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エンドサナトリウム  作者: 八百万 円
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スーサイド



「鴉が自殺したらこの世の終わりを疑え……って、誰が言ったんだっけ?」


 そう口にした姉さんは、汗と憔悴と怯えを小鍋で煮詰めたような顔をしていた。

 簡単に言えば、目の前の光景にドン引きしていた。


「俺だよ」

「え、そうだっけ?」


 くる、とこちらを向いた顔が、俺が頷いて返した途端に口を引き結んで前を向く。

 『そっか、そっか……』と噛んで飲み込むように繰り返すのは、嫌いな食べ物を無理に嚥下しているみたいに見えた。


「アレかな、周波数が原因とか。それで」

「おかしくなったってこと?」

「そうそう。ほら、イルカの集団自殺とか。座礁イルカだっけ?」

「軍のソナーが原因とかいう?」

「そうそう。アタシ、ヒッチコックの『鳥』も案外そんな理由じゃないかと思うんだよね」

「つまり姉さんは、これは自殺じゃない派ってこと?」

「そりゃあ、だって……これは……」


 姉さんの喉が、実際には固くない唾を飲み込んで上下する。

 その焦げ茶色の瞳が映すのは、確かに異常な光景だった。


 眼前にそびえ立つ、小学校の校舎裏の、その敷地と雑木林とを隔てるところどころが錆びた網目状のフェンス。

 その向こう側にしん……と佇む鉄筋コンクリートの古い校舎は、生きた気配もなく廃墟染みている。

 それもそのはず、今は夏休みの渦中だが、折角の屋外プールも連日発生している光化学スモッグのせいで開店休業中だ。

 とはいえ、それだけが原因ではないし、むしろ度合いでいえばアルコールフリーのテイスト飲料における妖精さん、もとい酒精さんの所在のなさくらいの割合だ。


「引っ張られたってことは?」

「え?」

「ここで起きたアレコレ」

「そんなわけない。だったらもっと……人間が死んでるでしょ」


 姉さんの断言どおり、確かにアレコレ以降人死には起きていない。

 つまるところ、それ以前には少なからず起きている。

 

 直近のものは、先月に起きた、児童職員連続飛び降り事件。

 原因も理由も不明の怪事件は、集団ヒステリーや薬物の中毒症状、オカルト教団による洗脳など、様々な噂と邪推で大いに世間をわかせ、傍観者達を大いに楽しませた。

 

 今月に入り、インタビューを受けた野次馬のうちニ人が首吊り状態で発見されるまでは。


 以降、学校側は『飛び降りは偶発的な自殺』との認識を発表し、警察も事件性はないとして捜査の打ち切りを発表した。

 衆目も一気に減って、今や足繁く通うのは俺くらいのものである。


 飛び降りたとされる場所には未だ規制線が張られている。同じテープで塞がれた四階の窓から落下地点までの壁を汚す赤っぽい染みは、いかにも自殺者の怨念だ呪いだと、見た者に思わせる効果がありそうだが、そもそも人間の血ではない。

 

 これは校舎の壁に自ら激突して死んだ、鴉の血糊だ。


 未だ乾かずに生々しい赤は、たった今俺達が見ている目の前で、雑木林から飛び出した鴉が衝突してついた鮮血の赤。

 弾丸かと思う速度で飛び出してきた黒は、それが鴉であると到底視認できるものではなかったが、そもそも俺はこれを見るのが初めてのことではなかった。


 そんなこととは露知らず、姉さんが頭を捻って口を開く。


「なにか、追いかけてたんじゃない? 電磁波のせいで幻覚でも見てたとか。もしくは窓の向こうに、なにか居るとか」

「自殺した人達の亡霊とか?」

「そういうのやめて」

「怖いんだ?」

「存在に納得してないの。ほら、単に、ご馳走とかじゃないの? レミングだって、本当は自殺目的に飛び込んだんじゃなかったって記事読んだし」

「読んだ……って、図書館のパソコンで? なに調べてたらそこに辿り着くわけ」

「え……野生動物の捕獲と食べ方だけど」

「わぁ、さすが現実主義者だね」


 姉さんは、怪談話が苦手なことを絶対に認めない。

 だが、不幸にも夜中に目を覚ましてしまい、そこから一人で眠れなくなり、こそこそと隣に来て眠るところなどは、とてもいじらしいと思う。

 野生動物云々のワイルドな言い訳は、遺憾なく変人ぶりを発揮しているが、それもいいスパイスだ。それに、恐らく半分以上本気だろう。

 いっそ凛々しいその横顔に見入っていると、まるで腑抜けた思考に水を浴びせるような耳を劈く鳴き声が、俺の正気を叩き起こした。


『カァーッ……カァーッ』


「うそ……ねぇあれ、生きてるの?」

「……まさか」


 ぐいぐいと、俺のくたびれたTシャツの裾を引っ張りながら、姉さんがそれを見上げる。

 そこにはもう一羽、微動だにしない鴉の姿があった。

 

 雑木林から飛び出した鴉はニ羽いた。そのうちの片割れだ。

 そいつは俺達の頭上、フェンスの網目に頭から突っ込んで、少しの間じたばたともがくような動きを見せていたが、今は首から直角に折れ曲がり、だらりと体をぶら下げている。


「首締まってるんじゃない?」

「でも、じゃあなんで……」


『カァーッッッ』


 再びの鳴き声に、姉さんがビクっと肩を震わせる。

 見開かれたその目の前で始まった異変に、茫然とした呟きが聞こえた。


「な、にあれ」


 ざわざわと、密集した黒い羽毛の内側でなにかが蠢いている。

 羽の黒から、ちらりと覗いた異なる色に、俺は姉さんの肩を抱いて言った。


「出てくるよ」

「…………………………………………」


 徐々に、徐々に、這い出してくるなにか。


 鴉の首元から見え隠れする、光沢のあるニつの球体。

 それが目玉であると、虫の複眼であると気がついたらしい姉さんが、声にならない声でその名を漏らすも、すぐに否定するように唇を噛む。

 その間にも、それはうぞうぞと蠢いて、やがて真夏の白昼に、堂々とその姿を現した。


 どこからともなく、頭に響くその鳴き声を上げながら。


『カァーッ……アァーッ』


「ね、ねえ、あれがそうなの?」

「言ってたとおりでしょ」

「そうだけど、あんなの」

「姉さん、あれがね……」


 不安そうに訴える姉さんの言葉を遮って、俺は、道すがら、姉に言った言葉を繰り返した。

『虫採りしたいなんて、珍しい蝶でもいたの?』

 そんな風に訊いてきた姉さんの出鼻を挫いたその台詞を。


「鴉の死骸から出てきた、紫色をした蝿だよ」


 今度は噛んで含めるように、優しく。


「……アレを、採りたいの?」

「うん。だって珍しくない?」


 信じられない、と言外に含んだ声に、無邪気を装って頷く。


「珍しいっていうか、変でしょ」

「死骸に蝿なんて普通だよ」

「どう見ても普通じゃないから。デカイし紫色だし、工程すっ飛ばしてるし」

「新種じゃない?」


 異常であることを主張する姉さんの言葉に、空とぼけて首を傾げる。

 姉さんの言うことは正しい。

 この死骸には、蝿が集って産み付けられた卵が蛆になりやがて蝿になる自然な摂理ってやつを踏まえる時間など存在しなかった。

 死にたての死骸から出現した蝿。

 目の当たりにした非条理に、動揺しないほうがおかしい。


「あっ」

「飛んだね」

「……ねえアレを、追いかける気?」

「だめ?」


 狡い言い方だ。

 そうわかっていて、俺は首を傾げる。

 姉さんが断るはずがないと、確信をもって。


「わかった……いいよ。よし、アタシに二言はない」

「うん。さっすが、ありがと」


 そうして、利用した。

 この世界で唯一無二の、弟思いの姉を。

 その、心を利用したのだ。

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