87.記憶とチャイロと、子どもの情景【第3部最終話】
「楠見はさあー! ほんっとうに、もう!」
一歩前を歩きながら、ハルは力を込めて言う。
「後から来て美味しいところを根こそぎ持っていくよねえ! いつもだよねえ!」
割れた出入り口のドアから外に出て、フンと息をつくハル。
急に眩しい日の光の元に出て、伊織は軽い立ちくらみを感じた。室内できな臭い空気をたくさん吸ったせいか、外の空気がものすごく美味して、思わず大きく深呼吸する。
「まあまあ」
その後ろから続いて外に出て、楠見は困ったような笑顔を見せた。
「お前たちが頑張ってくれたおかげだよ。ご苦労さま」
宥めるように言って、横に並んだ伊織にも微笑みを向ける。
「伊織くんも。大変だったけれど……本当に、お疲れさま」
「あ、いえ……俺、その……」
楠見の笑みに緊張に強張りきっていた心がふわりと解れていくのを感じながら、伊織は曖昧に笑う。結局ほとんど役には立てなかった伊織だけれど、楠見はそんな気を遣わせないような口調で、
「きみの協力のおかげだ」
肩に力強く手を置いて、言った。
「それと、キョウもな。お疲れ――」さらに後から出てきたキョウへと首を巡らせて、楠見はハッとした顔をする。
「おい! キョウ、大丈夫か?」
「ん。……眠い」
キョウはぼんやりとした調子でそれだけ言って、目をシバシバさせる。突然明るい場所に出てきたからというわけではなさそうなのは、ふらふらとした足取りで分かる。
「おい、もう少し我慢しろ! そうだ、打ち上げに行こう! 焼き肉の食べ放題か? すき焼きでもいいぞ」
「んー。めかぶ……」
「ああそうだ! めかぶだったな。美味いめかぶ……おいだからまだ寝るな!」
「あーこれもう駄目だね。家までは持たないね」
キョウの両肩を捕まえて、ハルは投げやりに言って、
「キョウ、車まで行こう。そこまで歩こう。ほらあとちょっと!」
駐車場に乗り捨てられたように適当な角度で置かれている車を目指し、ハルはキョウの背中を押して歩きだした。
苦り切った表情でため息をついた楠見。その視線が、建物のほうを向く。
刑事たちに抱えられるようにして、哲也が表に出てきた。
三人の刑事たちの中から船津が出てきて、楠見に駆け寄ってくる。
「楠見さん。本当に、どうもありがとうございました」
「お疲れさまでした」
深々と頭を下げた船津に楠見はにこやかに言って、それから少しばかり顔を歪めた。
「……っと。そちらはまだこれから、取り調べやなんかが大変でしょうが……」
「まあ、どうにか。いつものことですから。俺には……」
彼もやはり苦笑気味に顔を歪めて、背後の二人の神奈川県警の刑事を視線で示す。
二人は哲也をエントランスの階段に座らせているところだった。
「彼らには、ちょっと理解が大変かもしれませんが……上から話が行くと思います。どうにかなるでしょう」
目の前ではっきりと刀で斬られるところを見たはずの哲也が、全くの無傷でいることに、山崎と白塚は心底わけが分からないというように困惑しきった面持ちでいる。
これから哲也は放火殺人事件の被疑者として逮捕され、警察に連れていかれる。哲也の身がどうなるのかは分からないが、重大事件を起こしたのだ、すぐに自由になれるということはないだろう。
(いつ、また会えるだろう――)
そう思ったら、無意識に足が動いていた。
「伊織くん?」
後ろから声を掛ける楠見を振り返ることも出来ずに、伊織は哲也の元へと駆け寄っていた。
携帯電話を構えてどこかに電話を掛けようとしている山崎が、何事かと視線で迎える。
「おい、きみ」
白塚が伊織の腕に手を掛け、止めようとする。
けれどそれを振りほどいて、
「あの、哲也さん――」
掛ける言葉など考えていなかったが、伊織は哲也の前に腰を折り、その肩に手を触れた。
その途端に。
「記憶」が、奔流となって。哲也に触れた伊織の手から、心の中に流れ込んでくる。
「う……わ!」
暴風に押し流されるかのような抵抗感。堪らずに声を上げながら、伊織は哲也から手を離すことができずに身を引きつつ声を上げる。
「伊織くん!」
足音が駆け寄ってきたと思うや、両肩を掴まれて伊織の身は哲也から引きはがされていた。
だが、目の前の景色は戻らない。廃墟となった大型店舗の入口は、視界にない。
(伯父さん……それに、伯母さん……)
伊織の見たこともない優しい微笑みを浮かべる、伊織の記憶にあるよりも少し若い夫婦。
それに、あの海沿いの家。
中学校。教室。グラウンド。同級生たち。
近所の本屋。消しゴム。運動靴。時間割表。
黒い服の男たち。組織、訓練、仕事――。
さまざまな風景が、人物の顔が、言葉が、脈絡もなく脳裏に浮かび上がって消える。
頭の中を蹂躙するように駆け巡っていく細切れの画像に、伊織は酔いそうになって。ぐらりと視界が揺れた。
ふっと足の力が抜け、倒れこみそうになったところで誰かの腕に支えられ、そこで意識が途切れた。
人間の半生を綴るのに、どれだけの時間とどれだけの枚数の紙が必要になるだろう?
たとえば伊織だったら? なんの波風もない平々凡々な十五年。たいした労力は必要なさそうだ。きっとすぐに綴り終わってしまうし、読まされるほうだって退屈だろう?
いや、けれど、この数週間だけはめくるめく慌ただしさだったな……。それにもしかしたら、この先に物凄い冒険が待っているかもしれないぞ? 何しろ伊織は、自分だけの特別な能力を持っていて、特別な仲間たちに囲まれているんだから。
たとえば、相原哲也という人間だったら。結構なドラマになりそうだ。
頭の中を駆け抜けていった膨大な記憶を思い返して、伊織は心の中で戦慄する。これはとんでもない物語だぞ? しかもこれで終わらない。哲也の人生はまだ続く。それも、きっと並大抵のものじゃない。
何しろ彼は、「やり直す」のだから。
たとえば……楠見やハルやキョウと言った人たちだったら。
彼らのことを、伊織はまだよく知らない。でも、これも哲也以上に大変なものになりそうだな、と思う。伊織の手にはとても負えないだろう。理解さえ追い付かないかもしれない。
けれど。知ろうとすることは、できる。理解しようと考えることはできる。手を伸ばせば、彼らはそこにいる。
伊織は彼らの物語の中のほんの数行を過ぎっただけのエキストラなんかではなくて、名前のある登場人物になることができる。
彼らを見つめ、加わり、時に助けたり助けられたり、そうしてその輪を形作る一人の人間に。
……なれるだろうか。
ぼんやりとまとまりなく考えながら、伊織は目を開けた。
途方もなく長い夢を見ていたような気がする。
天井が目に入る。ベッドに寝かされている。起き上がり、辺りを見回して。キョウの部屋だ、と思う。
ふと戸口に目が行ったところで、伊織は目を見開いていた。
小さく開いた出入り口の前に、茶トラのほっそりとした尻尾の長い猫が座り、こちらをじっと見ているのだ。
目が合うと、猫は口も開けずに「にゅー」というような声を上げた。
(も、もしかして、これは……)
「あ、あの……チャイロ……さん、ですか?」
訊いた伊織を丸い目で見つめて、猫はまた「にゅー」と言う。長い尻尾が、パタリとひとつ床を叩いた。
眠気が飛んだ。胸が躍る。
人見知りで気まぐれな猫が、初めて伊織の前に姿を現してくれたのだ。
思わず伊織はベッドを抜け出して、猫に向かって歩きだしていた。
猫はしかしサッと身を翻すと、わずかに開いていた出入り口から外に出ていってしまう。
慌ててドアを開けると、そこに猫が立ち止まって、やはり伊織のことを振り返っている。
その目は伊織を拒んでいる風でもなく――猫の気持ちはよく分からないが――どちらかといえば「こちらについて来い」と言われているような気がして、伊織は後を追った。
リビングのドアを開けて入ったところで、先にそこにいた人物に気づく。
ソファの上で、何をするでもなくぼんやりとただ座っている、子供。
小学校の高学年くらいだろうか。端正な顔立ちに、綺麗な瞳。伊織は彼を知っている。
猫は彼の向かいのソファに跳び乗ると、そこに座って毛づくろいを始めた。
腹や前足を丹念に舐めている猫を、彼はじっと見つめている。
「あの、キョウ――」
(……え!)
思わず声を掛けながら、伊織は自分の言葉に驚いていた。
(え! だって、キョウは高校生で、俺と同い年で、じゃあこの子供は――)
何がなんだか分からないが、それでも彼は、キョウだ。……と思う。
「……?」
内心で首を捻りながら、伊織は猫と少年を見比べていた。
と――。
玄関の開く音。そして足音。
ちらりとそちらに視線を向けた少年につられて、伊織も入口のドアに目をやって、そこでまた「あれ?」と思った。リビングのドアが閉まっている。つい今しがた入ってきた時。自分はドアを閉めただろうか?
「おい、ハル。これはそっちの部屋でいいのか?」
外から聞こえてくるのは、楠見の声のようだった。
「うん!」パタパタと廊下を走っていく足音。部屋のドアが開く音。「こっちこっち。ここに運んで」
(……ハル?)
けれどその声も、幼い。
少年は声のするほうにしばらく目をやっていたが、トンとかすかな音を立てて猫がソファを降りると、その猫へとまた瞳を向ける。
猫はリビングのドアのほうへと歩いていき、後ろ足で立ちあがって前足でドアを掻くようなしぐさをする。
「チャイロ。たんけん?」
キョウが聞く。
(ってちょっと待て。だからこれはキョウじゃなくて……いや、キョウだろ?)
伊織は混乱していた。そしてひとつの可能性に思い当っていた。
(もしかして、アレなのかな)
サイコメトリーの能力。それは、その場所の記憶を読みとるのだとか。だとしたら、これはこのハルとキョウの部屋で、かつて実際にあった場面なのだろうか。
伯父たちの家の事件を見た時も、哲也の残像を見た時も、ちょうどこんな風だった。見られているほうは伊織に気づかない。伊織はどこか別の時空でその光景を見ているかのように、彼らと接触することができないのだ。
(いやいや、単なる夢なのかもしれない。夢の続きなのかも……)
そして困惑する。サイの能力と夢の区別が付かないなんて、なんて厄介な能力なんだ!
内心で頭を抱える伊織には目もくれず――そもそも伊織はそこに存在していないのだろうが――キョウがソファから身を起こした。
その姿に、伊織はそれまで考えていたことも忘れて目を見張っていた。
子供のキョウが床から取り上げたのは、一本の松葉杖だった。キョウはそれを左手で持つと、杖に縋ってゆっくりと立ちあがる。
そうしてドアのほうに向かうキョウの足取りが危なっかしくて、伊織は思わず手を貸そうとするが、その手はキョウの体をすり抜けた。
(あ、そりゃそうか……俺、ここにいないんだもんな)
妙に納得しつつ、少しばかり申し訳ない気持ちになる。
その間にキョウはどうにかドアに辿りつき、左腋に松葉杖をかませて寄りかかったまま、その手でドアを開けた。
そこで伊織はハッと気づく。キョウの右手には、隙間もなくきっちりと包帯が撒かれているのだ。
「キョウ、その怪我どうしたの……?」
聞こえていないと分かっていつつ思わず声を上げてしまう。だが、すると――。
「……?」
ふっと、キョウの視線がこちらを向いた気がした。目が合って、一瞬。
開いたドアを擦り抜けて、猫が廊下に出ていく。
キョウは不思議そうな目で、まだこちらを見ている。
「……だれ?」
小さく首を傾げたキョウ。
(え!)
誰何されて伊織はどぎまぎする。
「え、えっと……俺のこと、見えるの?」
そんな馬鹿な。俺はここにいないんだぞ?
その時。
「お……っ! うわ!」
楠見の声がして、どさどさと物が崩れるような盛大な音がした。
キョウの視線がそちらに移る。
わずかな間を置いて、
「おい、キョウー、頼むから、猫はまだそこに閉じ込めておいてくれ!」
声が近付いてきて、楠見らしい人物の腕が抱えていた猫をドアの隙間からぽいっと室内に入れる。すぐにドアが閉じられた。
足もとに帰ってきた猫を一瞥して、またキョウはたどたどしい足取りでソファに戻る。ぽすんと腰を下ろしたキョウの隣に、猫は跳び乗って丸まった。
その後は、伊織を見たらしいことなど忘れたかのように、キョウはもう伊織のほうには目を向けない。しばらくの間、猫の背中を撫でていたが、すぐに、
「キョウー!」
声とともに軽い足音が駆けてきて、再びドアが開く。
やはり子供のハルが姿を現すと、猫とは反対側のキョウの隣に勢いよく座った。
「ごめんね、退屈しちゃったね。もうすぐ終わりだよ」
ハルは満面に笑顔を作って、キョウに話しかける。
「もうすぐキョウの部屋ができるよ。すぐに見せるからねっ」
そう言うハルは、本当に嬉しそうな顔をしていた。
「終わったら、引っ越しパーティだからね。マキも鈴音さんも来るよっ」
声を弾ませたハルに、キョウも小さな笑顔を作る。
それを見て、ハルはますます嬉しそうにキョウの肩に手を回して抱き寄せた。
「嬉しいね。嬉しいね。俺たちのうちだよ」
「ん」
「これからここで、ずーっと一緒だよ」
かすかにくすぐったそうな顔をしたキョウの手に、猫が額を擦り寄せた。
なぜだか分からないが、伊織は鼻の奥がツンとするのを感じた。どうして自分が泣きそうになっているのか、さっぱり分からない、それは幸せそうに見える光景だった。




