お隣の佐藤さんが天使だった件
その金曜の夜。
鈴木梨生は最終バスを逃した。思いの外残業が長引いたせいだ。
駅からバスで4駅。歩いても30分ほどだが朝は時間が惜しいし、夜は疲れ切っている。だからいつもバスを使っていた。
駅を出てすぐ、赤い最終のランプを灯して走り去ったバスに置いて行かれて、梨生はタクシーに乗るか歩くかの選択を迫られる。この駅にタクシーは少なく、呼んでもすぐには来ないと知っていた。乗り場には既に行列ができ始めている。そこに並んでようやく乗れる頃には、歩いていたら帰宅できる時間になっていることも予想がついた。
だから低めのパンプスをわざと鳴らすように歩き出す。正直、深夜の一人歩きはしたくない。27歳。自分では若い女の内に入ると思っている。そういった方面の危険性だってないわけじゃない。それ以外にも引ったくりだのの犯罪に巻き込まれる可能性もある。それでも歩きを選んだのは、じっとタクシーを待っているのが嫌だったからだ。
街の灯りを受けて灰色の夜空には、それでも月が輝いていた。満月だった。見上げれば明るく、安心できて、だから梨生は月を見ながら他に誰もいない道を少し足早に歩いていたのだ。
――それが、異常の発見に繋がるとも知らずに。
梨生は背後から聞こえてくる音が少しずつ自分に近づいてきているのに気が付いた。人の足音ではない。それは、そう。鳥の羽ばたく音のようだった。街中で大きく羽ばたくような鳥なぞ、カラスくらいしか思い当たらないが、それよりも大きく、ゆったりとした羽ばたき。
怪訝に思って足を止め、振り返って。
梨生は思わず口走っていた。
「何してるんですか、佐藤さん!?」
月明かりがなければ見えなかっただろう。しかし今、梨生の目は道沿いの2階建ての家より少し高いくらいの空中に、背中から巨大な白い翼を羽ばたかせて飛んでいる男を捉えた。右手はビジネスバッグを抱え込み、左手からコンビニ袋をぶらさげた、スーツ姿の男。それが地上で、翼が見えなければ、ごく普通の帰宅途中のリーマンでしかない。だが今の男の様子はどう見ても普通ではない。それなのに相手を知っていることに梨生は軽くパニックを起こしていた。
「ああ、お隣の鈴木さん。こんばんは」
「こんばんは。……って、そうじゃないでしょう!?」
男は、梨生の住むマンションの隣部屋の住人だった。
「いやあ、終バス逃しちゃいまして」
ばさばさと翼をはためかせて、佐藤はゆるゆると速度と高度を落とし、梨生の近くに降り立った。
「なんなんです、そのはねっ! 今、飛んでましたよね!?」
「今日の仕事きつくて、歩くのも面倒だったんで、つい」
「つい、で普通飛びませんよね!?」
「この方が歩くより楽だし早いんですよ。鈴木さんもこの時間に歩きって、バス乗れなかったんですね?」
「バスは、たしかに乗れなかったですけど」
「マンションまでまだ少しありますし、どうせ同じ場所ですから、せっかくですからご一緒しましょう」
あからさまに異常であることに思考の追いついていない梨生は、次の瞬間、佐藤の左腕に抱えられていた。
「じゃ、いきますね」
身体が浮き上がる感覚と、地面から遠ざかる視界。コンビニ袋ががさがさとたてる音がやけに耳に残る。
「と、とんでるっ!?」
「はい、飛んでますよー」
呑気な声を聴いたのを最後に、梨生は意識を手放した。
「鈴木さん、着きましたよ」
梨生がそう呼びかけられて気が付いたのは、マンションの自室の前。どうやってここまで来たのかは覚えていないが、佐藤に運ばれたのは確かだろう。まさかマンション内に直接飛んで入ったわけでもないだろうし、少なくともエントランスやらエレベーターやらは足を使ったはず。そしてそこには防犯カメラもあるわけで――。
「うにゃあ!」
「じゃあ、おやすみなさい」
変な声を上げて蹲った梨生に構わず、佐藤はマイペースに手を振って自室に向かう。だが、スラックスの裾をがっつりと梨生が握って動きを阻害した。
「ざどうざん~」
ドスのきいた声で梨生は佐藤の行動を阻止したままねめつけた。
「説明、してくれますよね」
「あー、やっぱりそうなりますか」
「当たり前です!」
その夜、梨生は常識では理解できないことに遭遇し、何かが切れてしまったために自分の常識もぶち破った。
つまり、普段は会釈程度しか面識のない隣人の家に押し掛けたのである。それも同年代の独身男の住居だ。
梨生の部屋と同じ間取りの1LDK。だが匂いが違い、家具が違う。通されたリビングのソファーに落ち着くと、上着とネクタイだけはずした佐藤が缶ビールを差し出してきた。
「飲み物って、ビールしかないですけど、いいですか?」
「いただきます」
渡された缶のプルトップをあけ、やけに乾いていた喉に流し込んでから、缶をローテーブルに置く。
「こちらの了承を得る前に抱えるのはセクハラだとか、意識のない重い物体運ばせて申し訳なかったけどありがとうとか、色々言いたいことはあるんですけど!」
梨生の発言が佐藤のツボに入ったらしく、彼は、自分の缶を開ける手を止めて噴き出した。
「まずそこですか! いやあ、鈴木さんて面白い人だったんですねえ」
笑いが止まらない様子の佐藤に、梨生は冷たく言い放つ。
「そう言う佐藤さんは人間じゃなかったんですね」
「いやいや、人間ですって」
「人間に翼はありませんよ」
「でも、この佐藤功という身体は、100%人間のものです」
「まさか、本来の佐藤さんの身体を乗っ取って……! いやぁ! アブダクションされる! キャトルミューティレーションされちゃうの、私っ!?」
「誰がエイリアンですか。違います、しません」
「で、でも余計なこと知っちゃったから、口封じとか記憶改竄するんでしょ!?」
半泣きになって後ずさろうとするがソファの背もたれにぶつかっただけの梨生に向かって、佐藤はひらひらと手を振った。
「そんな必要ありませんから安心してください」
「なんで必要ないって言えるんですか!」
「だって、誰も信じませんし」
「へ?」
思わず、なんとも情けない声が出た。
「家族とか友達とかに話して、信じてもらえるわけないでしょう。せいぜい疲れてるとか寝不足を労わられるくらいで」
咄嗟に頭の中でシミュレーションしてみた梨生には、訴えた相手から『妄想乙w』と返される未来が見えた。良くて心療内科への受診を勧められる未来だ。
「そ、それも計算のうちだっていうの!?」
「本来ですねえ、翼を出した状態の俺は、目にもカメラにも映りません。だから鈴木さんに何で見えたかの方が不思議なくらいで。あ、見せようとこっちが意識してたら相手に見せることはできますよ。その場合は撮影も可能です」
「そんなこと、私だって分かりませんよ! 今までだって幽霊も宇宙人も見えたことないですし!」
「宇宙人から離れてください。――何か変わったこともしてませんか?」
「普通に歩いてただけです! 佐藤さんに会う前まで月ばっかり見て歩いてましたし他には何も」
「月ならもしかして……。太陽光には強い力がこめられています。そのままだと強すぎて逆に気付かれないんですが、月に反射されることで適度に弱まるんで、月光は隠しているものを暴くことがあるんです」
缶ビールを顎に当てたまま佐藤はしばらく考え込んでいたが、やがて梨生をまっすぐに見つめた。
「先に言っておくとですね、俺は身体は人間ですが、本性はいわゆる天使と言えば分かりやすいですか」
たしかに、梨生が見た佐藤の翼は、宗教画の天使のものに似ていた。色も白だった。しかし、どうしても認めたくなかった。
「無いっ! 天使ってこう、中性的な美形でないと!」
「まあ、この顔で美形とは言いませんが事実は事実と」
「いやぁ! 認めたくないーっ!」
そうやってしばらく逃避していた梨生が落ち着くのを佐藤はビールを口にしながら待った。
(天使はビールなんか飲まないんだもん!)
既に論旨のずれた主張を抱える梨生の理性に期待して。
「ちょっとは落ち着きました? じゃあ、話を続けますね」
色々疲れてしまった梨生は力なく頷くと、佐藤に先を促した。
「荒唐無稽に聞こえるかもですが、一通り聞いてください。まず、この世界を神が創りました」
「あ、宗教はいりません」
咄嗟に条件反射で断る梨生に佐藤もすぐ切り替えしてきた。
「勧めないから安心して。とりあえず創造神ってやつがいるんですよ」
「やつ、って言っていいんですか」
「いいんです。で、世界を創ったら創りっぱなしではいけないので、存続するようにしないといけません。でも神だけじゃやってられない仕事量だからって、世界の次に造られたのが補佐役の俺や同僚たちなんです」
佐藤は少し遠い目をする。
「もうブラックなんて可愛い職場環境じゃなかったですね。世界が存続できるよう、自力で回れるようになるまで休みなく扱き使われました。まあ、なんとか乗り切れたわけですが」
何故自分は決算前の苦労話を聞かされているのかと梨生は思ったが口には出さなかった。
「その後、仕事がなくなりました」
「は?」
「システムが出来上がりさえすれば、やることがないんです」
「ええと、メンテとかアップデートとかは」
「ありません。あ、鈴木さんも、明日は休みですよね?」
「ああ、はい」
きちんと休むために残業をがんばってきた梨生の答えを聞いて、佐藤は一度立ち上がり、もう一本ずつビールを持ってきた。そしてまた話を続ける。
「一旦世界を創ると、不具合が出ようが放置なんです。創るのが神の仕事で、補佐が我々。で、管理はしません。次に出番が来るのは世界が崩壊する時です」
「黙示録の、七人の天使のラッパ……」
「んー、似たようなことは起こりますが、平たく言えばそれは神と我々の目覚ましですね」
「は!? 目覚まし!?」
新しい缶のプルトップを引き上げ、美味そうに飲む佐藤につられるように、梨生も再びビールに口をつける。
「崩壊した世界の後始末という仕事が始まるから起きろ、という意味で。実際、誰よりも早く創造神は寝ましたねえ。で、我々もやることないんで、大抵は寝ました」
「佐藤さん、今起きてますよね?」
「寝てばっかりも退屈なんです。幸い、人類なんていう面白い存在が登場したので、それで」
「世界を引っかきまわそうと」
「違います。まあ一部、退屈しのぎに人の前に現れて神だとか悪魔だとかやってた同僚もいましたけど」
「引っかきまわしてるじゃないですか!?」
「一部ですってば。そいつらだって、おんなじことばっかりしてる訳じゃないですし、大勢に影響を与えるほどの力なんて持ってませんよ」
「神とか天使とか悪魔だったら、奇跡とか魔力とかあるでしょう」
「創造神の補佐ですから、人類よりかは色々出来ることは確かにありますが、最初と最後の仕事用ですからね。オフの時はほとんど使えません」
「じゃあ、佐藤さんは何やってるんですか、今」
梨生がそう聞くと、佐藤は実に楽しそうな表情を浮かべた。
「佐藤功という人間をやってます」
残業付きで仕事して、夕食も食べていないのにビールを飲んで。梨生は自分が酔いはじめているのを自覚していた。勝手に口が動く。
「なんで、天使だったらなんでそんなに普通の顔なんです? なんでこんな古いマンション住まいでなんで仕事してるんです? イケメンになって大金持ちにだってなれるでしょう!?」
「俺TSUEEって奴ですか? まあ、やろうと思えば人間相手なら無双できますよ」
「できるのにやらないって、それ、私みたいなフツーの人間馬鹿にしてます?」
してませんと否定した後、佐藤は少し言葉を選んでいたようだった。
「ええと、鈴木さんはミステリーのネタバレとか許せるタイプですか?」
「絶対許せません!」
学生時代、図書館で借りたミステリーの序盤で、『犯人はこいつ』と落書きした相手を未だに許せない記憶がよみがえって、思わず力いっぱい答えた。
「俺もです。無双とかってね、できたら詰まらないんですね、これが。だって結末なんて分かり切ってるんですから。ゲームでも、苦労するから面白いんですよ。イージーにさくさくクリアできるゲームなんて、二度としないでしょう? うまくいかなかったところを何度も挑戦して乗り越えるから面白いんです」
佐藤の外見はイケメンでは決してないが、不愉快を感じさせるほど悪くもない。どこにでもいそうな本当に普通の顔なのだ。だが満足げに微笑するその表情はちょっといいかもと、うっかり梨生は思ってしまった。
「俺は今の平凡な自分を楽しんで生きてるんです」
どうやって自分の部屋に帰ったのか梨生は覚えていない。だが気が付いたら自室のベッドだった。しっかりルームウェアに着替えている。スマホを見れば土曜の午後1時。
「夕べのアレは全部夢……」
と思い込もうとしたが、襲い掛かるひどい頭痛が二日酔いを教えて来る。梨生はアルコールがそれほど強くない。そして、家では飲まない派だ。だが自分の息から間違いなく、普段は飲まないビールの匂いがした。
「気持ち悪い……」
無理やり起き上がって、冷蔵庫から水を取り出す。僅かに炭酸を含んだ水が喉を潤していくうちに、気分の悪さも幾分収まり、思考が戻ってくる。
「お隣の佐藤さんが天使……」
口に出すと奇妙この上もない。現実感もまったくない。おまけに失礼だが似合わない。
佐藤は、梨生をどうこうするつもりはないようだった。記憶もあるし、身体にも二日酔い以外に異常はなさそうだ。
「うん。別にお隣が天使だろうが悪魔だろうが、害がないなら放置でOK!」
そう判断して、梨生は平日に溜めていた家事を片付け、日常に戻っていった。
そのはずだった。
「なんで私はこんなことをしてるの?」
翌日の日曜の午後。梨生は両手でゲームのコントローラーを握っていた。隣では、佐藤が同じようにコントローラーを操っている。
「それは俺が誘ったから」
場所は金曜深夜に訪れたのと同じ、佐藤の部屋のリビング。その時は気が付かなかったが、この部屋には大型モニターと複数のゲーム機が存在していた。
「いやあ、久しぶりにこのゲームやりたいと思ったんですけど、これ一人じゃ面白くないんですよね。ツレを誘おうと思ったら断られちゃって。鈴木さんが在宅してるって気が付いてよかった」
モニターの中のカートに視線を向けたまま、梨生は不満を漏らす。
「彼女誘えばいいでしょう!?」
「日曜午後に自室でゲーム三昧の男に、そんな相手がいるとでも? あ、鈴木さんの彼氏には叱られるか」
「いないって、分かってて言ってるでしょう!」
ベランダで洗濯物を干している時に声を掛けられた。決してぼっちではないが、彼氏はいないので、梨生にブーメランが刺さる。
「うーん、鈴木さん面白くて可愛いのになあ」
「言・い・か・た~っ!」
面白いが先に来るのが納得いかず、梨生は絶対にゲームに勝ってやろうと誓った。一勝一敗。もう負けてなどいられない。
「いやあ、腕の方も似たり寄ったりで、身近でいい相手見つけたなあ」
梨生のカートを抜き去っていく佐藤はなだめるような口調で続ける。
「まあ、俺と仲良くしておくと多少はLUCの数値も良くなるんでお勧めですよ」
ゲームのステータスかと文句を言いたいが、月末前の懐の寒い時期に、その内容はいささか魅力的だった。
「……嘘じゃないでしょうね」
「宝くじの少額当選くらいは」
「そこは高額当選って言うところでしょう!」
「分相応って大事なんで」
その日、梨生は5勝8敗で負けた。そして次の週末も、更にその次の週末も何故か佐藤とゲームしていた。
折々に心から楽しそうな佐藤の横がだんだんと居心地よくなっていくことを、絶対に佐藤に言ってやらないと、そう思うようになるまでもうすぐ――。
読んでいただいてありがとうございます。
佐藤は、普通に怪我もすれば病気にもなるし、死ぬときは死にます。で、前の人生の記憶をリセットして転生することもあるし、しばらく寝ることもあります。
連載にすることはありませんが、連作で続きを書くかもしれません。