111 / ダンジョンのトイレ事情
瓶の蓋を開き、人工精霊を解き放つ。
三色の光が俺たちの周囲をひらりと舞った。
ダンジョンへと数歩入り込み、アーネが深呼吸をする。
「……これが、ダンジョンの空気」
「まだ外と大差ないぞ」
「変わります。気分が変わるんです」
「でも、ちょっとわかるなー。あたしも、初めてダンジョンに入ったときは、まるで世界が切り替わったようなかんじがしたもん。あたしの場合は、わくわくじゃなくて、びくびくだったけど……」
「今にして思えば、俺も、相当緊張してた気がするよ。特に、最初の一ヶ月はソロだったからな。寂しいのなんのって」
「そう考えると、私はとても恵まれていますね。初めてダンジョンへ潜るときに、二人と一緒にいられるのですから」
「──…………」
「──……」
フェリテと顔を見合わせる。
「……なんか、すげー可愛いこと言われた気がするんだけど」
「うん。ちょっとどきっとしちゃった……」
「?」
アーネが小首をかしげる。
「私、何か変なことを口にしましたか?」
「いや、変ではないよ。普通に嬉しかった」
「あたしも、アーネとダンジョン潜れて嬉しいよ!」
「そうですか。それはよかったです」
くすりと微笑んだあと、アーネが立ち止まった。
「──なんと、石壁に鹿の絵が彫り込まれていますよ! 人が彫ったのか、あるいは神の作品なのか、興味は尽きませんね」
俺たちが、ただの装飾として見過ごしてしまうものに対しても、アーネは興味津々だ。
その姿は、俺たちが忘れてしまった何かを思い出させてくれる。
そのまま第五層まで踏破し、隠し通路の近くまで来たときのことだった。
「──……す、すこし、疲れました」
アーネが、壁に手をつき、肩で息をする。
随分とはしゃいでたものなあ。
「じゃ、休憩しよっか!」
「すみません。これまで本ばかり読んできたもので……」
「気にするなって」
三人で輪を描くように、ダンジョンの通路に腰を下ろす。
「アーネ、水飲んだほうがいいぞ。水分って汗以外でも発散されるからな」
「はい、ありがとうございます」
アーネが、背負い袋から水袋を取り出す。
「いくら飲んでも大丈夫だよ! リュータが出してくれるから」
「いえ、あまり飲み過ぎても、おトイレが近くなってしまいます、し──」
アーネの動きがぴたりと止まる。
「おトイレって、どうするのです?」
当然と言えば当然の疑問だった。
「……そりゃ、物陰でするしか」
「どうしようもないもんね……」
「そ、そうですね。たしかに」
「そういうの、冒険譚には書かれてなかったのか?」
「おトイレについて触れている冒険譚は、今まで読んだことがありませんでした……」
そりゃそうか。
そんなこと、わざわざ書く必要ないものな。
「……その、アーネ?」
フェリテが心配そうに尋ねる。
「はい?」
「紙、持ってきた?」
「紙?」
「トイレ用の……」
「──…………」
アーネの顔がみるみる青ざめていく。
「……持っ、て、きてません。ど、ど、ど、どうしましょう!」
「落ち着こう」
「そんなこと言ってたら、したくなってきてしまいました……!」
「あるから! 俺とフェリテはちゃんと持ってきてるし、最悪無限に出せる羊皮紙が──」
「吟遊詩人の羊皮紙をおトイレに使うだなんて、そんな罰当たりなことできません!」
そういうとこ、さすがに元神官だなあ。
「ほら、ひとまず俺のぶんあげるから。行くなら行ってきな」
「す、すみません……」
アーネが遠慮がちに便所紙を受け取る。
「完全攻略されてるから大丈夫だとは思うけど、いちおう離れ過ぎないようにな」
「はい……」
アーネが、すぐ傍の角を曲がっていく。
そして、ひょいと壁から顔だけを出して、
「……小さいほうですから」
と、恥ずかしそうに告げた。
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