79.伊織、それは「夢」だったのか、「記憶」なのか
伊織は誰かの膝の上に、抱えられるように乗っていた。
膝に乗っているのに、その「誰か」の顎が伊織の頭よりも高い場所にあって、少々違和感を覚える。
(ああ、そうか。俺、子供だもんね)
納得しかけて。
(……えっ?)
そんなはずはない。俺は高校生だぞ? もうすぐ身長だって、たぶん――あと半年か……多く見積もっても一年あれば、たぶん――百七十センチに届くはずだ。たぶん。この状況はやっぱりおかしい。いやそもそも、誰かの膝に乗っている自体がおかしい。不味いだろうそんなのは……降りなくちゃ。誰だか知らないけれど、大変なご無礼を……ごめんなさいごめんなさい!
内心で猛烈にうろたえる伊織だが、困惑する一方で、体は「誰か」の膝の上に乗ったまま動こうとしない。自分とは別の意思に行動を支配されているように、伊織は自身の体を動かすことができない。
ふっと、伊織の体が伊織の意思とは無関係に、顔を上げた。
伊織を膝に抱えている誰かの顔に視線が向かおうとするのを察して、伊織はさらに動揺する。
(や、やめろ、目が合っちゃうじゃないかー!)
顔を合わせるのはとても気まずいようで、けれどその顔が見たい気持ちもあって、心の中で冷や汗をかきながら「体」の動きに任せて視線を上げると。
(ああ、お母さんか)
優しい眼差しが、伊織の瞳を見つめていた。
(……って。ちょっと待て!)
母親は、父親とともに伊織の小さい頃に亡くなって、伊織は父の顔も母の顔も覚えていないのだ。せいぜい写真で見たことがあって、いまひとつ実感はないけれどこれが俺の両親なんだな……と漠然と思った程度で。
視界にある顔は、下から見上げるような角度で伊織の記憶は覚束なかったが、それでもその眼差しと目が合うとやはり「ああ、お母さんだ」と思うのである。
女性はそっと右手を持ち上げて、伊織の額に優しく当てた。
『あなたには、特別な能力なんてない。どこにでもいる、普通の人間』
(え! 嫌だよそんなの。俺だって、誰かに自慢できるような特別な能力が欲しいよ! 自分が主役なんだって、思いたいよ! 特別な経験がしたいよ! 勉強ができるんでも、運動ができるんでも、なんでもいいから――)
けれど。
ほわりと額が温かくなると、その手の温もりと柔らかい声音が心地よくて、伊織はいつの間にかうっとりと目を閉じていた。
(だけど――そう。そうなんだ。俺には特別な能力もないし、どこにでもいる普通の人間――)
『目立たないように。前に出ないように生きるの』
(目立たないように。前に出ないように)
『あなたには、特別な能力なんてない。普通の人間だから』
繰り返す。
その声が温かくて、けれどもどこか切なげで、伊織は目を開いて声の主の表情を確かめたい衝動に駆られるが、体の動きを支配している「別の意思」はそれを許してくれない。
目の前には、闇が広がったまま。
『どこにでもいる、普通の人間だから』
(普通の人間なんだ、俺は――どこにでもいる……)
(だけど、俺も『特別な人間』になりたいんだ)
(通り過ぎるだけの役じゃなくて)
(自分の存在を認めたくて。自分を好きになりたくて)
(どうしたらいい?)
(お母さん――!)
『探しなさい』
(探す)
『そう』
(何を?)
『あなたの居場所を。ともに生きる仲間を』
(俺の、居場所? 仲間?)
『あなたを認めてくれる人が、きっといる』
(本当に――? こんな俺なのに――?)
『そう。あなたを認めてくれる人が現れたら。その能力を必要とされる時が来たら。そこにあなたの居場所を見つけたら』
(そうしたら――?)
『その時は』
(その時は)
『この封印を』
(封印……?)
『解き放ちなさい』
(――!)
唐突に額に熱を感じた。それまで心地よい温もりを感じていた部分が、疼くように。熱い。
脈打つように。体中の血液が全てそこに集結しようとでもしているかのように。
『その時が来たら、あなたの手で、この封印を解き放ちなさい』
(どう……やって?)
締め付けるような痛みを堪えながら、伊織は必死に片目を開ける。それまで自分の思い通りには動かなかった体が初めて言うことを聞いて、けれど懸命に開いた右目に汗が沁みて、わずかな視界が滲んだ。
堪らずに、右手を額に当てる。
手が額に触れて、(あれ――?)と思う。
伊織の額に当てていたはずの女性の手がない。
いつの間にか体が誰かの膝に乗っているような感覚も消えていた。けれど、女性の顔は同じように伊織を見下ろしていて。
『その時が来れば、必ずそうなるから』
ぼんやりとかすむ視線の先で、女性は微笑んだようだった。かすかに痛みと切なさを湛えた瞳で。
『その時に、私は一緒にいられないけれど』
『必ず、そうなるから』
その声がほんのわずかに震えて。それはやはり、何かに耐えるような痛々しげな響きで。伊織は胸が苦しくなる。
『大丈夫――』
『あなたは特別な人間になれるから』
『私にとってのあなたがそうであるように』
(お母さん……)
『それまでは』
それでも女性は、微笑みを保っていた。淡々とした口調を守っていた。優しく。再び「母親」の手の感触を額に感じる。
『あなたの能力は、封じておくの』
(お母さん――!)
声にはならなかった。けれど伊織は叫んでいた。
(お母さん、居場所を、見つけた!)
(一緒にいたい人たちを、見つけた!)
力いっぱいに叫んでいた。
女性は静かな微笑みを保ち。ほんの一刹那。はっきりと、視線が合った気がした。
母親の膝に乗っていた「子供の伊織」ではなくて、高校生の、今の伊織が。
『見つけたのね。あなたは――』
耳にはっきりとその声を聴いた瞬間。額を締め付けるようになっていた圧迫感が、ふっと解けて。
伊織は涙を流していた。
――伊織くん、伊織くん……?
どこかから、声が届く。
――大丈夫かな
――マキ呼ぶか?
――とりあえず……ベッドに運ぼうか。それで……
なんだか心配そうに話し合っている気配を感じて、心配をかけているのが自分なのだと気づいて、にわかに慌てる。心配いらないって言わなくちゃ。
目を開けた。と思う。明るい光が差し込んできたから。
「あ! 起きた?」
覗きこむように自分を見つめている三人の姿が、ぼんやりと。
そうして肩を軽く揺すられる感覚。
「伊織くん、伊織くん、大丈夫?」
「あ、……ハル」
三人の中の真ん中の人物に焦点が合って、無意識に名を呼んでいた。そうして左右の二人。
「と、キョウと、楠見さん」
「大丈夫かい?」
わずかに眉根を寄せて聞く楠見。
大丈夫、ほんとにそんなに心配されるほどのことじゃないんです。
そう言おうとして、ぐらりと体が揺れた。
「おっと」
傾いだ体を、楠見が肩を掴んで止める。
そのまま楠見が伊織の背をソファにもたせると、ハルが隣に座って「寄りかかってていいよ」と肩を抱き寄せるようにする。
その状態がなんだか恥ずかしいような、こそばゆいような、ちょっと嬉しいような複雑な気分で。内心で困惑する伊織に、
「つまりね」
ハルが言った。
「体のバランス感覚がおかしくなっているんだ。長いこと封じられていた『感覚』が戻ってきてね。少し静かにしてたら、動けるようになると思うけど」
先ほどまで体験していた――それは夢だったのか、幼い頃の記憶だったのか――ことを思い出しながら、伊織は視線をすぐ横のハルに向け、それから困ったようにかすかに眉を寄せているキョウに向けた。
キョウはやはり少しばかりたじろいだような表情を見せて、楠見へと視線をパスする。
「どうやら……」キョウのパスを受けて、楠見は肩を竦めた。「きみの『封印』は、きみ自身が解いちまったらしいよ。キョウが手を貸して。それで、気分が悪かったり、どこか痛かったりしないかな?」
「あ、それは、はい。……全然普通、かな?」
自分の身体感覚を確かめるように、首を捻ったり手を見たりしながら伊織は答える。
「変なものが見えたり……しないよね?」とハル。
「やっぱサイコメトリーなのか? そのへんのモンの過去とか見えんのか?」とキョウ。
「あ、え? そういえば……あれ? 全然普通、かな」
改めて聞かれて、曖昧に首を捻った。能力が解放されたらしいのだが、変わったことが一切ない。
少々物足りないような、拍子抜けしたような気分になった伊織だが、楠見はそれに安堵の混じった苦笑を浮かべた。
「なかなか――思っていた以上に強力なのかな、きみの能力は。それを封じていたのはおそらく催眠系のサイの能力だと思うんだけど、きみはそれを破った」
「あ、それは」
やはりどこかふわふわとした感覚で声を上ずらせながら、
「そう……なるようになっていたんです、たぶん」
不可解そうに首を傾げる三人の顔を順に見回して、伊織は自分の身に起きていたことを説明しようと言葉を探す。
なんとなく、分かっていた。
この「封印」は。仲間を見つけたら、そこに居場所を見つけたら、その時には解けるようにと。母親が幼い伊織にかけた暗示なのだ。
「あの――」
上手く説明できるだろうか? そのことを。それから……。
「なんていうか、俺……夢? を見てたみたいなんですけど。『夢』の話をしていいですか? ちょっと長くなるかもしれないんですけど。それに、どうしてそうなのか……その、上手く説明できる自信は……ないんですけど……」
見たこと、聞いたことを、そのままに。ただありのままに語れば。
頷く三人に、伊織はゆっくりと思い出しながら語りだした。
焼け跡で見たこと。哲也の「幻覚」を見たこと。昨日倉庫で哲也から聞いた話。そして、先ほどの「夢」。
それは取り留めもなく、言葉足らずで頼りなく、おそろしく時間のかかる作業になったが、三人は根気強く聞いてくれた。




