85.伊織、決死の説得。ハルは首を傾げる
自動ドアだったらしいガラスの戸は、開いていた。既視感を抱きながら、伊織は暗い内部に足を踏み入れる。ああ、そうか。あれはたった二日前のこと。廃倉庫で。思い出して内心で苦笑していた。
(また、か……)
苦笑などする余裕が自分にあることに、少し驚く。孤独に勇気を奮い立たせて哲也に会いに行ったあの時とは違う。たとえ同じ状況に見えたとしても。守られている安心感が、今の伊織にはあった。
けれど――。
突如、空中にボッと浮かび上がった小さな炎には、びっくりして思わず一歩後ずさりをしていた。
「悪いな」
炎の向こう側から、声が掛かる。
中空。少し高い位置に、炎が哲也の顔を浮かび上がらせた。
「明りがなくて。少し、気味悪いだろうけど……」
右手の広い階段を下りてきながら、哲也は申し訳なさそうに言う。
「あ、いえ……」
曖昧に首を振った。たしかに妙な光景だが、自動ドアのほうから差し込む光も手伝って多少は視界が広がる。
哲也は炎を供に従えるようにしながら伊織のほうへと寄ってきて、一度外を見やり、それから伊織の背中を階段のほうへと押しやった。壁際にいくつかの什器――商品の陳列台や、ワゴンのように見える――が、置き忘れられたように固まって並べられているのみの、がらんどうに近い空間。
ガラス越しに外を確認した哲也は、開けてあったドアを重そうに引いてぴたりと閉じ、下部の錠を下ろす。
伊織は改めて不安になった。
キョウにはこの状況が分かっているだろうか。見える場所にいるというが、施錠されてしまっては中まで追ってくることもできない……。
振り返った哲也は、伊織の不安な顔を別の意味に解釈したらしく、言い訳めいた表情を顔に浮かべた。
「気休めにしかならないけどな」
小さくため息をつきながら、言う。
「追ってくるのが組織のサイだったら、こんなもんは簡単に突破されちまう。けど、入ってきたのは分かるだろ」
誰かが入ってきたと見たら、また哲也はその場から消え去ってしまうのだろうか。そうなる前に、哲也を説得できればよいのだが。誰も入って来られない空間に哲也と二人きりになることに、改めて心が竦む思いがしていた。
哲也は伊織の脇を素通りし、階段のほうへと戻っていく。その哲也の前を、足元を照らすように炎がふわふわと飛んでいる。
そのまま階段を数段上ったところで、哲也が振り返った。
足が竦んでしまっていた伊織だったが、視線でついてくるよう促されて、自分を叱咤し哲也に続く。踊り場で待ち、追い付いてきた伊織と並んで哲也はさらに上を目指す。
「あの……」
沈黙が落ち着かなくて、伊織はともかく口を開いた。
「それが、哲也さんの『能力』なんですね……」
二人を案内するかのようにふわふわと飛んでいく炎を見つめて、とりあえず聞いてみる。
「ああ――」淡々とした口調で哲也は答えた。「これが出来るようになったのは、最近のことだ。この間も言ったかもしれないが、俺の能力は、もともとPK……物を動かしたり、動いている物に影響を与えたり……っていっても、小さな物だけどな。高校の時から組織で訓練はしていたが、それほどの能力じゃなかった」
二階まで上って、哲也はさらに上階へと通じる階段に腰を下ろした。そうして上目遣いに伊織を見て、自嘲気味に口元を歪める。
「もっと、大きな能力が欲しかったんだ。その能力を使って、仕事をして、認められたかった」
二人を案内してきた小さな炎が、ふわふわと哲也の体を離れていく。と、唐突にその炎が少し離れたところで大きく燃え上がった。ぎくりとしてそちらに体を向けた伊織に、哲也は苦笑するように、
「大丈夫だ。確認してある。周りにほかに燃えそうなものはないし、建物は鉄筋コンクリート。延焼を起こすほどの火力はない」
炎は階段スペースと売り場スペースを繋ぐ短い通路上の、什器の木片か何かを燃やしているようだった。伊織の背丈に届きそうなほどの勢いで燃え盛って、中学校の時に林間学校で体験したキャンプファイヤーを思い出した。けれど明るい炎に半身を照らされてはいるものの、それでいてそれほど熱いとは思わなかった。
「これでもな」
やはりどこか自嘲めいた口ぶりで、ため息交じりに言う哲也。右手を握ったり開いたりしながら、その手にぼんやりと目をやって。
「この能力を身につけてからも、練習したり実験したりしたんだ。コントロールは大変だけど、どうにか出来ると思ってた。……親父たちを」
伊織は二階の床に立って、わずかに低い位置にあるその瞳を見下す。
その瞳は、痛々しくて。
「……焼き殺しちまうまでは」
震えていた。
階段に座り込んだまま、両手で頭を抱えるようにして顔を伏せる。しばらくの間、哲也は黙り込んでいたが、
「悪い人たちじゃなかったよな」
やがてぽつりと言葉を落とす。
「少しずるいところがあった。自分たちには理解できない能力を持った息子を、持て余してた。なのにそれで金がもらえるってなったら、喜んで飛びついた。調子が良くて、現金で。けど……そのくらい普通だろ、人間として」
伊織は火事の時のことを思い出して、想像する。伯父たちは、少なくとも哲也のことを本気で心配しているように見えた。金が途切れることに不満を感じはしたかもしれない。それでも。息子の身がどうなっても金さえもらえればいい、とまでは思っていなかっただろう。もっと時間を掛けて。もっと冷静に話し合うことができれば。あの悲劇には至らなかった。
「大きな能力を身につけて、この力を疎んでいたあの人たちのことを見返してやりたい気持ちもあったし、迷惑掛けたことを詫びたい気持ちもあった。本当だ。だから訓練を重ねた。それで――」
震えるように、苦しげに言葉を切った哲也。その続きを、伊織は哲也の代わりに口にしていた。
「あのDVDを見たんですね」
哲也は驚いたように目を見張り、伊織を見上げる。なぜそれを知っているのかと、その瞳が問う。
「俺も、見たんです」
さらに愕然と目を見開いた哲也を、赤い炎が照らした。
「哲也さんが部屋に忘れていったのか、ほかの誰かが置いたのか、分からないんですけど。見て。それで、『封印』が解けちゃったみたいなんです。俺の能力、『サイコメトリー』っていうみたいです。教えてもらいました。それに。たぶんこの能力で、火事の時に何があったのか、見ました。焼け跡で。哲也さんの事情も、組織のことも、俺自身のことも……まだイマイチ理解しきれてないけど、だいたい教えてもらいました。助けてくれている人たちから」
「……助けて、くれている?」
「はい。その人たちは、あの火事が事故みたいなものだったことも、哲也さんが組織の被害を食い止めようとして動いていることも、知っています。哲也さんのことを助けたいって思ってるんです。哲也さん、お願いです。彼らと会って話をしてください」
言いながら、哲也の瞳に険が浮かぶのが見て取れた。それまで弱々しく、痛々しく震えていたその目が、次第に強い光を帯びていく。
「……緑楠学園の……楠見の組織の人間だろう?」
「そうです。でも、組織とはやり方が合わなくて、離れているんだって。こっちで組織とは別に行動しているんだそうです」
「どうしたらそれが本当だって、信用できる? どう証明できる?」
哲也はゆっくりと立ち上がり、高い位置から伊織を見下ろした。
炎がわずかにきらめきを増したように感じた。それは、不安定に揺れる。
(……証明?)
そんなものは、ないけれど。一瞬押し込められるように口ごもり、少し考えて。
「俺のこと……助けてくれたんです。俺が初めて、一緒にいたいって。ずっとこの人たちの中にいたいって、思った人たちなんです」
まだ訝しげに睨んでくる哲也の瞳。伊織は懸命にそれを見つめ返して、言葉を繰る。
「あの廃倉庫で……。哲也さんが、その、いなくなった後で。助けに来てくれたんです」
哲也の表情が、固まった。
「拳銃を持った人が現れて。庇ってくれて。その前に――盗聴器が部屋に仕掛けられてるって分かって、ずっと部屋に泊めてもらってるんです。事件で伯父さんたちが亡くなった後も。学校で妙なビラを撒かれて、教室でも変な目で見られて、アルバイトもクビになって。その時も、励ましたり慰めたりしてくれて。哲也さんのことも、助けるって約束してくれて――」
話しながら伊織は、鼻の奥が痛くなるのを感じた。こんなことを哲也に話すのは、卑怯だと思った。けれど言わないこともできなかった。
仕方のないことだったのかもしれない。哲也は哲也にとっての正義のために動いていたかもしれない。だが、まっとうし得ずに中途半端に振るわれただけの正義の後で、その処理のために誰が何をしてくれたのかを、彼は知る義務があると思った。
「お願いです! 全部解決するために、彼らの力を借りてください!」
ほとんど叫ぶように言った刹那、先ほどまで燃え上がっていた炎とは反対側で、ぼうっと大きな炎が発現した。
伊織の体からわずか数メートルの距離で、それは、哲也の動揺や逡巡にシンクロするかのように大きさを変える。
熱風にあおられ、汗が額や背中を伝うのを感じながら、伊織は動けずに哲也を見据えていた。
川沿いの木立の陰から、建物の入口を目指して人影が飛び出す。それを見止めるや、ハルは地を蹴って跳躍し建物とその人物の間に降り立った。
驚いたように即座に足を止めた黒いスーツの男に、にっこりと笑顔を作る。
「お久しぶりです。スガワラさん」
「……きみは」
男――スガワラはその唐突な呼びかけに、ほんの半歩ほど踵を後ろにずらした。
「今日は一人ですか? 辻本センセイや安斉さんはいないんですか? ああ、安斉さんはマズイか。サイの能力なくしちゃってるし。警察がこれだけあちこちにいたら、拳銃持ってうろつくわけにはいかないですもんね」
笑顔のハルを凝視しながら、スガワラはまた数センチばかり踵を下げた。
「あれ? 俺のこと忘れちゃいました? 街中で街灯を倒した時。……ほら、相原伊織くんを追ってきて」
「……あの時の……」
「はい。その節はどうも。殴っちゃってごめんなさい」
ハルはぺこりと軽く頭を下げてすぐに上げると、スガワラへと目を据える。そして、唇の端をわずかに上げて。
「さらにお願いで恐縮なんですが。この建物に入ろうとしてるなら、少し待ってもらえます? 今ちょっと、大事な話の最中なんです」
スガワラの身を包む空気が揺れる。その表情が険しくなったのを見て、ハルは口を尖らせ小さく息をついた。
「もしかして、邪魔します? それならまた相手になってもいいけど、敵わないって分かってるでしょ?」
「我々は、相原哲也に用事があるだけだ」
「俺たちだって相原哲也くんに用事があるんです」
「きみたちは関係ない。これは我々の組織の問題だ」
「違いますね。組織以前に、哲也くんという一人のサイの問題です。俺たちがそれを解決します」
瞬間。スガワラのエネルギーが膨れ上がる。持ち上げた右手が歪んで見える。スガワラはその手の平をハルへと向け、気を放った。
だが――。ハルは身じろぎもせず、自分に向かってくる力を冷静に見つめる。
その形のないエネルギーはハルの身に達しようとする直前、次元のひずみにでもぶち当たったかのように砕け、飛散した。
呆然と低い姿勢でまだ構えているスガワラに向け、一歩、ハルは足を進める。
「だから――」また一歩。「その程度の能力じゃ俺には勝てないって、言ってるでしょ」
さらに一歩踏み寄ったハルを油断なく見返しながら、スガワラは後退する。ハルはゆっくりとその右手に回り込むよう進む。
「それとも、相手の能力を測ることもできない? 見たければ見せてもいいけど、全力は無理ですよ? 危ないもん」
ハルも腕を持ち上げて、手の平をスガワラに向けて差しだした。ぼうっとその手の周りの空間がひずむ。
驚愕の面持ちでこちらを見つめるスガワラ。その正面に的を定め、額を見据えてぴたりと動きを止める。
そうしながらハルは、左斜め後方にもうひとつの気配を察していた。左肩のあたりに。冷たいもので撫でられるような、気持ちの悪い感触だ。
スガワラは動けない。
ハルはそれを睨みつけたまま――
「もう――鬱陶しいなあ!」
後方に気を集中させる。それは、風船が瞬時に膨らむさまに似た、空間の膨張。
男の鈍い悲鳴が聞こえ、背後で人が吹き飛ばされるように宙に浮き上がり、背中から地に落ちる。
ハルはそれを視線だけずらして横目で見る。
名前も知らない人物。最初にスガワラと一緒に伊織を追ってきたサイだっただろうか?
スガワラはまだ踏み出すことができず、逆にじりりと後退する。道路から見て建物の死角まで追い詰めたところで、ハルはスガワラから正面を外して叫ぶ。
「全員まとめて出てこい! あなたたち、楠見の組織の一介のサイごときが、何人でかかってきたって無駄だ!」
木立の向こう側でまたサイの気配。
ハルはそちらをキッと睨む。綿密に調整したエネルギーの塊で川沿いの木を何本か薙ぎ払うと、突風でも吹いたかのように木がしなり葉が舞った。大きな物が川の水面に落ちるような音がしたが、気にしない。
続けざまに頭上からこちらを目がけて飛び降りてくる殺気を感知し、面倒なのでそれも適当に弾き飛ばす。相手を傷つけない程度の能力の調整など、息を吸うほどの簡単なことだが、吹き飛ばされて落ちた先でどうなっているかまでは知るものか。
それから。
「あとそこの刑事さんたち! 危ないから退いててください!」
駐車場の端のほうから覗いていた三つの人影が、一人が二人の頭を押さえつけるような感じでさっと庭木の後ろに引っ込む。
(まったく、もう)
ハルは内心でため息をついた。
そうしてまたスガワラに踏み寄ると。
「きみは……いったい何者なんだ……」
引きつったような声を上げるスガワラ。ハルはそれに、ニッと笑いかける。
「『九家』筆頭、神月家現当主、神月悠です」
後退を続けていたスガワラの踵が、ついに建物の壁に当たった。
「『九家』……神月家当主だと……?」
「はい」
「あの……神剣の使い手も……」
「弟です。可愛いでしょ?」
キョウのことを聞かれたので思わず微笑んで頷くと、スガワラは愕然と目を見開き食い入るようにハルの顔を見つめる。
ハルはその目を覗きこむようにしながら、笑って、
「ここで会ったのが『タイマ』の使い手じゃなくて良かったですね。その能力を失わずに済んだ」
すでにギリギリまで追い詰められているスガワラに、顔を寄せる。
「ここで退けば、の話ですけど」
「『若』が神月家の子供たちを預かっているという噂は、本当だったんだな」
「噂?」
ハルはわずかに首を傾げた。
「預かられているという表現は、当人の主観的に考えて微妙ですけれど……まあ、本当ですよ。けど、これってあんまり知られてない話ですか?」
真顔に戻って言うと、背に壁を付けて逃げ場を失っているはずのスガワラの気がこの期に及んでまた膨れ上がるのを感じた。
「呆れた。まだやるつもりですか? 往生際が悪いにもほどがある」
「相原哲也を渡すわけにはいかないんだ」
眉を寄せ、ハルはもう一度首を傾げる。
おかしいな、と思う。
能力の差は歴然。相手にすらならない。
サイの能力の大きさは、絶対だ。それは生まれながら決められているものであり、僅差ならばまだしも、これほどに違っては努力や機転や時の運やなんかで逆転できるものではない。
敵わないと分かっている相手にそれでも諦めずに立ち向かえなどとは、サイの能力を仕事に使う組織では教えないだろう。
何百というサイを抱える楠見の組織でも中堅と言われるサイだ。能力の差が分からないはずはない。
(どうして彼に、そんなにこだわる?)
哲也を捕まえなければならない、それほどの理由が彼らにあるのか?
ハルや「タイマ」の使い手であるキョウがいるのだから、哲也の能力の暴走を懸念しているわけではないだろう。ならば。哲也はそこまで、スガワラたちにとって不味い重要情報でも握っているというのか。存在をこの場で抹消しなければならないほどの?
彼らにとって哲也は、能力開発プログラムの実験に使い、失敗すれば見放す程度の末端の組織員であるのに?
不審な視線を送るハルに隙があると見たのか、スガワラは身に溜めこんだエネルギーを爆発させる。
ハルは腕を上げ、目の前わずかな距離から放たれたその圧力を左右に受け流すと、そのまま思い切りその腕を払う。
右腕に、手ごたえを感じた。
側頭部を強かに打ちつけられて、スガワラは横っ跳びに吹っ飛んで地に倒れた。
すぐさまハルは、背後に感覚を向ける。
(あと二人、ってとこか――?)
木立の中と、建物の陰。遠巻きにこちらを窺う強いPKの気配を感じる。後から来られたんじゃ厄介だ。今ここで眠らせといたほうがいいだろう。そう判断し、ハルは建物の脇に向かって駆け出した。




