80.伊織、拳を握りながら話す。山崎は油断を突かれ
「それで――」
緑楠学園理事長室。向かいのソファに座った大柄な刑事、白塚の鋭い視線。事前に楠見から「怖がる必要はない」と励まされてはいても、伊織はやはり緊張で身の縮む気持ちになって、内心で必死に自分を鼓舞していた。
「お話というのは? その後なにか分かったことがあるということでしたが――」
「事件のことで、思い出したことでもあるのかな?」
先日は伊織の乱心にあたふたと慌てて引き上げていった二人の刑事だったが、今日はまた仕切り直したように、理事長室のソファに座るなり最初に会った時と同じ威圧感を漂わせる。
伊織の緊張を察してか、隣に座る楠見が伊織の肩に力づけるように手を置いた。そして、
「ええ。突然の呼び立てにも関わらず、駆けつけていただきありがとうございます。その後、相原くんからよく話を聞いて、刑事さんたちのお耳にも入れておいたほうがいいかと思ったので」
『警察に、全て話そうか』
伊織の長い告白を最後まで聞き終えた楠見の第一声は、そんな言葉だった。ハルとキョウはそれを聞いて目を丸くしたが、
『警察への協力は、市民の義務だろう? だいぶいろいろ分かってきたし。俺たちも、『協力』させてもらおうか」
そう言ってニヤリと笑った楠見に、一瞬顔を見合わせそれから何か納得したように頷いた二人。
『え、全部って……いいんですか? は、話しちゃって……』
ひとり会話についていけず戸惑う伊織に『いいよ』と楠見は軽く笑い、それから三人は簡単な作戦を立てたようだった。
「相原くん、話してくれるかな」
「あ、はい……」
楠見の言葉に、おずおずと頷く。ともかく「知っていること」を、聞かれるままに正直に話せばいい、と楠見から念を押されていた。上手く話ができる自信はないが、隠し事だとか小細工や駆け引きなど考えずに話せばいいだけならば、多少は気も楽だ。
気持ちを整えるように伊織はひとつ小さく息をつくと、そっと入口のドアの横に立っているキョウへと目を向ける。
キョウは壁に背を寄りかからせて、腕を組んで立っている。伊織と目が合うと、無表情に小さく頷いた。その姿を確認すると、味方の存在に心持ち力を得た気分になって、覚悟を決めて二人の刑事へと順に目をやった。
「あの……この間ちょっと話した、『焼け跡』で見た話なんですけど……」
言うと、向かって左、楠見の正面に座った若いほうの山崎刑事が素早く手帳を取り出した。ペンを構えて、
「『焼け跡』で? 火事の現場を見た、って先日は聞いたと思うんだけど?」
「あ、はい。『焼け跡』で、火事の時のことを見たんです」
二人の刑事は釈然としない表情で一瞬顔を見合わせる。目の前の大男たちの不審そうな面持ちにまた少々怖気づきながらも、膝の上で拳を握り、自分を奮い立たせて、
「その……楠見……先生に、伯父の家に連れて行ってもらった時、です。火事のあった次の日」
「ちょうど一週間前の土曜日ですね。そちらの警察署にうかがった後で、彼と一緒に現場に行きました」
穏やかな口調で楠見が注釈する。そしてまた続きを促すように伊織に視線を向けた。
「そ、その時、その……リビングのあったあたりだと思うんですけど、そこに立ったら、見えたんです」
「ちょっと待って」ペンを持った手を上げて、山崎が止める。「その前に……きみは、火事があった金曜日の未明、どこにいたのかな?」
「え? それは、友達のうちに」
「先日もそうお話したと思いますけど?」
ちらりと楠見が険しい視線を刑事たちへと上げて、援護する。
二人の刑事は一瞬楠見へと目を向け、それから互いに顔を見合わせて、すぐに伊織に向き直った。
「あー、相原くん」今度は白塚が、軽い咳払いをして口を開く。
「きみは、事件の時、火事の現場にはいなかった。そうだね」
「はい」
「火事の後で現場を見に行って、そこで発見したことがある。そうだね」
「はい」
「ふむ。そういう話なら……ま、続けてくれるかな」
何かに納得したように、ソファの背に深くもたれる白塚。山崎は反対に、手帳とペンを構えて身を乗り出した。
「火事のあった現場で、何を見たのかな」
「はあ。従兄弟が、家に火を、その……つけた、ところを。あ、その、わざとじゃないんです、こないだも言ったと思うけど、その」
「ちょっと待って」また山崎が声を割り込ませた。「火事のあったその時じゃなくて、それを翌日の現場で見たって? どういうことかな?」
「はあ……そういうことが、俺、できたみたいで……よく分からないんですけど……」
次第に声の小さくなる伊織。山崎は眉間にシワを寄せながら説明を求めるように楠見へと目をやった。対する楠見は、大真面目な顔で頷く。
「どうも、そのようですね」
「はあ? あのね、きみ」戸惑い気味に、山崎がまた伊織に向いて、「この間もそんなようなことを言っていたけれど――」
言いかけた山崎を止めたのは、意外にも白塚だった。
「まあ、もう少し聞いてみようや」
けれどその言葉が伊織の肩を持ってやろうなどというものではないらしいことは、抜け目なく光る険しい目から分かる。伊織は改めて身を縮めたが、
「……続けて」と山崎からも促されて、たどたどしく話し出した。
言い淀んだりどもったりと頼りない口ぶりで、しかし真剣に話す伊織に、最初は眉を寄せながらも多少の質問を交えつつ聞いていた二人の刑事も次第に無言になっていく。山崎は、いつの間にかペンを走らせることも忘れたようにぼんやりと話を聞くだけになっていた。
そうして最後に哲也がテレポーテーションで現場から逃げた段になると、二人の刑事は未知の生命体にでも出会ったかのように、ぽっかりと口を開け放っていた。
わずかの間の沈黙に、伊織は耐えられなくて逃げ出したい気持ちになる。
思わず入り口に目を向けると、そこでキョウが片頬を上げてかすかに頷いた。
(大丈夫、作戦通り)
その表情がそう言っているようで、ほんの少しだけ安堵して伊織は二人の刑事に向きなおった。
だが。沈黙は、たった数秒のことだっただろう。そこは二人とても、幾多の犯罪者やその関係者と向かい合い、渡り合ってきた百戦錬磨の刑事である。
すぐに自分を取り戻したように、山崎は手元の手帳に一瞬視線を走らせて、
「つまり……相原哲也くんが家に火をつけたのは、彼の『超能力』でやったことで、それがきみに分かったのはきみの『超能力』のためだ……と。そう言うのかな、きみは」
「は、はあ……」
「どうも、そのようですね」
首を竦めた伊織の横で、楠見はゆっくり頷く。
山崎は信じられないという視線を楠見に向けた。
「信じたんですかっ?」
「生徒の言うことを信じられなくて、どうするんです」
当たり前のことを、とでも言うような表情の楠見。
「そんな――」
声を発しかけた山崎の隣で、それまで黙っていた白塚が大きな体を前に傾け、勢いよく目の前のローテーブルに両手をついた。
「とんだ……茶番だ!」じろりと伊織を一睨みし、それからその敵意のこもった視線を楠見へと向ける。「そんなことを言うために、あんた方は我々をここまで呼び出したのか!」
視線を向けられた楠見は、しかし腕を組んでソファの背に持たれたまま。
「事件のことで何か気づいたことがあれば、お知らせするようにと承っていましたが?」
その飄々とした態度と口調に、白塚はますます怒りを露わにする。
「それがこれだって言うんですか!」
「ええ」微笑みさえ浮かべて頷く楠見。
「先日の聴取の時に、彼が言いかけた――」言いながら、白塚の鋭く光る視線が再び伊織に向く。「『火事の現場を見た』って話」
「ええ?」
「あれを誤魔化すために、わざわざこんなストーリーをでっち上げて聞かせてるようにしか思えませんな」
白塚は威圧の姿勢を取る。
「そんな誤魔化しを考えるのが、何か不都合な事実を隠している証拠なんじゃないですかね?」
「たしかに、にわかには信じがたい話だとは思いますがね」楠見は腕を組んだまま、背をソファから離して身を乗り出した。「どう取っていただいても構いません。相原くんは彼の見たこと、聞いたことをありのままにお話ししただけですよ。この情報をどう解釈しようが、彼の話を信じようが信じまいが、いずれ事件が解決するならこちらは構いませんよ」
どちらかと言えばにこやかな表情に見える楠見だったが、その口ぶりにはいまだに事件の核心にたどり着けていない刑事たちに対する当てつけのような含みも感じられて、白塚は憤然と大きく息を吐き出した。
刑事が次の言葉を発しようとした、その時だった。
場の緊張状態を破るような軽快な電子音が、突如室内に流れ出す。
「あっ?」つぶやいて胸に手を当てたのは、山崎刑事。「すみません、ちょっと電話が――」
「ふん」白塚がまた、大きな鼻息とともに怒りを吐き出す。「対談中くらい電源を切っておけ!」
もう何に対してでも文句を言わなければ気が済まないといった面持ちで苦々しく言う白塚に、山崎は小さく目線で詫び、それから楠見に対して「ちょっと失礼します」と断って携帯電話を取り出しながら部屋を出ていった。
不機嫌に床へと目を落とした白塚の視線から隠れるように、楠見は伊織に向かってニヤリと笑う。
そして、ドアの脇に門番の衛兵よろしく立ったままのキョウへと、右手の指を二本立てた。
ピースサインのようでもあったし、「二」を示しているようにも見えるそれに、事前の簡単な話し合いの中で楠見たちから「第二ラウンドは……」という言葉が出ていたことを、伊織は薄っすらと思い出していた。
超能力、だと? どうかしている。高校生の彼らはともかくとして、若いとはいえいい大人であるはずの、しかも副理事長などという大層な立場にいるはずの楠見までそんな話を真面目に語るとは、いったいどういうことなんだ。
携帯電話を取り出しながらドアを出て、山崎は内心で首を傾げた。
超能力で火をつけた? 超能力で、その場から立ち去った? しかもそれが分かったのも、超能力だって?
実のところ、相原伊織という少年が火災事件のあったその現場にいなかったことは、ほぼ確実と思われていた。事件の現場周辺では相原哲也以外の人物の姿は目撃されていなかったし、当の伊織はその朝普通に学校へと登校している。火事の発生時刻に神奈川の現場にいて、学校の始業時刻に多摩東部の緑楠高校にいるとなると、間に合ったとしても服も着替えずに直行するくらいの時間しかないはずだ。
そんなことをすれば誰かしら違和感に気づくだろう。けれど、そのような情報はまったく上がってきてはいなかった。
そもそも。あの火事の現場に誰かが居合わせるということが、不可能だった。事件から一週間かけて、警察や消防署が検証を重ねた結果である。相原伊織どころか、放火事件の犯人として目下のところ最も疑いの強い相原哲也でさえ、である。
火災の起きたその時。焼け落ちたその相原邸の内部では、爆発音が聞こえる直前まで数人が言い争う声が聞こえていた。そして爆発音がした時、ちょうどその瞬間を、新聞配達の青年が見ていた。家の中からは誰も出てはこなかったことは確認されている。
だが、誰にも見つからずに出入りできるような通用口もなかった相原邸。
火をつけた後で、誰かがそこから逃げ出すなどということは、ほぼ不可能であると。火災から一週間後の捜査本部を悩ませているのは、まさにこの問題なのである。
そう。火の中から、犯人は消え失せたのだ。それこそまるで、超能力でも使ったかのように――。
(いやいや、まさかそんなことは――)
勢いよく首を振って、着信音を鳴らす携帯電話を確認する。電話帳には登録されていない番号からの、それは着信だった。
親指を通話ボタンにかけた瞬間だった。
(――!)
突如、何か硬い感触の物が首に巻きつき、逆らう間もなく力任せに左に引き寄せられる。
横手のドアが開いている。そう認識した時には、山崎の体はそのドアの中に引きずりこまれていた。
「な、なにを……!」
咄嗟のこと。油断していた自分に歯噛みをしつつ、けれどこんな場所でちょっとの油断を突かれるなどとは信じられない気持ちで。引き入れられた室内で、目をやった先に見つけた人物――。
「山崎刑事さん。こんにちは」
正面のソファに腰かけ、顔に満面の笑みを湛えて首を傾げるようにした高校生に、山崎は呆然と目を向けていた。
「き、きみは――」
「改めて、一年五組の神月悠と言います。ハルって呼ばれてます」
先日の会合のとき理事長室で紹介された、相原伊織の同級生。学年トップの生徒とか言った――。
「それから」彼が見上げた視線の先にいるのは、山崎をこの室内へと引き込んだ人間。「フジこと、藤倉卓くん」
思わず振り返った山崎に、フジと呼ばれた人間は「どもー」と愛想の良い笑顔を作る。スポーツマンらしいがっしりとした体格をしてはいるが、彼もまた高校生――山崎とは二回り近くも歳が離れているように見える。
そう思う間に、「あと、それと」と神月悠は自分の脇にスツールを寄せて座っている、日本人形のような顔をした小柄な少女目で示した。
「こっちは武井琴子。同じ一年生の、別のクラスにいます」
やはり穏やかな笑みを浮かべる神月悠。彼が、手にしていたたスマートフォンをこれ見よがしにポケットにしまうのと、それまでその存在を目いっぱいに主張していた山崎の電話の着信音がぷつりと途切れるのが、同時だった。
「ちょっとお話ししたいことがあって、来ていただきました」
神月悠――ハルは、そう言って怜悧な微笑みを顔に浮かべた。ソファに深く腰かけたまま。
「な、なにを――」思わず繰り返した山崎に、ハルはまた笑いかける。
「あっちの刑事さんは、ちょっと頭が固そうだから」隣室――おそらく理事長室を視線で示して、「山崎さんに、折り入ってご相談したいことがあるんです」
そう言った少年の微笑みに、なにやら冷たいものを感じて背筋をひんやりとした汗が伝うのを感じながら、山崎は必死に体勢を立て直そうと大きく息を吐き出していた。




