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エンドサナトリウム  作者: 八百万 円
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ブラザーコンプレックス



 その日はほんとうに暑くて……

 暑すぎて、死ねそうな日だった。


「姉さん、虫採り行こう」


 そう言って、弟はボロボロの『昆虫図鑑』を彼女の前にチラつかせた。

 鉄壁なまでの無表情かつ、抑揚のない声で。


 とてもではないが、人にものを頼んでいるようには見えない。

 しかしどんな態度であれ、他でもない弟にせがまれてしまえば、どんなに重かろうが、結局腰を上げてしまうのが彼女という生き物だった。


 もちろん拒否をすることはできるし、弟が無理強いをするような性格でもなければ、そんな腕力もない。

 とはいえ、

『誕生日祝いは虫採りがしたい。姉さんと一緒にいたい。そのまま標本でも作って自由研究に流用すれば、一石三鳥でしょ?』

 そんな風にせがまれれば、断るという選択肢が浮かぶはずもなかった。


 そういう理由で、ニ人は揃って炎天下を行軍中である。

 

 しかし課題に虫採りとは、我が弟ながらなんとも安易で安上がりで、古風なことだろうかと、彼女は思う。

 そしてなにより、過酷に過ぎる。


「山田とか、中野とかは?」


 立ち上る陽炎で歪んだ景色を睨みつけながら、姉がなんでもないことのように尋ねる。

 しかしその足取りは、まるで死体でも踏んづけてしまったかのようにおぼつかない。

 冗談のようだが、止めどない汗は自身が溶けていると錯覚しそうな勢いで、無意識のうちに自分が減っていないかどうかを触って確かめていた。


「あぁ、あと、馬場と崖……カケイだっけ?」


 混濁しそうな意識の中、馬面と、もう一人の絶壁に似た横顔を思い出しながら、弟のクラスメイトの名前をどうにか話題に乗せてみる。

 実際のところほとんど興味はなかったが、言うなればツナギだ。ハンバーグで言うところのパン粉である。

 とはいえ、作ったことも、過程も見たこともなく、ただの家庭科の教科書の受け売りだが、イメージ的には泥だんごを作るときの水、そのあたりだと思っている。


「中野は、適当に卒業生のコピペ。他は春休み前から母親が発注して、とっくに出来上がってるって。梅雨の頃から言いふらしてたよ」

「それって流行りのアレ……内申の上がる読書感想文とか、お金出して書いて貰うわけか」

「それ。でも結果次第じゃお金払わないんだって」

「払わない? ……それ、クレーマーの食い逃げと大差ないのでは?」


 世の中にはなぜか、我儘は言った者勝ちという場面が多々存在する。

 口に合わない料理に料金を払わなくていい、そんな屁理屈がまかり通れば『美味しい料理』を掲げた食堂は生き残れない。

 いっそクレーマーを取り締まる法律でも作ればいいのだ……例えばそう、鼠に猫、ゴキブリにホウ酸団子を作ったように。


「労力への対価と材料費は」

「そうだね。俺も、満足いただけなかった場合の全額返金保証って、通販だけだと思ってたからビックリ」

「あー、よく言ってたわ。あれ、どこまで本気なのかね。今も、言ってんのかな」

「あれって、どっちが勝つのかな。難癖つけたほう? それとも、難癖に難癖つけて返したほう?」

「あははっ……は、どうだろ」

 

 そこでふと、考える。

 今でも、テレビを付ければなにかしら通販番組をやっていて、似たような文言が聴こえてくるのだろうか。

 ウチには肝心のアレが通っていないので、確認のしようもないのだが。


「前は……ウチにも通ってたから、電気さんが」

「姉さん、昔の友達懐かしむみたいに言わないでよ」

「そう、ね……それじゃあ、こんな日にエアコンの効いた部屋でのうのうとアイス食べてるやつには三日三晩腹を下す呪いを……」

「どのへんが代わりになってるのかわかんないけど、呪いにしては、軟弱だね」

「え……だったら、虫歯も追加で」

「それなら、全本ね」

「全本? って、32本? キサマ我が弟ながら、なかなかの鬼畜」

「いっぺんには治せないから、後回しにされた歯から悪化していくんでしょ。だから、いいかなって。……まあ、すぐに金にあかせて治すんだろうけどね」

「それも、何事もなかったようにね」


 治療が終わったその歯列に、銀歯なんて代物は1つも存在しないのだろう。

 そういう時代だ。

 そういう世界だ。少なくとも、この箱庭の中は。


「歯医者帰りに誘拐して、飴だけ食べさせて閉じ込めておけば少しは痛い目みるかな」

「飴が勿体無いよ。大好きな甘い汁でも啜らせとけばいいじゃん」

「はは、それもそうか」


 それでそのうち、痛い目をみればいい。

 そのくらいしか、望みはないから。

 それが酷いものであればあるほど、一瞬の気晴らしくらいにはなるだろう。

 そんなふうに思った矢先、


「いっ……痛」


 流れ落ちてきた汗が目に入って、まず、自分が痛い目をみた。

 天罰とでも言いたいのなら勝手にすればいいが、地味に痛いのが腹立たしい。

 だからといって足を止めるのも癪で、ぼやけた視界もそのままに、映った青信号を信じて横断歩道に足を踏み出した。


刹那、


「姉さん!」


 おもむろに手首を掴まれて、引き戻される。

 その瞬間、鼻先を、大きな鉄の塊が走り抜けた。


 ブワッ……と、


 遅れて届いた風が、反対の手に持っていた虫かご兼、網代わりにと持ってきたスーパーのレジ袋を舞いあげる。

 青すぎる空に、ひとつ人工的な白が浮かんだ。


「マイバッグが……さらわれた」

「いいから。赤になる前にわたろ」

「今どきタダじゃないのに?」

「それじゃあ……姉さんが吹っ飛んだ方がよかった?」

「いや……それは……なんかちょっと、ダメ」

「なんかちょっと、ダメ?」


 大分薄れた等間隔の白い太線を渡り終えたところで、弟が立ち止まってこちらを振り返る。

 どういう意味かと問う視線を注がれて、大した理由でもないが、しかたなく口を開いた。


「交通事故はイヤだなって」

「……うん?」

「だってさ、グチャグチャだよ。折れたり曲がったり飛び出したり、裂けたり切れたり潰れたりして」

「今みたいなトラックだったらなおさらね。だから?」

「いや、恥ずかしいな……って」

「なにそれ」

「だって、あらぬトコとかモノとか、見えちゃうんだよ? 晒し者だよ。きっとみんなスマートフォン片手に殺到してさ」

「でも、どうせ死んでるよ。それ、気にする?」

「するよ。なるんだよ」

「そう? 姉さんてやっぱりちょっと……変」

「失礼な。聞くから答えたのに」

「ま、いいんだけどね」

「え? ……あ」


 驚いて、一瞬息が止まってしまった。

 弟が、笑っていた。

 なんて、心臓に悪い光景だろう……。

 口角が上がるだけの控えめな笑いだが、それすらご無沙汰になって久しいのだ。


「スキあり」

「どっちが」


 貴重過ぎる笑顔が消えないうちに、弱点の脇腹を肘でつつく。だが、同時に伸びてきた手に首の後ろを撫でられて、相打ちになった。


「ほら、もしそんなことがあったら、誰にも見られないように俺が回収してあげるから」

「ええ? 嘘つけ」

「なんなら、修繕もしてあげるけど」

「……それ、アタシのこと解剖の実験体扱いしてない?」

「うーん、どうかな。ほら、そろそろ行こ?」

「えー、なんだかなぁ」


 差し出された手を渋々握る。


 その、久々に繋いだ手があまりにも変化に乏しくて、アタシは思わず余計な一言を……

「ねえ、中学入って少しは背伸びた?」

 言ってしまってから、酷い不安に襲われた。


「…………姉さんそれ、銀河級にビッグなお世話」

「え、あ……あぁ。ははは」

「ていうか、人のこと言える?」


 誤魔化して笑うアタシに、弟はスッと目を細め、アタシより少しだけ上の目線からじっとりとした目で見下ろして言った。


「ベニヤ板みたいな姉さんに言われてもね」

「べ、ベニヤ板ってなによ!」


 どうせ豊満のほ、の字の一画目にすらなれない体つきだ。だが、せめてまな板の上にくらいのせて欲しい。

 どうやら怒っている様子はないが、予想以上の毒舌に舌を巻いた。


「肉……肉とか、食べられるようにがんばろう」

「そうだね。がんばろう生活水準向上週間だよ姉さん」

「週間なの……」


 それでは期間限定じゃないか。とは突っ込まず、顔を見合わせたアタシ達は、結局同病相哀れむところに落ち着いて、二人して苦笑いのまま行軍を続けた。

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