78.楠見、小さくはない収穫と、喫緊の課題
「けーっきょく、ほとんどなんも分んなかったっすよねぇ」
ソファに深く背をもたせて、フジがそんな声を上げる。
「キョウの犠牲が無駄になったってことかぁ」
向かいのソファに座っているハルにすかさず睨まれて、フジは亀のように首を引っこめた。
「いや――」
執務机に向かい、開いていたノートパソコンを閉じ、
「収穫はあったよ」
そうして隣にスツールを置いて腰掛けていた琴子に、「ありがとう」と声を掛ける。
「本店」の男、安斉との対話。それを収録した映像を再生する間、琴子に読みとってもらった「安斉の感情」を注釈してもらっていたのである。
琴子は無表情に頷いて、スツールから立ち上がりソファに腰を下ろした。
「だいぶ事情が呑み込めてきた――それに、次に取れる行動も分かってきた」
「あれでぇ?」
頬を歪めて訝しげに声を上げるフジ。
一方向かいのハルは、何かに納得したような顔で腕組みをしている。
「楠見には、だいたいもう分ってるんでしょ? 収穫って?」
「少なくとも一連の事件に、組織の本体は関わっていない。これが確認できたのは、けっこう大きい」
肘を執務机につき、顎に手をやって楠見は自分の中でまとめるように言葉を手繰る。三人の高校生の視線が集中した。
「この件を引き起こしているのが『本店』であることを、懸念していたんだ。だとすれば俺は、『本店』に直接話を聞くことはできない。危険な『敵』が誰だか分らない以上、変に突いてリストにあったサイたちや『密告者』を危険に晒すことになるのは困るからな。けれど……」
楠見も両手を広げ、三人を見比べるようにしながら、
「『敵』が『組織に背いて少数で行動している組織員』なら、それに対処するのは紛れもなく『本店』の仕事だ。関東一円に生徒のいる学習塾。その生徒たちの中からDVDを送りつけられたサイを捜す仕事は、正直俺たちの手には余るが、『本店』なら人海戦術はお手の物だからな。任せればいいだろう。さらに伊織くんを狙っている人間も、哲也くんを追う者と同じだということが分かったから、俺たちはひとまず『哲也くんの件』に集中すればいい」
そう言って、机の上に置いてある例の学習塾――創湘学館の資料を何気なく取り上げた。緑楠の生徒が関わっている以上、楠見たちとしてもこの学習塾の件を放っておくわけにはいかないが、それよりも今は哲也の件が喫緊の課題だった。
「敵」よりも警察よりも……そして「本店」よりも先に、哲也を見つけ出さなければならない。
「『密告者』に関しては?」ハルは腕組みを続けたまま、「『本店』に事情が知れても、最初にFAXを送ってきたその『密告者』には危険はないの? というか、楠見はその人が誰だか分かっているの?」
資料を手にし、楠見は視線だけ上げる。
「これは……推測の域を出ないがな。哲也くんが峰尾くんに話していた、創湘学館の講師――峰尾くんから名前を聞いたが、『松崎』という。それが俺の知っている『松崎』ならば、『本店』の幹部だよ。彼は哲也くんと一緒に、塾の元生徒たちに送られていた能力開発プログラムのDVDを回収していた。二人だけでは手に負えずに、緑楠に関わる者を俺に割り振ってきた。哲也くんの話では……その後、連絡が取れないらしい」
手にしていた資料の、教室一覧に目を落とす。峰尾裕介が通っていた、松崎が講師として勤務していた、そして裕介と哲也が引き合わされた――『町田校』の行が目に入った。
この塾内で、この数年間、何が行われていたのか?
「おそらく」楠見は資料に目をやったまま、「『本店』の内部にも、スガワラや安斉と同じ目的を持っている人間がいる。そしてそれは幹部と言っていいレベルの人間だ」
先ほどまで対峙していた安斉の様子を思い起こしながら、楠見は声を落とした。
安斉は「確信犯」だった。組織のほんの一部の同志とともに組織本体の意志とは違う行動をしながらも、自分の正しさを疑っていなかった。楠見の知る組織で、それを可能にさせるのは、「幹部の意志」だ。中堅クラスの組織員が、自分たちの思いだけで組織に反する行動を取るようなことは、あの組織ではまず起きない。
誰かが安斉たちを動かしている――あるいは遠巻きに唆しているのか、黙認しているのか――黒幕がいるのだ。
松崎が警戒していたのは、その人物だろう。
(その人物の名前も、どうにか教えておいてくれりゃ良かったんだがな)
苦々しく思いながら、楠見はもうひとつ、安斉の言葉が気になっていた。
『あなたが出ていきさえされなければ――』
(俺が出ていかなければ、どうだったっていうんだ?)
東京に組織の『支店』を作り、創湘学館で行われていたようなサイ発掘作業で見つかったサイを緑楠学園に入学させ、組織の訓練校として組織にサイを送り込んでいたかもしれない。
けれど、それが成しえなくなったということが、一部の組織員をして組織本体への反乱を起こさしめるほどのことか? それに、あの苦々しげな表情にはほかに何か意味があるのだろうか……。
「まあ、そういうことだから……」
一旦その思考を棚上げにして、三人の高校生へと視線を戻す。
「『本店』への話の持っていき方は、ちょっと考えなけりゃならないがな。いずれにせよ組織内に組織本体に反発する動きがあるんだとしたら、彼らにとっちゃ見過ごせない問題には違いない。すぐに動くよ。動き出す前に、こちらは哲也くんを見つけて保護しないとならない。先に『本店』の手に渡って、危険なサイとして処分される前にな」
「そうは言っても、哲也っちの行きそうなとこからしてまったく分からないんじゃ、動きようがないっしょ」フジがまた顔を歪めた。「峰尾も全然心当たりがないって言ってましたよ」
フジには昨日から、峰尾裕介の護衛を任せていた。拳銃を持った人間がシバタに接触してきた件から考えて、峰尾にも哲也の情報を求めて接触してくる者がいるのではないかと懸念してのことだ。
峰尾には、一晩は学内に部屋を用意して宿泊してもらい、夜が明けてから自宅に送り届けてフジはここに戻ってきた。
「一応読んだけど、本当に知らないみたいだった」
琴子も同意する。
「知らないようにしてたみたいだから」
「ふむ――何かヒントさえあればな」
ため息交じりに答え、またぼんやりと手にした資料に目を落としたところで。
(――?)
教室一覧の、細かく記された文字のどれかが一瞬視界に引っ掛かった。
「楠見? どうしたの?」
ハルが目ざとく楠見の表情の変化に気づき、眉を上げる。
「いや……」
(なんだ? 今なにか、違和感のあるものが目に入ったような……)
資料を両手で持ち、じっくりと見る。
すぐにハルが立ち上がってきて楠見に並び、横から資料を覗きこんだ。
「……あれ?」
ハルが小さく首を傾げる。
同時に楠見も、先ほど一瞬引っ掛かった文字に気づいていた。その文字を声に出してみる。
「八王子校。青梅校。それに――」
南関東一円に二百近い教室を持つ創湘学館の、教室名である。それを指で追って、もうひとつの地名に辿りつく。
「……蒲田校って……これ、大田区だね」
一瞬こちらを見たハルと視線を合わせて。
急いで引き出しをあさり、一枚の折り畳まれた大判の紙を取り出した。
いつかキョウが、放火事件の発生現場をマーキングしていた東京都の白地図だ。
ハルは即座に意図を察したように、スマートフォンを取り出してリストに載っているその教室の所在地を検索し始める。すぐに八王子校の場所の表示されたスマートフォンを地図の上に並べて置いて、白地図と照らし合わせひとつの地点を指さした。
「ここ。八王子の空き家火災現場から、すぐ近くのとこだよ。歩いても……十分もないんじゃないかな」
楠見がそこにマーカーで印をつけると、ハルはすぐさま次の青梅の教室を検索しだした。
「青梅も……八王子よりはちょっと離れてるけど、歩いて行けるぐらいの距離だね」
そうして蒲田も。
またちらりと楠見と視線を合わせると、ハルは応接セットのほうに勢いよく向きなおり、
「琴子もフジも! ちょっと手伝って。手分けして、この一覧に載ってる教室の場所をチェックするんだ」
そうして出来上がった、教室の所在地の記載された「放火事件現場マップ」を囲んで、四人はそれぞれに表情に驚きを浮かべていた。
「三か所だけじゃなかった……のかな?」
腕を組んだまま片手の拳を顎に当て、困惑したように言うハル。
放火現場と塾の教室所在地が重なる場所は、八王子・青梅・大田のほかにも都内全域に数ヶ所あった。
「いや……あのDVD自体が元塾生に配られていたんだろうからな、これ全部が哲也くんがやったものとは限らないが……」
言いながらやはり引き出しに入れたままになっていた、キョウが船津刑事を通して手に入れたという放火事件の資料を取り出していた。軽くめくって、楠見は眉を顰める。
「少なくとも、三件だけってことはなさそうだな。『空き家全焼』ほどじゃないが、どれもそこそこ大きい火事だ。それに――」
資料をめくる楠見の手にぼんやりと視線を落としながら、ハルが低い声で引き継いだ。
「東京都内だけじゃないかもしれない……もしかしたら、ほかの、教室のある県でも……?」
「ちょい、待ってくださいよ」フジがやや呆然とするような声を上げる。「なんの目的で、塾の近くで火遊びしてたってんですか?」
「それだよ、フジ」
資料を一度机に置いて、楠見は目を上げた。
「三件の空き家火災も。なんのために哲也くんがそこに火をつけたのかが分からなかったんだ。調べた限りじゃ三軒の物件には共通するところはないし、住人が引っ越して空き家になってからかなり経っている。この家を燃やすこと自体に目的があったとはどうも思えないんだ。峰尾くんが聞いた話から推測すると、能力を試すためだとか、コントロールを練習するためだとか、そんな理由なのかなと思ったんだけどな」
「けれど、それにしても、どうしてここなのか――ね」と抑揚のない口調で琴子。
「そもそもそこに空き家があることが分からないとできないよね」と、やはり淡々とした口調で、ハルが言う。「長く人が住んでないなら見れば分かるのかもしれないけどさ、たまたま歩いていて必ずそういう建物に出会えるとは限らない」
「そう――」三人を順に見ながら、楠見は腕を組んで椅子に深くもたれた。「コンスタントに『手ごろな空き家』を見つける。……例えばその作業に誰かが協力していて、その誰かが、人身御供よろしく燃やして差支えのない空き家を哲也くんに教えてやるとかしているのかと思ったんだが」
机に広げた地図に目を落として、
「哲也くんはDVDを回収するために、元塾生の間を回っていた。いや、それ以前にも、『スカウト』の仕事で塾を訪ねる機会は多かったかもしれない。だとすると、塾の周辺を歩くことも多かったはずだ。よく知っている土地なら、安全に発火能力を試せる場所を見つけることもわりと簡単かもしれない」
ハルが、机の上から火災の資料を取り上げる。
「空き家や、それに匹敵する大きなもの。それと似たようなものが燃えたケースをピックアップしてみようよ。塾のある地域だったら、哲也くんがそこにいた可能性がある」
「ああ。それに――」
「東京以外のケースだね」
「そうだ。それらが全て分かれば、そこから哲也くんの足取りが追えるかもしれない。行動パターンや、上手くしたら次に現れそうな場所もな」
少々煩雑な上に、いささか不確定要素の多い調査ではあるが、ほかに手がかりもない。
フジと琴子に資料を数枚ずつ割り振っていたハルが、ふと手を止めてポケットからスマートフォンを取り出した。
「キョウだ」
つぶやいて通話ボタンを押した瞬間、その通話口から勢いのいい声が飛び出してきたのが楠見の耳にも聞こえた。話している内容までは分からないが、なにやら早口に大声で困惑を伝えてくる。
「キョウ、ちょっと落ち着いて。どうしたの? 伊織くんが、何? ――うん――うん……えっ?」
何かただならぬことが起きている様子に、琴子とフジが顔を見合わせる。
眉を寄せて見守る楠見に、ハルが通話に答えながら目を向けてきた。
「それで……つまりそれは、封印が解けちゃったってこと?」




