第六話「恐怖のくちあにガール」
チラチラと蛍のように光の粒子が飛び交っている。それはやがて大きな光となって暗闇を照らし、同時に影を作った。冷たい風は暖かくなり、やがて湿った空気となって頬に染み込んでいく。土を踏みしめる音や、人々の会話は次第に大きくなっていき、気付けば俺は横断歩道の真ん中に突っ立っていた。
突然、右耳の中で爆音が鳴り響いた。キィーっと耳障りな高音が引きずられると、同じく耳障りな男の声が耳元で騒いだ。
俺はまだぼうっと突っ立って、状況の理解に努めている最中だった。俺は学ランを着ていた。中学時代に戻ったのだろうか。懐かしい道だ。あの建物は今はもうない。間違いない。俺はあの時に戻ったのだ。
「ただいまー」
俺は実家に帰った。俺は目を疑った。
そこには佳奈がいたのだ。
「お邪魔してます」
「あ、ああ……いらっしゃい」
頬がくすぐったくなる。みっともない。男なのに……しかも女子の前で。
「裕翔くん?」
「ちょっと目にゴミが」
「取ってあげよっか?」
「無理だろ」
中学時代、こんなことがあっただろうか。確かに、よく一緒に遊びに行ったりはしたが、彼女が俺の家に来ることなどなかったはずだ。
「なんでいるんだよ」
……。
「私、あの頃に戻れたらなってずっと思ってた」
「何を言ってるんだよ……」
佳奈は彼女が吸った息を言葉に変えた。
「スピカとフローラに会ったよね?」
裕翔は己が吸った息を肺に託した。
「お前……!」
「知ってるよ。裕翔くんもあの世界に行ったってこと」
「スピカとフローラを知ってるのか」
「うん……。だって私の大事な子供達だもの」
母が横切った。
「女の子なんて珍しいねえ。劇の練習かい?」
…………。
……。
「ちょっと、どっか行ってて」
「ああ、そういう感じね。お邪魔だったかしら」
「違うよ!」
*
「成功した。成功だよ、スピカ君。これで君の未来も変わるに違いない!」
「えー? なんか変なものお茶に混ぜたの?」
スピカがそういうと、ケンジは裕翔に近づいて
「こいつ、息してない」
「ルクス!」
「僕のせいかな?」
裕翔は泡を吹いて倒れている。
「いや、僕はただ裕翔君を気絶させたかっただけなんだけどなぁ」
「何入れたのよ!」
「薬品入れてないから大丈夫」
「具体的に教えなさいよ!!」
*
「じゃあスピカたちの母親はお前なのか?」
「まあ、ね」
「生きてるのか」
「現実世界では死んだかも。でも中学時代には戻れるんだって今日気づいた」
「ああ……。異世界では?」
「……」
「生きてんのかよ」
「生きてるんだけどね……」
「なんで、あの子たちを置いてけぼりにしたんだよ。大事な子供じゃねえのかよ」
佳奈は虚ろな目で答えた。
「大事なものを失ったから」
半分開いた窓からひぐらしの声がうるさいくらい静かに聞こえる。
佳奈は続けた。
「裕翔くんなら……来てくれると思ったから。ずっと待ってた。でも来なかった。だから私から行くことにしたの。私は馬鹿だった。本当は来るはずもないのに。私は夢を見てたのかもしれない。夢に見てたのかも、しれない」
太陽は地平線に飲み込まれ、涼しい風が部屋に流れてきた。
風は頬に流れる涙を乾かし、気付けば俺は佳奈を抱きしめていた。佳奈は泣いていた。
*
「裕翔、ニヤニヤしてるんだけど、え、やだ……キモいんだけど」
スピカはそう言うと、裕翔の身体を揺さぶった。
「変な夢見てるでしょ! 早く起きて!」
ルクスとケンジは傍観する。
*
小鳥の合唱がこだまする中、俺は中学校に行った。
まだ覚えている。三年も通ったのだから忘れるわけがない。しかし友達の名前はなぜか思い出せない。三年も一緒にいたのに——
こんな大切なことをどうして忘れてしまうのだろう。実は俺の中では友達などどうでもいいものだったのだろうか。だとしたら、なんて勿体無い中学時代を送ったことだろう。
そうこう考えているうちに俺は学校の前まで来ていた。
三年、中学校生活最後の夏。先生も「勉強、勉強!」と五月蝿くなってくる時期である。当時は「黙れ、黙れ!」と思っていたが、今となっては思い出を象徴する言葉の一つだ。
俺は階段を上りながら中学生に戻ったような気持ちで(実際に戻っているが)、あれやこれやと思いを巡らせていた。
ついに教室の前まで来た時、入るのを躊躇った。前の戸から入ろうと思っていたが、後ろから入った。
みんなの顔は見たいが、後ろから入ったため当然皆は俺に背中を見せている。座る場所を忘れたので、結局、座席表のある教卓の前まで来た。
座席表の名前を見た。知らない名前ばかりだった。いや、忘れているだけだ。俺は、椅子の場所を確認するために皆の方を見た。
知らない顔ばかりだった。
しかし、俺は確かにこのクラスの一員だ。
「(そうだ、ケンジは?)」
俺は座席表に噛り付いた。端から端まで慎重にケンジを探していくが、いなかった。ただ、佳奈の名前だけが、唯一知っているものだった。
思い出は、確かにある。
*
教科書の角が頭に突き刺さる。
「ったぁ、痛ってぇ!」
「小野寺、授業中だぞ。部活が忙しくて寝たいのはわかるが」
「寝たいから寝るんじゃない。眠いから寝るんだ」
と言って怒られ、隣の席の人にペンで突かれたり。
放課後、友人と馬鹿騒ぎしながら帰って、近隣の住民から学校に苦情が来て先生に職員室に呼び出されたり。
確かにあるのだ。大事な思い出が、関わった多くの人間とともに。
しかし、今、目の前にいる人々の顔を見ても、何の思い出も蘇らない。
この人たちは、誰なんだ?
帰りのホームルームがやってきた。結局俺は一日、誰とも話さなかった。佳奈とも話さなかった。話せなかった。俺はこのクラスで嫌われているのだろうか。当時は、休み時間に友人がよく話しかけに来てくれたが、この世界の俺は一体——
俺がカバンを背負って帰ろうとした時、名前を呼ばれた気がした。が、見渡しても誰もいない。不気味だ、と思って教室を出たら、そこには長い髪を垂らした女の子がいた。
彼女は俺の方を指差し、長くまっすぐな髪を孔雀の羽のように広げて、興奮した様子で言った。
「小野寺裕翔、は実在した!」
「ええと、君は誰かな」
「小野寺の裕翔がここにいる!」
「(うわ、なんだこいつ)」
まさか、学校の七不思議の一つではないだろうな。関わらない方が良さそうだ。と思い、彼は足早に去ろうとした。
「待ちなされ! やっと見つけたのに、いなくなるなんて、呪う!」
「なんだよ、いきなり呪うって」
彼女は滑るように近づき、髪もそれについて来た。
「くち、あに。くち、あに」
彼女は不気味な呪文を唱え始める。
「やめろよ、マジで引くわ!」
気がつけば、空は不気味な深緑に染まっていた。空全体にカラスの声が轟き、生暖かい空気が流れ込んで来た。裕翔は衝撃のあまり、動けなくなっていた。
「くちあにおわり」
そう言った彼女の鋭い目にとどめを刺された裕翔は何やらよくわからないことを言いながら気絶した。
「裕翔、所詮この程度の男。でも誰にも渡さない。この命が尽きるまで」