外面で難儀している八尋には参考にするべきだとは思いつつ、百八十度違う方向への転換は、一朝一夕では出来ない高い壁である事を理解させていた。

「ほんと、真は見かけに寄らずに生徒会に気に入られてるよね」

「そんなことは無い……」

 きょとんとして、長澤は八尋を見た。

 何を言っているのか、と懐疑的な視線が八尋は痛いと感じた。

「入学式に参加してる一般生徒なんて聞いたことないのに、何を言っているのさ」

「――ちげぇ。ただ……無理やり駆り出されただけだって」

 そうなの?と首をかしげる長澤。納得した様子はない。

 彼の言う事は確かに、「事実」とは違っているかもしれない。八尋が無理矢理と言うが、あくまでもお願いベースの物であり、強制力は働いていない。一年前であれば別だろうが、と八尋は苦々しく思い出す。

 表沙汰にはなっていないものの、生徒会なんて言う魔窟に八尋が足を踏み入れるきっかけになった出来事を鮮明に思い出しそうになって、むっ、と口をへの字に曲げた。

 だから常套句で返す。

「上野だけじゃ、荷物の搬入とか力仕事ができねぇって、ただそんだけだよ」

「だからって《一匹狼》に声かけるとは、生徒会長も見る目があるね」

「チッ」

 舌打ちした八尋に、だってさ、と長澤はさも当然といった風に頷いた。

「力はある。頭も切れる。公然と陰口言われても力に訴えない自制心もあれば、不平を言わない根性もある。朱に染まらない芯の強さと、絶対誰も見捨てない正義感もあるって……。完璧じゃないか」

「……」

「特に、去年の話は胸をうたれたなぁ。同じサッカー部の先輩を退学にまで追い込んで、《魔女》を救った《騎士》なんて言われてるよね。そういわれる孤高の精神には、恐れ入るぁ」

 おどけた調子で語る長澤。

 おい、と八尋は長澤に不機嫌な顔を向ける。

 クラスの面々は少なくなったとはいえ、あまり過去の話をほじくり返されるのは、恥ずかしかった。

 羞恥心は敵愾心より勝っている。例えば陰口であればそれほど気にする事は無く、無視する事ができるのだが、プラスに働く感情はどうもむずがゆくなってしまう。

「ま、オレは認めてるからさ。佐藤先輩の事は残念だけど、良くないという事も重々分かっているし。それに、頼もしいとは思うじゃない」

「正面からそんなこと言われるとむずがゆいんだが?」

 他意はないよ、と長澤は笑う。

 どうだか、と項垂れて頭をかりかりと引っ掻く八尋。

「《一匹狼》って言われてる割には、真はノリがいいからね。たまにはおだてないと」

「おだてて、どうすんだ」

 呆れた様に長澤を見ると、いつも通りの笑みを浮かべている。爽やかな表情が憎らしい。

「そりゃー、交友関係を広げるっていう目的のためでしょう。それも青春だとおもうけどねー。何かと役に立つもんだよ友ってさ」

 八尋は、ふん、と鼻を鳴らして知ったことかと切って捨てる。

 そんな説教をされる筋合いはない――かつての事を思えば、と八尋は反芻するが、脳裏に過る光景を振り払う様に頭を振った。

「でも、そういう真だから生徒会に入っても――誰も文句いわないんじゃないかなぁ。というか、いっそのこと、何か役職でも貰えばいいんじゃない? あ、雑用係があるんだっけ?」

「……勘弁してくれ」

 両手を上げて降参のポーズをとる。

「口ではそうは言っても、きちんと行くあたりまんざらでもないんだろう?」

 八尋は小さくため息をついて

「そんなことはないって。面倒だけど――ほかにやる事もないってだけ」

 枯れてるなぁ、とあきれた表情で長澤。リュックサックを背負いなおした音が耳障りだな、と八尋は思った。

「なら、サッカー部でも来ない? 体格良いし、運動神経もいいじゃないか」

「それこそ、たくさんやりたいっていう人はいるじゃないか」

「まーねー。でも、キーパーがなかなかねぇ……」

 そこかよ、と八尋はやっと破顔した。確かにたっぱの有る、八尋にはうってつけのポジションだろう。

「そうそう。そんな感じに自然に笑っている真は、普通の生徒だなぁって思うのに」

「のに、なんだよ」

 うーん、と意地悪い笑みを浮かべて長澤は、

「一人にしか見せないんだよなぁ、ってね」

「……」

 むすっとして八尋は無言のまま長澤の足を軽くけった。

 怖い怖いと、ひょいっと避ける。

「ま、無理にってわけじゃないから、体動かしたくなったらきなよ。本気で何かやるっていうのも、たまにはいいもんだと思うよ」

「……考えとく」

 長澤は爽やかな笑みを残して、クラスの外へと向かっていった。教室に残っている生徒はもう数人だけ。

 何時もより五分は遅い。そう思いながら時計にため息をついた。

 八尋も机の横にかけていたカバンから弁当箱を取り出してすたすたと教室を後にした。



 黒真珠の様な光沢を持つ真っ黒な髪は、風でさらさらと流れていた。

 同年代から見ても大人びた風貌の小林・あこは、深い紫色した瞳を手元の小説へと向けていた。

 真夏を感じさせる湿気のある空気はペタペタと肌につき、少し不快感を与えていた。

 窓の外から差し込む強烈な光は、廂によって大分遮られている上に、カーテンで遮られているにも関わらず、オレンジ色に発色を変えてもなお、じりじりとした熱を持って背中に降り注いでいた。

 蝉の声が聞こえる。必死に鳴き轟く夏の風物詩は、季節を鮮明にさせていた。じーわ、じーわ、と振るえる音は風を切り裂き、窓を震わせ、甲高いビブラートを保ったままで小林の耳に入ってきていた。小林気にしない。五月蠅い程に鳴り響く夏の調べであっても、彼女の耳には生命の息吹を感じて仕方なかった。

 小林は頁をめくる。何度も読まれた本は、全体的にしんなりとして扱い易い。少しの力で頁は浮き上がり、右手の親指と人差し指で頁の端を持ち上げて上げれば直ぐにめくる事ができた。

 今日も昼の図書室は不人気だった。図書室の入口にあるカウンターには、眼鏡をかけた妙齢の女性が一人。司書の山田・涼花は眠そうに目を細めながら人の居ない図書室を眺めている。特にする事もないのか、あるいは昼の休憩時間だからなのか、手を動かす様子もない。

 小林は、山田と割と話す間柄ではあった。利用者の少ない時間に本を借りる事もしばしばであったから、必然的に会話の量が増え、互い近況を交換し合う程度には仲は良かった。人生の先輩と言えばそうなのだが、年齢を笠に着る事のない割り切った物言いをする山田の事は、小林にとって歳の差のある友人がいる程度の感覚だったといえる。深いところには踏み込まず、多くを語らず距離は保つが、質問をすれば簡潔とは言えない助言をしてくれた。

 小林には姉弟は居ない。一人っ子であるから、親の干渉も大きい。地に根付いた古い家であるから、古臭いと感じる風習や伝統に縛られていた。未だに男尊女卑はまかり通っていたし、娘であっても容赦しない冷徹さをもった父の『指導』は何世代も前の根性論を振りかざす、非論理的なものだった。

 昨年の出来事は父に大きな衝撃を与えたのは事実だった。真面目に過ごしてきたにもかかわらず、佐藤の暴挙よりも、「八尋に縋りつく娘の姿」を目の敵にした。

 母は申し訳ない表情をして、八尋に謝罪と感謝を述べるために頭を下げたが、そのことすら気に要らなかったらしく酷く折檻していたらしい。翌日には母の顔が赤くなっていたのは父が手を上げたのだと理解はできたが、いつまで、旧態依然とした「良家」を演じようとしているのか、滑稽で仕方なかった。

 だからこそ、父は許嫁なんてものを勝手に決めた。

 小林には心外で仕方なかった。それでも、父に逆らう事はできず、なし崩し的に一回りも年の離れた男の許婚になった。

 相手の男は、もともと大学の教員を三年程やっていて、そのまま大学に残る予定だったが、実務の経験を積みたいと高校の教員に一度なったのだという。立川・耕助は、そんな優柔不断な男だった。

 小林は何度も顔を合わせていたが、それが魅力的な話だとは思えなかった。外見もやぼったく、研究者然としたよれよれのスーツ。確かに頭はいいのだろう。その家柄においても問題はないだろうという事は、自慢げに話す父親の言葉から分かっていた。地元の旧家の流れを汲み、巨大な屋敷を持っている長男なのだという。

 しかし、小林に別の世界を見せてくれる様な情熱や、熱意に満ち溢れているというのも違っていた。幾度となく食事に付き合い、教師と生徒という垣根を取り払おうとする彼と顔を合わせた事はある。だが、自分の事に集中する傾向はあるし、口を開けば研究の事ばかりでは、何に魅力を見いだせばいいのか分からなかった。

 小林にとって、彼が共感できる存在だったら別だとは感じだ。彼女に興味を持たせるように物事を提示し、共に進もうとする出来事でもあれば、彼に近づく努力を考えてもよかった。実際には、立川からそういった出来事はなく、ただテンプレートに即したデートと言う形状の付き合いを強要されるに過ぎなかった。

 もし、立川が八尋の様にすべてを――小林にとってはそう思っていた――理解している存在であるのであれば、それもまた違った話だった。阿吽の呼吸で、相手の動作に合わせる機敏さは八尋は持っていた。しかし、立川は違う。普段と違う装いであっても、何が違っているか気づいてくれやしなかった。それが、立川自身が送ったイヤリングをつけていたとしても。

 だから、どの様に転んだとしても、小林に良いとは思えなかった。

 苦言を呈す小林の言動を良く見ていた彼女の母もそのことは理解していたから、事あるごとに父への抗議に加担してくれた。本人が納得していないというものを、どうして強硬できようものか、という論点ではあったが、父はそれを毎度のことながら渋い顔をして口数少なく切捨てた。

 父としては、大きな家との縁談というのは垂涎の事なのだろう。

 だからと言って、小林はいつしか仕返してやろうという気概が強いわけでもなかった。最後はどうしても押し切られるのだろう、という事をため息交じりに感じていた。

 諦めている。

 あるいは、沼に落ちているのだ。

 猫が鳴いた。

 蝉の音が落ちつた時に、窓から甲高い声でにゃーと鳴いた。

 本に視線行っていても、頭では別のことを考え、ぼーっとしていた小林は、はっとなって顔を上げた。声のした後ろに身を捩って視線を向ければ、窓枠に猫がいた。

 場所は三階であるから、普通迷い込むというものも考えにくかった。だがよくよく考えれば道路に並んでいた街路樹の椋木がかなりの高さに聳えていることを思い出して、納得した表情になった。そう思えば、樹木伝いに細いパイプでも上ってきたのだろうと想像できた。

 だからといって、ここが高所である事には変わりがなく、窓に、という事であれば、中に入れる事も考えなければ、と思い立った。

 本を長机に置いて、立ち上がる。軋むパイプ椅子を右手で押さえつけて黙らせながら、ずいっと机に押し付けた。

 アルミのぶつかる軽い音が響いた。その音に呼応する様に再び猫が鳴いた。

 ひらひらと風に揺れるカーテンの隙間から、猫の姿が垣間見えた。

 黒い毛。

 全身を覆うのは艶やかな黒。右目の周りだけ円形に白くなっている。

 橋本から噂を聞いたことがあった。最近学校の周りに現れる猫の事だ。ちょうど特徴が合致する。たしか生徒たちの間では「マル」と言われていることを小林は思い出した。

 マルは高校の裏によく現れていた。学校と道路の境には生垣があった。幅一メートル、高さ一メートル程度の真四角に刈り揃えられ、簡単に道路に飛び出ない様に、との配慮がされている。校庭まで行けば、より背の高い金網で区切られるのだが、校舎が立っている背面はどうしても、PTAからの圧迫感を軽減するという要望からこういった配置になったらしい。生垣はかなりの面積があるものの、一部、中央棟の教職員室の裏手に細い抜け道ができていた。その脇にマルは良く表れた。

 教員も生徒たちが猫と微笑ましい交流をするのを、温かく見守るだけで、普段口うるさく言う注意の言葉もかけなかった。スカートの長さに五月蠅い体育教師の竹本も、太のガタイに似合わず、生徒とマルのふれあいに、にこにことした表情を浮かべていた。一部女子生徒からは、気持ち悪いとの陰口をたたかれていたが。

 マルは体長四十センチほどのまだ子供であり、鳴き声もまだ甲高い。だというのに、親らしき姿はなく、どの様に生きているのかも不明だった。時折生徒たちが弁当の一部をあげていたりすることで、気づかない内に学校に住み着いてしまったと推測できた。

 小林はそれほど猫が好きではなかったが、それでも学校に居ついている猫という事で、何度か挨拶はした事があった。活発さよりも人懐っこいという方が強い印象のマルであったから、それほど人と関わりたがらない小林であっても、すぐに打ち解けた。

 今も目の前にいる猫を見れば、普段の鉄面皮を廃して、柔らかい表情でマルを見つめていた。口ずさむのは猫の鳴きまねを織り交ぜた言葉だ。

 にゃー、と語尾につけているだけでも、人目を気にする物ではあったが、今この図書室に人は図書室司書くらいなものだった。その司書であってもうつらうつらと船をこいでいるという状況だったから、気にする事もなく、可憐に響く琴の調べの様に悠然とした旋律を奏でていた。

 窓をそっと大きく引き開けると、マルが小林の手にすり寄ってくる。

 阻害する物がなくなった途端に猫は笑いかける様に、なー、と鳴いた。小林は窓枠に器用に立つマルの胴体を優しく捕まえる、抱きかかえて図書室に引き入れた。

 動物を入れる事はきっとルール違反になるだろうという事は予想がついたが、ぐるりと見渡しても誰の視線もない。だから、窓の近くであれば大丈夫かという気持ちになった。

 左腕を皿にして、マルを抱え込むと、窓の側にある背の低い本棚に寄りかかり、体重をぐっと預けた。

 マルはきままに鳴いた。ミャーかのか、ナーなのかは人と変わってくるが、遊園地の様にしゃべりかけてくるという事もない。まだ子供だからという事で鳴きまくる子もいるだろうが、やたらめったらマルが鳴く事無く、大人しいというのが小林の印象だったし、嫌になるような音でもない。

 背骨に本棚の縁の感触を感じながら、小林は腕の中にいるマルを見た。自由きままに体を軟体動物の様にくねらせていた。

 猫は液状化するというのはこういう事なのか、と腕のなかでうねうねとうごめく子猫に感嘆した。関節の柔らかさが尋常ではなく、重力に引きずられる様にしっぽがだらんと零れているのを腕で感じているが、岩からこぼれる滝の様にふらふらと窓からの風をうけて、腕にあたったり、離れたりを繰り返していた。

 マルはぺちぺちと尻尾を当てては、小林の顔を見ていた。

 何を考えているのか、あるいは考えていないのか、まったく小林には理解できない。だというのに、そのまっすぐに見つめてくる瞳がこの場にいない、八尋の目に似ている気がしてどきりとした。

 小林は《魔女》と呼ばれている。

 それは揶揄されての事だし、陰口である事は分かっていた。

 今思い返してみても、佐藤・圭太との間にあった事は、周りの人から見れば手品みたいなものだったろう。小林に言い寄っただけだったのに、その噂が校内に駆け巡ること半年、彼は転校を余儀なくされたのだ。

 何をやったのか、と佐藤のシンパから糾弾される事もあった。しかし、小林は無言を貫いた。

 何かをしたのだ、そういう薄気味悪さのみが闊歩し、小林は近寄りがたい存在になった。声をかけてくるのは同学年では、今や同じクラスの橋本くらいだろう。

 図書室に引きこもる彼女を、誰かが《魔女》と蔑んだのだ。

 不気味な者の象徴として。

 しかし、それは一部だけ。実際に多くの生徒は羨望の、喝采の意味を込めてその孤高さに《魔女》という言葉を当て嵌めている。

 小林はその名称を嫌ってはいなかった。周囲は明確に忌避するためにつけた名前であっても、小林は自分自身が非才の身でありながら、特別な力を得た様な気がして微かな優越感を得る事ができたからだった。

 それこそ、絵本の様に箒に跨り大空を舞う事が出来たかの様な錯覚だった。

 小林を蔑む――あるいは羨望の言葉であっても、彼女の中では綽名という認識だった。教室で、廊下で、ひそひそと囁かれる言葉であったとしても、小林にとっては気にはならなかった。

 下世話な噂話に加担する者たちを快く思ってはいなかったが、だからと言ってムキになって否定する程、彼ら、彼女らと仲が深いとも言えなかった。

 うわべの付き合いである以上、表面に塗布された噂なんて、いつかははがれるだろうと思っていたし、あと一年もすれば大学に行って環境ががらりと変わるとも思っていたというのも強かった。

 百日紅の木が目に映る。学校に植えるにしては大きくなりすぎる気がしていたが、それでも何もないよりは緑が華やぐ。

 風で揺れる大きな葉を見つめながら、マルの頭をやさしく撫でた。

 マルはただごろごろと喉を鳴らし、全身をこすりつける様に小林の腕の中で泳いでいた。背を向けていたかと思えばすぐに腹を見せ、ぐるぐると身をよじらせながら、両前足を伸ばして伸びをしていた。

 自由気ままのふるまいだったが、嫌味があるわけでもない。

 周りの雑音に比べれば、この程度の気軽さが良いのだろう、と思えた。

 小林もまた黒猫と同様に気ままに過ごしている。クラブ活動も人の視線が気になり止めていたし、皆が辛いという勉強だって適当だった。毎日、軽い運動をする程度だったし、バイトだって必死にやる程ではなかった。

 長続きする秘訣は息が詰まらない様にする事だ、そう教えてくれた叔母の言葉の通りだと思っている。

 ただ、学年で常に上を目指すという成績でもなかったが、一教科だけでも頑張ろうと、数学だけは満点だった。数学には必ず答えがあるからというのが小林の持論だった。覚えるという作業だけではない何かが確かにこの数式の中にはあり、少ない数字と記号の羅列で事物を表現しようとする試みは、浪漫が詰まっている気がしてならなかった。

 対して言語分野は苦手だった。同音異義語を含めて文脈から読み解くというのは、『答え』を強要されている気がしてならなかった。

 無理強いされる、されないという点では、『八尋・真』は特別だった。

 小林に気を寄せているという言動は少なく、後輩だというのに、臆する事もない。同列にただ見ているだけ。飾り立てる言葉もなければ、不干渉になる事もない。

 一定の距離を彼は保つことがうまかった。だから気にならない。気にしなくてもいい。肩に力を入れずにいられる存在なのはありがたかった。

 昨年に出会った時から、彼の事は気になっていたが、普段の彼の行動は非常にクールだ。意を決して、アプローチをしてみたが、褒めてくれることはあれ、そこに付け込んでくる様子もなかった。草食系男子だと橋本は笑っていたが、本当の所は違うのだろうと思えた。

 渾身の告白は、彼の一閃によって消え去り、しかし、今でも微妙な関係が続いている。決して彼との関係が切れたわけでもなかったが、こちらが本気で詰めれる程の距離感でもなくなっていた。

 距離を詰めればその分離れる。傷つくことを極端に彼は嫌っていた。つらい何かを想起させるのだと、八尋の時折見せる悲痛な笑みが物語っていた。

 仮に八尋との話がうまくいくならば、あの立川との話もなかったことにできるのではないか、そんな彼女の打算的な思惑を、彼が敏感に感じ取っていたのかもしれない。

 それは、佐藤との時でさえも――。

 時計が半を示す音を立てた。

 一回こっきりの電子音。

 静かな図書室にはよく響き、小林ははっとした。

 顔を上げて時計を見た。規則正しく打ち込む黒い針が十二から右へと流れていく。先ほどまで気になっていなかった秒針の固い音が、耳にしっかりと残った。

 再び猫に視線を下ろした。

 表紙にくらり、と体から力が抜けた。すぐに体重をかけていた本棚から、体がずれた。

 足に力を入れて踏みとどまる。急激な体重移動に「おや」という感覚が足に走った。

 ふらつきながらも、何とか耐えた。

 マルが心配そうにみゃーと鳴いた。しがみ付くように小林の腕に猫の足が絡む。爪が立てられたのだろう痛みがあった。

 再び本棚の角に体重をかけると、肩でため息をついた。

 すっと腕が伸びてきて、左の二の腕に支えが入った。

「大丈夫です?」

 顔をあげて、ぎょっとした表情で相手を見た。

 きっと八尋だったら素直に声が出たのだろう。

 教員の立川・耕助が心配そうに見ていた。乱雑な髪。銀縁の眼鏡をかけて心配そうに顔を覗き込んでくる。

 半袖から延びる二の腕に彼の手が触れている、というのを実感した瞬間に、背筋に寒気が走った。

 なんであなたがいるの、と口にはしなかった。我慢して飲み込んだ。ここは小林と八尋の聖域だった。だというのになぜ、立川がいるのか。

 疑問が先行した。次いで現状を確認して嫌悪した。

 触られたところが気持ち悪いとさえ思えた。今すぐにでも剥ぎ取りたい。自分の皮膚を剥がしてしまいたい。そういった気持ち悪さが込みあがっていた。

 ぞくぞくと、何かが背筋を駆け上がる。

 蟲が這いずる様に多足的に、素早い速度で。震えていたと思う。

 ぐっと表情を押し込めるが、かすかな体の動きを察知したのだろう、マルはすぐに小林の手から飛び降りて窓へと向かった。窓枠から外へ、簡単にマルは飛んで行った。

 一度黒猫は心配そうに振り返ったが、窓枠に乗っかるとすぐさま下の階へと降りて行った。

「……大丈夫です」

 定型文を返すのが精いっぱいだった。

 ただ、相手に気づかれない様に、足早にその場を後にするだけだった。



 嫌な気持ちでいっぱいになって、小林は一人で屋上に居た。青色が雨と陽射しですすけたベンチに腰かけて、カンカン照りの太陽の洗礼を受けた。コンクリートブロックの屋上の床からの照り返しだけで頭がくらくらしたが、実際のところは先ほど立川に会った事の衝撃の方が強いと思えた。

 十二時半過ぎの屋上にはそれなりに人が居たが、小林の様子を誰も気にも留めない。

 仲のいい者同士の他愛のない会話に花を咲かせて突き抜ける青春の真っただ中。

 いくら小林の外見が目立つとはいえ、鎮痛な面持ちでベンチに腰かけている最中に、気軽に声を掛けられる者など、今この場所には居なかった。

 小林は、自分の中にある気持ちがなんであるか自問自答した。立川が関わってきたことが嫌なのか、それとも、立川をすげなくあしらう自分が嫌なのか。むかむかとする気分と同時に、吐き気を催す程に胃がキリキリと締め付けられていた。過度のストレスが掛かり気道が狭まり息苦しく助けを求める様に荒い息に変わる。しかし、周りに気付かれない様に必死に押し殺して床を見て肩を震わせていた。

 彼女の心に苛む気持ちというのは、おそらく前者だという事は、体中に残る違和感から分かった。特に、立川に触られたところがとても嫌だった。ポケットから取り出した白いハンカチで何度拭っても感触が残って気持ちが悪かった。百足にでも触れられたと錯覚するほどの不快感は、ずーんとその腕の一部に残り続け、嫌だという色で染め上げていく。

 立川のことを人として嫌っているのではない、と思っていた。親戚の一人というのであれば、特に問題もなく対処もできただろう。少々、過干渉な程度で、他の親戚と同様に切り替える事はできたとは思っていた。

 本当に?

 小林は自問自答する。答えが出る訳でもないのに、自分に言い訳するための自問自答。

 立川・耕助は生徒に人気があった。顔は良い。ぼさぼさの髪だってそう、セッティングしているのだと言われればそう見える。体形もスリムだから、よれよれのスーツであってもごまかしが効いていた。身長も高く、いずれ大学に戻るつもりでいるらしく、頭も良い。家柄も悪くなく、そこを鼻にかけない。財力だってあるだろう事は立川の乗っている車で分かった。真っ赤なスポーツカーは暴れ馬のエンブレムを付けていた。男子にとっては良い兄役を、女子にとっては大人の男性を演じている。

 小林にはその仮面が奇妙な物に見えて仕方なかった。――嫌いというよりは興味を持てない気持ちの方が強かった。

 何かと理由を付けて二人になろうとする立川に、合わせた事もあった。教師と生徒であるから危険な行為であるのは当然だろうが、立川は気にした様子もなかった。

 二人になると彼が向けてくる視線はこちらを別の見方で見てくるようになった。モルモットに向ける研究者の目だ。

 小林は嫌で仕方なかった。まるで、人形か何かを意のままに操ろうとする彼の思惑が透けた様な気がして、怖かった。

 性的な視線で見てくる事もしばしばだったというのも恐怖を得た理由の一つだった。胸を、腰回りを、足を。視線を向けては笑みを浮かべていた。何を妄想しているのか聞く気にはならなかったが、舐める様な視線は全身を隅々まで見ていた。

 立川は気づいていないと思っているのだろうが、彼の細かく動く目の動きや、微かに広がる小鼻の膨れは、如実に興奮を感じている事をにじませていた。優しく――尤も彼にとっては自制された――腰に手を回された時は、全身が硬直する程の恐怖感を背筋に味わった。

 一教師のするべき行動ではないと、小林がやんわりと諫めようとも、彼は気にした様子はなかった。立川の言い分は、「今は教師という肩書がない」という都合の良い文言だった。それを小林は素直に飲み込む事もできず、ただ、腹の中に渦巻く黒い不快感を必死に押し込めるのだった。

 屋上を吹き抜ける風はぬるい。小林に正気を与える様な冬に感じる冷たさも、春の様な優しく包み込む物でもなく、ただ不快感を増しただけ。

 きゅうっと胸の前で手を組んで、力を込めて前かがみに縮こまった。

 震え。

 怯え。

 恐怖。

 不快感。

 マトリョシカの様に一つずつ顔をのぞかせた。

 自分の弱さを呪えばいいのか?

 世界を呪えばいいのか?

 小林の心の中にある、霞がかった憧憬は、彼女の願望。

 すっと手を取り、優しい笑みを向けてくれる相手――それは一体誰?

 靄のかかった思考の隅で幾度目かの頭痛の痛みに耐えた。

 無性に八尋が恋しくなって目を強くつむった。

「あこ」

 良く知った生徒の声がした。顔を上げる気もしないで、小林はぐっと身を固くした。

 顔を見られたくもなかった。実際顔を向けたらどんな情けない表情をしているのだろうか。想像する事も出来なかった。

 肩に手が優しく置かれた。細い指が柔らかく肩を撫でた。

「今は、我慢しなくていいよ」

 橋本の優しい声が耳に残る。汗ばんだ匂いが微かに風に乗っている。不快感とは違い、現実を示す原器の様な絶対的な安心感があった。

 ぐるぐると回る思考は、決して終わりを許さない。

 しかし、橋本の存在が、今にでも宇宙の彼方にでも行ってしまいそうな滅入る気持ちを、ぐっと地に足をつけさせ、「自分が屋上にいるという」当たり前の現実を教えてくれていた。

 吐く息は重い。

 沈み込み、床を通り抜け、校舎を通り抜け、地面へ、いや、知覚できない先へと直進し続けているかのような錯覚を得る。

 息苦しさから、泣いている時の様に引き攣った呼吸をした。

 ゆっくりと橋本の腕が頭を撫でる様に包み込んだ。ベンチに座り込んだ小林を抱きしめていた。

 情けない様な、安心した様な気持ちが胸の中に渦巻いて、形容しがたいざわつきが突風の様に吹き荒れていた。

 目の奥が少しづつ熱くなっていた。ぐっと堪える。全身に力が入り、ぷるぷると震えている。

 泣いているのだろうか、と自問自答した。しかし、認識できない。

 気分的には泣いているのは当然だ。誰にも、彼にも吐露出来ないこの気持ちを、どうして自分だけが抱えて居なければいけないのか理解できなかった。

 助けてほしい。

 率直な気持ちを口に乗せる事が出来たのならば――どんなに楽かと一考。

 すぐに、「相手を」考えできないと至る。

 なぜ?

 どうして?

 頭の中にめぐる感情に整理がつかない。

 ぽんぽんと頭に手が添えられ優しく撫でられた。崩壊寸前の脳内に、心音の様に響き渡る橋本の手のビートは、決して深く届いてる訳でもないのに、全身を雷が打つように駆け巡った。

「今は我慢しなくていいよ」

 優しい言葉が静かに耳に残った。

 橋本はきっと小林の身になにが起こったか、何にも知らないことだろう。しかし、彼女は小林が耐え難い苦痛を被ったというのを見抜いているのだろうと推測できた。

 橋本と小林の付き合いが長い、とは言えない。しかし、橋本は相手の心を考える事が出来る。

 小林にいわれなき悪口が襲った時でも、橋本の確かな知識と記憶、そしてなによりも経験により相手がどれだけ傷つくか推測できたと語っていた。

 だからこそ、橋本は小林の傍にできるだけ居る様にしていた。

 生徒会長という建前を持っても、彼女は「友」を守りたいと小林に笑いかけたのだ。

 信頼できる橋本しかいない。そう思うと、胸の内を全部吐露して、軽くなりたいとも思ったが、小林のプライドがそれを許さなかった。

 立川を傷つけることになるのは容易に想像できた、というのもある。

 相手のことを考えてしまう。相手の体面を気にしてしまう。

 自分の事は二の次で、でも、感情は堰を切った様にあふれていた。

 小林・あこは橋本・紗月に抱きしめられて、静かに泣いた。

 ぽたぽたと涙が頬を伝って落ちた。瞬きすれば、にじんだ視界が地面に落ちる様に雫が床を濡らした。

 一滴。

   一滴。

      一滴。

 水たまりでも作る事が出来たのなら、きっとそこに映る自分の顔を見て、呆れる事が出来たのだろう。

 しかし、床を黒くにじませるだけだった。

「雨だね。うん」

 橋本は囁く。優しく。相手に突き刺さらない様に、

「気にしなくていいよ。今、雨降ってるからさ、すぐにやむよ」

 うん、と鼻声で小林は相槌を打った。

 鼻にかかる声は何とも情けない声で、小林は自分の事がさらに情けなくなった。

「あこが、――走って逃げるのを見たのは初めてかな。いつも、全部受け止めてから一人で悩んでるのに。どうしようもなかったんだろうね」

「……逃げた?」

 自分でも分からず、小林は問いを返した。ただ、橋本なら簡単に小林自身の心を見透かして、胸の中にドロドロとしている感情の正体を教えてくれる気がした。

「逃げたんだよ。何か嫌な物から。自分の中にため込むだけは限界だったんだよ。あこの限界を見れた気がするわ~。――あぁ、でも部活止めた時もそうだったのかもね。あの時も視線に耐えかねた、みたいなこと言ってたし。そりゃ絵になるからねぇ……。あこは常に周りからは完璧に見られちゃうから、成績だってわたし以下なのに、数学のおかげで学年一位を張ってる!って言われちゃうほどだし。嫌なのに、嫌って言えなく、違うのに、違うって言えなくて、ずっと、あこの胸の中に押し込めちゃってるんだよ。言えないのも分かるよ。分かるけどね」

 橋本はぽんぽんと再び頭を撫でた。

 橋本に改めて言われると、その気がしてならなかった。実際、小林の中で自分の感情に、整理がついていない状態だったから、何から逃げ出したのかは分からなかった。水を打った様にしっかりと聞こえる橋本の声が、ただ、事実の様に感じたとしても、仕方なかった。

 小林は、その目の前にある答えに飛びつく事が出来なかった。

 自分の事が分からない、その事実だけが不気味に笑みを浮かべて、なし崩し的な感情の濁流をヨルムンガンドの様にすべてを飲み込む。そんな底なしの口を開けられている様な恐怖感が付いて回った。

 それでも、幾分、気持ちは落ち着いた。

 灯台の明かりの様に確かに一瞬だが、彼女の言葉が本物だと感じた事で、乱雑に並べられていた気持ちに規則性が出来た気がした。

 逃げた。

 その事実は変わらない。確かにそうなのだろうと小林は頷く。

 相手に言えない。その事も事実。

 だからこそどん詰まり、苦しくなるのだという事も分かった。

 血の上っていた頭が冷静さを取り戻す。

 涙は止まっていた。

 まだ視界はにじんでいるが、泣きたい気持ちは薄らいでいた。

「面と向かって相手に言うんじゃなくて、誰かに言いなよ。――それこそあこは、仲のいい子がいるんだからさ」

「他人に愚痴を言うのはどうかと思います……」

 あはは、と橋本は声を上げて笑った。

「他人と切り捨てるっていうのもどうかと思うよ」

「――誰の事を言ってるんですか?」

 もちろんと、橋本は笑いを含んだ声で、

「あの図書室の隣にいる子の事だよ。――尤もわたしをもっと頼ってくれてもいいとは思うけれどね」

 橋本の言葉に恥ずかしさを感じて、橋本の体に体重を預けた。

「前に許婚の事でわたしに愚痴ったじゃない。そんなの気にする事ないって。佐藤の時もそう。あこは意外に口に出してるんだよ。我慢できなくなったときはさ。それ、ほんと自覚ないんだ。でも――そう、壁を作っちゃってるんだね。つらいね」

 優しい言葉に、返す言葉を模索した。

「考えないの。今は我慢しなくていいから。――っ」

 橋本が身を翻すのが分かった。

 息を飲む小さい悲鳴の様な声が聞こえ、何事かと小林は頭をあげた。

「暑いから差し入れ」

 ぶっきらぼうな言い方。見知った顔が立っていた。身長の高いシルエットが逆行で映る。くしゃくしゃな顔を隠す様に顔を背けた。

 見られたくない。

 乙女の気持ちを彼は理解しているのだろうか。

 でも、心の中で安堵している自分が居た。彼が傍にいた事で、あの忌々しい記憶がどんどんと薄らいでいくのが分かった。

 すぐさま、小林の頬に冷たい物が押し付けられた。

 夏の熱線で火照った体に刺す様な冷たさは彼女の口から空気を吐き出させた。

「――っ!」

 驚いて肺から空気が一気に抜けた。悲鳴にならない悲鳴は、口をただパクパクと動かすだけ。

「ま、先輩落ち着け」

 キンキンに冷えているコーヒーを押し付けたまま、八尋は静かな口調だ。

 なんでそんな冷静でいられるのか、小林には分からなかった。

 と同時に、それがずるいとさえ思えた。

 小林の中にある不平や不満など、きっと見透かしていつものように無関心を装うのだと。

「なんか、目赤いぜ。ゴミでも入ったか?」

 橋本は目を細めた。

 予想通りだ、とも思った。きっと彼は分かっている。

「……聞いてたの?」

 確認の一言。

 だからと言って、彼は素直に答えてくれないだろうとも理解していた。

「いんや? なんの話かよくわかんね。人の話聞くのもあれだろ。でも――先輩がクッソダッシュして階段上がってくの初めて見たから、暑いのに大変だろうなって。」

 とぼけた口調で右手に持ったコーヒーを橋本の顔に近づける様に差し出す八尋。

 いい、と小林はぷいっと顔をそむけた。

 想像通りの対応。きっと――色々考えた中で彼は傍に来てくれたのだ。

 赤くなる頬を隠す。どんな表情か自信がなかった。

 八尋に向ける姿は「完璧」でいたかったから、今は見られたくないという気持ちが先行した。

「そっか。なら置いとく。好きにして」

 本当にそれだけの用事だったのか、八尋は橋本にコーヒーを二本押し付けてくるりと踵を返した。

 八尋のズボンの後ろポケット辺りと、小林はおもむろに、くいっとつまんだ。

「何?」

 小林に首だけ動かして八尋は問いかけた。視線は憐みも、侮蔑も、嘲笑も、何一つ感じない凪。彼の心に一部の隙も無いという漆黒の視線。

 小さい声を絞り出す様に、小林はそっぽを向いたまま一言。

「ありがとう」

「……おぅ? 帰りいつも通り教室に寄るわ」

 右手を上げて八尋は挨拶した。

 緩む小林の力。気にした様子もなく、八尋はすたすたと歩いていった。

「これは、強敵だわ」

 橋本が何かを感じた様につぶやいた言葉が風に乗って流れて行った。

 しかし、あこは彼が見せたあの視線が気になった。完璧な凪の視線。

 何の感情も有しない幽鬼の様な実感のない視線。あれは一体何を見ていたのだろうか。

 値踏みされていた、のだろうか、と。



 最近、小林・あこがおかしい。視線の先にいる、美少女を眺めながら八尋はそんなことを思った。

 普段なら、図書室に居るだろう時間であってもせわしなく廊下を、階段を、校庭を、校舎の裏を彷徨っていた。

 一日中可笑しな行動をしている小林の事は気にしなくても目に入ってしまう。冬に差し掛かる外気は、めっきり寒くなっていたから、外に好んで出る生徒なんてほとんどいなかった。その上、今時きっちりと校則に則ったスカートの丈の長さはどの生徒からみても長いと思える程だったし、ぱりっとしたセーラーの襟はそれだけで新鮮味を感じさせた。ベージュ色のカーディガンを羽織り、寒さの対策をしている。黒いタイツが健康的な足のラインを際立たせていたものだから、男子たちはこぞって彼女の姿を目で追っかけていた。遠目から見ていても彼女の存在感は生徒随一だった。遠くからみても分かる真っ黒な髪は印象的に風に靡いていた。まるでカラスの様ではあったが、彼女の横には学校で有名な黒猫が随伴している事をみると、猫の親子が並んでいる様にすら見えた。尤も、猫の方が後を追っているのであるから、彼女が親か、と思えて仕方なかった。

 八尋は声をかけるかどうかを悩んだ。彼女とは親しい間柄だったから、気軽に声をかえても問題はないだろうとは思っていたが、切羽詰まった様子の彼女の表情を見れば、簡潔に声をかける、というのも憚れた。いつになく、きゅっと唇を結び、風を切って速足であちこちを歩き回る。小林の行動の意図が図りかねた。

 四六時中監視しているわけでもないから、何をしているのか分からなかったが、時折上を見上げたり、地面を見たりしている所から、何かを探しているのだろう事はうかがえた。

 今も昼休みの時間だというのに、東棟の裏側を生垣と校舎の狭い――人一人が通れる程度の隙間を地面を見ながら歩いていた。

「どうしたのさ、そんなに外を熱心に見てさ」

「……あぁ」

 声につられて八尋は振り向いた。丁度席に来たのだろう、座ろうとしている体の丸っこい少年が一人。上野・彰浩だった。

 身長も八尋から見ればかなり低い。百六十もないと思える。机の前には一冊の本を置いていた。ハードカバーの本であるにもかかわらず、彼の太い腕から見れば、小さく見えてしまう。腹はでっぱっていて、机に引っかかりそうになっているが、ぐいっと体を猫背にして必要以上に後ろに引っ張ったパイプ椅子に着座した。ぎしりという苦しそうな音が椅子から漏れるが、上野は気にした様子もない。体重はだいぶ重いのだろう、椅子を前に出す音もひきつる様な軋みを床から響かせた。

 図書室の司書が顔を上げて、こちらをちらりと見てくるのが分かったが、八尋は視線を合わせない様にして、上野の対面に座った。

「先輩が裏に居る」

「小林先輩? ――なんか最近忙しそうだよね。生徒会でも噂になってたよ。なにか学校に呪いでもしているんじゃないか、って生徒の間で噂になっちゃってるって。特に、橋本先輩が嫌そうな顔してたっけ」

「呪い、ねぇ……」

 上野は、本を左手に置いたまま、八尋に頷いた。

「具体的に何かっていうのがないからね。小林先輩らしい噂の流れ方だとは思うね。ほら、実態のない噂ばかりじゃない? 特に《魔女》なんて綽名だけで噂になるんだからさ」

 たしかに、と八尋は頷いた。

「小林先輩はあの容姿だから、未だ一部生徒達から妬まれてる。その上、噂になっても動じないからさ」

「そんなことはないだろう」

「そうなの? 僕はほとんど話した事ないから分からないけど、噂を耳に挟む限りでは、そういった印象だけどね。完璧超人だって誰もが言うもの」

 八尋は首をひねった。

 そんなに完璧な先輩だったろうか、と思った。勉学が秀でているという訳でもなさそうだったし、運動だって適当にやっているだけで部活にも入っていない。同じ帰宅部としては本を読むのが好きな先輩、というイメージが強かった。そのうえ、泣き虫なのを知っているから、「完璧」というのがどこから現れてたのか八尋には分らなかった。

「普通の女の子だと思うが?」

「……そう括れる八尋氏はすごいと思うよ。あの先輩は別格だと思うんだけどね」

 呆れた様に上野は目を細めた。

「ま、いいや。どうせ、雲上人には分からないってもんですよ」

「俺が? なんで?」

「そりゃそうでしょう」

 上野は笑いながら、

「あまりにも自覚が無いなら説明してもいいんだけど。八尋氏。君に足りない物は友人くらいだといつも言っているじゃないか。勉強もきちんとこなし、素行だって問題ない。過去の事は知ったことじゃないよ。僕は君を監視しようとする教師とは違うからさ。バイトだって遅刻したことはないし、たまに一緒にいくカラオケだってうまいじゃないか。運動部に入っていないのに、球技以外の運動神経はいい。そりゃ毎日四キロも走ってれば体のつくりが僕とは違うよ。身長もある。顔だってスポーティーなしゅっとした顔立ちじゃないか。そういうのを総じてなんていうか分かる? 僕から言わせればイケメンというんだ。その上、学校一の美人の小林先輩と良く帰るところを見るとなれば、一言君に送るのは『お幸せに』だちくしょう」

「意外と普通じゃないか?」

「八尋氏の普通は僕ら、下民からすれば『異常』だよ」

「そんなもんなのか」

 うむ、と上野は腕を組んで頷いた。

 多少僻みが入っている様な気がしたが、八尋は気にしない。上野との付き合いは過去の縁も含めれば三年を超える。

 さすがに八尋の話相手という事もあり、どこまで突っ込むべきかというのは心得ていた。あまり話しを突っ込みすぎても八尋には理解できない言葉の羅列が始まるため、それを回避するのは八尋にとっては当然の事だった。特にひどいのは、彼の好きな領分――特に第二次世界大戦を引き合いに出されると、何を言っているのか分からない。バルバロッサ作戦の名前をだされた時には、どういった物をなのかを悶々とした中で話しが終わるまで待ったものだった。

「別に、八尋氏のことを悪く言っているつもりはないけどさ。自分と同じ、と思わないほうがいいと思うよ。八尋氏も小林先輩と同じくらい学校の中では浮いているんだから」

「なんでさ?」

「これは、先生たちも悪いと思うけどさ、八尋氏って昔の――中学時代の悪行があるでしょ? それを竹本センセが良く通る大きな声で職員室で話しちゃうからだと思うんだよね。同じ学年で知らないの居ないと思うよ。警察に目を付けられて、あの時の不良からもまだ目をつけられてるんでしょ? 寄り付きたくないって思うのが『普通』じゃない?

 せっかく入学の時には色々と学校の先生たちにも「お話」したというのにね。全く二年も経てばみんな忘れちゃうっていうのは酷いなぁ」

 八尋は黙り込んだ。自分でも不良や警察という言葉がでれば嫌だろう。嫌だからこそ距離をとったのだからと再認識する。

 結局個々の主観がレッテルを決めている。それは確かな事だな、と思う。

 他人の主観によって形成された八尋・真という人物はさぞ、筋の人と付き合いのある怖い生徒、とみられているのだろう。

 八尋は苦笑した。

 自分はそうは思っていないのに、といっても、結局小林と同じ様な境遇なのだと。

「八尋氏の事は正直、僕だって分からないよ。過去の八尋氏を全部知らないのだし。でも、今、八尋氏が悪い人か、という判断くらいはつくさ。だからこうやって普通に会話しているわけだよ。生徒会長だってそうじゃないかな。見る人は見てる。でも、見てない人は色眼鏡を通して八尋氏を見ているんだろう。噂なんてそんなもんだろうしね。気にしないのが一番だろう? ま、そうやって笑っているうちは大丈夫なんだろうけど、一度耳に残ると、案外気になるものだからさ」

「上野もそういうのがあるわけ?」

「――僕の場合の方が、八尋よりは多いと思うけどね。……身体的特徴で言えば、誰よりも目立つとは思うし……」

 上野はお腹をポンポンと叩いた。

 たしかに、と静かに八尋は頷いた。上野を茶化した言葉は良く聞く。本人も笑いながらさばいているのは見るが、内心苛立つこともあるのだろうな、と容易に想像できた。ただ、上野はそういった場合でも、顔には決して出さず、他人の悪口を増長する様な事もない。

「それに、悪口っていう感じも相手は持っていないんだろうと思うよ。周りが茶化すから、自分も乗っかるっていう集団的行動だとは思うからさ。それをつぶさに潰していく事もできないから、僕はあきらめてますけどね!」

「俺は、そう簡単に割り切ってるわけじゃないが?」

 当たり前だよ、と上野。むふーと腕を組んで息を吐いた。

「誰も簡単に割り切ってるなんて思わないほうがいい。僕の場合は本当に――それこそ小学校の頃からだから諦めが付くし、それをダシにして笑いを取りに行ったりもするけどね。小林先輩はそうじゃないだろうね。他の生徒の目が気にならない訳じゃない。ずーっと我慢しているだけだよ。だから、そんなところに八尋氏みたいなのがいたら、多少でも気が楽になるんじゃないかな……とは思うんだけど」

「なんで?」

 八尋の疑問に、心底呆れ様子で上野は口を尖らせた。左手を添えていた本をずいっと動かし、半身机に乗り出して、目を覗き込んでくる。

 時折上野の見せるこういった行動が、胸の中を透かしてくる様で八尋はどきりとした。

「はー……。この一年、二人の関係が進展していない理由がよくわかったよ。八尋氏は、小林先輩の好意を無視しているんだね」

「……」

「気づいているけど、『過去』を嫌って――距離をとってるんでしょ。僕にだって時折距離とるもんね」

 八尋は沈黙している。上野から視線を少しずらして、入口の方へと視線を動かした。

 内心が見透かされるというのはどうも座りが悪い事らしく、視線が時折飛んだ。

「咎める立場にあるわけじゃないから、僕はどうでもいいんだけどね。――感謝する立場だからさ。ただ、今の距離だけ保つだけなら、あれだけど、少しでも進展させるっていうのなら……。あと一か月もすれば先輩は自由登校になっちゃうんだから、すごく勿体ないと思うよ。どういう関係がいいかは知らないけど、僕から見れば似た者同士で気が合いそうだからね。八尋氏の良い友人になってくれるとは、思うんだけどね。――僕じゃぁ役不足の事もあるだろう?」

 八尋はガタリ、と大きな音をたてて椅子から立ち上がった。

 上野はふぅ、と息を吐いた。

「小林先輩ならまだ裏にいると思うよ」

「知ってる」

 ちらりと、窓の外を見れば黒い髪が目に映る。

 八尋は上野の肩、ぽんと叩いて、図書室を出ていく。

「これ、貸し一つね」

 嬉しそうに上野は笑った。

 何がだよ、と口に出しそうになったが、八尋は「あぁ」と曖昧に声を残した。



 東棟の扉を開けると、ぴゅうと風が吹き抜ける。センター試験も近づいているだから当然だ、と八尋は思った。

 小林と会っている日々が普通だと思っていたが、上野に言われて突然不安になった。なんでかは分からなかったが、胸を締め付けられるような気がした。

 ガタイに合わず小心者だな、と心の中で苦笑。実際、何に不安になったのかもわからなかったが、あの場に座っている事もできなかったのも確かだった。

 八尋は上野が指摘したとおり、小林の事は棚上げしていた。

 怖いのだ。裏切られるのが。

 怖かったのだ。入り込みすぎると見えてしまう暗闇が。

 一人傷つけた。正確には彼は手を下せなかった。しかしそれを見ている事しかできなかったが結果としては、最悪だった。その過去が鮮明に脳裏に蘇った。

 中学三年の春、廃工場の一角でグループの鴨になっていた少年を痛めつけている現場。皆手には鉄パイプやら、バットやら殴打できる獲物を持っていた。学校の窓ガラスを割りに行く話だったのに、道中で見つけた塾帰りの少年から金を巻き上げ様としていた。少年は叫んでいた。最初は罵倒交じりの言葉だったが、二度、三度と殴打されるにあたり、命乞いに変わっていた。グループのリーダー格は男性を愉快そうにみていた。誰もが手慣れていて、一撃で意識を刈り取る事などしない。足を、手を、力任せに押さえつけては痛めつけた。

 これは教育だ、とリーダー格は言っていた。小太り気味の少年は運動神経がいいわけではないが、頭がよかった。同じ中学の隣のクラスだということは知っていた。教室には寝るために行っていた八尋であっても、彼の姿は何度も目にしたことがあった。機械類に強く、東工大に行くんだ、と豪語していた。

 彼の話し方は少し鼻についた。自分が頭がいいという事をさらけ出す様に小難しい言い回しを好んだ。

 だからグループに狙われているのも納得だった。彼はグループの脅しに対して毅然としていた。いつも「ノー」を言える強さを持っていた。

 その強さが仇になったのだ。そう当初は八尋も思った。下手に出ていればここまでひどい事はされないと。

 リーダー格が八尋に鉄パイプを渡した。一発教育してやれと笑った。

 その時八尋はその通り動けなかった。ふらふらと少年に近づくと、未だに少年にバットを振り下ろすグループの一人から庇う様に間に割って入った。

 グループ全体、八尋を罵倒した。属するという事はそこに染まらなければいけないという事を、八尋は十分理解していた。

 だが、八尋の良心はそこで曲げれなかった。彼らと同じように染まり切る事ができなかった事を後悔はしていない。

 振り下ろされるバットは八尋の背中に何度もあたった。白けた様な言葉飛び交い、八尋も私刑に処すべきだという意見が大半を占めた。

 警察が乱入してきた。サイレンの音など全く聞こえやしなかった。どうやら、巡回中の巡査が入ってきたらしい事は分かった。

 その時誰かが叫んだ。「八尋が通報しやがった」その一言で、八尋は冷めてしまった。

 仲間なんて幻想だと思えて仕方なかった。

 友達なんて嘘だと思えて仕方なかった。

 対比は無意味だと思いながら、頭を振るい、頭の中にいるもやもやした物を吹き飛ばした。

 冷たい風が思考をクリアにする。

 目の前には地面を座りながら見下ろす小林の姿が見えた。

 一年の時、初めて小林に会った時から胸の中にある感情を未だに八尋は理解できないでいた。

 彼女に対して、何を思っているのか。

 好意? 憐憫? 愛情? 忌避?

 それだけにはとどまらい事は分かった。佐藤との一件で掴めそうだったその感情は未だにドロドロした不定形を纏って熱い熱となっていた。

「先輩」

 小林が屈んでいた姿から立ち上がり振り返った。いつもと同じく表情が乏しいと思えた。凛としているが、すん、としすぎている。

 かっこいいとは思うが、可憐さは薄い。女性という色が強く、少女というには大人びている。

 八尋は小林を見ると、吸い込まれる様な深い紫色の瞳に視線が吸い寄せられてしまう。

 ぱちりと瞬きをするたび、長いまつげが色香を持っている。

 小林は視線を合わせてくる八尋にドギマギした様子で視線を外した。

「真くん。どうしたのですか?」

「それはこっちのセリフ。――最近、ふらふらしてるから。何か探してる?」

 ええ、と力なく小林は頷く。ベージュ色のカーデガンの袖を人差し指と中指でこじんまり押さえながら前でもじもじとしていた。

 少しバツが悪そうな表情。八尋が怒っている訳でもないのに、眉を寄せていた。

「キーホルダーです。……黒猫の背伸びした、アクリルでできた物なんですけど……」

 ふーん、と八尋が頭をひねると、なぜか小林は委縮した。

 気にしても仕方がないので天を仰いで、考えをめぐらした。

 小物であるから探しだすのは難しい。誰かが持っているかもしれないし、ゴミに出されているかもしれない。そう思うと期待に沿えない気がしてならなかった。

「そこに鍵ついてるのか?」

「いえ……特には何も」

「職員室にとどけられてたりは?」

「……そこはもう聞きました。無いと言われてしまいましたが……」

 そっか、と残念そうな小林に向き直った。

 肩をすぼめて小さくなる小林。

「ここ数日じゃぁないよな。無くなったのって。最近ずっと探してるんだし」

「そう……ですね……。大体二週間前くらいです」

「てか、普通キーホルダーなんてカバンにつける程度じゃないの?」

 小林は、八尋の言葉に益々委縮する。小さくなって、消えてしまうんじゃないかとも思えるほどだった。

「あの、ですね。ここに、つけてたんですが……」

 小林はカーディガンのポケットから、手に収まる程度のスマートフォンを取り出すと、ケースから延びるストラップを指さした。

 たしかに、そこにならつける事はできるだろう、と八尋は頷いた。

「そう簡単には落ちないと思っていたのですが、バネが緩んでいたのかもしれません……」

 肩を落とす小林。

「それで、行ったことあるところを探してたわけか」

 はい、と消え入りそうな声。

 仕方ない、と八尋は腕を組んだ。一息。

「一緒に探してもいいけど。もうすぐ休み時間終わっちまうから、――放課後とかは予備校あんだろ?」

「そう、です、けど……でも……」

 後ろ髪を引かれる様にもじもじと指を動かしながら、スマートフォンの外周を人差し指でなぞった。

 八尋は気になった。なんでそんなに、一つのキーホルダーを気にするのか。

 それも早く見つけたい、そんな思いが感じられた。

「それって、重要な物?」

「……」

 八尋の問には最初無言だった。視線を落とし、

「ええ」

 霞の様にすっと消え入る言葉。

 なんとなく、彼女の様子から予想がついてきた。

 ただの物ではない。その上、八尋にすまなそうな表情を向ける理由。そして、自分の脳裏に残る形。

 そこから、八尋は一つの答えを導いた。

「それって、――俺があげたやつ?」

「……うん」

 そっか、と八尋は軽く頷いた。

 納得した。

 去年、八尋が贈った物だ。

 八尋にとっても大きな意味を持つものだった。

 この《魔女》に救われた象徴なのだから。

 ふと思い出した。その時の小林の表情は、驚いた様で、でも口元は珍しく綻ばせていた。他愛のない物であるのに、ぎゅっと両手で包み込む彼女の姿。まだ、単なる顔見知りだったのに、彼女にお礼がしたくて、彼女が本屋で眺めていたキーホルダーを贈った。

 たったそれだけの出来事。

 でも覚えている。

 八尋は無くしたことは仕方ないと思っている。

 形ある物全てがいずれ無くなるのだとも分かっているから。

 だが、小林はそれを求めている。

 未だに執着していてくれている事がうれしくて、八尋は自然と笑みがこぼれた。

 今でも俯いたままの小林に、どう言葉をかけようか思案した。

「先輩」

 言葉を選んだ。

「帰り時間ちょっとある?」

「……うん」

「代わりを探そう。今度は僕もお揃いで買うから」

 八尋は一歩踏み出して小林の頭をぽんぽんと撫でた。

 くしゃくしゃな表情を押さえようとしている小林の顔があった。

 すぐさま小林は手で口元を隠した。

 恥ずかしくて見せられない、そんなことを考えているんだろうと八尋は思った。

 そう思えると、無性に胸の中が騒めくのが分かった。

 抑えが効かない衝動が、彼を動かした。

 さらに一歩前に。

 涙を流しそうな彼女の左手を八尋の左手がさっと攫った。細い小林の手はかすかに肩を震わせた。

 力を入れると織れてしまいそうな気がして、彼女の手がつぶれない様にやさしく包んだ。

 手の震えを隠そうとしているのか、一度小林は手を引っ込めようとしたが、八尋は彼女にそれを許さない。ちょっとだけ力をいれて小林をつなぎとめた。

 右手を添える。両手で小林のガラスの様な手をふにふにと握り込む。安心させるようにゆっくりと握り込むと少しづつ小林の手の震えは治まった。

「良い?」

 催促する八尋の言葉に、小林は俯いたまま小さく「うん」と頷いた。

 八尋は心の中にあった淀みが晴れていくのが分かった。



 もう卒業式のシーズンである。

 八尋は卒業式の準備が行われている体育館で、頭を抱えてうずくまった。

 心身共に寒さが突き抜ける体育館は、がらんとした様子を一変させ、紅白の垂れ幕に、パイプ椅子を並べ、檀上には国旗と校旗が用意されている。緑色の養生シートを床には張り巡らせ、土足でも入れる様にしていた。

 司会を取り仕切るマイクスタンドは鈍色に天井の光を反射して八尋の頭を照らす。

 所々空いた扉から冷たい風が体育館の温度を下げていた。未だに大型のハロゲンヒーターを動かす様子はなく、寒い、というのが全身襲っていた。

 前日から延べ六時間くらいは働いている。

 バイトよりも心に来るものがあって、八尋はため息をついた。

 黒猫が体育館の入口で内部を伺う様に覗き込んでいたが、すぐさま通り過ぎてどこかへ走り去っていった。

 マルは完全に学校になじんでいた。休みの間であっても、誰から食事を与えているらしく、前に見かけた時よりも少し体格が丸くなっていた。年齢相応に体長も大きくなっているのであるから、肥満、ととらえても仕方ない体形だった。

 小林はよくマルの毛を梳いていた。どこから持ってきたのか、小さい四角い櫛を取り出して、全身を撫でる様に。図書室でよく見る光景であり、自由登校となった今でもたまに図書室にきては、やっていた。

 ぴゅうと風が吹くと現実に戻される。冷たい風がぼうっとした眠気を含んだ頭に喝を入れていった。

 視線を上げる。両手を後頭部で組んで首を支えた。

 いまだに生徒の幾人かが、檀上立ち位置を決めて居たり、檀上のマイクのテストをしていたりした。最終確認というのも存外に時間がかかる物だと思うと同時に、八尋は、なんで自分がこんなことをしているんだろう、とふと我に返り急激な脱力感を感じていた。

 朝も早い。

 今日は登校日でもない。

 であれば、ゆっくりと朝をかみしめる時間くらいあってもいいのではないか、とも思った。

「諦めるがいいぞ、少年」

 生徒会の一人、高岡・恵が芝居がかった話し言葉で、近づいてきた。

 きっちりとタイを締めた彼女の制服の左腕には、臙脂色の腕章。白抜きで堂々とした文字で生徒会と書かれていた。

 膝丈のスカートは普段より長いのだろう、ちょっと大股に歩く彼女の動きに合わせてひらひらと踊っていた。

 運動部らしく短くした髪ではあったが、小顔の彼女には似合っていた。

「諦めるも何も、感謝くらいしてくれてもいいでしょうよ」

「それはたしかにそうだな」

 苦笑いを浮かべる高岡は、ポケットから取り出した飴玉を八尋に投げてよこした。

 右手でキャッチすると手の中で包装用紙がくしゃりと乾いた音を立てた。

「腹に何か入れれば、元気になるものだよ。朝も六時から来てくれているのは感心感心。特に生徒会でもないのに良く来てくれた少年よ。」

「言い方」

 びりっと飴の包装を破り、口の中に放り込む。ブドウ味の甘味が口に広がった。

 八尋は口の中でからころと飴をころがしながら、

「それに、同学年じゃねぇか」

 高岡はくくっ、と楽しそうに喉を鳴らした。

 彼女も八尋と同じ二年生。今年から生徒会に入っているが、役職は特になかった。

 来年には会計に指名されるのではないかと上野は言っていたのを思い出した。

「なに、元気がないなと思ってな」

「そりゃ、休みの日に朝から駆り出されれば普通元気でねぇ」

「そうかい? 上野はだいぶ違う様だよ」

 遠目に見える小太りの少年は、椅子を片手に三脚づつ、計六脚もって奇声を上げながら爆走していた。それでも隣を通り過ぎる女子生徒に追い抜かれる。

「あいつは、あんな生き物なんだって思う様に」

「酷い言い方だね」

 高岡は、くくっと喉を鳴らした。

 ゆっくりとため息をつきながら八尋は立ち上がり、

「まだなんかあるのか?」

「あぁ、だいぶ準備は終わったのだけれどね、少し問題があったのだよ」

 眉を顰める八尋。橋本は檀上でマイクのテストをしているし、大きな問題があった様には見えなかった。

「なんだよ」

「答辞の小林先輩が見当たらない。――八尋なら何か知っているのじゃないかと思ってね」

「なんで俺が知ってるんだよ」

 おや、と目を丸くする高岡は、意外そうに口を丸くした。

「八尋は小林先輩の彼氏だろう? 彼女の門出くらい祝うと思っていたし、連絡先くらいは知っているとおもうのだけれどね」

「……連絡先なら知ってるが?」

 あえて否定はしない。そっぽを向いて八尋は絞り出す様に告げた。

 うん、と高岡は頷くと、

「それならちょうどいい。連絡してほしい。さすがに一度は合わせをしたいからね」

 大きなため息をついて、八尋はスマートフォンを取り出した。

 慣れた手つきでコールする。二度、三度とコール音が鳴った。

 耳に流れるのは機械的な電子音。特段の変化のないまま十度なった。

「出ない」

「おや、体調でも崩れたのかね。学校に来ているのは見かけたのだがね……」

 顎に手をあてて、高岡は首をひねった。一拍。

 八尋と、高岡はびしりと指を突きつける。

「命令だ。すぐに探りたまえ」

「言い方」

 二度目の指摘も高岡は苦笑して流した。

 しかたない、と重い腰を上げて八尋は校舎の方へと歩きだした。



 ひと気のない校舎は寂しさを持っていた。

 ここで二年過ごしているが、未だに慣れないものもある。

 一人だった一年の時に、一人出会い、クラスメイトと話しをし、……《一匹狼》と揶揄されているのがウソだな、と八尋はこの二年を思い出して苦笑した。

 誰ともつるまない。でも誰とも関わらない訳ではなかった。

 きっと小林もそんなことを考えて、図書室にでもいるのだろうとあたりを付けて校舎を歩いていた。

 二年。

 小林と出会って過ごした時間は、長かったとは思う。だが、未だにこれが終わるという実感はなかった。

 いつまでも続くという幻想は持っていなかったが、途端に終わりを告げるとも思えなかった。

 この時間は八尋が一人である事は少なかったし、中学の時の様に裏切られる事もなかった。

 学校を遠くにしたというのも地域の違いがあるのだろうが、それでも良い環境だとは実感できていた。

 当初学校側は八尋の入学を拒否しようとした。当然だ。傷害事件に加担していた非行少年など受け入れるリスクがあると判断した。

 そこを救った一人がいた。

 彼が守った少年だ。名前を上野・彰浩という。

 上野は事件の後、八尋と話しを幾度と無く交わしていた。八尋の考えも、今までの生き方も、鬱屈していた状況も。何もかもを暴露した八尋のために、上野は親を動かした。

 具体的にはPTAまで動いたらしいが、何をしたのかは教えてくれなかった。

 ただ一言、「貸し借りなしね」と破顔した。

 五月。入学資格ありとして、一か月遅れて八尋は高校に入学した。

 当初から注目を集めた。同じクラスで話す相手は居なかった。それもこれも竹本が大きな声で話をしていたらしく、不良だと思われていたというのもあった。

 それでも八尋は問題無かった。一人でも、事足りると思っていた。

 中央棟の教職員室の脇を通り過ぎた。二年の教室の真下。

 遅い入学をしてきた不良に最初に声をかけたのは長澤だった。

 長澤は、サッカー部に入ったばかりだったが、人気があった。人付き合いもうまくて、なんで自分に声をかけてくるのかと、八尋は内心驚いた。一目見て人の好さそうな笑みを浮かべていた。裏表がないのだろう、突き抜けた爽やかな印象を受けた。

 ちょうど夏に全校に噂になる事件があった。その噂をうけて、八尋の不良という印象は如実に強くなっていた。

 一人生徒を退学させた。

 これは、まぎれもない事実だったが、それに伴う物語は全部すっ飛ばされていた。

 噂になるには理由もあった。

 小林・あこが絡んでいたからだ。学校全体でも誰もが一度はその尊顔を拝みに来るという美少女。

 だから、ますます八尋には近寄りがたいオーラが出居ていた。

 何度かやり取りしたことのあった長澤であっても、きっと近づく事は嫌だろう、と思った。

 だというのに、どうして、と頭の中でぐるぐると疑問が回ったが、長澤は一言、「サッカーできる?」と笑いかけた。

 運動神経は悪い方ではなかったから、球技くらいできるだろうと八尋は思った。実際、中学の時では部活に所属していなくても、うまい方だとは思っていた。

 軽く休み時間に付き合わされると、そんなもんではない、というのが良く分かった。まるでボールが長澤の足に吸い付くようだったし、軽く蹴っているはずなのに、体に響く重さは重厚さを持っていた。サッカーが好きなんだ、というのが良く分かった。

 意地になって付き合っていたら、上野が声をかけてきた。見た目がいかにもオタクである小太りの少年を見て、長澤は舎弟にしたのか、と冗談交じりに嘯いた。

 上野は笑って「命の恩人だよ」と大きな声で告げた。その時、一瞬すべての音がシーンと静まり返ったのを未だに覚えていた。

 二年に上がる頃には多くのクラスメイトと話しをできる様になっていた。――ぎこちなさは残っていたが。

 東棟へ入った。一階しか渡り廊下はないから、軋みを上げる扉を開けて中に入る。

 当然三年なんて誰もいない。まだ相当早い時間だ。あと一時間は誰も来ないことだろう。朝日が強烈なまぶしさで八尋の目を襲った。

 三年生なんだよな、と実感のない呟きは口に出したつもりが言葉にならず、胸の中で溶けて行った。

 三年。

 小林・あこも三年。

 今年で入れ違いに居なくなるのだ。

 たどり着いた図書室は暗闇だった。

 扉のカギも開いていない。であれば、どこにいるのだろう、と頭をひねった。

 一人誰も居ない校舎の階段を降り、靴の音を高らかに響かせて、腕を組んで唸った。

 思い当たるところが無い。

 彼女のセンチメンタルな気持ちをどこで発散しているのか、まったく見当がつかない。

 東棟一階の扉を開けると、マルがコンクリートの階段に腰を下ろしていた。

 みゃーと八尋を見つけるとひと声。人懐っこいため、すぐにすり寄ってきた。

「小林先輩知らないよな……」

 八尋のつぶやきに、腹を見せながらマルはみゃーと鳴いた。八尋は屈んで腹をくしゃくしゃと撫でた。手にあたる毛は心地いい。きっと小林が梳いていたのだろうと思うと、どこかマルと時間をつぶせる場所はないかと思案した。

 校庭の中ほどに確かベンチがあった気がした。職員室の前あたり。

 八尋が立ち上がると、マルが身をくるりと起こして、立ち上がった。

 なんだ、と視線を向けると、マルが八尋の顔を見てあくびをした。

 八尋が歩きだすよりも早く、マルは先導する様にぴょんと一足。

「来いってことか?」

 まさか、と思いつつマルの後を追った。

 走る。

 こちらの事なんて考えていない様に、トトトッと軽い足取り。中央棟の方へと。

 八尋はつられる様に後を追った。



 小林・あこは放送室に閉じ込められていた。

 正確には眼前に障害物があり出る事が叶わないというのが正しい。障害物は扉であり、人であり、二つの難関をクリアしなければ外に出れない。

 扉は木造だったが、一般的なシリンダー錠を備えている。機材があるため、かならず施錠されるというのが通例で、長さ七センチ程度の鍵を差し込む必要がある。放送室の内側は、閉じ込められないように番があり、右に半回転させれば解錠されるが、今は難く閉ざされている。番の上には銀色のガムテープが張られ、一度はがさなければ回す事は叶わない。

 人は立川・耕助。小林の体格よりずっと大きな彼が扉を塞ぐように立っていた。いつも通りのよれよれのスーツではなく、今日は卒業式ということもあり気を使った装いだった。黒いスーツに皺はなく、ぴしりと伸びたワイシャツの白い襟がぴんと立ち、嫌味のない程度に金刺繍の入った緋色のネクタイを付けている。表情は硬く、眼前に居る小林を睨みつける。

 窓もあるにはあるが、防音のため二重構造。その上、全開にしても半身を乗り出すのがやっとの狭さだった。カーテンは折りたたまれ、外の生垣が見て取れる。とはいえ、校舎の裏だから人影もない。

 小林は詰んでいることを理解していた。ここでどんなに大声を出そうとも、暴れたとしてもしっかりと防音されているため外に漏れる事はない。かつて放送部がここを根城に酒盛りをした事があったらしいが、教師も寄り付かないため発覚しなかったという。職員室の隣という事もあり、灯台下暗しといったところ。

 組んでいた腕を一度ほどき小林は、キャスター付きの椅子に座りなおして足を綺麗にそろえてスカートの裾を直した。

 机の上に置いたコーヒーを一口。家で味わう事のできない濃厚な甘さが口に広がった。

「あこ、少しくらいはぼくの話しを聞いてくれてもいいんじゃないかい?」

 立川は憮然とした表情で、扉から一歩前にでて小林に詰め寄った。上から見下ろす状況は、彼に優越感を与えていることだろう。渋い顔とは裏腹に目は爛々と輝いている。目の前にした獲物をゆっくりと楽しむ様に心の中では舌なめずりをしているのだろうか、爛々と輝く瞳が発する好色の視線が簡単に見て取る事ができた。

 俗的なものだ、と小林は思う。教師であるにもかかわらず、生徒に対して欲情しているというのがそもそもいただけない。禁忌であるにもかかわらず、立川はそれを押し殺せないでいる。例えば、後一か月も待てば完全に教師と生徒という関係は終わるにも掛からず、彼がこの様な状況を作りだしたのは、まぎれもない力を振りかざし利己的な欲求を満たしたいがためであると容易に想像できた。学校内における力関係で言えば、教師のいう事に逆らえない小林の立場を利用した下劣な行為と言えた。

 幼稚である、と切って捨てる事はできても、眼前の男には何一つ響く事は無いだろう。諦めを含んだため息を小林はしっとりと吐き出した。

 目の前で笑みこそは浮かべていないまでも内心どろどろとした欲望が今まさにあふれ出さんとしているこの状況を、立川は制御できていないと見える。彼に少しでも理性があるのであれば、この時点で、彼の立場は相当まずくなるという事は分かるはずだ。だが、一切の躊躇なく強硬手段をとったというのは、彼女の心を力で縛りつけたいというサディズム。

 小林は凛と構えたままだ。口に残るコーヒーの甘さを楽しみながら、余裕すら感じさせる態度をとる事にした。

 屈する事はない。小林の中ではもう答えは決まっていたのだ。

「話しをする必要もありません。お母様からお話を伺っているでしょう? 先生との縁は無かったということですわ」

「あこ。そんなことはない。この一年間、いろいろ思い出をつくったじゃないか」

「それはご自身の物でしょう? 私が一度でも笑った事があったでしょうか」

「それは……」

 口ごもる立川は、記憶を探っているのだろう。彼が連れ出し、彼が良いと思う物を贈り、しかし一度も小林は立川に笑みを向けた事はなかった。

 重い。空気が沈んでいくのが分かる。立川の中にある情念の渦が外の空気にも影響しているのだろうか。その空気感を払拭するために、小林は再びコーヒーを一口。

 カコンという缶を置く硬質の音は本来反響し得ない防音の部屋であっても確かに充満する。

 小林は八尋と会うまで缶コーヒーを飲んだことが無かった。それだけではない。一般的に自動販売機で販売されている飲料など口にした事が無かった。

 厳しく家で栄養は管理され、喉が渇いても家から持ってきている水筒にはいったミネラルウォーターだけだった。

 瞳を閉じて思い返す。

 小林の脳裏にはじめて八尋から手渡された缶コーヒーを思い出した。暑い日差しの中で飲んだそれはひんやりと冷たく、喉を潤したにも関わらず、暖かく胸の中に広がる熱が、今なお彼女の中に残っている気がした。一口飲んだ時、あまりの甘さに驚愕したのを覚えている。家で出される物とは別物で、甘味に飢えていたというのもあるのだろうが、涙が出るほど嬉しかった。ぶっきらぼうな八尋が小林の指さしたそれを買っただけなのに、彼の優しさが体の芯までしみ込んでいく気がしてならなかった。

 それに比べ、立川が見せた世界には、彼女の初めて経験する物も多くあったが、何一つ感動が伴わなかった。

 当然だ、とも小林は心の中で冷笑した。立川は自己満足のために彼女を形式的に連れ出しただけだ。立川の趣味に付き合っているだけ、という立場であったから、ただの同伴者でしかない。連れていかれた美術館も、個展も、博物館の特別展示も、水族館も、遊園地でさえも、立川が楽しむために彼女の気を探る事なく、突然に連れ出しただけだった。一言、どこに行きたいか、何がしたいかを聞けばいいと思うのだが、それすらもなく小林に立川が思う娯楽を提供しているだけだ。そこに何の楽しみを見いだせるというのだろうか。連れ出された高級なディナーも、贈られたプレゼントも、どれも記憶に残らない物だ。

 それよりも、八尋と一緒に食べた焼き芋は忘れられない。

 なによりも、彼に貰ったキーホルダーですら宝物だ。

 小林の氷の様な表情が、徐々に笑みに変わっていった。思い出しただけでもそれは楽しい物だった。

「先生の独りよがりの行動より、真くんと過ごしていた時間の方が何倍も有益です」

「……。彼に関わって、あこは変わってしまった。前はもっと澄んでいたのに……」

 口惜しさをにじませる立川。芝居がかった様子を見て、あはは、と口元を押さえて小林は笑い声をあげた。

 ぎょっとした立川は、目を見張った。

「先生。それは貴方が人を見ていないという証拠じゃありません? 彼に関わって変わったというのであれば、とうに、一年の時間もたっています。――無知な先生に女心の手ほどきをする気もありませんけれども、大きな変化も見落としているというのに、些細な変化を見抜けますか?」

 ぴしり、と顔の前で手を合わせた。両手の隙間から彼女の小さな口が覗く。珍しくグロスの塗られた唇が艶やかに逆光の中、怪しく輝いた。

「真くんは、」

 彼女は立川を見ていない。立川という存在の中にある幼児性をなじるように言葉をかける。彼の持つ独占欲を刺激する様に、あえて八尋の名前を強調した。

「私が髪を切った時、必ず気づいていました。あまり長くないのが彼の好みで、私もこの髪型気に入ってもらえてうれしく思っているのです。

 御存じ? 私がまだ入学したての頃はかなり長く髪を伸ばしておりましたのに。その変化ですら先生は気づかなかったでしょう?

 尤も、彼の好みを知るのは大変でしたわ。何度もスマートフォンの中を見せていただいて……胸の大きな女性の写真がいくつか入っておりまして、あぁ、こういう女性が好みなのかしら、とちょっと自信を無くしてしまいそうでしたけど。何枚、何十枚と閲覧させていただいて、少し似通ったところがある事にきがついたのは、私が推理小説を好むからという、癖……なのでしょうね。髪型の共通項や、目鼻立ち、耳の形、運動部が着る様なユニフォームといった共通項をみますと、中々私も捨てた物ではないと思いましたから。

 すぐに髪型を変えて――ふふ、彼の表情は今でも思い出すだけで愛おしものですわ。これは私の秘密です。

 彼は、毛先が跳ねている時に、私が気にしているのを察してそっと手櫛で整えてくれたりもしましたもの。ちょっと背伸びをして唇に色を足したときなど、彼の好みも含めて指摘してくれましたのですが……」

 小林は嗜虐的な笑みを口元に浮かべた。

 ちろり、と見える舌は蛇の様で、完全に立川を舐め切っていると思わせる。

「そんなことはない! いつも君のことを褒めていたじゃないか! あこの着た洋服は全部覚えている。コートだって、ドレスだって、ワンピースだって――」

「どれも貴方が贈った物でしょう? 自分で贈った物すら忘れたらただの認知症です。そんなもの貴方の趣味の押し付けで、私が忍びないと思って着ていたという事にも気づかなかったではありませんか。大きさの合わない服をわざわざ直しているのも気づかないのでしょう?」

「一言も言ってくれないじゃないか!」

「――恥ずかしくて言えるものではないでしょう。ただ――母からはそれとなく聞いているはずですが? 合わせるのが大変であるからそういった贈り物は辞める様にと」

 立川は口をつぐんだ。身に覚えがあるのだろう。

 ぎゅっと拳を握るのが見られた。白くなった指先を見るかぎり、かなりの力を入れているのが分かった。

 不快そうな表情を一瞬だけ浮かべた小林だったが、すぐさま表情を戻した。

「夏服になれば私の白い肌を褒めてくれましたし、冬服になれば寒さを気遣って自分の使っているマフラーをかけてくれたこともあります。些細にタイにアイロンを掛けただけで違いに気づいて、ずれていた襟をちょっと直してくれたり。私がほんの少し本屋で立ち止まって視線を向けただけなのに、しかも手に取ることもしなかったキーホルダーをただの好意で贈ってくれました。

 だから、私も彼の表情を見るのが好きになっていました。ちょっと嗜好を寄せると、真くんは視線をきっちり合わせてくれなくなるのです。ちらちらとした視線で、彼は私のことを見てくるのです。恥ずかしくて直視できないというのが何とも愛おしいじゃありませんか」

「そいつなら許せるのか? そいつのためなら押し付けられた物でも好むというのか?」

 震える立川の声。

「先生――。これは、私と真くんが話しあって歩み寄っている結果です。押し付け合っている様な幼稚さに映りますか?」

「……」

 立川の表情が消える。無表情が能面の様に張り付いた。

 心底彼女の言葉が響いているのだろう。煮え湯を飲まされているのを分からない程、彼は頭の弱い男ではない。

 立川のプライドをずたずたに引き裂いて、彼女は力で押そうとする立川に真っ向から立ち向かった。

 慈悲という物はいらない。一線を先に超えたのは立川の方だ。

 小林・あこは《魔女》である。

 その言葉はこの学校では有名な事だ。教師ですら噂を耳にしている。立川にしてみれば、佐藤の件も、重々承知している事だろう。

 相手の心ひとつ、壊せなくて何が《魔女》だ、と奮起する。

 小林は、あえて厭らしい笑みを浮かべた。立川の立場から、別の男の話をされて女の顔をされるのだ。屈辱の極みであるだろう事は想像できた。

 傷をなめる様に、さらに傷を深くする様に。

 抉る言葉を告げる。

「彼の太い腕も、分厚い胸板も、何もかもを包み込んでくれる包容力も全てが愛おしい。真くんに触れる時に感じる甘美な気持ちは愛も知らない先生には理解できないでしょう? 胸のざわめき、駆け上る幸福感を体験したことがありますか? ただ指を絡めるだけで安心感で満たされ、真くんが髪を触れてくれるだけで、幸福感がこみ上げてくるのです。頭を撫でられれば羞恥心と今すぐにでも抱きしめたいという衝動が沸き起こり、必死にそれを隠すために表情を隠すのです。――どうやら彼は分かっている様で、最近では頭を撫でたあと、力強く手を握ってくれますもの」

 まだ、足りない。

 まだ、立川を壊すには決定的な物が足りない。

 壊し、破壊し、磨り潰し、切り刻み、無様に晒し上げる。

 引き際も分からぬ中年にはそれがお似合いだろう、と心の中で嗤う。

「先生。貴方は、二年前に私の噂を聞いた時、素直に身を引くべきでしたわ。私にとってみれば、貴方という存在は八尋・真という存在に一瞬で消されているのですから。貴方に私が求める物はただ一つ、関わらないでいただきたい。貴方が私に与えられる感情など、負にしかならない事を理解くださいな。

 私がいくら拒絶を示しても、一度もそれを感づかれませんよね。そこに互いの心の歩み寄りすらありませんもの。ただの押し付けで、幼稚な独りよがりで。

 言葉の端々で辛く当たったとしても、貴方の脳内では私が羞恥心を抱いていると変換されたのですか?」

 深い紫色の小林の瞳が立川の内面を抉る様に足先から頭へとじっくりと動かされた。

 値踏みされている事を実感できたことだろう。

「私はあなたの人形ではありませんわ。操られるのを喜ぶ趣味も、組み敷かれて悦ぶ嗜好も、何一つ持ち合わせておりません。ましてや年の離れた男性の幼児性を見せられて母性がくすぐられるとでも思いですか?

 私は、――貴方の異常さに、私の正常さを侵害していただきたくありません。

 力で意のままに操ろうとは、ずいぶん欲深いものですわね。なんとも、頭の悪いことをしたものですと、呆れて差し上げます。

 先生」

 一息。飲んだ。

 小林は顔の前で合わせていた手をほどき脚の上に静かに乗せた。

「貴方は、私に相応しくありませんわ」

 絶縁状。

 叩きつけ、相手はどう出るか。

 項垂れ、力なく小林を開放するか。

 それはあり得ない。この大人はそんな愁傷な心を持ち合わせていない。小林は良く理解している。次に出るであろう行動も予想がつく。

 駄々をこねる子供の様に、力で訴え、彼女を襲う事だろう。

 逆上させるには最後の一手が必要か。

 耐える立川の表情を見て、小林は左手でコーヒーの入った缶を持ち上げる。

「恥を知りなさい」

 投げつけた。

 立川の頭に缶コーヒーが当たり、残っていた中身がぶちまけられた。ぽたぽたと茶色の雫が顔を伝い、肩を、服を、床を濡らした。

 立川の目に復讐の炎が宿った。

 あぁ、と小林は嘆息。 

 結局その程度の男なのだと落胆した。



 マルがガリガリと扉をひっかく。しかし、八尋はそんなことをは気にしていなかった。

 校内中の広がる叫び声の元凶が目の前にある事は分かった。

 八尋は体当たりをして扉を壊す。

 体重は九十六キロ。身長百九十近い体躯は、相応の物理的衝撃をもって古い鍵など破壊した。

 勢いを上手く脚に逃がして膝をついて止まった。

 肩に痛みはあるが、気にしている余裕なく、すぐに立ち上がった。

 鍵の壊れる破砕音はすさまじくスピーカーを通して、廊下で巨大なハウリングを起こさせた。耳障りな甲高い残響音が今なお残っているのは、マイクに金属片か何かが当たったためだろう。

 入って右手側にすぐにパイプ椅子が立てかけてあった。四脚程ある。

 八尋は考察を後にして、眼前に居る男の背中に入口にたたまれて置かれていたパイプ椅子を一つ掴むと、両手で力任せに殴った。

 鈍い衝撃が手に伝わる。

 呻く立川の声が聞こえたが気にしない。やりすぎだったとしても、後で問題になればいいや、と思った。

 八尋は頭に血が上り興奮を覚えていた。自分の行為の正当化は後ですればいいと思うのは、「これで何度目か」と、きっと冷静ならば思った事だろう。

 床に小林を組み伏せる男を抱きかかえる様に、小林から引き離した。

 組み伏せてみて思ったが男の力は強い。いくらなんでもそこまで殴る必要があるか、と八尋は奇怪な思いになった。何が二人にあったのか、それはよくわからないが、初めに入ってきた音は、ガラスが割られた様な音だった。

 放送室のマイクが音を拾って全校に流したらしい事は想像つく。

 次いで聞こえたのは、小林の制止する声。金切り声と言ってもいいだろう。高い彼女の悲鳴を含んだ声は直後から響く打撃音によって時折、えずく声を含んで緊張感を煽った。

 マルが一目散にこの扉に来たのは、小林と仲がよかったからなのだろうか、と邪推したが、結局のところは分からなかった。

 扉の隙間からマルがすっと入っていって小林の傍に行って彼女の痛ましい顔をぺろぺろと舐めていた。

「センセよ。やりすぎなんじゃねぇの?」

 底冷えする様な低い声で八尋は羽交い絞めにしている立川に言う。

 どうも自分はタイミングが悪いらしい。昨年の佐藤の件でも結局彼女が痛めつけられているところに出くわしたのだ。――いや、命の危険は守ったのだからタイミングは良かったのだろうか?

 すぐさま騒ぎを聞きつけて人が来る。ばたばたと人の走る音が響いた。

 職員室は直ぐ隣なのだから当然だ。厚い壁があるため、大回りに一度廊下に出てからでないといけないが、入口は一方向だけだったから、人の波がやってくればすぐにあふれかえった。

 二、三歩、八尋は立川を絞めたまま、小林と距離をとった。

 小林の姿は酷い有様だ。制服は無理やり剥がされてかろうじて肩にかかっている程度だったし、スカートは外れていた。白の下着が覗いて、それもずれていて、彼女の肢体が露わになっていた。白い肌に浮き出る指の形に赤らんだ痕は、腕、足、首に残っていた。

 腹部には何度も殴られたのか、こぶし大の赤みが帯状に広がっている。

 顔も酷いありさまだった。鬱血し赤くなった顔面を何度も殴ったのだろうという事が窺える。目の周りも、頬も、青くなっている。左の口の端が切れて血が滴っていた。額も切ったのだろう少し血が流れていた。

 涙は浮かべていたが、毅然と立川を鋭く睨んでいた。

 小林に対して立川は何をしようとしていたのか何となく想像できて憎悪した。すぐさま、八尋は腕に力を込めて、立川が逃げ出さない様にぎりりと強く締め付けた。

 八尋は苦い思いで胸が満たされていた。しかし、その感情がどういった物か理解できない。

 煽情的でもある彼女の裸体を見ているのとは違う。ひどく痛ましい姿であった事が彼の視界を小林に固定する。

 痛みを推測し、悲しみを想像し、苦しさを連想し、悔しさを想起させた。

 彼女の尊厳を踏みにじる行為に対する憤怒はあったが、それ以上に、今すぐにでも小林に駆け寄りたいという思いの方が強かった。

 もう一発本気で殴り飛ばして意識を落としてやろうかとも思ったが、今なお、八尋の中で力を溜めている立川に主導権を渡す事は得策ではないと思って自重した。

 小林は、すぐさま身を小さくして体を隠した。恥じらんだ表情なのは、八尋の視線を気にしからだろう。

 それ以上に彼女の中にある痛みを再確認する様に嗚咽の様な呼気が彼女の口から漏れた。

「悪い――」

 八尋は気の利いた言葉一つも出せなかった。いつもなら、軽い口調で茶化せるというのに、この時ばかりは昨年を思い出して、言葉に詰まる。佐藤の時も彼女は怪我を負っていた。思い出すだけでも忌々しいが、八尋の腕の中にいる男は、佐藤よりも酷い傷跡を彼女に残したという事実だけは確実に理解できた。

 独占欲に起因する物だろうか、八尋の内に広がる感情は、彼女を「取られた」という気持ちに裏打ちされた怒りだった。

 苦々しく、八尋は舌打ちをする。立川の力も相当に強い。腕の力だけで制服をあれほど破いたのだから相当な物だろう。八尋の拘束を逃れようとあの手この手で腕の中でもがいている。それを許す八尋ではない。

 視界の端で、マルが頭を彼女の足に摺り寄せ、慰める様に何度も鳴いた。

 八尋はいたたまれなくなって小林から、視線を外し入口を見た。

 腕の中は藻掻く立川がいたが、力では勝っているため絞めつけを強くした。さらに、ぎりり、と腕を締め上げると、さすがに観念したのか、大した悪態もつかずに、息を荒くしつつも動きが収まった。

 人の気配。校長の顔が見えた。

 どう考えても言い逃れはできないだろうな、と他人事に八尋は思った。

 いつもの様な上から目線の説教でもするのかと少し期待をしてしまうが、絶句した表情の校長には期待できそうにもなかった。

 女性の教頭が入ってきて、すぐさま小林に上着を羽織らせた。

 教頭が「男は外出てなさい」と強い口調で一喝。

 確かにな、と思いながら、八尋は暴れる立川を引きずる様に放送室から引っ張り出した。

 ずるずると廊下を渡り隣の職員室へと向かう事にした。すぐさま人垣ができてごった返した放送室前にいる、教師たちに睨まれた。

 なんでだよ、と毒つくが、睨まれているのは立川らしい。

 少しむかむかしたが、小林の姿を思い出せば、そんなことなんてどうでもよく思えた。

 引きずりながら職員室の入口へと向かうと、一人の教師が慌てた様にがらりと扉を開けた。

 気の利かない教師陣は八尋が立川を引きずっているのを手伝おうともしない。

 舌打ちしたい気持ちになったが、どうしていいのか分からないというのが事実だろうとも思えた。普通であれば経験する事のない出来事なのだから当然だ、と心の中で諦めた。

 体育教師の竹本がやってきて、野太い腕で「代わるぞ」と申し出た。とりあえず逃げる心配もないだろうから、キャスター付きの椅子にぽんと投げる様に座らせた。ギシッとチープな音を立てて椅子が軋んだ。

「逃げんじゃねぇぞ」と竹本が立川の右肩を押さえつけて凄んだ。すぐに三人体のでかい教師がやってきて、立川を取り囲む様に立ちふさがった。

 観念した様子で、立川は首を垂れた。

 内心、ざまあみろと思ったが、口に出しすと頭をひっぱたかれる気がしてやめた。

 何かと衝突していた竹本だったが、こういったところの飲み込みは速い。さすがだなぁと関心すると同時に、卒業式だというのにジャージ姿な事を思うと、笑いがこみ上げてきた。

 笑いをこらえるの必死だったが、ワーワーと教師たちが騒めいているので、すぐさま現実に戻された。

「警察来たら話し聞くからよ。少し待ってろ」

 竹本が偉そうに言う。だが、いつもみたいな反抗心は起きなかった。

 こういう姿は心強い。

 八尋であれば口下手が災いして、ただ相手を睨みつけるのが関の山だろう。当然、八尋も良く分かっているから、下手な事は言わずに腕を組んで黙りこくっていた。

 少ししおれた野菜の様に縮こまり始めた立川は、先ほど八尋が抑えていた時の馬鹿力を発揮する事も無さそうだった。

 一体二人になにがあってこの様な事態になったのか、八尋は非常に興味があった。

 佐藤の時であっても、小林に恋慕するあまり彼女を独占したいというわがままな感情で傷つけていたのだから、今回も似た様なものかもしれないとは思った。しかし、立川が小林に言い寄っていたというのは想像が出来ない事だったのも事実だった。

 いや、と頭を働かせる。

 夏に小林が屋上に逃げた件が思い出された。

 八尋がいつも通り図書室へと向かおうかと思った時に、立川に声を掛けられた。その時は、ただ親切心から小林がいつもいるところを教えたまでだった。

 立川の事だから彼女の進路に親身になって寄り添っているのだろう、という事は想像できた。学校の中でも一、二を争う程に若く全校生徒からみても「お兄さん」という存在感はとっつきやすく人気があったというのも、八尋が警戒心を抱かなかった理由の一つだ。

 そういう事情であれば、少しは彼女の傍にいるのも良くないだろうと思い、図書室の見える非常口の踊り場に陣どいっていたのは事実だった。夏場になれば外気を取り込むために一日中非常口は空いている。其処は恰好の避暑地の一つだった。

 ――そういえば、その後に走りだしたんだったな。

 ふと思い出すと、何かを言われたのか、何かをされたのかと推測できた。

 それが彼女に言い寄る行為の一つであれば――悪い事をしたのかな、と少し後悔の念が沸き起こったが、事情を知らないことをこれ以上邪推しても、彼女の救いにはならないと思い直して考えるのを止めた。

 手持ち無沙汰になった八尋は、小林のことが心配になった。

 教頭に追い出されてからすでに五分くらいは経っていたから、もういいだろうか、と思い放送室の方へ向かう。

 未だに人だかりができている放送室を見れば、興味深そうに覗き込もうとする生徒を教師がバリケードを作って塞いでいた。

 さすがにこの中に入る事は難しいかな、と思うと、教頭と目があった。

 教頭は優しそうな笑みを浮かべながら、ちょいちょいと手招きをした。

 教師に止められる事なく、すんなりとバリケードを通って中に入れた。

 小林はひょっこり顔を出した八尋の顔を見ると、教頭に断りを入れて椅子から立ち上がった。

 着衣の乱れは直したらしいが完全では無かった。ボタンの外れたワイシャツの前を右手で押さえながら、肩から教頭の上着だろう黒いスーツの上を羽織っていた。

 ゆっくりした足取り。しかし少しよろよろとした弱さを感じさせた。

「よう……」

「――」

 八尋はいつも通りに、小林の前に立つ。

「随分と、草臥れてるけど大丈夫か?」

 小林の髪はいまだにぼさぼさだ。多少は撫でつけたとはいえ、櫛や鏡はここにはないのだから仕方ないだろう。

 とん、と彼女が八尋の胸に飛び込んだ。ぐりぐりと額を押し付けてくる。上着の胸辺りを両手で力強く握ってきた。

 教頭は仕方なさそうに苦笑いした。

「八尋くん。少しここを任せるわ。ちょっと外を黙らせないといけないからね」

 うっす、と右手を上げて応えた。

 扉が半分閉まる。

 外の音が小さくなり、静かになった。

「ありがと……」

 小さい声だったが、腹を震わせる。

 あぁ、と八尋は答えた。

 未だに体が震えているのか、小さい振動が彼女の手から、頭から伝わった。

「怖かったよな」

 なんて声をかければいいのか考えなら一言絞り出す。その言葉が正解かなんて誰も教えてくれはしない。回答集が用意されている訳でもないし、選択肢が示されている訳でもない。

 ただ当たり障りのない言葉を乗せる事が精いっぱいだった。

 例えば、「君を守れなくてすまなかった」とでもいえば良いのかもしれないとも考えたが、相手に気を使わせる言葉が正解だとは思えなかった。

 ただ、これ以上、彼女を傷つけない様にするためにはどうしたらいいのかだけを考え無難な応答になったのは情けない気がした。

「――うん」

 目の前の彼女は、別に八尋の言葉に気を悪くした様子も無い。

 そもそも気分は最悪だろうから、一つや二つなんてどうにもならないのは必然。

 少しでも和ませようと頭を捻る。

「俺も、リンチされたとき怖ったしな。痛くて、どうなるか分かんなくて、不安でさ。こんな図体してんのに笑っちまうよな」

 ハハハと乾いた笑い声をあげる。が、小林は顔をうずめたまま。

 無言だった。笑うのをやめて見下ろすと、未だに彼女は震えていた。

 肩を微かに、振るわせるのは恐怖からか。

 無理に笑わせる必要もないと気づいたのは彼女から伝わる細かい振動を紛らわす様に首をぽりぽりと掻いた時だ。

 どうしていいかわらかず、小林の頭に手を乗せた。

「髪ぼさぼさになっちゃったな」

 八尋は頭を優しくなでながら手櫛を入れていく。跳ねていた毛が少し落ち着いた。

 ぐりぐりと額を押し付けてくる小林をいたわる様に、何度も、何度も頭を撫でた。


 八尋の胸の中で、何かがはじけるのが分かった。

 二度目。一年の夏に感じた感覚が脳から駆け巡る。


 ――縋る彼女の体を、何度も優しく抱きしめる。その時に得た充足感。彼女を守ったという確かな証拠が、彼の右手に、血糊となって残っていた。

 一線を越えてはならないと、自分で枷をつけていのは事実で、日常の中で、いつか訪れる非日常で全力を出せる、という爽快感を求めていたのも事実だった。

 振りぬいた腕に伝わる重い感触が未だに肌にこびり付いている。ぽたぽたと滴る血液のなんと、生を実感できたことか。

 八尋・真は自身の中にある獣の意志に気付いていた。

 見ないふりをしていた。

 しかし、佐藤を殴り飛ばした快感が未だ、全身を包んでいた。

 其処にあるのは達成感。――


 想起された。自身の歪んだ欲望を見つけ、八尋は笑みを堪えた。

 今この場で彼女を守ったという事実だけその充足感に到達できるのであれば、なんと素晴らしい事か。

 ――あぁ、未だに彼女の咽び鳴く声が聞こえる――

 こびり付く。脳裏に。大音響の悲鳴が。

 何度も、何度も嫌がる彼女の言葉が。

 それをたった一発で断つ。

 なんという爽快感か。


 八尋は表情を崩さない。

 自らの中にある獣を隠し、『仮面』を被る。赤ずきんと同じだ。

 祖母の皮をかぶり、赤ずきんを待ち伏せする狼。

 一匹のオオカミとはよくいった物だ。

 大口をあけて狼が嘲笑する。

 お前はなんだと。一匹狼?

 そんな愁傷な物でもない事は分かっていた。ただの自己満足に過ぎない事も理解して八尋は表情を崩した。

 苦笑。

 自らを蔑んで笑った。

 一体何様なのかと、誰に問い詰められている訳でもないのに嘲笑した。

 しかし、何度でも、何度でも、彼女を助けたいと胸の中にある欲求。

 その時に得られる、快感に身をゆだねる事ができるのであればどうだ、と悪魔が笑う。

 思考を隠し、侮蔑も憐憫も愛情も。

 自分への蔑んだ考えをそっちに置いて、彼女に向ける視線は凪の一つ。

「泣いていいよ。俺以外いないから」

 小林は答えない。細い手にあらん限りの力を込めて、八尋の上着を握っていた。

 震える彼女は何を考えているだろうか。悔しさか、恐怖か。はたまた、安堵か。

 仕方ない、と頭を撫で続けながら、彼女の震えが収まるのを待った。

 橋本先輩なら、と八尋は思う。どう彼女を慰めただろうか。

 屋上にいた時の様に、「我慢しなくていい」と声をかけるべきだろうか。それとも、盗み聞きしたことがばれない様に沈黙を貫くべきか。

 彼女を「模して」取り繕う必要もないだろう。体中に残る快感の余韻を楽しみながら、八尋は小林の頭を撫で続けた。

 八尋は小林の肩に手を置いた。ぴくり、と体が震えるのが分かった。

「どこにも行かないから。側に居るから」

 彼女の耳に顔を近づけて囁く。言葉はしっかりと相手に届く様に。

 だが、八尋は覗き込んだ彼女の表情を見て気づいた。

 嗤っている。

 否、それだけではない。

 八尋も分かっていた。自分も笑っているのだと。



 八尋は全身を襲う虚脱感に身をゆだねて、一人天を仰いだ。

 春だというのに、やる気は底をついていた。うららかな日差しは先日までの寒空とは打って変わり、体の中から温めてくれる。

 三月末の出来事は、ドイツ軍の電撃戦の如く、一瞬にして学校全体に広まった。

 それもそうである。当日出ずっぱりだった生徒会の面々には噂好きな人が集まっていたし、翌日には記事になるほどであったのだから、噂を立てる餌はいくらでもぶら下がっていた。答辞の生徒が急遽、橋本生徒会長に変わり、言葉を詰まらせながらもなんとかやり切ったという悲痛さも噂に拍車をかけたのだろう。

 そもそも、小林の悲鳴や立川の罵倒は、なぜか入っていた放送道具によってつぶさに拾われて、学校中に流れていた。八尋が気づいたというのもそのおかげであるが、いくらなんでも都合がよすぎるというものだ。だが放送事故によって証人が増えた事により、疑問は確証へと変わってしまう。

 その上、生徒から人気のあった立川の不祥事という事もあれば、噂が独り歩きしない訳がない。その噂の中心が、再び《魔女》であるとなれば、娯楽に飢えた生徒たちは面白がって背びれ尾びれを付けた。とはいえ、《魔女》の呪いを嫌ってか、彼女を中傷する者は少なかったが。

 当然、八尋もその噂の中には登場する。

 警察署で話を聞くために、警察車両に乗り込んでいる所を登校してきた生徒たちに隠すまでもなく目撃されていた。指をさされる中移送される様は、まさしく出荷だった。

 八尋はやはり不良少年だったと噂が立ったが、翌週にはがらりと評価が変わり、小林の《番犬》に鞍替えしていた。

 背景には校長からの訓辞があったからだが、それ以上に彼の評価を決定付ける問題が起きたからに他ならない。

 つくしも顔を出す季節であるから、緑が萌ゆる生命の息吹を感じ、新たな一年を活力に満ちた中で出発しようと思っていた。

 三年である。

 受験の年度である。

 小林も卒業し、一人寂しく昼寝をする日々が続くだろう。

 少し背伸びをして、小林が進学した大学を目指すために、勉強に身を入れなければいけない。

 そう思っていた。

 影が落ちた。

 東棟の屋上は、遮る物がないはずだ。ましてや昼休みの時間に人がくるという事もない。

 食堂からも遠く、一番過疎る場所である。

 視線を左に少し動かすと、彼を覗き込む少女の姿。足元にはマルが寄り添っている。

 中良さそうに足に顔を擦り付けていた。

「待ちました?」

 小林は、いつも通り、ふんわりとしたボブカットの髪を右手でかき上げながら、申し訳なさそうに問いかけてくる。

 眼帯が未だに痛々しく右目を隠していた。手にも首にも、彼方此方に未だに包帯がまかれていた。全身傷だらけなのに、表情は柔らかい。

「待ってない」

 嘘つき、と小林は笑った。

 なんでまだ学校にいるのか、八尋は四月のクラス分けを見た時分からなかった。

 小林・あこの名前は三年の学年にきっちりと記載されていた。クラスこそ一緒にはなっていなかったが、彼女は八尋を誘って昼に会っていた。

 東棟の屋上は、《魔女》の居城として認知され、高岡を筆頭とした生徒会の面々がわざわざ、関係者以外立ち入り禁止の札を用意させたほどだった。

 身を起こして八尋は小林にベンチに座る様に左手でポンポンと叩いて促した。

 小さい弁当を膝の上にちょこんと載せて座った。すぐに八尋に擦り寄り、居住まいを正した。

 腕がほんの少しふれそうになる。

 八尋は購買で買ったパンを取り出して袋を開けた。

「またそんなものばかりですか。少しはちゃんと食べないといけませんよ」

「ダブり先輩は手作り?」

「……もう。意地悪言わないでください」

 口をとがらせる小林。

 小林はどういう訳か、ダブった。

 本人は「親にきつく言った結果です」と詳細を語ってくれなかったが、どうやら相当無茶をしたらしい。

 三年のクラス配置も決まっていたであろう所に、無理やり卒業資格を取り消してダブらせるなんて何をやったのか。

 心身の影響を鑑み、一年は大学に行くのを遠慮したい、というのが彼女の抗弁だったらしいが、だと言っても良く学校が許したものだ、と八尋は呆れた。

 呆れたのは八尋だけでなく、同じ大学に行く予定だった橋本も呆れていた。「友より男を取ったか」と納得した様子だったが、八尋には詳しい小林の心のうちを確認する事はできなかった。

 つまり問題というのは小林が学校に残りあまつさえ、八尋に人目をはばからずアプローチしかけている事だった。

 被害者である彼女がただの不良にすり寄るはずがない。誰しもが思い、校長の言葉をもって納得した。

「自分でも練習していますから、お弁当作ってくるのはもう少し待ってください」

 真顔で小林が言う物だから、八尋は一瞬固まった。

「弁当作ってくるって、……俺の?」

「他に居ませんよ」

 嬉しそうにコロコロと小林は笑う。

 それは確かにそうだ、と納得。いやいやと直ぐに首を振って

「大変だろ。別に、良いよ」

「――嬉しく、ないですか?」

 上目遣いで見てくる小林の視線に、う、と言葉が詰まる。

 前に比べ格段にあざとい行動を取るようになっていることを八尋は実感した。

 彼女は分かっていてやっている。だから余計始末が悪い。八尋には強すぎる刺激だったが、未だに彼の心が完全に靡くという事ではなかった。

 最低限の節度を持って、脳裏によぎる甘美な想いを振り切る。それは、幻想にすぎない、と頭の中で冷静さを保った自分が喚いていた。

 ため息一つ。

 結局、当たり障りのない答えを選び、

「分かった。その時は喜んでもらう」

 良かった、とはにかんで彼女は視線を弁当箱に落とした。

 巾着を開けて、オレンジ色の花がプリントされた弁当箱を取り出した。

「……」

 八尋は、微かな違和感を感じていた。

 彼女の行動にある排他的な動きは、八尋への執着なのだろうか。

 『あの時』、彼女に救われたと思ったが、本当は違うのかもしれない。

「あのさ」

 八尋は重い口を開いた。

「――あの時、なんで笑ってた?」

 ふと、小林の手が止まる。すぐさまいつ?と小首をかしげた。

 彼女はそれでも仮面をかぶるのか、と思った。芝居かかった様子の彼女を嫌う事もない。

 だが、彼女の本心が知りたかった。知ってどうするか決めたかった。

 小林は恩人である。彼女は一人だった八尋を救ってくれたのだから。

 しかし、未だに一歩踏み込んだ恋人には成れてはいない。

 八尋は他人が信じられない。信じる事に恐怖を感じる。だから「小林の本心」が分からなければ、どうしていいのか変わらず、停滞する。

 ずっとこのままの関係ではいけない。そう上野に言われたのはもう四か月も前だ。

「立川が捕まった時、なんで、小林は笑ってた?」

「そんなことは……」

 ないのだろうか、と八尋は手にしたパンをビニール袋に戻して脇に置いて、腕を組んだ。

 それから、いやいやと首を振った。確かに笑っていたのを目撃している。

 弁当に静かに箸を落として、小林は俯いた。

「笑ってた。口が上がってたし、取り繕う必要もないだろ。でもよ。乱暴されて笑ってたって、どうも腑に落ちねぇよ。個人の趣味趣向の問題なら理解する様に努力すっけどさ。なんか事情があるんだろうなって。……立川と深い関係があったんだろうっていう事は――悪い。盗み聞きしてなんとなく知ってる。だから縁が切れたという事で安堵したって言うなら、あぁいう笑いはしないんじゃないかって思ってさ。あれ、喜んでたよな。何かを。なんで?」

 小林は俯いたまま八尋の問いに答えない。

 どんな表情しているのか覗き込む事はしない。ただ肩が震えているのは、見透かされた事に対する動揺だろうか。

「……あのですね」

 小林の震える声は小さい。風に負ける程でもないが、耳を凝らさないと聞き落としそうになる。

「父が、嫌いなんです。ずっと。自分の意見ばかり押し付けてくる、そういう頑固な男性――というのが。どうしてもそこに過剰に反応してしまい、拒絶するんです。父とも折り合いが合わないのは分かっていますから、いつも意見の対立ばかり。同じ様に男性が私に押し付けてくる要求、視線、感情、全てがどうしても過剰に反抗してしまいます。

 そんな時、私は八尋・真という人に出会いました。今までの男性とは違う距離をとってくれたのです。最初は関わる事を嫌っているのだと思いました。でも、それが妙に心地よくて、気づいたら距離を縮めたいと思う様になったのです。ただツンとされているのとは違う、どうも私が構いたいと思えてしまって。」

 小林は顔を上げ、八尋を見た。

 真剣な瞳にもう迷いはないらしい。まっすぐな視線を受けたが、八尋は臆する事なく、小林を見返した。

「だから、最初はそれこそ、――佐藤さんで《実験》した上での話ですけれど」

 八尋の頭の中で歯車がかみ合った気がした。

 最初の出会いすら、彼女にとっては、ここまでの布石か。

「佐藤さんには悪い事をしましたが、私にとっては有益でしたわ。相手の心を壊す事で、確実に暴力性を引き出せるという事が検証できましたもの。それを目の当たりにすれば、いずれは父が私に対して力を振るうでしょう?

 ですが、そう簡単には事は運ばなかったというのが事実ですわ。

 私に首輪をつけようとなさったのでしょう。佐藤さんの件の後すぐに自分の力の及ぶ存在として許嫁を選びましたの。

 最初はどうした物かとおもいましたけれども、それもここまでの事が起きれば杞憂になりますわ。結局私が思い描いた通りに事は運び――、私を縛ろうとした父も今では何も言いませんわ。

 それと同時に――真さんは、必ず私を守ってくれるのだという事もわかりましたわ。胸が躍りました。貴方が私の物になった様で。とても甘美な優越感を手にできるのだと幻でも確証が持てた気がしたのです」

 結局二年前と変わらない、そう思えた。

 前に聞いた時は確かに引いたが、今ではそういうものなのだと理解している。

 小林・あこは本当の魔女だ。

 人を狂わす魔女だ。

 八尋に恋慕するたった一人の少女であるにもかかわらず、彼女に取り巻く運命はそうはさせない。

 その元凶は間違いなく八尋本人の存在すべてである事は理解していた。

 同学年から見たとして、八尋は彼女に釣り合う存在だと言えるのか?

 学生という身分から見たとして、八尋は彼女に釣り合う存在だと言えるのか?

 大人達が見たとして、八尋は彼女に釣り合う存在だと言えるのか?

 親として――八尋は小林の隣にふさわしいと言えるのか?

……俺はふさわしい存在だといえるのか?

 結局沈黙に帰結する。

 小林は弁当を左脇に置き、座り直した。

 おもむろに八尋に手を握る。その眼光は真剣そのものだ。

 この瞳は視線をずらす事すら叶わない《魔眼》だ。微かに揺れる光彩は、太陽の光を浴びて爛々と輝いている様に見えた

 八尋は自分自身を見透かされた様で、とても、深い闇に落とされそうな気がしてならない、そんな目を見て唾を飲み込んだ。

「好きです。我慢ができない程に、貴方の事が愛おしくて仕方ありません。家で一人、貴方の事を考えて火照りを鎮めているのなんて、きっと分かっていなかったのでしょう? いやらしいと蔑みますか? 欲深いと罵りますか? 傾倒的だと嘲笑しますか? 依存的だと見下しますか? 

 どうであっても構わないのです。私が貴方を手に入れられるなら、どう思われても構わないのです」

 手が強く握られた。

 八尋の中に彼女を置いていく事などとうの昔にできないというのに、彼女は分かった様に声にする。

 ずるい。

 八尋は思ったが口にはしない。そんなことを言えば、彼女は得意になって笑うだろう。

 想像するとちょっとだけ悔しくて、八尋は悩んだ。

 彼女の胸中は結局変わらなかった。

 二年の内で変わらなかったのは小林の気持ちだけなのだろうか。

 いいや、と八尋は否定した。

 すうっと息を飲みこんで、八尋は握られていた右手を、左手で解いた。

 小林の表情が凍る。拒絶に映る彼の行為。

 だが八尋は彼女に優しさのある言葉は送らない。

 ぱし、と首を右手で音を出す。考える素振りで、八尋は視線を完全に外した。

「あのな」

 八尋は、んん、と喉を鳴らしてから、

「あー……なんだ。そのな」

 気恥ずかしい気持ちで一杯になっていた。顔がきっと赤らんでいるのだろう、熱く感じた。

 そのことをどうやっても取り繕う事は出来ないのだから、諦めるべきだとも感じた。

 なぜなら、彼女は覚悟を見せているのだ。

 前の時も、そして今も。

 決まっていないのは自分だけ。

 結局は、と八尋は思う。彼女の思う壺なんだろうと。

 負けを認めるのは勇気のいる事だ。

 胸がざわつく。

 自分の持っている欲深い感情など、関係なしに素直に従うのなら答えは決まっている。。

 小林の持つ複雑な感情を聞いたところで、一切躊躇なく「初めから」決まっていた。

 自分の中にあった感情に整理がついた。

 いままで戒めとして振るわないと決めていた暴力を、「彼女のために三度も使った」事が心に影響を与えていた。過去の行いはどういう事であっても帳消しにされる物ではない。罪は罪だという事を良く理解していた。きっと地獄という場所があるのならば、自分はそこに落ちるだろうという風に考えていた。自分の行った行いはいくら自己犠牲の精神があろうと、誰かを守るためであろうと、「罪」である事は変わらない。

 だというのに、その「解放的な」甘美に酔いしれた。

 自分の力を解き放つのに、彼女という理由はなんとも魅力的だった。

 彼女を言い訳に、力を振るう事を求めている。

 渇望は、歪な形。

 赤ずきんと同じ。彼女に告白し、『飲み込もう』とするのだろう。

 フェンリルの様に、大口を開けて。

 しかし、と考える。心の中にある感情は間違いない。

 何度問うたところで結論はかわらなかいのは明白だった。小林と過ごした日々が、全くの無意味であったとは思えない。共に行った店。彼女に買ったプレゼント。初めて尽くしの彼女のために多くの体験ができる様に計らった。カラオケも、ボーリングも、ダーツも。二人きりで行った水族館も、何軒も梯子して彼女に付き合った本屋も。

 缶コーヒーも。

……結局一目惚れなんだ

 知っていた。

 それを自分で認められるのに二年の時間が必要だった。

 自分の中の恐怖に抗うのに。

 自分の中の矛盾を乗り越えるのに。

 彼女との五センチを超えるのに。

「――まいったな」

 八尋はつぶやくと、小林の肩にゆっくりと手を置いた。

 びくりと震える小林を八尋は逃がさない。とはいえ、力強く押さえつける訳でもなし、ちょっとだけぐっと力を入れた。

「俺の、負け」

「――?」

 要領を得ない表情をする小林の顔に、自分の顔を近づける。

 距離はたったの5センチ。彼女の耳元に、八尋の息遣いが伝わっている事だろう。

 かつてあった彼女との距離を打ち破る様にちょっとだけ近づけた。

 やっとか、と狼が口を開けて笑う。自分の中にある存在は八尋を祝福する様に嘲笑する。

 次は、お前がその番だと言わんばかりに。

 笑止。

 違うと力強く否定した。

 八尋は距離を近づける。胸の中で騒がしく笑い転げる狼を切り捨てる様に。

 これは自分の意志だと。

 自分の決めたものだと。

 次は、自分から彼女を守ればいい。何度でも、何度でも。彼女の笑顔を守れるのなら。

 頭の中で狼が遠吠えを上げる。さながら、八尋の意思で締め上げられる狼の断末魔だ。

 後悔はない。

 今や距離はたったの一センチ。彼女には八尋の息遣いすら届いている事だろう。自分に負けない様に、しっかり意識を持つ。

 ええい、と勢いよく空気を吸いこむ。

「好きだよ」

 押し殺した様に囁く声は何色か。

 少なくとも、後悔の色は消えていた。

 雷鳴の様な狼の声は嵐の去った後の様に消えていた。

 二人の足元で、自分が蚊帳の外だった事を怒る様に、マルがニャーと鳴いた。


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