1.
見切り発車です。
春のすがすがしい風が鼻先を掠めた。
雲一つない空から降り注ぐ日差しは暖かいが、風が吹くと少し肌寒い。
まだ真新しい、薄い緑色をした葉が揺れる大きな木の下。その根元に寄り添うように、僕は膝を抱えて座り込んでいた。目の前には人一人くらいの高さのちょっとした坂があり、その下の広場で生徒たちが走らされている。
初めてこの光景を見た時は驚いた。剣術の授業に走り込みとは貴族の子弟が通う寄宿学校にしては存外泥臭い。騎士志望の次男以降はまだしも、家を継ぐ者からすれば剣術などただの教養に過ぎない。学校で習うのも形式的な型くらいなものと思っていたが。
僕はぼう、と走る集団を眺める。はじめは団子のような形だったものが、自然と列の体形を成していた。自然と列の先頭に目が行く。朝焼け色の髪が揺れている。ここからではその顔までは見えないが、それだけで誰が一番先頭を走っているのかが分かった。あれはエーリク・オストレイだ。
「くそう。君だけ走らないの、やっぱずるいよ」
授業を終え僕に向かって息を切らしながらそう毒づく彼は、運動が苦手だ。代謝がよくないらしく、頬は真っ赤だが顔には汗ひとつかいていない。恨めしそうな顔に僕は思わず笑っていた。
「運動は嫌い?ユーリ」
「ああ、大大大っ嫌いだね。走るくらいなら課題を3倍にされる方がまだましさ」
「まったく君らしいよ」
ユーリは顔をしかめて答えた。薄茶色のふわふわとした髪にまん丸の瞳。同い年の中でも1,2を争う小柄な彼は少女のように愛らしい。しかしそんな外見とは裏腹に彼はかなりの毒舌家でもあった。
「なっさけないなあ」
声がした方を見ればカイル・オーガストがあきれ顔でこちらに近づいてくるところだった。すらりとした長身に女性受けしそうな面立ちのカイルとユーリが並ぶとまるで子供と大人みたいに対照的だ。
「うるさい!僕は頭脳派なんだ」
「ああ、悪い悪い。コンパスの違いを考えてなかった」
「なっ!?」
「君と僕とじゃあ、条件が違ったね。いやあ、申し訳ない」
未だ肩で息をしながら言葉もなく憤慨するユーリを横目に、カイルは涼しい顔で取り合わない。けれど知らんぷりしているだけで彼が心底面白がっていることは明らかだ。カイルはユーリのことをからかい甲斐のあるやつと公言してはばからない。苦笑いしながらそのやり取りを眺めていた僕に向かってカイルは片目をつぶって見せた。勿論ユーリには見えないようにだが。
「ところでノア。まだ寒いのにこんな吹きっさらしのところで待ってなきゃいけないなんて大変だったね。寒かったろう」
「ははは、平気だよ」
「次の授業もある。早く教室に戻ろうじゃないか」
「お前なあ!」
わざとらしい話題転換だが僕に火の粉が降りかからないならそれでいい。ひょいと目の前に差し出された手を握って立ち上がる。ユーリが未だに消化不良という顔をしているが、経験上引きずれば引きずるほど損をすることが分かっているのかそれ以上は突っ込まなかった。僕はその様に彼の苦労の軌跡を見た気がして、何とも言えない気持ちになった。
ユーリ、カイルとは寄宿学校入学後、半年の付き合いだ。ユーリとカイルは幼少期からの幼馴染の間柄(彼らは腐れ縁だというが)で元々親交があったようだが、二人に挟まれて疎外感を感じるという事はなかった。良くも悪くも遠慮がない彼らといるのは気が楽で、僕はすぐに彼らに馴染んだ。
2人が制服に着替えるというので、僕は先に行って移動教室の席を押さえに行くことにした。剣術の授業を受けていた生徒はたいてい同じ授業を取っているはずだが、2人と同様まだ着替えているのだろう。廊下には僕の他誰もいない。僕は窓の外に見える空を眺めながらのんびり歩いた。革靴が立てる音の響きを一人楽しむ。
しかしそんな響きの中にリズムの違う足音が混じってきた。音はどんどん大きくなる。誰か来たのだろうか、そう思って振り返ると僕のほんの数メートル後ろにエーリク・オストレイが立っていた。