第五話「誰も起こしてはくれない」
男達の背後にはケンジの姿があった。
「え」
思わず声が漏れた次の瞬間、ケンジはその剛鉄のような拳を彼らに向かって振り落とした。その衝撃は思ったよりも大きかったらしく、家の至る箇所が軋んだ。
「お前、生きてたんか……よぉ」
男のうちの一人が何かをほざいたかと思うと皆同時にぶっ倒れた。ケンジはその二本の腕を一回しか振り落としていないのに、三人同時に倒れたのは謎だが。
「やるじゃん、ケンちゃん」
「お姉ちゃんいつからそんな呼び方なの!?」
ケンジは直ちに男らを担いで出て行った。
戻って来た。
ケンジは額を汗で湿らせて言った。
「裕翔、裕翔はどこだ……。無事か」
スピカは階段の奥を指差し、
「裕翔なら二階に……」と言いかけてやめた。
フローラの表情が歪んだ。
「裕翔さん、うちにいるの?」
ケンジの表情は晴れた。
「裕翔はここにいるのか?!」
「ああ、今のは誤解ね……あはははは」
「お姉ちゃん! うちに五階はないよ! いるならいるって答えて!」
「誤解でもなんでもないだろ! とにかく、どうか裕翔に会わせてくれ!」
「あ! 私、小説の続き思いついた! 忘れないようにしないと!」
スピカはそう言って階段を駆け上った。
フローラはそれを追いかける。
スピカは立ち止まった。廊下で裕翔が、怯えるクロアを撫でていた。
「裕翔! 部屋から出ないでってあれだけ言ったのに!」
「いや、なんかもうどうでもよくなっちゃってさ」
フローラは裕翔に激しい口調で言う。
「その穢れた手でクロアに触らないで! 歩く変態!」
スピカは止めに入る。
「裕翔も悪い奴じゃないんだから許してあげなよ、ふぅちゃん」
「おいおい、一体何事だよ。俺のいない間に何があったってんだ」
かくかくしかじか
「それはお前が悪いなあ、裕翔」
「だから、もういいだろ!」
「それより、お前に話したいことがあるんだ」
「いきなりなんだよ」
ケンジは、裕翔に人のいない場所であの話をした。
「俺は、現実世界に戻った」
「……。急になんだよ」
「信じてくれよ。マジでヤバいんだよ」
「俺ももうこの世界に来たんだから信じられないようなことも信じるしかねえよ」
ケンジの唾を飲む音が微かに聞こえた。
「裕翔は現実世界で意識を失っている」
「それの何がヤバいんだよ」
裕翔は即答した。ケンジは「え」という顔をした。
「お前、現実世界に戻りたくないのか?」
「俺はもうここに留まる。もう現実世界とかどうでもよくなったんだよ」
「そうか……。もう一つあるんだが……」
「なんだよ。躊躇ってないで言えって」
「佳奈が亡くなった。俺らが異世界に行ったその日に——」
裕翔は言葉を失った。現実世界はどうでもいいと思っていたが、やはりそうではなかった。裕翔は心の中では現実世界が恋しかった。
佳奈は、裕翔やケンジと同じ中学校に通っていた落ち着いた雰囲気の女性だ。ケンジとは関わりが浅かったが、裕翔とは仲が良く、裕翔が異世界に行った「あの日」に彼とその仲間たちとで飲みに行っていた。口数が少なく大人しいが、口を開くとお茶目な一面も窺えた。そんな彼女はあの日、車に轢かれそうになった猫を助けようとして命を落としたのだという。
裕翔は顔面を強張らせて言った。
「俺、やっぱりわかんねえよ。ここがどこなのかも、俺が誰なのかも。でも、俺ここに来てわかったことが一つだけある。やっぱ、俺って弱いなって……」
「そんなことねえよ。何弱気になってんだよ。現実世界に戻ろうよ、二人で」
「どうやって……?」
「死なない程度に自分を痛めつけるんだ」
「いきなりどうした」
「気絶するんだよ」
「(……ハァ?)」
「みんなお前を待ってるんだよ」
「それにしても酷すぎないか」
「何が」
「現実世界に戻る方法だよ」
「それしかないんだから仕方ねぇだろうよ」
二人とも現実世界には戻りたいが、裕翔はその方法がどうやら気にくわないらしい。
「おやおや、面白い話をしてますねぇ」
スピカが二人の背後にいた。
「スピカかぁ、なんでいつも俺のいる場所がわかるんだよ」
裕翔が不思議そうにスピカの瞳に反射する景色を眺めた。
スピカは少し考えてから
「なんというか、あなたたちからはネタの香りがするのよ」
小説家になれば嗅覚が優れるのだろうか。特にネタを嗅ぎ分けるほどの嗅覚が——
「異世界だか現実世界だか私にはよくわからないけど、それに詳しい友達ならいるわよ、もしかしたらその人が、『現実世界』に戻る方法を知ってるかも、ちょっと変わった人だけどね」
*
俺とケンジはスピカに連れられて山奥の綺麗な小屋に到着した。
スピカが扉をノックすると、内側からもノックしてきた。彼女は、「ラピスの山のアシンメトリー、狐の子、おいでおいで」と謎の言葉を発すると、ようやく開けてもらえた。
そこには、低身長の可愛らしい男子がいた。完全に年下だと思っていたが、俺と同い年らしい。
「ようこそ、小野寺君と椛島君だね? まあ入って、ああスピカも、はい、はよはよ」
壁一面、何かのメモが貼り尽くされていて、風が通るたびカサカサと揺れている。光や風は入ってくるし、散らかってはいないのでスピカの部屋よりマシだ。だが、俺は確信した。この方は天才の類だと。
俺らは、皆がやっと入れるくらいに狭い部屋に案内された。すると彼は突然「あー」と声を発した。スピカは不思議に思わないのだろうか。俺とケンジはビビっていた。
彼は何処かに消えたかと思うと、椅子を持ってきてくれた。彼の身長はその椅子の四分の五くらいしかなかった。
「確かに君達は異世界から来たようだね。まあ異世界というよりは遠い昔。遠い昔というよりは異世界だけど」
結局、異世界じゃないか。しかし、やはりこの世界は現実世界と繋がっているのだろうか。その少年(仮)は一方的に話し始める。
「何の話をしようか考えていたけど、自己紹介を忘れていたよ。僕はルクスという名前で、取り敢えず自己紹介終わりね。で、君達は僕に何の用で?」
裕翔は引き気味の声で、
「自分達が元いた世界に戻りたいんだ」といった。
「わかった。その前に話したいことがあるから聞いてね。夕方になればよく見えるけど、青白く見える星があって、それは昔、突然空の真ん中に居座り始めたんだ。そいつは何をしたかというと、有害な光を地球に向けて来た。その光が厄介でね、多くの人々の命を奪った。ただ、生き延びた人も少なからずいた。僕が思うには、その星は素質ある者をピックアップしようとしていた、なんてね」
「どういうことだ」
ケンジが椅子から立ち上がり、机に身を乗り出した。
「素質ある者。つまり、その星にとって都合のいい人々を選んだんだよ」
「都合のいい人って?」
「記憶の構造が単純な人ってこと。複雑だと情報のやり取りが面倒なんだよ。まあそれはまた後で話すよ。で、それから長い年月を経て、生き延びた者たちは自分に備わった特殊能力の存在に気付き始める。その特殊能力が何の為に必要なのかはわからないがね」
「(俺も話の内容がわからない)」
「君達が今日ここにいるのもその星のおかげだね。この世界は、幾つもの分岐を繰り返しているんだけど、君達が来てしまったこの世界は、幾億もの分岐が繰り返された幾億もの世界の中の一つで、丁度君達と、顔などの身体のつくりがほぼ一致する人が存在する世界で、その人たちの記憶を君達の記憶で置き換えて、今君達はここにいるんだ。自分でもよくわからないなぁ。その人固有の記憶は星に預けられた。元の世界に手っ取り早く戻る方法は寝ることだね。それも、誰も起こすことのできないような深い眠り。そうすることによって、固有の記憶は本人に返され、不要になった僕達の記憶は元の世界の僕達の身体に返却される。でもそれだと不完全だ。なぜなら、そのままだと君達とこの世界の君達の身体の提供者はリンクされたままだからね。根本的な解決は、実際にその星に行って、保存されている身体固有の記憶を取り戻すこと。どう?」
裕翔はこの人が天才だと思っていた。しかし、今となっては彼にとってルクスは「説明が下手で長い人」に降格していた。
「とにかく今は寝ればいいんだろ。寝れば」
裕翔は早く元の世界に帰りたいという感情を隠せなかった。
「そう、寝ればいいんだ。」
裕翔は出された茶を一口飲んだ。それと同時に意識が朦朧としてきた。寝てはいけない。しかしこのままだと寝てしまう……。彼は酸素が足りていないと思ったが、身体は既に眠っていた。目を瞑る直前に、俺はルクスの表情に笑みが浮かんだのを見た。