左の心音 右の鼓動 01
私が問診のために椅子を勧めると、少年は腰掛けるやいなやこちらの声を待たず、不服そうに口を開いた。
「姉さんと知り合いなんて聞いてない……あ、あと、あの弟のことも」
「嫉妬深い恋人みたいな口振りだな」
「それ、アンタのって意味じゃないよね」
「やめてくれ」
「よかった。それで?」
「ハァ……君はどうやら、問い詰めて、逃げられるタイプらしいな」
「だって、アンタには手を上げたって無意味だよね」
「確かにそうだが、そもそも君が、そういう性分ではないのでは?」
「それ、アンタが言うの? 冗談にしちゃイマイチだけど」
「確かに君は世間的に『普段は大人しい、教室の隅で読書をするような生徒』で」
「『キレたら手が付けられない、クラスメイトを半殺しにした少年K』ですよ。以後お見知りおきを」
続きを引き取って、少年Kは嫣然と微笑み会釈した。自己紹介にしては、随分と内容が卑屈で自虐的だし、表現はチープに過ぎる。
「レッテルはどうあれ、私の見解は出会った頃から変わっていないが」
「はぁ……あっそ。何言ってんだか。どう足掻いたって、メディアに出た記事のほうが公然の事実だよ。それにアンタ、実際にその目で見たよね」
忘れるには早すぎるよ、と……少年Kは、おどけた調子で言った。
無論、忘れるはずがない。
この腑抜けの私が、久々に生きた人形のように能動的に思考し、行動させられた日のことを……。
あれは四月の半ば……。
遅咲きの桜が満開の、金曜日の放課後のことだ。
教員玄関前にある鯉の池に、どこからともなく飛んできたらしい数枚の桜の花弁が浮いていた。
花筏だ。
そう思うのと同時に、
『スープに浮いた油みたい』
誰かが言った迷言を思い出し、懐かしんでいたときのこと。
時刻はじきに、18時になろうかという逢魔が時。
中学校の敷地内は静寂に満ちいていて、ほとんどの生徒は帰路につき、教員も帰り支度を始めていた。
その静けさを不躾に引き裂いたのが、遠くで上がったガラスの割れる音だった。
音は離れていたが、続けざまの悲鳴と怒号は子供のもので、校内に居る生徒の仕業であろうことは容易に連想できた。
「…………」
そうして私はまず、どうしたものかと考えた。
というのも、とうに就業時間を終えた私の、普段から底辺を漂う職業意識には、駆けつけて生徒を守らねばという世間的な正解を弾き出すそろばんはあっても、行動に移す熱意はなく、誠意もしかり……。
校則を破り、こんな時間まで居残った生徒が起こした騒動に、どうして積極的に関わらねばならないのやら。
……やれやれ。
「…………」
致し方なく踏み出した足取りの重さは、まるで足首に鎖で鉄球でも繋がれたようだった。
そうこうするうちに……実際には、もと居た池の前から1mも進まないところで、私は思ってもみなかった事態に遭遇する。
なんとその騒動の元凶が、自ら私の前に姿を現したのだ……。
「……君、どうしたんだ」
職員玄関から転び出て来た少年は、やはりこの学校の制服を着ていた。
着てはいたのだが、ブレザーのボタンは飛び、ワイシャツの胸は破け、赤い血の斑がそこかしこに飛び散っている。
顔は青白く、唇の端は切れ、鼻血も出ていたが、本人はなぜか笑っていて、上がった息の下でこう言った。
「アンタ、保健室のせんせ、だよね。いま、救急車呼んだから、来るまで……あいつらのとこ、生物室、行って手当、してよ……。じゃないと皆、死ぬかもよ」
「残念だが……私には、君のほうが余程瀕死の重傷に見える」
「あぁ、俺はヘーキ……ヘーキだよ」
同じ言葉を二度、繰り返すときに限って怪しい。というのも、私の経験則だ。
実際に、彼を診察などしなくとも、引き摺った左脚や荒い呼吸音に混じる濁った音だけで、重傷の予測は簡単だった。
「平気なはずがない。その太腿に刺さったドライバー、抜こうものなら出血多量で確実に死ぬ。胸も痛むんだろう? 肋が肺に刺さるまではいかなくとも、ヒビくらいは入っていそうだ。
それでも君は、生物室の学友のほうを優先するのか? 彼らは自分よりよっぽど大事な相手か?」
「大事? ははっ、何言ってんの? 俺と違って、あいつらは死ぬから……お情けだっ、て」
「俺と違って? どういう意味だ。私には、君が喧嘩早い馬鹿にも、トチ狂ってるようにも見えないが、どうしてそんな物言いをする」
「どうっ、て……まんまだよ。
あー、なんか、面倒なのに捕まっちゃったな……。向こうに行ってよ、俺は、カウセリングも、助けもっ、求めてない」
「向こうにも、私は必要ないだろう。アレだけ派手にガラスを割ったんだ。もう誰かが駆けつけているし、警備会社だってじきに来る。
ガラスは、君が割ったんだな?」
「さあ、どーだろ……」
恍けるように言って肩を竦める額に、脂汗が滲んでいる。
それでも少年は口に入りかけた鼻血を手の甲で拭い、私の横を、片足を引きずりながら通り過ぎようとした。
「そんな満身創痍で、どこに行く気だ。学友と一緒が嫌なら、私が別の病院へ送っていこう」
「お気遣い、どーも。でも、いらない……俺さ、本当に死なないんだよ。試したんだよ、もう」
「なにを試したって?」
「昨日の朝……家中の缶ビール飲んで、35度のスピリッツで母親のクスリ、全部飲んでやった」
「なんて馬鹿なことを……」
自殺を図るにしても、もう少しマシな方法を選ぶべきだ。確実性がなく、悪心と幻覚に襲われたうえ死に損なうなど、無意味な苦しみでしかない。
だが、死に損なった彼が朦朧とした意識の中でいわゆる神の声を聴いたか、生還して選民思想に取り憑かれたのだとすれば、自分が死なないなどという戯言にも納得がいくではないか……。
このときの私は……そんなふうに思い込むことで、彼のことをただの仕方がないもののように思い、処理していた。
そう、この瞬間までは…………。
「でも……本当に、死ななかった。言われたとおり、だったよ。はじめは、信じられなかったけど……実感したんだ」
「おい、無理をするな」
傾いだ体を受け止める。だが少年は、構わず左の胸を押さえ、なおも言葉を続けた。
「言うとおり……だった。俺は本当に……」
「…………」
「死を……売り渡したんだって」
「なんだって?」
耳を疑う言葉に、一人の男の面影が、暗く冷たい記憶の中から這い出でる。
長い指が、幾重にも首に巻き付いて、私の呼吸と言葉を奪う。
気味が悪いほど白い肌に映える酷薄な赤い唇が裂けそうなほど口角をあげ、
『初めから、期待はしていなかった』
忌々しい言葉を吐き出して、ニタリと笑った。
「まさか……君はあの男に会ったのか!?」
私は少年の胸倉を掴み、その目を覗き込んだ。
彼はきっと、気が触れている。
そうでなくてはならない。
そうでなければこれは、あの男の手引きだと、認めざるを得ない。
最悪の、シナリオだ。
「なんだ、知ってるんだ? あの人のこと」
「っ……他には、なんと言われた? 君は、いつその男に会ったんだ?!」
「はぁっ、はぁ……ハッ……。いつって、この間だよ。助けてあげようかって、俺の死を買い取って、助けてあげよう……て」
「……っ。君は、そんな甘言を、簡単に信じたのか?!」
「ハッ? なに……アンタに責められる筋合い、ないから。……まだ、死ぬわけには……いかなかったんだから、しかたないだろっ……ぐ、ゴホッ……ガハッ」
血の混ざった咳をして、少年が地面に片膝をつく。それでも顔には不敵な笑みを浮かべ、私を上目遣いに見上げて言った。
「現に、俺は生きてるっ……あの人は、嘘は言ってないってこと。わかったら、そこっ……退いて」
「……駄目だ。今の話が本当なら、余計に退くわけにはいかない」
「は? ……ちょ、おい! 痛っ」
私は少年を横抱きにして、土足のまま職員玄関から校舎内へと取って返した。
抵抗して暴れるのを頭突きで黙らせて。
「大人しくしていろ。引っ立てようってわけじゃない。保健室で応急処置をするだけだ。話はそれから聞かせてもらう」
「…………だから、俺は平気だって……言ってる、よね」
「残念だが、平気じゃない。君が死を売り渡したというのなら、確かに君は死ねない。
だが、あの男は君に言ったか? 君が不死身の不老不死になると、口約束でもしたのか?」
「は? そんなこと、言われてないけど」
「そうだろうな。あの男は嘘を言わずとも、甘言を弄して騙し取る。生物の死を」
「騙すって……俺は、別に」
「断言するが、君は死なずとも、君の体はいずれ死ぬ。それが老衰か、出血多量で今になるか、選ばせる気はない」
「そんなワケない……だって、俺は……昨日」
「言っておくが、昨日君がアルコールと薬物で死ななかったのには、単純な理由があるはずだ。例えばアルコールならば単に君の体質で中毒には至らず、薬物ならば安物か紛い物であった可能性が高い」
「そ、んな……うそ、だ」
「疑うのは勝手だが、嘘ではないとわかったときには遅い。体が死ねば、君は腐っていく体に絶望し、狂いながら生き続ける覚悟をするしかない。
想像を、絶する覚悟だ。たがそれは、まだ先送りにできることだ。……わかったら、今は手当をさせてくれ」
「…………」
少年の、始めから血の気が足りなかった顔が、今は余計に青褪めている。
だがその瞳には未だ理性の火が灯り、負けじと私の目を見返していた。
だが、やがて肉体に限界が訪れたのか、ぐったりと力の抜けた体を私に預けると『……任せる』と一言残し、押し黙る。
そして治療の途中で意識を失い、移動した私の部屋で目を覚ますまでは、彼はとても静かな模範的な患者であった……。




