アンシンサマ
(山岳遭難)行方不明の猟師1名 山中にて無事発見される。
先日、F県I郡M町で同町の男性2名が行方不明になった山岳遭難があり、I署は〇日、捜索願が出ていた猟師、○○○○さん(○○歳)をS山(標高××××メートル)で発見したと発表した。
同署によると、○○さんは今月上旬、狩猟のために同町在住の猟師△△△△さん(△△歳)と自宅を出たまま行方不明となっていたが、〇日午前10時40分ごろ、S山の山道から約200メートル離れた雑木林の中で意識を失っていたところを捜索に協力していた消防団員に発見された。(中略)なお、△△さんの行方は未だ判明しておらず、I署は○○さんの回復を待って事情を聴く予定。
(『〇日〇新聞』S27.9.XX 朝刊)
先日、職場の飲み会で、面白い話を聞いた。
「なあなあ吉田サン、吉田サンは妖怪オタクなんだよね?」
そう話題を振ってきたのは、もはや完璧に出来上がってしまっている五反田課長(仮名)である。
悪い人ではないが、酔っぱらうとテンションが上がりすぎて、正直ハタ迷惑なタイプである。
課長の周りに座っていた連中はそのことを知っているので、宴が進むにつれ、そーっと彼のまわりから退散してしまった。
ひとりぼっちになった課長は、やはりひとりぼっちの私を仲間だとでも思ったのだろう。とても親しげに話しかけてきたので、逃げるわけにはいかなくなってしまったのである。
「いやあ、好きは好きですけど、オタクって程ではないですよ」
「まぁいいや、好きなら詳しいってことでファイナルアンサー!
で、アンシンサマって知ってる?」
「アンシンサマ…ですか?聞いたことないですね」
「なんだよぉ、知らないのアンシンサマ?俺の地元じゃ超ビッグネームなんだけどね!」
「課長の地元ってどちらでしたっけ?」
「F県の西の山沿いのI郡ってところなんだけどさ…ウップ…で、何の話だったっけ?
ああ、そうだ、アンシンサマの話だったっけねぇ」
「ええと…それはどんな妖怪なんですか?」
「妖怪じゃないよぉ!ひどいなあ!山の神様だよぉ!」
「…ああ、はいはい神様ですか。で、どのような神様なのですか?」
「知らない!」
「え?」
「誰も見たことがないのよ。その神様」
「はあ、まあ、あんまり近所をウロチョロしてはいないですよね、神様って」
「フヒヒ…そりゃあそうだね。
でもさ、こんなことがあったんだ。
俺が生まれるちょっと前の話なんだけど、猟師サンが二人、山で行方不明になったんだと。
これ、ホントの話だからね!新聞にも載ったんだからね!『〇日〇新聞』!
…知らないかぁ、地元ではメジャー紙なんだけどナ。
まぁいいや。
で、一人は帰ってこなくて、もう一人は生きて帰ってはきたんだけど、言ってることがシリメツレツでさ。結局、遺体も見つからないし、警察は事故ってことで処理しちゃったんだよね。
その後、生き残った方の猟師サンは銃を捨てて、事件のことは死ぬまで口にしなかったんだってさ」
「じゃあ実際のところ、何があったかは分からなかったということですか?」
「手紙が出てきたんだ…」
「ん、手紙?」
「その猟師サンが亡くなったあと、遺品を整理していたら、あの日、山で何が起きたか詳しく記した手紙が出てきたんだ」
「本当ですか!?」
「ホントだよ。俺も読んだもん」
「うわあ…一気に嘘くさくなった…」
「いやさ、正味の話、その猟師サンの嫁サンが俺の親戚筋でさ、親父が遺品の片づけを手伝いに行ったのよ。そしたら、手文庫…わかる?まあ書類入れみたいなもんなんだけど、そこから出てきたのよ、件の手紙が。猟師の嫁サンはそんなモンもう見たくもないっていうし、捨てるわけにもいかないし、結局親父が持ち帰って来て、警察とかお寺さんにも相談したんだけど、どこも扱いに困っちゃって、仕方ないから俺の実家の仏壇の下のタンスに入れっぱなしになっているというワケ」
そこまで一気に話し終わると、五反田課長はジョッキに残っていたビールをゴクゴクゴクっと飲み干した。
「ん?いい顔してるよ吉田サン!聞きたいだろ?
つ、づ、き、聞きたいだろぉ?
おぅい、店員さ~ん!ビールお代わりッ!」
(ここから先は、私が五反田課長から聞いた手紙の内容を想像で補いながら書いたものであり、一部に創作が含まれていることをここに明記いたします。
また、関係者がまだ御存命のため、登場人物の名前や地名は仮名とすることをどうか御了承ください。)
― 1 ―
暦の上では秋とは言え、まだそれなりに暑さの残る午前6時。
人っ気の無い山道を、二人の男が、ザットコザットコと進んでゆく。
そのうち一人は年の頃五十くらい、名を作兵衛という。
荒れた道にも関わらず、自然に歩んでいく様は、どこか達人といった風格を感じさせる。
もう一人は十代の後半と言ったところだろうか。
足取りは若々しいが、前を行く作兵衛について行くのがやっとの様子である。
彼は、作兵衛の孫、勝蔵である。
本来であれば、この日、この道を行くのは二人ではなく三人であったかもしれない。
だが、息子であり父親でもある男は、戦地から帰って来なかった。
― 2 ―
今日は、勝蔵が銃を持って本格的に猟に加わる初めての日である。
猟師の初舞台としては、決して早いものではない。
むしろ、遅いくらいである。
それは別に、勝蔵の力量が劣っていたわけではない。
そもそも、銃が手に入らなかったのだ。
ほんのひと昔前は、寺の鐘までもが金属資源として供出された時代である。
ましてや銃は真っ先に徴発の対象となり、その多くが戻ってくることはなかった。
時は昭和27年、先の大戦が終結して10年が経ち、世の中もだいぶ落ち着きを取り戻した。
だんだんと物資が市場に出回るようになり、ようやく先日、勝蔵が使う分の銃を手に入れることができたという次第であった。
― 3 ―
かれこれ2時間ほど歩いただろうか。
辺りは、妙に静まり返っており、人っ子ひとり目にしない。
この道は、それなりに手入れがされている。
だから、この季節であれば、茸目当ての近所の婆様だの、それこそ同業者である猟師とすれ違っても不思議ではないはずなのだが…
勝蔵は思った。
(そりゃあ「アンシンサマ」の日じゃあ、俺たちの他に人はいねえだろうなぁ)と。
猟師というものは大体、その山々に応じたシキタリを守っている。
例えば、ある地域の猟師は、毎月17日には決して山に入らない。
また、別の地域では、「山に赤い色をした物を持ち込んではいけない」という決まり事があったりする。
ここら一帯の猟師にも、もちろんそういったシキタリがある。
その中でも、最大の禁忌が「アンシンサマ」の日に入山することである。
元来、この山系では修験道が盛んであり、今でも、修験者の一団が厳しい修行をしている。
山で仕事をする者たちは、彼らに敬意を払い、食べ物やお金を捧げたりする。
その返礼として修験者たちは、毎年、旧正月になると暦表(カレンダー)を配り歩く。
修験者の暦表には、山に於ける吉凶を判定するための独自の注が付いている
(今のカレンダーにも時々記載されている「六曜」、つまりは「大安」とか「先勝」とか、そういったものを思い浮かべてみると分かりやすいかもしれない)。
例えば「スケノリサマ」は縁起のいい日で、狩りをしたり旅をしたりするのにふさわしいとされているし、「スケヨシサマ」の日は、得るものも大きいが、注意を怠ると大きな失敗をする日とされている。
そういった中で異彩を放っているのが、「アンシンサマ」である。
そもそも、この注が顔を出すことは滅多に無い。数年のうちでも1日あるかないか程度である。
その指し示す内容は「アンシンサマがお出でになるので決して山に入ってはならない」ということのみ。
「アンシンサマ」は山神の一柱らしいのだが、来歴は一切不明である。
とある郷土史家は、地元に伝わる隠れキリシタンの伝説に基づき、キリスト教における「安息日」の概念を神格化したものではないかと推測している。
また、あるオカルトライターは、英語の「UNSEEN(不可視のもの)」がルーツであるとしているが、どうにも根拠に乏しい。
― 4 ―
作兵衛の猟師としての腕前は、この地域において無双であること疑いない。
それ故、彼は傲慢で、独りでの狩りにこだわった。
彼は常々、こんなことを言っていたという。
「弓だァ槍だァ使っていた時代ならともかく、銃さえあれば独りで狩れる。どうして他人をアテにする必要があろうか」
戦争で息子を亡くしてから、その偏屈はさらに強くなった。
一昨日、ちょうどこの辺りを台風が通り過ぎた。
作兵衛は経験から、台風一過で気温が上がったその次の日こそが、猪狩りの絶好機であることを知っていた。
だが、あろうことか、その日が数年に一度の「アンシンサマ」の日に当たってしまったのだ
常人であれば、どんなに旨い話があっても、「アンシンサマ」の日に山に入ったりはしない。
だが、作兵衛は違った。
(アンシンサマ?それがどうした!)
彼はもう、神も仏も信じてはいなかった。
ただ、そんな作兵衛も、孫だけには惜しみなく愛情を注いでいた。
孫の方もまた、祖父を心から尊敬し、人生の手本とした。
それだからこそ勝蔵は、記念すべき人生初の狩りの日が「アンシンサマ」であっても、粛々と作兵衛に従ったのである。
― 5 ―
作兵衛は辺りの気配を伺い、誰もいないのを確認すると、山道を外れ、雑木林に分け入った。
しばらく進むと、視界が開けた。
辺り一面に泥濘が広がっている。
猪は、体に取り付いた寄生虫を落とすため、定期的に泥浴びをする。
その場所を、ヌタ場と言う。
猟師にとって、ヌタ場をどれだけ知っているかということは、大変に重要なことであった。
猟果に即結するからだ。
そして、今たどり着いたこの場所こそが、作兵衛しか知らない秘密のヌタ場であった。
彼はこれまで、ここに来て獲物に巡り合えなかったことは一度も無かったのである。
ところが、今日に限って何もいない。獣の臭いも気配もない。
作兵衛は唖然としたが、すぐに勝蔵の視線を意識し、別のヌタ場に向かうことにした。
― 6 ―
それから二人は、合わせて3つのヌタ場を巡り歩いた。
どれも作兵衛御自慢の狩場であったが、まるで申し合わせたかのように猪たちは不在であった。
いつの間にか、太陽が頭の真上まで登っている。
作兵衛は、横目で勝蔵の様子を観察した。
勝蔵は何も言わないが、目が休息を訴えている。
(獲物がないまま弁当を喰うのは不本意だが、しかたがあるまい…)
二人は、適当に地面に腰掛け、弁当を食べ始めた。
クッチャクッチャと、勝蔵の咀嚼音が辺りに響き渡る。
作兵衛は顔をしかめた。
(狩り手がそんなに音を立てるようでは大成しねえぞ、後でちゃんと言って聞かせねえと…)
そこまで考えて、作兵衛はふと気づいた。
違う。
勝蔵が騒がしくしているのではなく、辺りが静かすぎるのだと。
山は静かだというが、この時期であれば、鳥だの虫だのの声がそれなりに聞こえるはずだ。
それが無い。全く無い。
作兵衛は、急に寒気を感じた。
― 7 ―
勝蔵は、自分の弁当をサッサと食い終わったところで、作兵衛の食事が進んでいないことに気が付いた。
(なんじゃ、爺ちゃん、食欲が無いようじゃな)
彼は食べ盛りである。
「爺ちゃん、メシ食わんのか?食わんのだったら俺におくれよ」
作兵衛は、あきれたように孫を見やる。
その時、作兵衛の聴覚が反応した。
自分と勝蔵以外に、動いて音を立てているモノがいる。
それは、予想以上に作兵衛の近くにいた。
蠅である。
丸々と太った蠅が一匹、弁当の匂いにつられ、作兵衛の周りを飛び回っていたのだ。
軽く手で払うと、そいつはすぐ近くの地面に止まった。
作兵衛は、これをなんとはなしに見つめていた。
蠅は、逃げる様子もなく、前脚を擦りあわせていたが、刹那、煙のように消え失せた。
― 8 ―
作兵衛が驚いて辺りを見回すと、木陰に蝦蟇がいた。
まるで大関のような貫禄のある蝦蟇であった。
その口から、蠅の片方の羽だけがはみ出していたが、間もなくペロリと飲み込まれた。
(ふむ、見事なものじゃ。狩り手はこうでなくてはいかん)
作兵衛は、自分の握り飯を狙う勝蔵の手をぴしりと叩きながらそう思った。
「なんじゃあ、爺ちゃん、食うんなら早く食ってくれ。気になって仕方ない」
「アホウ、獲物も無いのに食うことばかり考えるな!」
叱られ、口を尖らせる勝蔵を見て、作兵衛は溜息を吐く。
(まったく、ちょっとは蝦蟇どのを見習え…)
そう思って、何気なく蝦蟇を見やると、それは、もう、そこにはいなかった。
代わりに、腹をビール瓶ほどに膨らませた青大将が、チロロチロロと舌を出しながら、悠然と作兵衛のことを見据えていた。
山で、蛙が蛇に呑まれた。
ただ、それだけのことである。
それだけのことでありながら、作兵衛は猛烈な違和感を感じた。
彼の直感がはじき出した結論は、
(今日は、もう狩りを切り上げた方がいい)
であった。だが、しかし、
(勝蔵の初めての狩りを、獲物無しで終わらせるわけには…)
との思いが、作兵衛の決断を鈍らせていた。
― 9 ―
突然、大きな黒い塊が、猛烈な勢いで作兵衛の前を駆け抜けた。
作兵衛は反射的に後退り、相手を確認する。
それは、大きな猪であった。
見たところ、肩高は4尺(1.2m)ほどもあろうか。
これだけ見事な猪を、作兵衛は見たことが無かった。
猪は、先程の青大将を地面に押さえつけ、腹からガツガツと噛み砕いている。
作兵衛の経験は、身体を半自動的に動かした。
片膝を付き、銃を構える。
猪は食事に夢中で、作兵衛に目をくれようともしない。
距離良し。狙い良し。
その時、ふっと作兵衛は考えた。
(蠅は蛙に食われ、蛙は蛇に呑まれ、
その蛇は今、猪にその身を貪られている。
やれやれ、俺がこの猪を撃ったら、俺はいったいどうなることやら…)
そして、右手の人差し指に力を込め、引き金を…
火薬の炸裂音が鳴り響いた。
猪は体をよじらせ、それからドウと倒れ、動かなくなった。
作兵衛は、半ば呆然としながら銃声のした方を向いた。
「爺ちゃん!やったぞ!俺が仕留めたんだ!」
勝蔵が、まだ煙を上げる銃を抱えながら、猪の元に駆け寄るのが見えた。
その時、作兵衛のすぐ耳元で、ささやくような声が聞こえた。
「じ ぃ ち ゃ ん う た な い で よ か っ た ね
よ か っ た ね」
次の瞬間、作兵衛の影の中から、得体の知れない巨大な生き物がヌルリと這い出してきた。
それは、人のように四肢を備えていたが、蛆虫のように全身真っ白でブヨブヨしていた。
顔に当たる部分には目も鼻も無かったが、真っ赤な分厚い唇だけが付いていた。
化物は、作兵衛の顔を見下ろすと、口だけの顔でニヤリと笑った。
そして、浮かれる勝蔵に飛び掛かり、ひっつかみ、空気が振動するほどの雄叫びをあげると、そのまま山の奥へと駆け抜けていった。
虫たちが、鳥たちが、一斉に歌い始めた。
山はいつもの騒がしさを取り戻した。
勝蔵だけが、もうどこにもいない。