カミソリと飴玉
「何をするって、カミソリにそんなにたくさん使い道あります?」
そう言って、齢十二の少女は不機嫌そうに私の顔を見た。
同じ年頃の女子児童と比べてやや背が高く、そのせいか余計に細っているのがよくわかる。
おそらく柔軟剤を使っていないのであろう肌触りの悪そうなオーバーサイズのᎢシャツに、成長に見合わなくなったショートパンツ。
そこから伸びた、産まれたての小鹿かというほど細い足が、痛ましいほどなぶられた、落書きだらけの上履きに収まっている。
「それじゃあ、あのカミソリにできることは?」
「アタシに聞くんですか? 先生のくせに」
「……まあ、それもそうだ。それならお互いに、1つずつ言っていく、というのはどうだろう?」
「言うだけ?」
「しりとりみたいなものさ」
「対戦ってこと? だったら、勝ったらなにかもらえるんですよね、トーゼン」
「嗚呼……そうだな」
そうくるか……。
想像していなかった返しに、少し考える。
「これはどうか……飴玉なんかで申し訳ないんだが、ひとつ言う毎にひとつ、というのは?」
「顔剃り」
「は……?」
「なに? ダメ出し?」
「なに、出汁?」
「ていうか、そもそもそれ顔用だけど」
「そうか……。いや、瞬発力に驚いただけだ。ダメでも出汁でもない」
「ダシ? まぁ、なんでもいいけど。ん」
「嗚呼……そうだな」
早く寄越せ、と言わんばかりに差し出された手のひらに飴玉を置く。
すると少女はすぐに包みを解いて大きな琥珀色の球体を摘み上げ、しげしげと眺めると、ひと舐めしてから頬張った。
てっきり『飴なぞいるか』と一笑に付されるかと思ったていたので、彼女の反応の良さには驚かされると同時に、胸が痛んだ。
食べ物で釣るなどという浅はかな行為は、反省して然るべきだ。
「それじゃあ座って続けようか。足を棒にするのも時間の無駄だろう」
少女は私の提案に黙って頷き、部屋の真ん中に据えられた応接スペースのソファに座った。
私も、一人掛けの椅子に脚を組んで座った彼女と少しだけ距離を開け、右の肘掛け側にある長椅子に腰掛けると、彼女はもごもごと喋りにくそうにしながら言う。
「こえ、なひあじ?」
「は……? 飴だから、砂糖じゃないのか?」
「はは、なひそへ」
「君のような世代の口には、合わないかもしれないな」
長いこと、商店の陳列棚に常備されている商品だ。
いつからだったか、それを思い出せない時点で、彼女にとっては古臭い、大昔のものになるのかもしれない。
「ほお? ……ウマいけど?」
ガリ、と音を立てて飴玉を噛み砕き、少女が笑う。飢えた獣のような、凶暴な笑顔で。
「なに笑ってんの」
「いや、続けようか」
君の豪快さに感服したと、正直に口にすればトラウマになって彼女の後の人生に影響がでないとも限らない。
相手が幼気な少女であることを思い出し、言葉を飲み込んだ。
しかし、些細な気遣いなどとっくに手遅れかもしれない。今まさに、カミソリなどというものを相手取ったシチュエーション妄想ゲームに興じようというのだから。
「そうだな……首筋に当てて、人質にとる。というのはどうだろうな。いかにも、家族内で追い詰められた犯人が、警察に踏み込まれた場面でやりそうだ」
「ねえ、家族を人質って、イミある?」
「ん? あぁ、確かに家族を人質にしても、ハッタリだろうって思うヤツもいるだろうな」
愛する家族を傷付けることなどしないと、少女は思っているのだろう。
確かに犯人が頭に血が上りやすいだけの普通の人間で、引っ込みがつかなくなっている程度ならば、流血沙汰にもならないだろう。恥ずかしい汚点は増えただろうが、頭を冷やしておしまいだ。
だが、激情の支配下にあってはそうもいかない。
人は愛ゆえに人を守るかもしれないが、同じ理由で手にかける。
恋人同士が殺し合い、一家心中を試みるのも、家族の延長線上だ。
「ていうか、ケーサツにはカンケーなくない? 勝手にやってろって思うでしょ。刺そうが、刺されよーが」
「家族だから、か? だが、家族でも他人でも、警察官にとっては正義を振りかざして守るべき国民……という認識でなければ困るな」
「ふーん? 大変だね。どっちも悪人だったらどうするの?」
「それは、私は警察官ではないから断言できないが、人質を救出してから事情を聴くんじゃないか?」
「それで人質のほうが超悪人だったら、助けなきゃよかったってなるね」
「そうだが、逆もある」
「どっちもどっちってこともあるよね」
「あるだろうな。そのときは確かに、刺すなり刺されるなり勝手にしてくれればよかったと、私も思うだろうな」
「うわ、やば。先生がそれ言っちゃう?」
「これでも、君に気に入られようと必死なんだ」
「えぇ? 変態?」
くすくすと、まるで日だまりで眠る猫の周りを、ひらひらと舞う蝶々のように危うく笑って、少女はこくり、と首を傾げた。
目にした者に、妖しい感情を芽生えさせるその挙動。
どうしようもなく胸骨の内側が騒いで、不安に似たざわめきに支配されそうになる。
そんな私の内情を暴き立てるように、細い小枝のような人差し指が立ち上がり、こちらを向いた。
「背中に字を書く」
「え……」
「つづき。やろ?」
「あぁ、そうだな。字を書く?」
「そう。こーやって」
少女が宙に指で描いた、高架下の落書きのような卑猥な単語。
指を差されるのとは別の意味で心臓に悪い。
意味がわかっているとは思えないし、思いたくはないが、本当のところを確かめるには、上履きに書かれた悪口雑言についても触れなくてはならないだろう。
「それは、痛そうだな」
私はそれだけ言って、コト、と新しい飴玉を少女の前のテーブルに置いた。
「いただきー」
「ああ、召し上がれ」
満足気に細められた瞳の色が、差し込む西日で薄まって、手にした飴と同じ琥珀色を宿す。
もしかしたらそれは、舐めたら私の舌にでも甘露のように感じられるのではないかと……途方もない倒錯に陥った。
「そっちの番」
「嗚呼、次は……。縫いぐるみの縫い目を切って、中綿を出す」
「先生病んでる。うーん、じゃあ……殺人」
「殺人? 随分大雑把になったな」
「ダメ?」
「いや。でも、カミソリで殺すのは骨が折れるだろう」
コト……。
琥珀色の甘い眼球を、彼女の前に置く。
一対になった目玉をテーブルの上で転がす少女に三つ目をチラつかせながら、私は聞いた。
「どうやって殺すんだ?」
「えぇ? ドーミャクってやつを切ればいいんじゃないの?」
「なるほど、出血多量。それじゃあ、どこを切るのが効率的か知っているか?」
コト……。
テーブルの上に、目玉が三つ。
逢禍時が近い。
「うーん、首とか」
「頸動脈か」
コト……。
よっつ、二人分の目玉が揃う。
それを見下す一対の目は、さながら蒐集家のようだ。
「あし?」
「大腿動脈」
コト……。
いつつ……。
人と、人ならざる三つ目。それとも二人半の人間の眼窩から奪った目玉だろうか。
生きた人間にそんなことをすれば、死んでしまうだろう。
……我ながらひどい妄想をここで打ち切った。
「だが、人は大概そこは切らないな。カミソリでは特に」
「そうかも」
「それじゃあ、最後にしようか。……答えられたら、残りの飴を全部でどうだろう」
「足りない……」
「なに……?」
「足りない。それより……さ」
ここにきて少女は初めて言い淀み、目が泳がせた。
だがすぐにシャツの裾をぎゅっと握り、私の目を真っ直ぐに見て言った。
「……それより、毎日ここに来てあげるから。そうしたら、少しでいいから……」
「なんだ?」
「少しでいいからさ、なにかくれない? 飴でもいいし、なんでもいいから」
「……ははっ、凄いことを言うな君は。そうか、ならば」
私は残りの飴玉の入った袋を、少女の手に握らせた。
すると、失敗したと思ったのだろう、必死さの露呈した表情が悔しげに曇るのがわかって、緩く首を振ってみせる。
「生憎と、私には甘味がわからない。これはオマケだが、明日はなにが用意できるか……あまり過度に期待をされても困る……それでも構わないか?」
「それって、いいってこと?」
「嗚呼、そういうことだ」
「うそ! ありがとうっ。見た目と違っていい人だ」
「一言多いが、まあいい。だがひとつ、条件がある」
邪気なく笑った少女の琥珀色の瞳は美しく、それでいてすぐに溶けて消えてしまいそうに儚く見えた。
口中で控えた問いが、昔誤って口にした魚のはらわたのように苦々しく感じられるほどに。
「最後に答えてくれるか? 君がしようとした、これでできることはなんだ?」
白衣のポケットから、彼女から担任教師が取り上げた一本の剃刀を取り出して問う。
「わかってるくせに」
「一応な」
「……手首、切ろうとした。それだけ」
「そうか」
なぜか、とは聞かずにおいた。
推察はいくらでも可能であったし、十二歳の女児にこれ以上の負荷をかけるのも気が進まない。
「わかった。それじゃあ、明日の放課後は好きな時間に来るといい。だいたい、暇をしてる」
「うん。仕事しろー」
「はいはい。それじゃあ、飲み物でも出そう」
「ジュースがいい!」
少女らしい。
実に少女らしい笑顔で、彼女は笑った。
甘そうな飴玉色の瞳を輝かせて。