メメント・モリ
病棟の中庭に面したカフェテリアは普段の整然とした様子はどこへやら、酷く雑然として、もともとあった椅子やらテーブルは一部を残して部屋の両脇に、一斉に自ら退いたように寄せられている。
モーゼでもいたか? と、問いたくなる光景だ。笑える。
生き残りの椅子とテーブルは、庭を臨む窓を前にして長く一列に並べられ、そこには種々雑多、和洋折衷、前菜からデザートまで、ありとあらゆる料理が所狭しと並び、大渋滞を起こしていた。
その席につかせた姉弟に、いそいそとカトラリーやらを配って給仕に勤しむ兄さんを、弟のヘンゼルはにこやかとは程遠いが仏頂面ではない顔で手伝って、姉のグレーテルは無言のまま、その様子を怪訝そうに見つめている。
「いくらなんでも多過ぎるよ」
「少なリよりはいいかと思ってな。食べ盛りが2人だ」
「おいおい、初孫を喜ぶジィさんかよ……って、5年前にも言ったっけ」
「まあ、いっぺんに食べられなくてもいいのか」
「嗚呼、冷やしておく場所には困ってない」
「おい! 見事に無視か」
自然に……いや、十分不自然に俺の存在が無視されている。
黙ったままの女子、ひとりを除いて。
「君、まだレモン・メレンゲパイは好きか?」
「…………」
「タルトタタンもある。シャルロットは木苺を沢山入れたから、甘酸っぱくできたと思うんだが、どうか……」
「なぁ、これってまさに『孫に冷たくされるじぃさん、しかしめげないの図』だろ」
オレには視線も寄越さずの兄さんは、グレーテルにはどれだけでも甲斐甲斐しくあれるという、傍から見れば変質者染みた性質のようだ。
たとえ彼女が切り分けてやったメレンゲパイに視線を落としたまま沈黙していようとも、そんな彼女を気遣って、オレンジジュースのグラスと湯気の立つティーカップの両方を並べるへんた……いや、親切ぶりだ。
扱いに、天と地……いや、宇宙ゴミと家庭ごみくらいの差を感じる。
というのも、窓際に放置されたオレはテーブルにすらつかせてもらえていないのだ。
オレはそのことを面白がっていたが、そんなことは思いもよらないのか、もしかすると普通は思わないのか知らないが、気に病んでいるらしいグレーテルが、ちらちらとこちらを伺っている。
だからといって、両脇の2人と打ち解けるほどの気概は持てないようだった。
「まったく、辛気臭えな。黙りこくって最後の晩餐気分かよ? 弟か兄さんか、どっちがユダか? いやどっちもか? なんて、下らないこと考えてんだろ?」
「……」
「なんだよ、随分いい目してんな」
向けられた人殺しみたいな上目遣いに胸が高鳴る。
だが、せっかく素直に褒めたのになぜか視線を外されたのはとても心外だ。
「…………」
しかし、視線を外せばそこに映る光景が否応なしに目に入る。
窓の外は、夜が来るまでほぼ一定の薄曇りだ。
この森の中に晴天の日はない。
そのせいで、とかく、よく映るのだ。内側の光景が。
白いクロスのかかったテーブル。
横並びの不自然な構図。
弟子の数は本家に敵わないが、テーブルの上の品数の多さはあの絵画と比べるべくもない。
可哀想なグレーテルは、オレの揶揄に心を乱されているようだった。
「大丈夫だって、お前聖人君子じゃねぇだろ。どう見たってヘンゼルは番犬だし、兄さんは金持ちの太客だぜ?」
「パンとスコーンは焼き立てだ。バターとジャムと蜂蜜、クロテッドクリームがあるから好きに使うといい」
「おーおー、いーね。いたれりつくせりじゃねーのお姫様。オレはシカトされてっけどな」
「ねえ、ちょっと黙っていられないんですか?」
「そうギスギスすんなって、弟」
「口から先に産まれたって、アンタみたいな奴のこと言うんでしょうね」
「褒めてんのかよ? だったら顔見て言わねぇとな? それに、ほら、見てみろよ。外」
軽く拳で硝子を叩く。
そうしてようやく、兄さんは全くいい顔をしていなかったが、3人ともが顔を上げてこちらを見た。
「庭の桜も満開だぜ? 花見は楽しくやってナンボだろ」
「いま夏だけど」
「……あれは夾竹桃よ」
「なんだって?」
「桜じゃないって言ってるの」
「へぇ? べっつに綺麗だったらいいんじゃねー? 花見には困んねーし。硝子越しじゃ嫌ってんなら一枝折ってきてやるよ」
「それ触った手、舐めてみたら? 死ぬかもしれないけど」
「おいおい、物騒なこと言うねえ。ま、夾竹桃の毒で死ねたらラッキーだけどな」
傷付けた幹から染みだすのは、乳白色の体液。
あれを舐めたのはもう、何年前か。
文字通りの死にそうな目にあったことを思い出す。
「……あんた……知ってて」
「夾竹桃の毒がヤバいってのは知ってたな。それと、毒草を話題に出した途端、お前のだんまりが解消できるのも確信した」
「そんなんじゃないし」
グレーテルが、口惜しそうに唇を噛む。
「黙ってたわけじゃない。弟が話し出すのを待ってただけだけ。それなのに、なんでこんなイカれたティーパーティーみたいなことになってんのよ」
「イカれてるってよ、兄さん? おもしれ〜。ま、オレとしては、お姫様がやけに毒草に詳しいことのほうが、より興味をそそられるけどな」
「間違って食べたら死ぬんだから、知ってて当然じゃない」
「なるほど? 聞きしに勝る逞しさだな」
「わかったなら、もうなんでもいいから早くしてよ。アタシ達、さっさと話して帰るんだから」
興奮気味にまくし立てて、グレーテルが立ち上がる。
その手首を弟が、両肩に手を置いて兄さんが、それ以上の動きを制した。
「姉さん待って」
「落ち着け。話はする。だが、食事をしてからだ」
「なんでそうなるのよ。まさか、アタシ達を太らせて食べる気だなんて冗談言わないわよね?」
「言わない。単純なことだ。君たちは疲労しているうえ空腹だろう。圧倒的に脳に栄養が足りていないはずだ。大事な話ならば尚更、万全の体制で聞くべきだろう」
「だったら、飴玉でも食べながらで十分よ」
「姉さん、せっかくたから、俺と一緒に食べようよ? こんな機会、最初で最後だろうし」
「……っ、どうして? どうしてそうなるのよっ」
ガチャン、と。
テーブルを叩いた手が、派手な音を立てて食器を弾ませる。
だが、そんな衝動的な行動に驚いているのは、彼女自身のようだった。
青褪めた顔で、叩いた手を引っ込める。
「いいか、君。今は飲んで、食べるときだ。料理は湯気を立て、あとはもう食べられるだけ。こんな好機はもうこの先ないかもしれない。いや、そう思うべきだ。君ならわかるだろう?」
「…………わかんない」
「姉さん……」
「悪いが、これも言っておく。ここでは、私の言うことを聞いてもらう。不満だろうが、理由は長くなるので今は割愛させてもらう。だがこれだけはなんの臆面もないことだから、今言っておく。ここにいる間、悪いようにはしない。私は君たちを歓迎したい、それだけだ」
「だってよ? 熱烈だねぇ兄さん」
「茶化すな、黙れ」
「お、口きいた」
グレーテル効果でようやくオレと口を利いた兄さんが、そっと肩を叩いて促すと、彼女はすとん、と膝の力が抜けたように椅子に座り直した。
その顔をのぞき込んで、
「姉さん、ごめんね」
ヘンゼルが言う。
「いい……わかんないけど。お腹空いたし」
「ほんと? よかった」
「毒を食らわば皿までって、思っただけ」
言って、グレーテルはおもむろにフォークを掴むと、レモン・メレンゲパイに突き立てた。
そして、半分ほどをいっぺんに口の中へとねじ込んで咀嚼する。
「これは、例えなんだが」
それを見て、兄さんはティーポットを持って立ち上がり、珍妙な顔で言った。
「仮に私が君たち姉弟を太らせて食べるのが目的だったとしても、今の状態で逃げ出すよりも体力を回復させてから機会を伺った方が得策ではないだろうか?」
冗談めかしてはいたが、下手くそな笑みがどう見てもなにか含みがあるようにしか見えない。
しかも、
「紅茶を入れ直してくる」
そう言って踵を返した兄さんは、微かに鼻歌を歌っていた。
シューベルトの魔王。
差し出がましいかもしれないが、2人が既に食事に夢中になっていたとはいえ、いくらなんでもその選曲はどうか。
「不穏過ぎんだろ」