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エンドサナトリウム  作者: 八百万 円
12/14

015迷仔



 病院というのは、総じてこんな具合だっただろうか……。

 壁も床も天井も、皆一様に灰色に見えるのは、照明が1つもないからだ。

 それどころか、壁も床も天井も、ベッドもその上に仰向けに寝かされた患者達ですら、皆一様に灰色で、まるで全てが手入れの行き届いた廃墟の一部みたいに見えた。


……おかしい……。


 静まり返った廊下に、人の姿形はない。

 だが、開けられたままの病室の引き戸の向こう側を伺い見れば、そこには確かに病床があり、入院患者の姿がある。

 だが、それなのに……。

 例えば衣擦れや話し声、機器の立てる音や振動、寝息やそれ以外にも、生命活動に伴う音が何一つ聞こえてこない。

 これだけ静かならば、どれだけ息を殺そうと、なおさら聞こえてくるはずだ。

 ここが、普通の病棟であれば必ず。


(……さむい)


 病棟内は外より遥かに気温が低く、まるで冷蔵庫にいるようで、自然と速まった歩調で、自分の履きなれないローファーの硬い靴音だけが、長い廊下に反響している。


(ああ、でも確かに……)


 これだけ冷たく、静かなのも、ここが精肉庫であるというならば説明がつく。


 生きた気配がしないのだ。

 それどころか、なんの気配もない。


 例えば夜中に目を覚まし、トイレに行くのが怖いのは、何かの存在を、その気配を感じればこそで、何もないのであれば、何も感じないのは確かに頷ける理由だ。


 病棟に足を踏み入れてから、足を止めたのは未だ二回だけ。

 自身の立てる足音の反響の大きさに躊躇したのと、履きなれない靴に躓いたとき。


 第六感というものがあったとして、それに触れるものがなければ、お化けだなんだと怯えることもない。


 とはいえ、あくまで例えばの話だ。

 アタシがお化けを怖がっているだとか、夜中トイレに起きるのが嫌だとか、そういう話ではないので悪しからず。


 そしていま、アタシは三度目の足を止めた。


「ねぇ」


 虚空への呼び掛けは、木霊を得ることもなく壁に当たって霧散した。


「居ないの?」


 何度やっても同じ。

 やはりアタシは、あの車椅子の男に騙されたのだろう。


『弟くんなら、入院病棟に』


 頼んでもいないのに背中を追いかけてきた声を、信じたアタシがどうかしている。

 それに……。


「この病棟も、どうかしてる」


 口に出すと、よけいに確信が湧いた。

 声は建物に吸い込まれたが、アタシの言葉は至って正常だ。


 ここに時計はなく、生まれてこのかた腕時計も、それに代わるものを持っていたことはない。

 だからこの廊下を歩き始めてから経過した時間を正確に提示することはできないが、これで三度足を止めた以外に、早足で歩き続けたことを考えれば、少なくともこの廊下がどうかしていることは明白だ。


 長い廊下だ。

 左右に交互に現れる穴、開いたままの戸は病室の入り口で、傍らのプレートには番号がふられている。

 真横左手の病室は『015』号室。

 前方右手の病室は『001』号室。

 長過ぎる廊下……。

 文字通り延々と続いていた廊下は、ここで直線のまま折り返し、ループし続けていたのだ。


「我ながら意味不明」


 そういうことか、なんて仕組みを理解した気になっても、何一つ解決はしない。

 このまま、続く廊下と同じに延々と歩き続けるなんて真っ平ごめんだ。

 とくに、このまま一人でなんてことは絶対に。


 となれば、試してみる他にない。

 真っ直ぐ進む、それ以外の行動を。


「…………」


 まず前方に目を凝らし、終わりが見えないことを確かめる。

 そして振り向くと、始めに通った両開きのガラスの扉が、数字上進んできただけ、十五部屋ぶんうしろにあった。


 このまま逆走すれば、外には出られるのだろうか?

 だが、万が一車椅子の男の言葉通りこの病棟内に弟がいるとしたら……?

 だとすればまず、虱潰しに病室を調べるほうが先だろう。

 それとも、自分のほうが探されていることを想定して、さっさとここを出たほうが得策だろうか?


(そもそも、出られるの? 出て、弟がいなかったとき、また探しに入ってこられるの?)


 やはり病室を当たるのが先だろうか。

 015号室のプレートを見上げて考える。


(でももし、病室まで延々と続いてたら)


 詮無き問答が、次々に湧いて出る。


 どれも決定打に欠ける選択肢に頭を悩ませていると、徐々に達成した画、つまり弟に会えた想像ができなくなってくる。

 言いしれぬ不安に苛まれ、髪を掻き乱した。


 そのとき突然……。


 ガチャ。


「!」


 背後から、ドアノブを捻る音がした。

 015号室の中に体を滑り込ませ、身を隠したのは、咄嗟のことだ。


 ばくばくと、煩い心音を無理矢理落ち着けるように上から押さえつけ、音を立てぬよう細く細く息を吸い、深呼吸を繰り返す。


 コツ、コツ、コツ……。


 足音が、近付いてくる。


 そっと、慎重に、床に這うような体制で、僅かに顔を覗かせて、音のしたほうを覗う。

 そこには、ついさっきまで影も形も無かったはずの、緑色の非常口の明かりに照らされた嵌め殺しの窓がついたドアと、


「姉さん、いるの?」


 自分と揃いの配色で、ワイシャツに膝丈のズボンを履いた弟の姿があった。


「あ」

「姉さん? どこ?」


 思わず漏らした声で、弟は足を止め、辺りを見回している。

 そして、手近な病室に入っていくのを見て、自分も015号室に顔を引っ込めた。


『姉さん?』


 壁越しに、自分を呼ぶ弟の声が聞こえる。


『姉さん、隠れてる?』


 自分でも、なぜこんなことをしているのかと思う。


『怒ってる?』


 どうなんだろう。


『話したいんだ』


 私は、わからない……。


 

 一緒に来て。俺の言い訳を、聞いて欲しいんだ。


 ここに着いたときに、言われた言葉を思い出す。


 このときは、聞かなければと思った。聞きたいとも思っていたはずだ。


 だが、その改まった言い方に、

 連れて来られた場所に、

 出会った人物に、

 遭遇した出来事に、

 物理的に翻弄されて、心を乱されて、いま、アタシはすっかり、身動きのとり方を忘れてしまっていた。



「…………」


 音を立てずに立ち上がる。


 改めて病室内を見回すと、灰色の室内にはベッドが四つ置かれ、パーテーションは開け放たれていて、窓際の一つにだけ患者が寝かされていた。

 そっと近づくと、顔に薄い布がかけられていたが、それが息で持ち上がるようなことはない。

 だが、包帯の巻かれた腕には点滴の針が刺さり、管は傍らに吊るされたパックにつながっていた。

 パックの中身は液体のようだが、それが落ちる気配はない。

 形だけの点滴……。


『さあな。毒入り紅茶よりはプラシーボの方がよほど安全で効果があるかもしれないが』


 頭をよぎったのは、眠る直線に聞いた台詞だった。


「姉さん、やっと見つけた」

「あ……うん。おはよう」

「おはよ。何時かわかんないけど」


 アタシを見つけた弟が、安堵の表情で近付いてくる。

 きっと、見つけてもらったアタシの方は、もっとあからさまにホッとして、気の抜けた顔をしていたに違いない。


「どうして一人でこんなとこに? 怖いの苦手なクセに」

「騙されたんですが、なにか? それに、ここ、怖くはないっていうか。ここの人たち、死んでるのか、生きてるのかもわかんないし」


 死ねないし、死なない奴が集められてんだよ。ここにはな。


 そんなふうに、車椅子の男は言っていた。

 では、この患者は生きている……とは言えないかもしれないが、死んではいない。

 死ねずに、この寒さの中、腐ることもなく閉じ込められている、ということか?

 こんな言葉遊びのようなもの、信じることも、理解することも、到底無理そうに思える。


「こうは、なりたくないんだよね。俺も」

「……え?」

「その布、取ってみて」


 隣に立った弟が、真面目な口調でそれを促す。

 少し、怖いくらいの真摯さで見据えられて、アタシは、そこに仰向けに据えられているナニか、そんなふうにしか感じられない患者の顔を覆う布を摘んで、そっと取り去った…………。


「う……ぁ」


 そこにあったのは、忘れたくても忘れられない、忘れたことなど一度もない……醜悪で、陰険な顔だった。


 思い出したくもない過去が、感情が、ごちゃまぜになって、仰向けに寝た男の顔の前に蜃気楼みたいに顕れる。


 痛い、苦しい、痛い、痛い!!!!!

 もう、どうにかなってしまいそうだ!


「姉さん、あのね」


 そこへ聞こえてきた弟の声が、肩を支える手が、アタシをどうにか現実に繋ぎ止める。


「俺が、殺したんだよ」


 この、デタラメで異常な現実に。

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