左の心音 右の鼓動 02
「君が、お姉さんのこととなると形振り構わなくなることは、嫌というほど理解している」
「だったら尚更答えてよ。姉さんと知り合いってどういうこと?」
診察のため伸ばした手を避け、床を蹴った少年Kが、椅子のキャスターでバックステップをして私から距離を取る。
まったく、タチの悪い患者だ。
「全治二ヶ月、絶対安静。ズダボロの癖に家に帰ると言ってきかない君を送って行って、お姉さんに引き渡したのは私だが?」
「あのとき、アンタ覆面かってほどデカいマスクに帽子だったよね」
「……意識が無くなるほど麻酔を打ってから送り届ければよかったか」
よく見ているものだ。
『姉さんが心配するから』ただそれだけの理由で、何も考えず重傷の体をおして帰宅したのかと思っていたが……。
「へえ? そんな、隠したくなるほど疚しい関係なの?」
「そうやって、私を変質者を見るような目で見るのはお門違いだ。彼女とは、小学校に居たときに知り合った。聞いたことはあるか? カミソリの事件だ」
「あぁ、クラスの奴らが姉さんの買い物……っていうか、母親のパシリをストーキングして担任にチクって持ってたカミソリ1本を取り上げられた挙句、精神状態を疑われたっていう?」
「あぁ、間違いない」
つらつらと淀み無く言う少年を前に、出る幕なしで苦笑が漏れる。
彼女に関するというだけで、彼は誰をも凌駕する弁舌を発揮するだろう。
「そのとき、彼女の処遇を丸投げした担任から彼女を預かった」
「そこで、手懐けたってこと?」
「言い方に棘しかないな。懐いてるように見えたのか? だがまあ、餌付けのようになってしまったのは本当だ」
「まず胃袋を掴んだ? 計算高い女みたいだね、アンタは」
「なんとでも言え。そして、そろそろ満足して診察させてくれないか」
「…………満足なんて、してないけど」
渋々、といったスタンスは崩さなかったが、少年がキャスターを転がして近づいてくる。
だが、診察するにはまだ遠い。
「アンタが変態じゃないって体で聞くけど、どうして押し付けられた問題児に、ここまでしようと思ったの?」
ここまで、と……ドアのある壁以外、全ての壁を覆う本棚を見回して彼が言う。
呆れと感心の入り混じったような溜息を添えて。
「君は、歯に衣着せないな」
「効率悪いからね。なに、駄目なの?」
「いや、好ましい。私は、料理が苦手なんだ。人に食べさせたこともない。彼女はよく食べたが、それ以上に持って帰りたがった。
だが、買ったものを渡すのは、足がつくだろう。暇な人間のすることは、ときに想像を超えてくる。それこそ後をつけられて、それは食事で釣った淫行だとでも言われては面倒だ。
だから、なるべく仕上げは家庭科室を借りて、自分の昼食を温めているようなフリをした」
「昼食に、普通はヴィクトリアサンドイッチケーキは焼かないけどね」
「ふ、それは意外と簡単なんだ」
傍の本棚に手を伸ばし、表紙に英国の焼き菓子と書かれた本を持って少年が肩を竦めた。
「そう書いてある。美味しそうに半分食べると、名残惜しそうにもう半分は持って帰った、とも」
「あぁ、そうだった」
件のケーキのページに挟んでおいた栞に残した覚書を読み上げられ、面映ゆいような気持ちになる。
それと同時にその後に起こった不愉快な出来事まで思い出し、口元が歪むのがわかった。
「ある日、初めは友好的だった家庭科の先生に呼び出されたんだが
貴男のしていることは、特定の生徒に対する贔屓です。だから、このまま家庭科室を使うのであれは部活動として、他の生徒の参加を許可してください。そうでなければ、使用は禁止とさせていただきます。
あくまで私は、残った昼食という体で、放課後に隠れて彼女に提供していたんだが、どうにも彼女は尾行されていたらしく、覗き見ていた生徒が告げ口をしたらしい」
「面白くなかったんじゃないの? 姉さんは頭がいいし、社交は控えめだけど顔も良い。教師には好かれないけど、気にしない。でも、アンタは違った」
「そうだな。細心の注意は払ったつもりだったが……家庭科の先生にも、お裾分けと称してワンホール焼いたりな。だが、失敗した」
「それで、姉さんとは終わり?」
「いや、仰せつかった彼女の更生という大義名分があったから、それからは弁当を作って持参した。量は減ったが、彼女との交流は続いた。とはいえ、他愛ない会話をして、宿題をしている彼女を文字通り見ているだけだったが」
楽しかった。
彼女は本当に頭が良かったので、真剣に読書をしている日などは、こちらのほうが息を潜めることもあったくらいだ。
それを静かに見守るのが、いつしか私の生き甲斐にも似たものになっていた。
「彼女との交流が途絶えたのは、ある日突然、彼女が無断欠席をした日からだ」
「どうして……」
「わからない。そのまま卒業式までの約3ヶ月間、彼女が私の部屋に姿を現すことはなかった」
その間に起きたことは、余りにも常規を逸していた。
私は知っている。
このときまで、彼女の身に何が降りかかり、どうなったのか。
私は直接、元凶たる母親の口から聞いていた。
「2月の終わり頃に、何度か登校してきているのを見かけて少し話をしたが、新しい弟ができたといって、嬉しそうにしていた。だからもう、私にできることはないと、遠くから見守ることしかできなかった」
「ストーカーになって見守ったってこと?」
「人聞きが悪いな。卒業してからの彼女のことは知らない。
君を送って行った日に、君を探して疲れ果てた彼女を見るまで、一度も会っていない。覆面は、用心のためだ。贔屓の生徒と車で二人きりなんて、格好の餌だろう」
「だから俺にも、犯人連行するみたいにブランケット被らせたんだ」
「そういうことだ」
ふうん、と微妙な相槌を打って、少年は開いていた本を閉じた。
そして、棚を埋め尽くす本を見上げて言う。
「答えになってないよ。問題児に、ここまでする理由」
「それは、厳密にはまだわからない。いつかわかるのかどうかもわからないが、君たち二人に、私は奇妙な感情を抱いている」
「なにそれ」
「簡単に言えれば、悩まない。感情とは度し難い。いったいどこから生まれてくるのやら」
自分にできることなどないと、彼女との関わりを断っておきながら、この部屋の本は増え続けた。
少年と出会い、自ら関わりを持ち、思わぬ再会を経て、いま、私は二人をここに呼び寄せ、馴れ合いを演じようとしている。
理由と感情は、平行線を保てない。
衝動と理性が、常にせめぎ合うように。
「感傷的だね。まあ、納得はできないけど、折れてあげる。この、バカみたいに集まった本と、味覚のない料理人に免じて」
「そうか……」
本を棚に戻し、椅子に座り直して、少年は偉そうに顎を上げて入院着の前を肌蹴た。
私は聴診器をつけ、心臓があるはずの場所に押し当てる。
「……うん」
「…………まだ、聞こえる?」
「…………」
「…………」
「…………嗚呼、思った通りだ」
「なにが?」
「君の心臓は、右にある」
「……は? まさか、それで俺の死期見誤ったとか言わないよね」
「そういうわけじゃない。ただ、前回左で聴いて夏の間持つかどうかと思ったが、これならば秋は生きた体で迎えられるかもしれない。だが、言うなれば賞味期限と消費期限程度の差だ」
「ひっどい例え。まあ、期待させられるよりはマシだけど」
そう言う彼自身が一番酷い顔をして、悔しげに唇を噛んだ。
「いいよ、別に。予定は変わらないんだ。俺はアンタとお揃いの、空っぽの体になる。その前に、目一杯、姉さんとの思い出を作るよ」
「それは、姉弟としてか」
「当たり前でしょ。俺は姉さんの、弟そのいちなんだから」
そう言って、少年が立ち上がる。
その背中に、どうしょうもなく痛むのは空洞のはずの左胸だった。
「ところで、俺の着てた服は?」
「あぁ、捨てた」
「は?」
「あれじゃ、思い出にも格好がつかないだろう?」




