肆
よろしくお願いします!
「い……1ヶ月ぅぅぅッ!?」
「えぇ。北上椋一君、貴方がこの病院に運ばれて来てから約一月経ってます。今は七月ですよ」
暑さを感じて目覚めると、太陽が眩しく窓からこの部屋を照らしていた。
眠気を感じながらも、枕元にあった『呼出』と書かれたボタンを押してみると、ナース服の女性が大慌てで部屋へと駆け込んで来た。
矢継ぎ早にいろいろ聞かれ、今はこの病院の医院長というお医者さんと面会している。
そこでようやく、今日の日付を知れた訳だが……どうりで体力が低下しているのだと、驚きもあるが納得することが出来た。
「では改めて、私は医者の屋武兼雄と言います」
(なんだろう……妙に他の病院へ移動したくなってきた)
見た目は四十代後半くらいだろうか、人の良さそうなお医者さんだ。
既に心音を聞かれたり、眼球を覗かれたりなんかは終わって、今はカウンセリングの時間。自分の今の状態についても話してはあるし、逆に俺自身のプロフィールについても教えて貰えた。
「先生。単刀直入に聞きますけど……俺の記憶は戻るのでしょうか?」
「……ふむ」
先生は眼鏡を光らせながら、視線をX線でスキャンして撮った脳の画像へと移す。
正直に言えば「大丈夫、大丈夫」と軽く伝えて欲しかった。けれど、先生の口はなかなか開かない。
「……脳についての研究も進んではいる。ただ、人の脳は複雑なんだ。椋一君の症状にしてみても、認知症とは経緯が違うから思い出す可能性はある。だが、確実に思い出すと断言も難しいんだよ」
可能性はゼロじゃない。それは自分を慰める時に使えるのだろうか……。
思い出せると信じていてと、思い出せない可能性だってちゃんとあるということだ。
他人事ならば、俺も「ゼロじゃない! 頑張っていこう」なんて能天気に言えただろうが、自分事となると楽観的にはなりきれない。
ただ、それでも――ポジティブにいこうと昨日誓ったばかりだ。今は喜んでおく演技のひとつくらい出来ないと、この先やっていけない気がする。
「椋一君の場合、言語についての問題はないですし、物の使い方も問題はない……ご両親や友人について何も思い出せないという事ですから、エピソード記憶だけが抜け落ちてしまっている状態です」
「エピソード……記憶」
「つまりは、思い出です。今まで体験してきた事について思い出せないという事です」
より詳しく教えてくれようとしてくれただけなのだろうが、先生の話は難しく、脳の構造がどうとかになったあたりからは深く聞いていなかった。
「――失礼します。先生、北上さんのお母様が到着しました」
ナースさんが同情や憐れみを含んだ表情をしながら伝えてくれる。
そんな表情をされると、自分が哀しい人間なんだと考えてしまう。だが今は……「やめてくれよ」の一言も出せない。見なかった事にするしか出来ないでいる。
母親の気持ちを慮ったナースの気持ちを考えると、たしかに残念に思うのだろうし。
「そうかい。椋一君、どうしますか? ひとまず私から説明してから面会しますか?」
「いえ、会います。遅かれ早かれなら……早い方が良いと思いますし」
「分かりました。症状の説明は私からしましょう。山神クン、お母様をお連れしてくれ」
「分かりました」
ナースさんが出ていく。もう数分すれば母親と会える。その事に割りと……いや、かなり緊張している。
どんな人なのか考えるのが怖い。どう思われるのか想像するのが怖い。こんな俺を受け入れて貰えるのか……吐きそうだ。やっぱり時間を貰えば良かったかもしれない。
「椋一君。キミのお母様とは何度かお会いしているけど、いつもキミの頭や頬を撫でていたよ」
「……先生。俺は……俺は……そんな優しい人の事を、きっと他人としか思えない。それが、なんか怖いんです」
「慰めになるかは分からないけど……私が子供の頃、父が再婚してね。最初は新しくやって来た母を母親とは思えなかった。でも、時が解決してくれる事もある。また、始めから積み重ねていけば良いよ」
「……はい」
――コンコン。
開き戸を叩く音が聞こえる。心臓がバクバクと息苦しいくらいに高鳴る。
「お入りく――」
先生の声が言い終わる前にドアは開かれ、一人の女性と目が合う。
目に涙を浮かべたその女性は、他に目を向ける事なく一直線に俺の方へと駆け寄り……ギュッとキツく俺の体を抱き締めた。もう離さないと言わんばかりにキツく、キツく。
「バカッ! このバカ息子! どれだけ寝坊すれば気が済むの! ぐすっ……良かった……っ」
この人が……俺の母親。抱き締められても、なにかを思い出すことは無かった。ただ、あたたかい感覚がある。何も覚えてないのに懐かしい匂いを感じる。
「あ、あの……すみません。謝らないといけない事が……」
「心配しなくて良いから。アンタを引いた運転手も、事故の原因の運転手も、お母さんがぶん殴って治療費払わせておいたから」
「えぇ!? なんか申し訳ないな!?」
「……申し訳、ない? どうしたの椋一!? 頭打って変になっちゃった?」
「そうですが! そうですけど、いろいろ待って欲しい感じがしますね!」
俺の価値観って……もしかして、何か変だったのだろうか。
このそそっかしそうな母親との会話で垣間見えた自分には、あまり触れたいとは思えなかった。
「お母様、少し冷静になって受け止めて欲しいのですが……」
かくかくしかじか……先生が俺に変わって、丁寧な説明を母親にしてくれた。
その説明を聞いてるだけで、母親の手前、より申し訳ないという感情が強くなっていく。
「うそ……椋一、本当なの? 本当にお母さんが分からない?」
「すみません……」
謝罪の言葉を口にしても何も解決しないのが、より感情を複雑にしていく。
「まさか、千夏ちゃんも?」
「……知りません」
何故か、自分が分からないと言われた時よりも悲痛な表情を浮かべている。
千夏ちゃんという人物はそれほど関わりの深い人物だったのだろうか。母親よりも深いとなると……まさか、双子の兄妹とかだろうか。ちょっとだけ気になる存在だ……後でメモしておかないと。
「じゃあ、アンタが家でお手伝いしてた事は?」
「お店……?」
「パスタの作り方は?」
「作った事は無いですが……作ろうとれば作れる、かと」
「じゃあ、ケーキの作り方も大丈夫ね?」
「あ、はい……なんか上手く言葉に出来ませんが、レシピは知っているので……」
「そう。なら、まぁ……」
「なら、まぁ!?」
思わぬ台詞に思わず言い返してしまう。
気のせいじゃないなら、そのお店の仕事が出来るのなら支障は無いと言われた気がする。
心配し過ぎて欲しい訳ではないけど、こうもあっさり過ぎると俺自身が際どう反応していいのか逆に困る。
いつの間にか母親の目に涙は無い。強い人なのか、ただ瞬間を生きている人なのか……母親の人となりがよく分からない。
「あの……俺からも質問いいですか?」
「どうしたの? 覚えてないならアンタの貯金はゼロからで良いわよね?」
「過去の努力を無にしないで!? ……じゃなくて。俺は、その……何を目的に生きていたんでしょう?」
なんせ、北上椋一という将来を約束されたかの様な名前をしている俺だ。何か壮大な人生の目標を掲げて生きていたに違いない。
それこそ、生きなきゃと思うほどの何かを……母親なら知っているんじゃないかと、思いきって聞いてみた。
「そうね。椋一、今のアンタはやりたい事ないの?」
「それが、分からなくて……自分が何をしたいのか、とか。どうなりたいのか、とか」
「うんうん。でもそれは、椋一自身が考える事だとお母さん思うな。生きる意味なんて、死にかけた事も無いお母さんの言葉じゃ弱いじゃない? でもそうね、ひとつ言ってあげられるのは……焦らなくて良いわ。ゆっくりで」
頬に手を添えてくれる。母親の優しい表情が目に映る。
泣いたり、悲しんだり、微笑んだり、俺の母親は表情豊かでぬくもりのある人みたいだ。
「ありがとう、ございます」
「良いのよ。アンタは私の息子で、まだ子供なんだから。あ、でも、ちょっとだけ覚悟した方が良いわよぉ?」
「か、覚悟……?」
「この一ヶ月で千夏ちゃんが覚醒したわ。スズちゃんはずっと怒ってたしね」
誰だか知らないままだけど、とりあえず会いたくない感じだ……。人が怒っているのは単純に怖いし、覚醒したとか意味不明過ぎて怖い。
「あ、あの……その千夏さんとスズさんとは?」
「柏千夏ちゃんと新名鈴乃ちゃん。今は学校だから夕方頃に連れてくるわ」
「柏さん……新名さん……か。謝る準備だけしておきます」
おそらく双子である柏さんと、新名さん。新名さんが何者なのかは謎だ。
(あれ? 柏? 双子なのに苗字が違う……のか? もしかして……複雑な家庭なのだろうか?)
とりあえず連れて来る程ということは、複雑としても険悪な関係じゃないのだろうけど。
……会えば分かる事ではある。そんなことは分かっているのに。
想像なんてするだけ余計になりかねないと分かっていても、やっぱり考えてしまう。というか、考えていないと落ち着かない体になってしまっている気がする。
「すみません先生。お騒がせしました」
「いえ、事情は把握してますので。それで、お母様とはこれからの椋一君のリハビリや検査の事でお話がありますので、お時間を頂戴させて貰いたいのですが……」
「えぇ、分かりました」
「椋一君は……体力的にだいぶ疲れたと思う。部屋で休んでて大丈夫だよ。これからの事については、後で説明に行くからね」
「あ、はい。すみません……戻らせていただきます」
車椅子に乗せて貰っているから、移動は多少なり楽になっている。
先生に頭を下げ、母親に頭をペコリと下げるか迷ったが何もしなかった。しなかったというより、顔を合わせたら何も出来なかったの方が正しい。距離感がまだ掴めていないからだ。
部屋を出ていこうとドアに手を掛けようとした時、スゥと勝手にドアが開いた。違う――勝手なんかじゃなく、母親が引いてくれていた。
「ありがとう、ございます」
「良いのよ」
部屋を出て、自分に用意されている部屋に戻った。
ベッド横たわると、思ったよりも疲れていたのか、メモに今の出来事を書いておこうと思う気持ちはあっても、何もする気にはならなかった。
テレビを見る気にもなれず、他に娯楽も無いこの部屋で疲れたら寝るしかない。先生が後で説明に来るとは言っていたけど、何時になるかまでは言っていなかった。
重く感じる布団を肩まで掛けて、すぐに目を閉じた――。
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