82.楠見、内心で焦る。山崎は圧倒される
白塚刑事はものの二、三分で理事長室に戻ってきた。多少よれよれとしてはいるが、さすが熟練の刑事である。鋭い眼光はそのまま、動揺する素振りなど微塵も見せず鷹揚にソファへと腰を下ろす。
「山崎は、まだ戻りませんかね」
不機嫌そうに言う白塚に、楠見は控えめに微笑んだ。
「ええ。時間がかかっていますね。込み入った用事でしょうか」
内心では少々焦っている。あまり遅くてこれ以上の不信感を持たせては、まずい。捜しに行かれては困るのである。
「それよりも、火傷や怪我はありませんでしたか?」
「ああ。ご心配には及びませんよ」
「いや、しっかり調べたほうがいいな。キョウ。診療所にご案内して差し上げなさい」
「ん」入り口のドアの脇で、キョウがまたこくりと頷く。
「診療所? そんな大袈裟なことは――」
「いえ、この建物の一階ですよ。すぐそこですから、念のため」
「刑事さん、こっち」
キョウがドアを開ける。白塚は怪訝な顔を楠見に向け、それからちらりとドアへと視線を走らせたが、そこで、
「あたしも一緒に行きます」
小鳥のさえずりのような明るい声を上げたのは、あおいだった。花のような笑みを顔いっぱいに浮かべ、
「刑事さん、行きましょ」
軽やかな足取りで近寄って白塚の肘を取る。
「う? うむ……」
ためらいつつ、その手に従って腰を上げる白塚。
キョウに先導されて刑事を部屋から押し出し、自分も外に出ていきながら、「まかせて」と楠見に一度軽く片眼をつむって見せるあおい。
「あ、ああ、頼んだぞ」
診療所でとんでもない世界を見せられることになるであろう刑事に若干の同情をし、まあ、あおいのテレキネシスならキョウの破壊活動よりは被害が少ないだろう――悪戯が過ぎなければ――と安心し、そして唐突に迷惑に巻き込まれる友人医師に心の中で詫びつつ、
(ハル、頼む、早くしてくれ――)と楠見は念じた。
黙って無表情に座っていた武井琴子が、ふっと隣室へと視線を向けた。
「ハル。早くしろって。楠見さん」
「まったく、楠見は……」ハルは一瞬苦い顔になる。「大変な役を丸投げしておいて……。フジ、ちょっと向こうに行って、様子見て繋いでくれる?」
「ほいよ」と気軽な調子でフジが出ていくと、ハルは山崎に向きなおった。
「まず……地図の丸印のついた場所を見てください」視線で地図を示し、「二月以来、都内で起きている放火事件の中で、燃焼促進剤も火元も分からないケースです。大きさはバラバラ。大多数が小火程度のものです。ゴミが燃えたとか」
目の前の聡明な瞳をした少年が心持ち早口で語りだした内容を、山崎は疑惑の念を浮かべながら咀嚼する。どう考えても、彼がこんな話を始めることには違和感がある。
しかし、ハルは疑問を差し挟む間を与えずに再び地図を示す。
「次に、この四角マーク」
指さした箇所には、青いマーカーで書かれた四角い印があった。これも、地図上にいくつも見当たる。
ハルは山崎がそれらを確認したのを見て取って、続ける。
「とある学習塾の、教室のある場所です。これをね――琴子、ちょっとペンを取ってくれる?」
呼ばれた女子生徒は、背後の棚の引き出しから一本のペンを出し、無言でハルの手に載せた。
「ありがと。この四角と、丸を、こう……」
ハルは青梅市の、「火災現場」の丸印と「学習塾の教室所在地」という四角印をまとめて括るように、その二つの入る大きな楕円を描いた。続けて、八王子市。大田区。
そうして一度、「ね?」というように顔を上げる。
「ほかにもある」言いながら、さらにいくつか、丸と四角が近接している箇所を楕円で括るハル。その動きを見つめながら、山崎は疑問の声を上げた。
「……これが、なんだっていうんだ?」
「この学習塾ね、哲也くんが中学校時代に通っていた塾なんです」
なんでもないことのように、ペンを動かしながらさらりと言ったハルに、山崎は目を見開いていた。
「あれ? それ調べてません?」
「……いや、それは……」
哲也の過去についての調べは一通り済んでいる――と言っても本人は行方不明で、家族が亡くなり親しくしていた友人も見つからず、上辺だけの記録に過ぎないが――けれど、中学校時代の学習塾の話までは、少なくとも山崎の頭の中にはなかった。調査に上がってはいるかもしれないが、事件に関係ありとして話題になったことはない。
「じゃあ、これ聞いたらもっとびっくりしますよ」
ハルはペンを動かす作業を続けながら、ちらりと目線だけ上げて悪戯っぽく笑う。
「哲也くん、高校卒業後もこの塾に絡んで仕事をしてたようなんです」
「なんだって!」
驚きの声を上げていた。この、人を食ったような少年の予言どおりの行動を取ってしまったことは心外であるが、そんなことに構っている余裕はなかった。
相原哲也の高校卒業後については、まったく足取りが掴めていないのだ。
「きみ、本当に、どうしてそんなことを知っているんだ」
「これね、説明すると長くなるし、長ーい話の末にまた、『そんな馬鹿な』って怒って出て行っちゃうかもしれないからなあ」
「だってそれを聞かずに、どうやって信じろって言うんだ」
「うーん。じゃあこれも、信じなくていいです。そういう話もあるんだーって、聞き流してください」
一通りの作業が終わったらしく、ハルはペンにキャップをして、琴子を振り返った。
「信じる信じないって話始めたら、進まないもんね?」
スツールに腰かけ腕と足を組んでいた琴子は、ペンを受け取るとまた腕組みに戻って、
「『茶番の続きだ』、『どうせ下らないことだ』って思われるかもね」
無表情に言った。
「……」
心中を読まれたような不気味さを感じて、山崎はその不機嫌そうな少女に目を奪われたまま押し黙る。
「だよね。じゃ、やっぱりそれは後だ」
さっぱりと言って、ハルはテーブルの片隅に避けてあった資料を山崎の目の前に置く。
ウェブサイトをプリントアウトしたような体裁だった。校舎らしい建物の画像とポップ、文字の並んだ表紙。
「これです。創湘学館って言って、本社は神奈川県です。相原哲也くんの家の近く。彼はその本校の出身みたいですよ。中学校時代に通っていて、卒業後も繋がりを持っていた。そして高校を出てからは、この塾に絡んで仕事をしていた。で――」
妙な言い方だ、と思う。「塾の講師だ」というのでもなく、「勤めていた」というのでもなく、「絡んで仕事をしていた」というのはどういうことだ?
が、内心で首を傾げる山崎には構わず、ハルは作業を終えた地図に目を戻す。
「その塾の教室のある場所の近くで、三月以降、彼は放火事件を起こしている」
つられるようにして地図に目を落とすと、丸印と四角印を囲んだ楕円は十近くにもなっていた。
「分かっている限りでは、この場所に火をつけたことには深い意味はないかもしれません。ただ彼の行動範囲の中にあったから。逆に言えば――」
「……この傾向をたどっていけば、相原哲也の行動範囲が分かるって言うのかい?」
ハルは満足そうに笑った。
「さすが、刑事さん。話が早い」
馬鹿にされたような気分で、目の前の少年を剣呑に睨みながら「ふん」と鼻を鳴らした。
それから半信半疑の思いで地図を睨む。
これが本当のことだったら、大変な収穫だ。今までなんの手がかりもなかったところへ、捜査を進展させ得る有益な情報が与えられたことになる。だが。この話を信じる客観的な決め手がない。――と、そこへ。
「だけど、この話を信じる客観的な決め手がないって思ってるかもね」
たったいま心中に思ったことが耳から入ってきて、山崎は驚きに顔を上げていた。
言葉を発したのは、やはりスツールの上の少女。部屋に山崎が入ってきた時から、その表情はまったく動いていない。冷たい表情と、口調。
「だよねえ」ハルは軽くため息をついた。そして、「でも、明日の朝にはこれが本当だって分かります」
そこでハルは、唇の端を上げた。山崎を見つめる鋭い視線はそのままに。
居心地の悪さを感じて山崎は眉を寄せたが、取り合わずにハルは続ける。
「明日の朝、早く。ううん、間に合えば今日中にでも、警視庁の刑事さんがこの件を伝えにそちらに行きます。目的は、捜査協力の要請です」
両手を地図の上に載せると、
「都内で起きている事件を追ううちに、いくつもの現場の近くに教室を置いている『創湘学館』の存在に気づいた。神奈川に多く教室を持っている学習塾だから、もしかしたら神奈川県警の管内でも似たような事件が起きているんじゃないか? それで、参考までにそちらで報告されている放火事件のことを詳しく教えて欲しい――と、ね。神奈川県警で扱っている『類似の事件』っていったら、まず真っ先に思いつくのが相原家の火災事件。哲也くんのことを調べていた神奈川県警の刑事さんたちは、そういえば哲也くんが中学校時代にこの塾に通っていたらしい、と気づく。これで、哲也くんと都内の事件が結び付くでしょう。創湘学館周辺を中心とした捜索が始まる」
「待ってくれ」
山崎は思わず口を挟んでいた。
「相原哲也はこちらの事件でもあくまで重要参考人だよ。彼が放火をしたという物的証拠は挙がっていない。もしそういうことになったとしても、広範囲で大規模な捜査が行われるかどうかは――」
「大丈夫です。どうにかします。今、どうにかしてるところだと思います」
「は……? どうにかしてるって……」
信じたわけでもないのに、そんな真面目な受け答えをしてしまったことにやはり内心で戸惑う山崎だったが、ハルはそこでふと微笑みをしまって小さく息をつき、
「こちらとしても、哲也くんには先に接触して自首を勧めたかったんだけど。そうも言っていられない状況になりました。まずは哲也くんの身の安全が最優先。だからちょっと強引だけど……こちらの刑事さんに、どうにかしてもらうようにお願いしてます」
「ち、ちょっと待ってくれ! それが本当だとして、……どうして警視庁の動きまできみが知っている?」
「それは説明しませんって、さっきから言ってるでしょ」
「けど……それを聞かずにどうやって俺に判断しろっていうんだ!」
厳しい口調で叩きつけた山崎に、しかしハルは少しも怯む気配はなく、反対に強い視線で睨み返してきた。
「こちらも大変なんです。『そのこと』を抜きにして説明するのは。イチから言っちゃえばそのほうが楽なんだけど、本当に最初の最初っから話すのは時間がかかるし、信じる信じないって水掛け論で時間潰すわけにもいかないんです」
「だ、だからって――」
常ならば、高校生の反論に押し返されるような山崎ではなかったが、それでも一瞬口ごもる。ハルの瞳には山崎にいつもの姿勢を貫かせないほどの強い光があり――とても認めがたいことではあるが、気圧された、というのが正しい表現に感じられた。
「だからって……それじゃきみは、いったい俺にどうしろっていうんだ? 今夜か明日の朝になればそうなるんだったら、それまで待ってればいいじゃないか。なぜこんな話を先に俺に聞かせる?」
「お願いがあるからです」
不審な気持ちを隠さずに険しく言う山崎に、ハルはまた小さく顔に笑みを浮かべた。
「山崎さんに、お願いがあります。この学習塾周辺の捜査の状況を、こちらに教えてほしいんです。なるべく早く、細かく。都内の分は警視庁の刑事さんにお願いします。神奈川県の部分。捜査員の配備状況や、もしも哲也くんの手がかりが出てくれば、それを」
当然の頼み事のようになんでもない調子で淡々と話すハルに、山崎は呆れる思いで目を見開いていた。
「捜査状況を教えるだって? そんなこと……できるわけがないだろうが」
「だけど、お願いします」
「有り得ない。そんなことを知ってどうする? 相原哲也に報告して、逃げ道でも作ってやる気か?」
「逆です。哲也くんを捕まえたいんです」
そこでハルはかすかに唇の端を上げ、相原伊織のものだという携帯電話を目の前に掲げた。
「哲也くんは必ずもう一度、伊織くんに連絡を取ってきます。警察が彼の行動範囲の全般を監視しているって分かれば、たぶんすぐにでも。その時に、警察に出頭するように勧めます。そうしてすぐに山崎さんに知らせますから、後のことは――」
「だから、ちょっと待て! 彼から連絡がくるっていうなら、こちらは相原伊織くんに張り付いていなければ――」
「心配なら山崎さんには近くにいてもらって構いませんよ。けれど、警察に取り囲まれるのは困ります。チャンスはたぶん一回きりだ。これで警察がいるのを察して逃げられたりしたら、次はありません。だからどうにかほかの刑事さんたちに気づかれずに、早急に哲也くんと話がしたいんです。証拠を隠すだとか、口裏を合わせるだとか、そういう目的じゃありません」
「り、理解できない! どうしてこれだけの情報で、俺がきみを信用すると思うんだ。被疑者が現れるかもしれないのを黙って見ていろだって? しかも捜査状況を他人に漏らすなんて、とんでもない背任行為だぞ?」
「大丈夫。このことで山崎さんに迷惑をかけることは一切ありません。いずれそれで良かったってことも分かります。ただ今は、時間がない」
「わけの分からないことを言うな――」
自分のことを試してでもいるかのような少年の瞳から、視線を逸らすことができずに、けれど山崎は立ち上がった。
「もう戻らせてもらうよ。なんの話かと思えば。真面目に聞いて損をした。どうしてきみたちに捕まえてもらわなきゃならない? 彼を捕まえるのは俺たちの仕事だ」
「無理です」
けれど、ハルは再び断言した。
「警察には、彼を捕まえることはできません」
二回り近くも年下の高校生の気迫に押されるなど、考えられないことだった。が、認めないわけにもいかない。山崎は、肌の粟立つのを感じた。目の前の少年の強い眼差しに、うろたえていた。むしろ、相手がまだ高校生なのだということを疑っていいとさえ思う。
そうは言っても、ここで引くわけにもいかないではないか。
「また超能力の話か? ふざけるのもほどほどにしてくれ。きみたちの遊びにつき合っているほど、俺たちは暇じゃないんだ!」
だが、
「遊びなんかじゃない!」
ハルの強い声は、眼差しは、その山崎の罵倒を凌ぎ、圧する。
「こっちだって真剣です。俺たち哲也くんを助けたいんです。それには、今の彼にとっては警察に預かってもらうのが一番いい。だけど、もう一度言います。刑事さんたちには彼を捕まえられない。逃げられるだけで済めばいい。相原夫妻のような犠牲を出すことになるかもしれません。そんなことをしては、彼自身の体も危ない」
山崎は、自分を見上げるようにして低く声を上げる高校生の視線から、やはり逃れることができなかった。
「俺たちの目的は、警察に哲也くんを捕まえさせないことじゃありません。これ以上の犠牲を増やさないこと。彼に罪を重ねさせないこと。そして彼の生命を守ること。それが保証されたら、哲也くんの後のことは警察に任せます」
「仮に――」苦しい声を山崎は上げる。「仮にそれが……きみの言うことが本当だったとして。きみたちには……それが出来るっていうのかい?」
「できます」
ハルは頷く。
「そのために、俺たちがいる」
確然とした光を宿す瞳に、山崎は完全に呑まれていた。
「俺たちの目的は一緒です。山崎さん。約束します。哲也くんは必ず捕まえて、安全な状態にして山崎さんのところに連れていきます」
話の全てを鵜呑みにして彼の言いなりになることなどは、できない。超能力がなんだとかいう話は、到底相手にできるものではない。高校生の戯れ言を真に受けるなど、考えられない。けれど――。
「有り得ない。超能力なんて……」
ハンドルを握り前方を睨みながら、山崎はそう口にしていた。頭の中は、先ほど神月悠から聞かされた話のことでいっぱいだった。だが、どれだけ冷静に否定しようとしても、あの少年の確信に満ちた瞳が脳裏に浮かぶばかり。
彼の瞳は何か――そう、言うなれば、山崎たちの目には見えないものを見ているかのような、不思議な光を宿していた。その瞳に映る真実は、彼ら以外の人間には理解できないとでもいうように。その諦観によって磨き上げられた怜悧で鋭い視線が、山崎たち俗人を貫く。
(まさか……)
慌てて自分の発想を打ち消して、山崎は声を上げていた。
「そんな馬鹿な話」
「あ、ああ。当たり前だ」助手席の白塚は即座に同意の言葉を、しかしどこかふわついた口調で発する。「有り得ない。まさか――」
いつもの太々しい物言いではなく、どこか力がないように感じられて、山崎は思わず横目で隣の大柄な刑事を窺った。
「ちょ、超能力なんて……。しかし、ことによると……」
「……白塚さん?」
「いや。やっぱり有り得ん。何かの間違いだ」
力強く首を振りつつも、やはり心許ない口調で、断固否定――というよりは自分に言い聞かせるように「有り得ない、有り得ない」と繰り返す白塚。
「……白塚さん。もし――もしも、仮に、例えばの話ですよ?」
「うん? ……うむ」
「万一、これは空想の話ですが」
「なんだ。早く言え」
「もしも相原哲也が本当にその超能力とやらで家に火をつけたんだとしたら」
「馬鹿な話をするな!」
慌てたようにこちらに顔を向けた白塚を訝しく思いながら、山崎はハンドルを握ったまま肩を竦める。
「ですから。仮定の話ですって。どうしたんです、白塚さん」
「うん? ……い、いや」
白塚は、決まり悪そうにひとつ咳払いをして、
「で、ちょ、超能力……だったら、なんだ」
「ええ。その……もしもそんな超常現象が本当にあるんだったら、警察には彼を捕まえるのは難しいってことになるのかなと、ちょっと想像してみただけです」
「うむ……」
白塚は、その太い腕を組んで頷いた。
「む、難しいだろうな。あんなわけの分からないからくりを使われちまったんじゃ……たしかに、こちらには打つ手がないかもしれない。たしかに……いや、有り得んだろうが」
歯切れの悪い白塚を、やはり怪訝な思いで横目に見つつ、山崎は神奈川の警察署へと車を走らせた。




