86.彼は償い、赦され、そしてやり直す
山崎は目の前、数十メートル先で起きている出来事を、わけの分からない気持で眺めていた。
(いったい、何が起こっているんだ――?)
相原哲也がやってくるものと待ち伏せていた場所に、神月悠が現れた。彼は電話をしていたかと思うと、唐突に地面を蹴り、信じられない跳躍をして――降り立った場所にいたのは不穏な気配を漂わせる黒いスーツ姿の男。
思いがけない第三の人物の出現に、山崎は戸惑いを隠せない。
だがそこから後は、辛うじて聞き取れる会話にも付いていけず、彼らの動きの意味も分からず。ただ、無防備にさえ見える格好で立っている神月悠に、男が気圧されているのだけが分かった。
「山崎さん、離れましょう。ここにいるのは危険ですよ」
後ろから腕を引くのは、警視庁の船津刑事。
横にいる白塚は、相原哲也を捕まえるのだと息巻いてここへとやってきたものの、山崎と同じく話に付いていけないらしく途中からはぽかんとして突っ立っていたが、
「お、おい!」ふと我に返ったように、山崎の肩を掴む。「いったい何がどうなっているんだ!」
目を剥いて問われるが、山崎にも説明の言葉が思いつかない。
小一時間前――。船津刑事の合流は、幸いだった。
神月悠の依頼をこなそうにも、同行している白塚をどうにかしなければならない。説得は難しいと分かり、「手分けをして張りませんか」と提案しかけた時。
神月悠から話を受けたという、何やら訳知り顔の船津が現れたのだ。その後はもう、「そういうことになっていますんで」という船津のわけの分からない剣幕に押され、白塚も抵抗の隙を失ったまま。探すよう依頼された条件に合う場所は、わりと苦もなく見つかった。
だが、これで終わりというわけにはいかない。
彼らの話を丸呑みして、「安全な状態になった」という相原哲也が目の前に運ばれてくるのをただ黙って待っているというわけにもいかないではないか。
どうにか起こっている出来事に割り込む隙を見つけようと、木立の陰に隠れて息を詰め、「離れよう」と腕を引っ張る船津をあしらって張り込んでいたところに、轟音と謎の暴風、そして、
「そこの刑事さんたち! 危ないから退いててください!」
神月悠ははっきりとこちらに向かって叫んでいた。
その瞬間、
「下がって!」
あろうことか頭を上から押さえつけられて、植木の後ろに引っ込められる。
「な、何をするんです!」
「大人しくしていてください!」
怒鳴りつけたつもりが、逆に大声で叱りつけられた。刑事らしからぬ温和な優男に見えていた船津が声を荒げたことに、驚く。今日の昼前までは、「東京の刑事は、いかにもヤワって感じだよなあ」などとぼやいていた白塚は、目をぱちくりとさせて呆然と船津を見ている。
「あのね」船津はいくらか声を抑え、眉を顰めながら、「彼らも、ここにいる必要のない人間のことにまで気を配って動くのは大変なんですよ。邪魔をするな!」
「だ、……って、放火殺人犯の確保を、本当に高校生たちに任せるっていうのか……?」
信じられない思いで目を向けた山崎に、船津は物分かりの悪い子供に呆れた大人のようなため息をついた。
「こっちだってそりゃ心苦しいですけどね。でも俺たちには何もできないんです。足手まといになるだけだ。必要な場面ってもんがあるんです」
「だけど……」
船津の言うことを、心の隅では理解していた。彼らは何か、彼らだけの秩序の中で――常人には入り込めない次元で事を行ってる。そうは言っても、黙って見ているだけなどとは――。
船津の手を振り払い、立ち上がりかけた時。
木立の陰から見守る山崎の目に、神月悠が向かい合った大人の男を殴り倒すのが見えた。一瞬息を呑み、そして駆け寄ろうと身を起こした次の瞬間。
向かい合っている建物の、二階に当たる部分の壁が。爆音を立てて、数メートルに渡り吹き飛ぶ。
曝け出されたその建物の内部で、炎が上がっているのが見えた。
息の詰まるような重苦しい空気の中に、伊織は立ちつくしていた。
炎は両側から身をあぶるように燃え上がる。先ほどまでは熱さも感じていなかった左手の炎。そして新たに上がった右手の火は、火柱を上げて天井に達しようとしている。建物内の気温は上がり、黒っぽい煙が辺りに立ち込めはじめていた。
煙に視界が遮られ、目に沁みて涙が出そうになるのを堪えて、息を押し殺し伊織は目の前の哲也をひたすら睨み据えていた。視線を対峙させていたのは、ほんの数秒のことだろう。けれど、その時間は途方もなく長く感じられて。頭の芯のあたりがぼんやりとする。汗の感触が体を伝う。立っているのがやっとだった。
哲也は動かなかった。
呆然と伊織に視線を預けたまま。身の周りに立ち上る炎のことなど、目に入らないかのような。その瞳は伊織を通り越して、どこか遠くを見つめているようだった。
「てつ、や、……さん」
黒い煙に喉を侵されかけながら、どうにか口にした、その時。
背後の壁が、爆音を立てて吹き飛ぶ。
(――えっ?)
驚きの余り、哲也から一瞬視線を外して音のしたほうへと目をやった。とたんに外の空気が建物内になだれ込んできて、伊織は思わず大きく息をついていた。
「話の途中で悪いんだけど」
声は、二階の奥、売り場のほうから聞こえてきた。
肩で大きく呼吸をしながら、そちらに目をやると。炎の向こう。右手に対真刀を携え、キョウがこちらに歩み寄ってくるのが見えた。
キョウは手に持った刀を地面と水平に胸の前に持ち上げ、はじめに燃えだしていた炎の前に掲げる。
「空気、悪いから」
炎は次第に小さくなり、シュンという音を残して消える。
続けてキョウが階段脇の炎を睨みつけると。
それは空気が捩れ、ひずむかのような光景だった。火柱は、何か形を持っていた物が内側から弾けるのに似た様相で霧散する。
炎は消滅し、壁に二、三メートル四方程度に開けられた穴から、光と風が入ってきた。
キョウは何気ない表情でつかつかと近づいてきて、伊織の隣に立つ。
「大丈夫か?」
「あ、あの……うん」
息を整えながら、伊織はぼんやりと頷いた。穴から吹き込んでくる空気に、頭の芯がようやく上手く回り出したような気がした。どうやら酸素が足りなくなっていたのだろうか。
「ん。じゃ、続けろ」
「……へ?」
哲也のほうを視線で示されて、思わず目を丸くしてキョウを見つめてしまう。
「話。途中だろ? 邪魔しちゃ悪りぃかと思って黙ってたんだけど。なんか一酸化炭素中毒とか心配んなってきたから。換気したから、続けて」
料理の途中で窓でも開けたみたいな、なんということもない口調で言うキョウに、一瞬調子が狂ってしまった。
「えっと、はあ」
なんの話だっけ……。そうだ、哲也さんを説得していたのだ。
戸惑いつつ哲也へと視線を戻すと、哲也は愕然とした面持ちでキョウへと目を向けていた。
「きみは――あの夜の」
「ん。久しぶり」
「……いつから、いったい……」
「ん?」キョウはやはり平常の顔で、「最初から、そこにいたけど」
売り場のほうを指し示す。
「なっ……どうやってここに入った!」
「なんだっていいだろ。それより早く、話済ませろ。んで」
キョウは伊織の隣に立ったまま、神剣を持ち上げる。
「終わったら、その能力、斬るから」
「能力を、斬る……?」
「ん。なくしたかったんじゃねえの?」
「そ、……それは……だけど」
哲也は呆然とした表情で言いながら、視線を逸らす。両手を握りしめ、何かを迷っていた。そうして、
「駄目だ……」
どこかふわついた声で、つぶやくように言う哲也。
「駄目だ、それは……できない」
「なんで」
「だって……」
哲也は視線をさまよわせる。
「この能力のために……」
声は震えていた。哲也は泣いているのかもしれない。
「どれだけのものを犠牲にしてきたか……」
握りしめた拳を持ち上げ、そこに視線を落とす。
その能力は、哲也の全てだった。それを欲するあまり、たくさんのものを捨ててきた。親に疎まれ、同級生に気味悪がられ、それでも必死に鍛錬を重ねてきたのだ。簡単に手放すことなどできない。
けれど――。哲也はやはり、迷っている。伊織にはそれが分かった。本当に能力を奪われることを拒むなら、彼は今すぐここから消えて逃げればいいのだ。それをしないのは。
そして向かい合って、キョウも待っている。哲也が能力をなくよう望むことを。「もう終りにさせてくれ」とひとこと言うのを。哲也にとってその能力がどういうものであるのかを知っているのだ。無理やり奪うようなことはしたくないはずだった。
「だけど、無理だろ」キョウは言う。「限界だろ、お前。苦しいだろ。もう、楽んなれよ」
油断なく哲也を見つめ、けれど身じろぎもせずにその場に立ったまま。刀を持つ手にわずかに力を込める。
哲也の瞳は、揺れながらその白刃を見つめていた。吸い寄せられるように。それが哲也を苦しみから救うものであることを、哲也は理解している。一言。願えば、全てを終わらせることができると。
伊織は祈る気持ちで哲也に目をやっていた。
だが、哲也が次の言葉を見つける前に。
階下でガラスの砕ける音がした。
ハッとして音のするほうへと目を向ける。二度、三度、ガラスを割ろうとする音。そして数人の声、足音。
「山崎さん、駄目です、待ってください――!」
キョウが軽く眉を顰めたのと同時に、哲也はその立っていた床を蹴り、売り場スペースのほうへと駆けだした。
足音は階段を駆け上がってくる。
そして三人の刑事が二階のフロアに姿を現し、
「待て――!」
山崎刑事の叫んだ一声に、哲也は足を止めこちらを振り返った。
キョウが刀を持ったままの右手を水平に上げ、やってきた刑事たちを止める。
唐突に目の前に現れた細身の日本刀に驚いたように、刑事たちはたたらを踏みながら足を止めた。
「伊織」後ろに集まった人間を見渡しながら、乾いた声で哲也が言う。「お前――」
伊織は緊張に唾を呑み込んだ。非常にまずい。
これではどう見ても、伊織が哲也を騙しておびき寄せ、警察に売り渡そうとしている構図だ。説得も納得もあったもんじゃない。
(まずい……)
「あ、あの、哲也さん」
伊織は声を掛ける。哲也の目が絶望と怒りを織り交ぜたような、険悪な色を浮かべて伊織を睨みつけていた。
「あの、ち、違うんです、これは――」
一歩前に出ようとしたところで、キョウに遮られる。瞬間。哲也の身の周りを囲んでいた空気が、歪む。体から濃い気を発しているのが分かる。それは以前、キョウの周りに見えたような気がした青白い気体に似ていて、けれどその清浄さはなく、ぴりと尖って危険な気配を漂わせる。それは震えて揺らぎ、次第に濃度を増していくように伊織は感じた。
ぞくりと背中に冷たいものを感じ、肌が粟立つ。
キョウがほかの四人を庇うようにわずかに足をずらしたのと、それはほぼ同時だった。
「う、うわあああああぁ!」
哲也が咆える。それを引き金にするかのように、哲也の身の周りに炎が上がった。
それまでのものとは比べ物にならない熱と勢いでそれは、地を這うようにして瞬く間にフロアの外周を覆う。燃やす対象もなく、燃焼を手伝うものもなく、にもかかわらず激しく燃え上がる炎。
炎の中心で、哲也は頭を抱えてうずくまる。
「あああああ――!」
苦しげに叫ぶ哲也。
キョウは、炎が伊織たちの身に達するのを防ぐかのように対真刀を胸の前にかざしてじっと立っていたが、哲也の絶叫を聞くとその刀を握り直し、軽く身を沈める。そうして哲也に向けて飛び掛かるかに見えた、その時。
別の足音が、階段を上って伊織たちの元に追いついた。
「哲也くん!」
叫んだのは楠見。キョウの元まで駆け寄って並ぶと、楠見は足を止める。
すぐ後ろからやってきたハルが、刑事たちの前に出る。
キョウは一度楠見へと目をやり、油断なく哲也に視線を向け、そうしながらほんの少しばかり踵を下げて楠見に道を譲る。
「哲也くん――」
楠見は慎重な足取りで、フロア中ほどまで歩き一歩ずつ哲也に近づいていた。
「遅くなって、済まなかった」
頭を抱え、床に膝をついて動かない哲也へと、楠見は沈痛な表情で声を掛ける。
「きみを、こんなことになる前に助けたかったんだが……許してくれ」
低くそう言った楠見に、哲也は顔を上げる。その瞳は弱々しく、震えている。片手を頭に当てたまま、縋るような、途方に暮れたような表情で、哲也は楠見を見つめていた。
わずかに周囲の炎が落ち着いていくように感じられた。
楠見がまた一歩、哲也に近づく。それはまるで炎の中に踏み込んで行こうとするかのように見えて、伊織は汗ばんだ手の平を握りしめた。
キョウは真剣な眼差しで、哲也を見つめていた。刀の柄を握る手に力がこもるのが、伊織にも分かった。
炎に包まれる哲也に、しかし楠見は臆することなく近寄ると、そのすぐ目の前に膝をつく。視線の高さを同じくして、哲也の肩に触れた。
「もう、終わりにしよう。きみは解放される。楽になっていいんだ」
そっと告げる。
「かい、ほう……?」
自失したようにぼんやりとした目を向ける哲也に、楠見は強く、優しく頷く。
「俺たちはきみを、助けにきた」
「だけど……」
哲也は肩に置かれた楠見の腕に縋るように、その腕を掴む。
「だけど、俺は両親を殺した。罪を犯した。楽になんか……」
震えるように弱々しく揺れていた哲也の瞳から、涙があふれるのが見えた。
「なれるわけがない……!」
そう叫び、地面に伏しかけた哲也の両腕を楠見が支える。
「ああ。苦しいだろう? だけどいつか、赦される時がくる。そのために、きみは生きなきゃならない。今ここでその能力に押し潰されちゃいけない。生きて、償って、やり直すんだ」
「やり直す……ことが、出来ますか」
呆然と、楠見の目を見つめる。
「俺にも。この……こんな、能力なんかなかった頃みたいに――もう一度、なれますか?」
「ああ」楠見はその哲也の揺れる眼差しを見つめ返し、強く頷いた。「出来るよ。約束する」
顔を伏せた哲也の背中に、楠見は手を置いた。
少しの間。ここに何人もの人間が集まっていることなど忘れさせるように静まり返ったフロアに、哲也の嗚咽が漏れ聞こえてきて。
伊織は自分も必死に涙を堪えていた。哲也の悲しみが、後悔が、移ったようで。暗く、にがく切なく、けれど遠くに一筋の光が見えているようで、それが眩しくて。罪悪感とわずかな希望が複雑に交錯して、力任せに心の内を侵す。苦しいけれど、それはどこか心地よい暖かさを持って、それまでの屈託や困惑や倦怠までをも押し流した。
哲也は、顔を伏せたまま。それは、小さな声だった。
「お願いします――もう……終わりに……俺を、解放して、ください」
「分かった」
一言答えると、楠見は両手で哲也の腕を掴み、体を起こさせる。
刀を構え、キョウが哲也に歩み寄る。
「き、きみ、何を……!」
金縛りから解けたように、山崎刑事が声を上げて足を踏み出しかけたが、ハルが腕を上げて遮った。
目の前に立ったキョウに、哲也は顔を上げる。その両の瞳は恍惚と、青白く光る刃に奪われていた。窮地に立たされていた者がようやく救いの手を見つけたようでもあり、敬虔な信者が目の前に神の現れたのを喜ぶかのようでもあり、そして断罪の刃に脅えるようでもあり――。
「大丈夫。痛くねえよ」
そっと言って、キョウは刀を振り上げた。