アンシンサマ
(山岳遭難)行方不明の猟師1名 山中にて無事発見される。
先日、F県I郡M町で同町の男性2名が行方不明になった山岳遭難があり、I署は〇日、捜索願が出ていた猟師、○○○○さん(○○歳)をS山(標高××××メートル)で発見したと発表した。
同署によると、○○さんは今月上旬、狩猟のために同町在住の猟師△△△△さん(△△歳)と自宅を出たまま行方不明となっていたが、〇日午前10時40分ごろ、S山の山道から約200メートル離れた雑木林の中で意識を失っていたところを捜索に協力していた消防団員に発見された。(中略)なお、△△さんの行方は未だ判明しておらず、I署は○○さんの回復を待って事情を聴く予定。
(『〇日〇新聞』S27.9.XX 朝刊)
― 1 ―
暦の上では秋といえども、まだまだ暑さの残る彼誰時。
人っ気の無い山道を、二人の男が、ザットコザットコ歩いていた。
先を行くのは、還暦に手が届こうかと見える老爺。
名を作兵衛と言う。
泥濘や走り根を軽々と踏み越えていく様は、どこか達人の風格を感じさせる。
対してもう一人は、十代の後半といったところだろうか。
足取りこそ若々しいが、前を行く爺様に付いていくのがやっとの様子。
こちらは作兵衛の孫、勝蔵であった。
本来であれば、この日、道を行くのは二人ではなく三人であったかもしれない。
だが、息子であり父親でもある男は、戦地から帰ってくることはなかったのだ。
― 2 ―
今日、勝蔵は齢十九にして初めて猟に出た。
猟師の初舞台としては、決して早いものではない。
むしろ遅いくらいである。
彼の名誉のために断っておくが、決して力量が劣っていたわけではない。
そもそも、銃が手に入らなかったのだ。
ほんのひと昔前は、寺の鐘までもが金属資源として供出された時代である。
ましてや銃は真っ先に徴発の対象となり、持ち主の手に戻ることはまずなかった。
戦後は戦後で、GHQによる武装解除政策により、銃器は徹底的に没収された。
とにもかくにも、猟師にとっては不遇の時代であったのだ。
それでも先年、ようやく法律が改正され、だんだんと猟銃が出回るようになり、ついに勝蔵が使う分の銃を手に入れることができた――
すべてはそのような次第であった。
― 3 ―
かれこれ二時間ほど歩いただろうか。
辺りは静まり返っている。
いくら山中とはいえ、二人が進んでいるのは人の手が入った道である。
だからこの季節であれば、茸目当ての近所の婆様だの、それこそ同業者である猟師とすれ違っても不思議ではないはずなのだが……
(そりゃあ「アンシンサマ」の日じゃあ、俺たちの他に人はいねえだろうなぁ)
畏敬する爺様の背中を追いながら、勝蔵は密かに身を震わせた。
猟師というものは大体、その山々に応じたシキタリを守っている。
例えば、ある地域の猟師は、毎月17日には決して山に入らない。
また、別の地域では、「山に赤い色をした物を持ち込んではいけない」という
決まり事があったりする。
ここら一帯の猟師にも、もちろんそういったシキタリがあり、その中でも最大の禁忌が「アンシンサマ」の日に入山することであった。
― 4 ―
元来、この山系では修験道が盛んであり、今なお修験者の一団が厳しい修行に励んでいる。
山で仕事をする樵や猟師は彼らを敬い、折に触れては食料や幾ばくかの御布施を捧げたりする。
一方、修験者たちは返礼として、毎年、旧正月になると暦表を配り歩くのだが、その暦表には、山に於ける吉凶を占うための独自の注が記されていた。
例えば、「スケノリサマ」は縁起のいい日であり、狩りや旅出にふさわしい。
「スケヨシサマ」の日は、得るものも大きいが、注意を怠ると大きな失敗をする。
現在のカレンダーにも時々見かける「大安」とか「先勝」とか、そういったものを思い浮かべてみると理解しやすいかもしれない。
さて――
そんな中でも、ひときわ異彩を放っているのが「アンシンサマ」である。
そもそも、この注が暦に現れること自体、滅多にない。
数年に一度あるかないか……
そして、指し示す内容はただ一つ。
「アンシンサマがお出でになるので、決して山に入ってはならない」
このアンシンサマ、どうやら山神の一柱らしいのだが、来歴は一切不明である。
とある郷土史家は、地元に伝わる隠れキリシタンの逸話に基づき、
「キリスト教における安息日の概念が神格化されたものではないか」
と推察している。
また、あるオカルトライターは、英語の「UNSEEN(不可視のもの)」がルーツであるとしているが、どうにも根拠に乏しい。
― 5 ―
作兵衛の猟師としての腕前は、この地方で並ぶ者がいなかった。
しかし、それ故に傲慢で、どこかしら他人を拒む癖があった。
戦争で息子を亡くしてからは、その偏屈さにますます拍車がかかり、常々こんなことを口にしていたと伝えられる。
「弓だァ槍だァ使っていた時代ならともかく、銃さえあれば独りで狩れる。どうして誰かをアテにする必要があろうか」
もっともそんな作兵衛も、孫である勝蔵にだけは惜しみない愛情を注いでいた。
(おととい、台風が通り過ぎて、昨日はずいぶん暑かった)
(雲を見るに、これから昼にかけて、ほどほど涼しい風が吹く……)
作兵衛は経験から、こうした気候が猪狩りの絶好機であることを熟知していた。
(これなら勝蔵の初陣を、錦で飾ってやることができるだろうよ)
ところが、巡り合わせの悪いことに、今日は数年に一度やって来る「アンシンサマ」に当たってしまっている。
常人であれば、どんなに旨い話があっても山に入ったりはしないだろう。
けれども、作兵衛は違った。
(アンシンサマだァ? それがどうした!)
彼はもとより合理主義者であり、信仰心に乏しかった。
神仏や山の掟より、己の腕を信じる男だったと言い換えてもよい。
一方で孫の勝蔵はといえば、良くも悪くも常識的人間であったから、正直なところ山に入りたくはなかった。
だが結局のところ、彼は祖父を心から尊敬し、人生の手本としていた。
だからこそ、記念すべき初舞台が不吉な「アンシンサマ」の日であっても、粛々と作兵衛に従ったのである。
― 6 ―
作兵衛は周囲の気配を伺い、誰からも見られていないことを確認すると、道から外れ、雑木林に分け入った。
しばらく進むと、視界が開けた。
勝蔵が小さく息を漏らす。
辺り一面に泥濘が広がっていた。
猪は、体に取り付いた寄生虫を落とすため、定期的に泥浴びをする。
そのための場所を、「ヌタ場」と言う。
猪撃ちにおいて「ヌタ場をどれだけ知っているか」は、とても重要なことである。
なにせ、猟果に直結するのだから。
そして、今たどり着いたこの場所こそが、作兵衛秘伝のヌタ場であった。
彼は今まで、《《ここぞという時に、ここに来て》》獲物に巡り合えなかったことは一度も無かったのである。
ところが、だ。
今日に限って一匹もいない。
獣の臭いはおろか、気配すら感じられない。
(これはまあ、何たることだ……)
作兵衛は唖然としたが、すぐに孫の視線を意識し、別のヌタ場へと向かうことにした。
― 7 ―
それから二人は、合わせて三つのヌタ場を巡り歩いた。
どれも作兵衛自慢の狩場であったが、まるで申し合わせたかのように猪たちは
不在であった。
いつの間にか、太陽が頭の真上まで登っている。
作兵衛は、横目で勝蔵の様子を観察した。
何も言わないが、満面に滴る汗が休息を訴えている。
(獲物が無いまま弁当を喰うのは不本意だが、しかたがあるまい……)
二人は、適当に腰を下ろし、弁当を食べ始めた。
クッチャクッチャと、勝蔵の咀嚼音が辺りに響き渡る。
作兵衛は顔をしかめた。
(狩り手がそんなに音を立てるようでは大成しねえぞ)
(後でちゃんと言って聞かせねえと――)
そこまで考えて、作兵衛はふと気づいた。
違う。
勝蔵が騒がしくしているのではなく、辺りが静かすぎるのだと。
町の者は、よく「深山は静かだ」などと言う。
しかしこの時期であれば、虫や鳥の声がそれなりに聞こえるはず。
それが無い。全く無い。
作兵衛は、急に寒気を感じた。
― 8 ―
勝蔵は、自分の弁当をサッサと平らげたところで、作兵衛の食事が進んでいないことに気が付いた。
(なんじゃ、爺ちゃん、食欲が無いようじゃな)
彼は食べ盛りである。
「爺ちゃん、弁当食わんのか? 食わんのだったら俺におくれよ」
作兵衛は、あきれたように孫を見やった。
その瞬間、聴覚が反応した。
自分と勝蔵以外に、動き、音を立てている何かがいる。
それは、予想以上に作兵衛の近くにいた。
蠅である。
丸々と太った蠅が一匹、弁当の匂いにつられたか、作兵衛の周りを飛び回っていたのだ。
軽く払うと、そいつはすぐ近くの地面に止まった。
作兵衛は、蠅をなんとはなしに見つめる。
蠅は逃げる様子もなく前脚を擦りあわせていたが、刹那、煙のように消え失せた。
― 9 ―
作兵衛が驚いて辺りを見回すと、木陰に蝦蟇がいた。
まるで大関のような貫禄のある蝦蟇であった。
その口からは、蠅の片方の羽だけが抵抗するようにはみ出していたが、間もなくそれもペロリと飲み込まれた。
(ふむ、見事なものじゃ。狩り手はこうでなくてはいかん)
作兵衛は、自分の握り飯を狙う勝蔵の手をぴしりと叩きながらそう思った。
「なんじゃあ、爺ちゃん、食うんなら早く食ってくれ。気になって仕方ない」
「アホウ、獲物も無いのに食うことばかり考えるな!」
叱られ、口を尖らせる勝蔵を見て、作兵衛は溜息を吐く。
(まったく、ちょっとは蝦蟇どのを見習え――)
そう思って、何気なく蝦蟇を見やると、それはもう、そこにはいなかった。
代わりに、腹をビール瓶ほどに膨らませた青大将が、チロロチロロと舌を出しながら、悠然と作兵衛のことを見据えていたのである。
― 10 ―
山で、蛙が蛇に呑まれた。
たったそれだけのことである。
それだけのことでありながら、作兵衛は猛烈な違和感を感じた。
彼の直感がはじき出した結論は、
(今日は、もう狩りを切り上げた方がいい)
であった。だが、しかし、
(勝蔵の初陣を、獲物無しで終わらせるわけには……)
との思いが、作兵衛の決断を鈍らせていた。
突如、大きな黒い塊が、猛烈な勢いで作兵衛の前を駆け抜けたのだ。
作兵衛は反射的に後退り、相手を確認する。
それは、大きな猪であった。
先程の青大将を地面に押さえつけ、腹からガツガツと噛み砕いている。
見たところ、肩高は四尺(1.2m)ほどもあろうか。
これだけ見事な猪を、作兵衛は見たことが無かった。
経験が、老猟師の身体を半自動的に動かした。
片膝を付き、銃を構える。
距離良し。狙い良し。
猪は食事に夢中で、人間なぞに目をくれようともしない。
その時、ふっと作兵衛は考えた。
(蠅は蛙に食われ、蛙は蛇に呑まれ、その蛇は今、猪にその身を貪られている)
(やれやれ、俺がこの猪を撃ったら、俺はいったいどうなることやら……)
そして、右手の人差し指に力を込め、引き金を――
火薬の炸裂音が鳴り響いた。
猪は体をよじらせ、それからドウと倒れ、動かなくなった。
作兵衛は半ば呆然としながら、銃声の方を向いた。
「爺ちゃん! やったぞ! 俺が仕留めたんだ!」
勝蔵が、まだ煙を上げる銃を抱えながら、猪の元に駆け寄るのが見えた。
その時、作兵衛のすぐ耳元で、ささやくような声が聞こえた。
「じ ぃ ち ゃ ん う た な い で よ か っ た ね
よ か っ た ね」
次の瞬間、作兵衛の影の中から、得体の知れない巨大な生き物がヌルリと這い出してきた。
それは、人と同じく四肢を備えていた。
だが、蛆虫のごとく全身が白く膨れ、顔には目も鼻もなく、真っ赤な唇だけが貼り付いていた。
妖物は、作兵衛の顔を見下ろすと、口だけの顔でニヤリと笑った。
そして、浮かれる勝蔵に飛び掛かり、ひっつかみ、空気が振動するほどの雄叫びをあげると、そのまま山の奥へと駆け抜けていった。
虫たちが、鳥たちが、一斉に歌い始めた。
山はいつもの騒がしさを取り戻した。
勝蔵だけが、もうどこにもいない。




